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『静波の寄せる場所』  作者: 久遠 睦


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第27章 言わなかったこと

七月の終わり、海斗の母親から一通の封書が届いた。

薄い水色の封筒だった。

宛名には、新しい名字である「相沢海斗」と書かれている。文字の形は昔から変わらない。縦線が少し右へ傾き、海斗の「海」の字だけが大きかった。

海斗は郵便受けの前で封筒を裏返した。

差出人の住所は、母親が一人で暮らす実家だった。

携帯電話で連絡を取れるのに、母親は今も、ときどき手紙を送ってくる。

季節の変わり目には、体調を気遣う葉書が届く。正月に帰れないと伝えた年には、近所の神社で買った小さなお守りが封筒に入っていた。

海斗は家へ戻り、食卓で封を開けた。

便箋は一枚だけだった。

八月の初めに、伊根へ行ってみたい。

迷惑でなければ、一泊させてほしい。

宿は自分で取るので、静波で一度だけ食事をさせてもらえれば嬉しい。

最後に、候補の日付が二つ書かれていた。

水月は厨房から持ち帰った前掛けを畳みながら、海斗の顔を見た。

「お母さん?」

「うん。伊根へ来たいって」

「ええやん」

水月は迷わず答えた。

「静波で食事をしたいらしい」

「席、空いてる日を見たらええ」

「泊まる場所は自分で取るって書いてある」

「うちに泊まってもらったら?」

海斗は便箋へ視線を落とした。

「客用の布団、あったかな」

「ある。押し入れの上」

「部屋を片づけないと」

「一晩寝るだけやろ」

「風呂場も掃除した方がいい」

「昨日した」

「台所の棚も、少し散らかってる」

水月の手が止まった。

「お母さん、台所の棚まで見るん?」

「見るつもりはなくても、見えるかもしれない」

「ほな、見えたらええやん」

「そういうわけにはいかないよ」

海斗は便箋を畳み、封筒へ戻した。

水月はそれ以上何も言わなかった。

翌朝、海斗は仕事を始める前に押し入れを開けた。

客用の布団を出し、縁側へ干す。

布団を動かしたあとの棚には、細かな埃が残っていた。雑巾で拭き、そのついでに押し入れの中身を全部出した。

使っていない電気毛布。

去年の冬に買った湯たんぽ。

水月が京都から持ってきた古い包丁箱。

海斗は一つずつ埃を払い、置き直した。

仕事を終えたあとには、玄関の靴箱を整理した。

翌日は窓を拭いた。

その次の日には、母親が使う湯飲みを買おうとした。

水月は、台所の食器棚を開けて言った。

「湯飲み、七つある」

「欠けてるのもある」

「欠けてへんの、四つある」

「客用ではないだろ」

「湯飲みに客用も普段用もない」

海斗は何も答えず、通販の画面を閉じた。

母親が来ることを嫌だと思っているわけではなかった。

結婚前の挨拶で、水月と母親は会っている。婚姻届を出したあとにも、京都で一度、三人で食事をした。

母親は水月へ失礼なことを言わなかった。

海斗が名字を変えると伝えたときも、しばらく黙ったあと、「二人で決めたなら、それでいい」と答えた。

伊根で暮らすことにも反対しなかった。

ただ、海斗は母親へ話していないことが多かった。

東京の会社を辞めた理由を、詳しく説明していない。

体調を崩して休んだことは話した。医師に勧められて職場から離れ、転職したとも伝えた。

だが、午前二時を過ぎても会社にいたこと。

コードが読めなくなったこと。

床が傾いたように感じ、机につかまったこと。

食べ物を選べず、水だけで伊根まで来たこと。

母親から電話があった夜、すでに休暇中だったのに、「仕事は普通だ」と嘘をついたこと。

それらは、言わなかった。

もう終わったことだと思おうとしていた。

母親へ話せば、当時の自分をもう一度見せることになる。

心配される。

何度も理由を聞かれる。

どうしてもっと早く言わなかったのかと責められるかもしれない。

実家へ帰ってくればよかったのに、と言われることも分かっていた。

水月が押し入れの前にしゃがみ込んだ。

「それ、全部戻すん?」

廊下には、押し入れから出した物がまだ積まれている。

「必要なものだけにしようと思って」

「お母さん来るん、一週間後やで」

「分かってる」

「仕事、もう始まるやろ」

時計は午前八時四十分だった。

九時から会議がある。

