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『静波の寄せる場所』  作者: 久遠 睦


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28/31

第28章 自分の名で

九月最初の水曜日。

静波の昼営業を終えたあと、佐知は暖簾を中へ入れなかった。

いつもなら最後の客を見送り、店先の黒板と暖簾を片づけてから、二人で賄いを食べる。

その日は、佐知は開いたままの戸口に立ち、海を見ていた。

湾の水面には、午後の光が細かく散っている。

風はまだ夏の温度を残していたが、軒下へ差し込む陽射しは少し短くなっていた。

水月は厨房で、焼き台の灰を落としていた。

佐知の背中を見ながら、何か話したいことがあるのだろうと思った。

朝から、いつもより口数が少なかった。

鱸の骨を抜くときに一度、出汁巻き卵を切るときに一度、手を止めていた。失敗したわけではない。ただ、頭の一部を別のことへ使っているように見えた。

「暖簾、入れんの?」

水月が声をかける。

佐知は振り返った。

「あ、すみません」

暖簾へ手を伸ばす。

「そのままでええ」

「でも、もう閉店です」

「客が来たら断ったらええ。先に賄い食べよ」

佐知は暖簾を見上げ、手を下ろした。

昼の賄いは、鱸の端身を使った胡麻茶漬けだった。

水月がご飯を盛り、佐知が魚と薬味を載せる。

カウンターの端へ並んで座った。

普段なら、食べながらその日の料理について話す。

酢の量が少なかった。

二組目の客へ出した魚が少し冷めた。

椀物を出す順番は、あれでよかった。

二人の間では、改善点を口にすることが責める意味にはならなくなっていた。

だが、その日は佐知が何も言わなかった。

茶漬けを半分ほど食べたところで、水月が尋ねた。

「何かあるんやろ」

佐知の箸が止まった。

「分かりますか」

「朝から、魚の骨一本抜くのに時間かかってた」

「残ってました?」

「残ってへん。遅かっただけ」

佐知は箸を置き、湯飲みを両手で持った。

「相談したいことがあります」

「うん」

「十一月から、静波へ来る日を週二日に減らしたいです」

水月は、口へ運びかけた茶漬けを戻した。

「三日から二日?」

「はい」

「体調悪い?」

「違います」

「ほかの仕事?」

「自分で料理を出してみたいと