海斗は廊下へ並べた物を見た。

「昼休みに片づける」

「昼は休む時間や」

「これくらいなら、十分で終わる」

「昨日も同じこと言うて、昼に窓拭いてたやろ」

水月は電気毛布を抱え、押し入れへ戻した。

「もうええ」

「適当に入れないで」

「扉閉めたら見えへん」

「あとで必要なときに困る」

「ほな、あんたが仕事終わってからしたらええ」

海斗は手を伸ばし、水月から電気毛布を受け取ろうとした。

水月は渡さなかった。

「お母さんに、何を見せたいん?」

海斗の動きが止まった。

「何って」

「きれいな家?」

「汚いよりはいいだろ」

「仕事も、暮らしも、何も困ってへんあんた?」

「そんなつもりじゃない」

「ほんまに?」

水月は海斗の顔を見た。

「来てもらうん、怖いんちゃう」

言い当てられたと思った。

海斗は視線を外した。

仕事部屋から、会議開始五分前を知らせる音が鳴った。

「あとで話す」

そう言って立ち上がる。

水月は追いかけなかった。

海斗が会議を終えて居間へ戻ると、廊下の物は押し入れへ戻されていた。

扉は閉まっている。

水月の姿はなかった。

静波の昼営業へ向かったのだろう。

食卓の上には、冷やした麦茶と、小さなおにぎりが二つ置かれていた。

昼休みに食べるよう、皿の横へ短い書き置きがある。

海斗は椅子へ座った。

おにぎりには、梅が入っていた。

一つ食べ、麦茶を飲む。

水月へメッセージを送ろうとしたが、営業時間中だった。

〈朝はごめん。帰ったら話したい〉

それだけ送り、午後の仕事へ戻った。

その夜、水月が帰宅したのは九時を過ぎてからだった。

海斗は台所で、茄子と豚肉を炒めていた。

水月は手を洗い、鍋の中を覗いた。

「焦げてへんな」

「今日は見てたから」

「前も見てたんちゃうん」

「見ていたつもりだった」

海斗は火を止め、皿へ盛った。

二人で食卓へ座る。

しばらくは、料理のことだけを話した。

茄子が少し大きい。

味噌を入れすぎた。

ご飯はちょうどよく炊けている。

食事が半分ほど進んだところで、海斗は箸を置いた。

「母には、全部話してないんだ」

水月も箸を置いた。

「東京にいた頃のこと?」

「うん」

「休んだことは知ってるんやろ」

「それだけ。少し疲れて、医師に休むよう言われたって伝えた」

「少し、やなかったやろ」

「分かってる」

窓の外で、舟のエンジン音が聞こえた。

夜に戻ってきた漁船らしい。

音はゆっくり遠ざかり、波だけが残った。

「母から電話が来た日があった」

海斗は言った。

「休みに入って、三日目くらいだった。ほとんど部屋から出られなかったとき」

水月は黙って聞いている。

「仕事は忙しいのかって聞かれて、普通だと答えた。声が疲れてると言われたけど、昨日少し遅かっただけだって」

「なんで、言わんかったん」

「心配されたくなかった」

「ほかには?」

海斗は味噌炒めの皿を見た。

「実家へ帰ってこいと言われると思った。実際、その電話でも言われた」

「帰りたくなかった?」

「帰れば、何があったのか説明しないといけない。母は悪くない。でも、あの頃は、自分の状態を言葉にする力がなかった」

海斗は指を組んだ。

「大丈夫じゃないと言ったら、大丈夫になるまで見張られるような気がした。食べたか、眠ったか、病院へ行ったか。毎日聞かれると思った」

「それが嫌やった?」

「答えられない自分が、もっと嫌だった」

水月は少し考えた。

「今も言いたくない?」

「分からない」

「ほな、無理に言わんでもええ」

海斗は顔を上げた。

「言った方がいいと思わない?」

「誰のために?」

答えられなかった。

母親のためなのか。

自分のためなのか。

隠し続けることが苦しいから話したいのか。母親なら知るべきだという義務感なのか。

水月は箸を取り、冷めかけた茄子を食べた。

「話すなら、お母さんを安心させるためだけに、きれいに終わった話にせん方がええ」

「どういうこと?」

「もう治りました。心配ありません。水月がおるから大丈夫です、で終わらせんこと」

海斗は黙った。

それは、話すなら言おうとしていた言葉だった。

今は元気に働いている。

理解のある会社にいる。

一人ではない。

だから心配はいらない。

母親が不安にならないよう、最後にはそう付け加えるつもりだった。

「今も疲れる日はあるやろ」

水月が言った。

「ある」

「眠れん日も?」

「前ほどじゃないけど、ある」

「仕事しすぎることも?」

「ある」

「ほな、全部終わったことやない」

「でも、以前とは違う」

「それも言うたらええ。前と違うことも、同じことも」

海斗は冷めた味噌汁を飲んだ。

「水月は、一緒にいてくれる?」

「話すとき?」

「うん」

水月はすぐには答えなかった。

「最初は二人で話した方がええんちゃう」

「僕と母で?」

「うちがおったら、お母さんは私に聞くかもしれん。あのとき海斗がどうやったか、今はほんまに大丈夫か」

「聞くと思う」

「うちが代わりに答えたら、あんたが話す意味がなくなる」

海斗は、自分の手元を見た。

「怖いな」

「せやな」

「否定しないんだ」

「怖くないとは思わんから」

水月は食べ終えた皿を重ねた。

「でも、話さんままでも、お母さんは何か感じるかもしれんで」

「どうして?」

「一週間前から押し入れ全部出す息子見たら、何かあると思うやろ」

海斗は思わず笑った。

笑うと、胸の奥に固まっていたものが少しだけ緩んだ。

母親が来る日は、よく晴れた。

午前十一時過ぎ、伊根へ着くバスを、海斗と水月は停留所で待った。

陽射しが強く、道路の向こうの海が白く光っている。

海斗は何度も時刻表を見た。

「遅れてる?」

水月が尋ねる。

「二分」

「誤差や」

「途中で何かあったのかもしれない」

「連絡ないなら、乗ってるやろ」

遠くからバスの姿が見えた。

海斗の背筋が伸びる。

水月は何も言わず、隣に立っていた。

バスが停まり、数人の乗客が降りた。

最後に、海斗の母親が現れた。

淡い灰色の帽子をかぶり、小さな紺色のキャリーバッグを引いている。

海斗を見つけると、笑顔になった。

「遠かった」

最初の言葉がそれだった。

「お疲れさま」

海斗がキャリーバッグを受け取る。

「途中からずっと海が見えたわ。写真を撮ろうとしたけど、バスが揺れて全部ぼやけた」

母親は水月へ向き直った。

「水月さん、ご無沙汰しています」

「お久しぶりです。暑かったでしょう」

「東京よりは涼しいと思ってたけど、日差しは同じね」

三人で家へ向かった。

母親は何度も足を止め、海を見た。

舟屋の一階へ舟が収まっているのを見て、本当に家の下が海なのね、と驚いた。

観光客が写真を撮っている脇を、買い物袋を下げた地元の女性が自転車で通り過ぎる。

干した網のそばでは、猫が眠っていた。

「海斗が、ここに住むとは思わなかった」

母親が言った。

「僕も思ってなかった」

「東京からずいぶん遠いでしょう」

「慣れれば、そうでもないよ」

海斗は反射的に答えた。

母親は、そう、とだけ言った。

家へ着くと、母親は玄関で靴を揃え、室内を見回した。

「きれいにしてるのね」

海斗は、窓を拭いてよかったと思った。

同時に、その言葉を待っていた自分に気づいた。

水月が冷たい麦茶を出す。

客用ではない、いつもの湯飲みだった。

母親は両手で持ち、一口飲んだ。

「おいしい」

「普通の麦茶です」

海斗が言うと、水月が彼を見た。

「おいしいって言うてはるんやから、ええやん」

「そうだけど」

母親が笑った。

「昔から、褒めるとすぐ説明するのよ。これくらい誰でもできるとか、偶然うまくいっただけとか」

海斗は記憶になかった。

「子どもの頃から?」

「小学校の図工で賞をもらったときも、先生が選んだだけだって言ってた」

「覚えてない」

「私は覚えてる」

母親は部屋の柱へ目を向けた。

古い家の柱には、細かな傷がいくつも残っている。

「いい家ね。新しくはないけど」

「廊下、少し傾いてるから気をつけて」

「海のそばだから?」

「元からや」

水月が答えた。

「直すほどでもないんで、そのままにしてます」

「不便じゃない?」

「歩いたら慣れます」

母親は廊下を一度往復した。

「本当に傾いてる」

少し楽しそうだった。

昼食は静波で用意していた。

営業日だったが、午後一時半から二時半までの一席だけ、母親のために空けてある。

先の客が帰ったあと、三人で店へ入った。

佐知はすでに片づけを始めていた。

「海斗さんのお母様ですね」

「いつも二人がお世話になっています」

母親が頭を下げる。

佐知は一瞬、何と答えるべきか迷った顔をした。

「私は水月さんに雇っていただいているので、お世話になっているのはこちらです」

「そうなの?」

母親が水月を見る。

「佐知さんがおらんかったら、今の営業はできてません」

水月はそう言って、カウンターの席を勧めた。

母親を中央へ座らせ、海斗が隣へ座る。

水月は厨房へ入り、佐知と料理を仕上げた。

最初に、焼いた万願寺唐辛子と茄子の煮浸しが出た。

次に、白烏賊の刺身。

小さな鯵の南蛮漬け。

最後に、鱸の茶漬けが運ばれてきた。

母親は料理が出るたびに、きれい、と言った。

一口食べると、おいしい、と言った。

細かな味の説明はしなかった。

海斗は、母親が料理を食べる姿を久しぶりに見た。

実家にいた頃、母親はいつも自分の分を最後に食べていた。

朝は海斗の弁当を作りながら、台所でパンをかじっていた。

夕食も、洗い物を減らすためだと言い、一人だけ小さな皿を使った。

今は、カウンターの上へ一人分ずつ料理が並んでいる。

食べ終わるまで、誰も皿を下げない。

母親は茶漬けの最後の一口まで食べ、箸を置いた。

「ごちそうさまでした」

水月が厨房から出てきた。

「お口に合って、よかったです」

「海斗がここへ来た理由、少し分かった気がします」

海斗の指先が止まった。

水月も、すぐには答えなかった。

母親は店内を見回した。

「静かだから、という意味よ。東京とは全然違うもの」

「静かなだけでは、暮らせへん日もあります」

水月が言った。

「冬は風が強いし、魚が揚がらん日もあります。病院も、買い物も遠いです」

「それでも、ここがよかったのね」

母親は海斗へ尋ねた。

「うん」

「仕事は、本当に困ってない?」

海斗の胸がわずかに固くなった。

「今の会社は、在宅勤務が中心だから」

「東京へ戻るつもりはないの?」

「今はない」

「一生?」

「先のことは分からない」

母親は少し寂しそうに見えた。

だが、それ以上は尋ねなかった。

佐知が洗い場から言った。

「変わりたくなったら、変わればいいですから」

母親が振り返る。

佐知は皿を洗ったまま、こちらを見ていない。

「佐知さんも、ここでずっと働くと決めてるわけではありません」

水月が言った。

「そうなの?」

「はい」

佐知が答えた。

「今は働きたいので、働いています」

母親は、その言葉を考えるように小さくうなずいた。

食事を終え、店を出る。

水月と佐知は夜の営業準備があるため、静波へ残った。

海斗は母親と二人で、湾沿いの道を歩いた。

母親は帽子を押さえながら、家々の間から見える海へ目を向けている。

「水月さん、はっきりした人ね」

「うん」

「怖くない?」

「何が?」

「言い方が」

海斗は少し考えた。

「怖いときもある。でも、分からないままにされるよりいい」

「海斗は昔から、はっきり言われると黙るでしょう」

「今も黙るよ。そのあとで考える」

「言い返さないの?」

「言い返すこともある」

母親が海斗を見る。

「変わったのね」

「そうかな」

「前は、人と揉めるくらいなら、自分が引き受けた方が早いって言ってた」

胸の奥へ、古い痛みが触れた。

仕事でも、そうしていた。

頼まれたことを断らず、誰かが失敗すれば自分が直した。

相手に説明し、断り、納期を変えるために話し合うより、自分で終わらせる方が早いと思った。

その積み重ねの先で、何も読めなくなった。

海斗は歩く速度を落とした。

「少し、座らない?」

海沿いに、小さなベンチがあった。

二人で腰を下ろす。

海面には陽の光が反射し、まっすぐ見ることができなかった。

母親が鞄からハンカチを出し、額の汗を拭いた。

「疲れた?」

海斗が尋ねる。

「少し。でも、大丈夫」

その言葉に、海斗は母親を見た。

母親も気づいたらしく、苦笑した。

「何?」

「僕も、よく言ってたから」

「大丈夫って?」

「うん。大丈夫じゃないときも」

母親の表情が変わった。

海斗は、膝の上で両手を組んだ。

今なら話せる。

そう思ったわけではなかった。

声を出そうとすると、喉が狭くなった。

それでも、話さなければ、また何事もなかった顔をして家へ帰ることになる。

「東京にいた頃、最後の方は、ほとんど眠れてなかった」

母親は黙った。

「夜中まで会社にいて、帰っても仕事の連絡が来る気がした。食べられない日も増えてた」

「少し疲れたって言ってた頃?」

「少しじゃなかった」

「どれくらい?」

海斗は息を吐いた。

「仕事の文章が読めなくなった。何度読んでも頭に入らなくて、修正する場所が分かってるのに手が動かなかった」

母親の手が、ハンカチを握った。

「ある夜、立っていられなくなって、同僚に代わってもらった。その人に、休んだ方がいいと言われた」

「病院へ行ったのは、そのあと?」

「うん」

「私に電話で、普通だと言ったときは?」

「もう休んでた」

母親は海斗の顔を見た。

「仕事があるから帰れないって言ったでしょう」

「嘘だった」

波が岸へ当たり、小さな音を立てた。

母親は視線を海へ移した。

「どうして」

責める声ではなかった。

その方が、海斗には苦しかった。

「言えなかった」

「私には?」

「誰にも説明したくなかった。自分がどうなってるのか、僕にも分からなかったから」

「それでも、母親には言ってもよかったでしょう」

海斗は答えられなかった。

母親の声が少し震えた。

「帰ってくればいいって言ったじゃない。何も話したくないなら、話さなくてもよかった。寝ているだけでもよかったのに」

「たぶん、帰ったら、どうしたのって聞いたと思う」

「聞くわよ。心配なんだから」

「それが怖かった」

母親が黙る。

海斗は続けた。

「食べたか、眠ったか、病院へ行ったか。毎日聞かれると思った。答えられなかったら、もっと心配させる。心配されている自分を見るのが嫌だった」

「私が、重かったってこと?」

「違う」

すぐに否定したあと、海斗は言葉を探した。

「違わないのかもしれない。あのときは、誰かの気持ちを受け止める余裕がなかった。母さんが心配する気持ちも、僕には負担になったと思う」

母親の顔が歪んだ。

海斗は目を逸らさなかった。

水月が言った言葉を思い出していた。

安心させるためだけに、きれいに終わった話にしない。

「母さんが悪いと言いたいわけじゃない」

「でも、頼れなかったんでしょう」

「頼る方法が分からなかった」

「育て方を間違えたのかな」

「そういう話にしないでほしい」

海斗の声が、思ったより強くなった。

母親が驚いたように彼を見る。

「ごめん」

「謝らないで」

海斗は両手を握り直した。

「母さんが自分を責めたら、僕が慰めることになる。そうなるのが怖くて、言えなかった部分もある」

母親は何も言わなかった。

海斗の胸が激しく脈打っている。

言いすぎたかもしれない。

母親を傷つけるために話したのではない。

それでも、今ここで「全部僕が悪かった」と付け加えれば、以前と同じになる。

海斗は黙っていた。

遠くで、子どもたちの声が聞こえた。

小さな舟が湾を横切り、後ろに白い波を残す。

長い沈黙のあと、母親が言った。

「今は、大丈夫なの?」

海斗はすぐに答えなかった。

「前よりは、ずっといい」

「もう治った?」

「そう言い切ることはできない」

母親の眉が動いた。

海斗は続ける。

「去年も、眠れない日が続いたことがあった。仕事と家のことを詰め込みすぎて、前と同じ兆しが出た」

「また休んだの?」

「早めに仕事を止めて、病院へ行った。数日休んで、戻る量も減らした」

「どうして教えてくれなかったの」

「今と同じ理由だと思う」

母親は口を閉じた。

「でも、今は水月に言えた。上司にも言えた。前とは違う」

「私には言えなかった」

「うん」

海斗はその事実を否定しなかった。

母親はハンカチを畳み直した。

端と端を合わせ、膝の上へ置く。

「寂しい」

小さな声だった。

「ごめん」

海斗は言った。

「でも、話してくれてよかった」

母親は海を見たまま続けた。

「今すぐ、何も聞かない母親にはなれない。食べたかも、眠ったかも、聞きたい。たぶん聞くと思う」

「うん」

「でも、答えたくないと言われたら、そこでやめるようにする」

海斗は母親の横顔を見た。

「できる?」

「分からない」

正直な答えだった。

「できなかったら、もう一度言って。聞かないでって」

「言えるかな」

「言ってもらわないと、私は分からない」

海斗はうなずいた。

母親もまた、何でも察してくれるわけではない。

一度話しただけで、二人の習慣が変わるわけでもない。

海斗が黙れば、母親は心配して尋ねるだろう。母親が尋ねれば、海斗は反射的に大丈夫と答えるかもしれない。

そのたびに、違う言葉を選び直すしかない。

「もう少し、ここに座っててもいい?」

母親が尋ねた。

「うん」

二人はしばらく、海を見ていた。

家へ戻ると、母親は疲れたと言って横になった。

客間に敷いた布団は、陽の匂いがした。

海斗は襖を閉め、台所へ向かった。

静波の夜営業が終わるまで、水月は帰らない。

海斗は一人で夕食の準備を始めた。

母親が持ってきた紙袋には、実家の近くで買った野菜が入っていた。

じゃがいも、玉葱、人参。

海の町へ持っていくものが分からなかったから、と母親は言っていた。

海斗は肉じゃがを作ることにした。

じゃがいもの皮を剥く。

大きさが揃わない。

玉葱を切ると、目に沁みた。

鍋へ材料を入れ、出汁と醤油、砂糖を加える。

味見をすると、甘かった。

母親の作る肉じゃがも、甘かったことを思い出す。

午後八時前、母親が起きてきた。

「何か手伝う?」

「もうできる」

「ご飯は?」

「炊いてある」

「お味噌汁は?」

「今から作る」

母親は冷蔵庫を開けた。

「豆腐はある?」

「あるけど、座ってて」

「これくらいやらせて」

母親は豆腐と葱を取り出し、戸棚を開けた。

味噌の場所を探している。

海斗は止めようとした。

そのとき玄関が開き、水月が帰ってきた。

「ただいま」

「おかえり」

水月は台所に立つ母親を見た。

「お母さん、休んでてください。海斗が作ってますから」

「でも、お味噌汁くらいは」

母親が戸棚の奥へ手を伸ばす。

その指が、静波から持ち帰った水月の包丁箱へ触れた。

箱が少し動いた。

水月の表情が変わった。

「そこは触らんといてください」

母親の手が止まる。

声は大きくなかった。

だが、はっきりしていた。

「ごめんなさい」

母親はすぐに手を引いた。

「味噌がどこかと思って」

「味噌は下です。でも、うちの台所なんで、使うときは聞いてください」

「水月」

海斗は思わず名前を呼んだ。

水月が彼を見る。

「何?」

母親は豆腐と葱を冷蔵庫へ戻した。

「私が勝手に開けたのが悪かったの。座ってるわね」

そう言って、居間へ向かった。

台所に水月と海斗だけが残る。

「もう少し、柔らかく言えなかった?」

海斗は声を抑えた。

「勝手に触られたくないもんがある」

「悪気はないよ」

「悪気があるとは言うてへん」

「でも、あの言い方だと」

「何?」

水月は前掛けを外しながら、海斗を見る。

「お母さんに嫌われる?」

「そういうことじゃない」

「ほな、何?」

海斗は答えられなかった。

母親が傷ついた顔をした。

それを見た瞬間、間に入らなければと思った。

水月に謝らせ、母親を安心させ、食卓の空気を元へ戻す。

いつもの癖だった。

「お母さんが来てから、あんた、ずっと私の顔とお母さんの顔を交互に見てるで」

水月が言った。

「二人が気まずくならないようにするのは、普通だろ」

「気まずくなることもある」

「せっかく来てもらったのに」

「来てもらったら、何されても笑わなあかんの?」

「そんなことは言ってない」

「私も、嫌やったら嫌って言う。お母さんも、嫌やったら言うたらええ。あんたが間で全部丸くせんでもええ」

海斗は唇を閉じた。

水月は手を洗い、鍋の蓋を開けた。

「肉じゃが?」

「うん」

「甘そうな匂いやな」

「母の味に近くなった」

「ほな、おいしいやろ」

水月は味見をした。

「甘い」

「言っただろ」

「でも、じゃがいもは煮崩れてへん」

水月は味噌汁用の鍋へ水を入れた。

「お母さんには、あとで私から言う」

「謝る?」

「驚かせてすみません、とは言う。でも、触ってええか聞いてほしいんは変えへん」

海斗はうなずけなかった。

それでも、止めることもしなかった。

三人で食卓を囲んだ。

最初は、誰も話さなかった。

母親は肉じゃがを一口食べた。

「甘いわね」

「母さんの味にしたから」

「私、こんなに砂糖を入れてない」

「昔は入れてたよ」

「あなたの舌が変わったんじゃない?」

「そうかもしれない」

水月が味噌汁を置き、母親へ向き直った。

「さっきは、きつく聞こえたらすみません」

母親は箸を置いた。

「いいの。私が勝手に戸棚を開けたから」

「触られたくない道具があるんです。包丁箱も、手入れの順番があるんで」

「お店のもの?」

「今は使ってません。でも、私には大事なものです」

「そうだったのね」

「せやから、台所を使うときは、一声かけてもらえたら助かります」

母親はうなずいた。

「分かりました」

それで会話は終わった。

すぐに空気が元へ戻ったわけではない。

母親はまだ少し緊張している。

海斗も、食べ物が喉を通りにくかった。

水月はいつもと変わらない速度で食べていた。

しばらくして、母親が味噌汁を飲んだ。

「おいしい」

水月が顔を上げる。

「ありがとうございます」

「何の出汁?」

「煮干しです」

「私が作ると、生臭くなるの」

「頭とはらわたを取って、弱い火で煮たら、出にくいです」

「全部取るの?」

「急ぐときは、そのままのこともあります」

「水月さんでも?」

「毎回きちんとできるわけやないです」

母親が少し笑った。

食卓の空気が、わずかに緩んだ。

海斗は、自分が何かをしたわけではないことに気づいた。

二人は、自分たちで話し、境界を確かめ、少しずつ会話を戻している。

海斗が間へ入らなくても、関係は壊れなかった。

食後、母親は皿を流しまで運んだ。

洗おうとはせず、水月へ尋ねた。

「ここへ置いていい?」

「はい。ありがとうございます」

その夜、母親が寝たあと、海斗と水月は縁側へ座った。

夜の海から、湿った風が届く。

「話した?」

水月が尋ねた。

「うん」

「どうやった?」

「傷つけたと思う」

「何言うたん」

海斗は、母親との会話を短く説明した。

心配が負担だったこと。

母親が自分を責めると、慰めなければならなくなること。

今も、すべてが終わったわけではないこと。

水月は途中で口を挟まなかった。

「言いすぎたかな」

海斗が尋ねる。

「嘘は言うてへんのやろ」

「うん」

「ほな、言いすぎたかどうかは、お母さんが決めることや」

「僕が傷つけたのは同じだ」

「話したら傷つくこともある。黙ってても傷つくこともある」

水月は暗い水面を見た。

「どっちが正しいかは、私には分からん」

「水月は、お母さんに言いたいことを言えてたね」

「言うたあと、ちょっと怖かったで」

「そう見えなかった」

「顔に出さんかっただけ」

水月は膝を抱えた。

「嫌われたかもしれんと思った」

「それでも言ったの?」

「次から台所へ入られるたびに嫌になるより、一回言う方がええ」

海斗は、閉じた客間の襖を見た。

「僕も、そうできるようになるかな」

「今日、言うたやろ」

「一度だけだよ」

「一度できたら、次もできるとは限らん。でも、一度もできてへんのとは違う」

夜が更けても、客間から物音はしなかった。

翌朝、海斗が起きると、母親はすでに縁側に座っていた。

海を見ながら、湯飲みの茶を飲んでいる。

水月は台所で朝食を作っていた。

焼いた鯵。

出汁巻き卵。

胡瓜の浅漬け。

味噌汁。

海斗が顔を洗って戻ると、母親が言った。

「よく眠れた?」

「うん。母さんは?」

「途中で一度起きたけど、眠れたわ」

本当に眠れたのか、海斗には分からなかった。

以前なら、顔色や声から答えを探そうとしたかもしれない。

今は、その言葉をそのまま受け取った。

三人で朝食を食べる。

母親は出汁巻き卵を一口食べた。

「これは甘くないのね」

「静波のは、出汁を利かせてます」

水月が答える。

「海斗は、昔は甘い卵焼きが好きだったの」

「今も嫌いじゃないよ」

「そうなの?」

「昨日も食べただろ」

「肉じゃがと卵焼きは違うでしょう」

母親は笑った。

海斗も笑った。

食後、母親は荷物をまとめた。

帰りのバスは午前十時半だった。

玄関で靴を履き、家の中を振り返る。

「今度は、もう少し涼しい時期に来るわ」

「冬は風が強いですよ」

水月が言った。

「春にします」

「その頃は鰆がおいしいです」

「予約した方がいい?」

「はい。店の営業日を確認してください」

母親は声を立てて笑った。

停留所まで、三人で歩いた。

途中、母親は静波の前で足を止めた。

暖簾はまだ出ていない。

黒板には、その日の献立が書かれていた。

鱸の焼き霜。

揚げ茄子の餡かけ。

浅利と冬瓜の汁。

母親は文字を読み、海斗へ言った。

「ここで食べられてよかった」

「うん」

「あなたが、ちゃんと食べられる場所にいることも分かった」

海斗は、安心して、と言いかけた。

その言葉を飲み込む。

代わりに答えた。

「食べられない日もあるよ」

母親の表情が曇った。

「でも、そういう日は、水月に言う。自分でも気づくようにしてる」

「会社の人にも?」

「言える相手がいる」

母親は、ゆっくりとうなずいた。

「分かった」

停留所へ着くと、バスはまだ来ていなかった。

母親はキャリーバッグの持ち手を握り、海斗を見た。

「昨日の話、すぐに全部分かったとは言えない」

「うん」

「どうして言ってくれなかったのか、今も寂しい。少し腹も立ってる」

「うん」

「でも、言わなかったことを、今から責め続けたくはない」

海斗は母親の顔を見た。

「ありがとう」

「その代わり、一つ決めて」

「何を?」

「私が電話で元気かと聞いたとき、大丈夫じゃないなら、大丈夫と言わないで」

海斗は困った。

「何て答えればいい?」

「分からないなら、分からないでいい」

「話したくない日もある」

「そのときは、今日は話したくないって言って」

母親は少し考え、言い直した。

「話せない、でもいい。理由は聞かないようにするから」

「聞かないでいられる?」

「努力する」

昨日と同じ、正直な答えだった。

バスが近づいてきた。

母親は水月へ頭を下げた。

「二日間、ありがとうございました」

「また来てください」

「今度は、台所を使う前に聞きます」

「お願いします」

二人は顔を見合わせ、笑った。

バスが停まる。

海斗は母親の荷物を持ち上げ、乗降口のそばへ置いた。

「着いたら連絡して」

「あなたも、たまには連絡して」

「うん」

「無理な日は、しなくていいけど」

母親はそう言い残し、バスへ乗った。

窓際の席から手を振る。

海斗と水月も手を振り返した。

バスが見えなくなったあとも、二人はしばらく停留所に立っていた。

「疲れた?」

水月が尋ねる。

海斗は反射的に、大丈夫、と答えそうになった。

「疲れた」

代わりにそう言った。

「帰って寝る?」

「少し歩きたい」

「ほな、歩こ」

二人は家へ向かって歩き出した。

海斗の携帯電話が鳴った。

母親からのメッセージだった。

まだバスへ乗って数分しか経っていない。

〈昨日のことを話してくれてありがとう。今度から、話せない日は、話せないとだけ教えてください〉

海斗は歩きながら読んだ。

すぐに返信しようとして、指を止める。

どんな言葉なら母親を安心させられるか考え始めている自分に気づいた。

長い説明は要らなかった。

〈分かった。今日は疲れているけど、話せる〉

送信する。

しばらくして、返事が来た。

〈それなら、帰ったら休んでください〉

もう一通続いた。

〈返事はいりません〉

海斗は画面を水月へ見せた。

「西田さんみたいやな」

水月が言った。

「本当だ」

海斗は携帯電話をポケットへ入れた。

その日は、昼まで眠った。

目を覚ますと、水月はすでに静波へ向かっていた。

食卓には、昼食用のおにぎりが一つ置かれている。

梅ではなく、昨日の肉じゃがを潰して混ぜたものだった。

形は少し崩れていた。

海斗は温かい茶を淹れ、座って食べた。

一週間後、母親から電話がかかってきた。

海斗は仕事を終えたばかりだった。

専門職として初めて参加した設計会議が長引き、肩が重かった。

昼食も遅くなった。

少し疲れている。

電話へ出ると、母親はいつものように尋ねた。

「元気?」

大丈夫。

その言葉が、喉まで出かかった。

海斗は仕事部屋の窓を開けた。

夕方の海から、湿った風が入る。

「今日は少し疲れた」

母親は黙って続きを待った。

「でも、昼は食べた。夕飯も、これから食べる」

「そう」

「話せないほどじゃない」

電話の向こうで、母親が小さく息を吐いた。

「じゃあ、五分だけ話してもいい?」

海斗は時計を見なかった。

「うん。五分なら」

母親は、近所のスーパーが改装した話を始めた。

海斗は椅子へ座り、聞いた。

話は五分を少し越えた。

それでも海斗は、途中で切り上げられなかった自分を責めなかった。

電話を終える前に、母親が尋ねた。

「明日は少し休めそう?」

海斗は考えた。

「まだ分からない。朝になったら決める」

「そう」

母親は、それ以上尋ねなかった。

電話を切る。

画面が暗くなり、仕事部屋に波の音が戻った。

海斗は椅子から立ち上がり、居間へ向かった。

食卓には、水月が作っておいた冷たい茶漬けの具がある。

あとは出汁を注ぐだけだった。

話せる日もある。

話したくない日もある。

うまく言葉を選べない日も、また大丈夫と言ってしまう日もあるだろう。

それでも、言えなかったことを一つ話したあとには、前とは違う沈黙が残っていた。

誰かを遠ざけるためではなく、次の言葉を待つための沈黙だった。


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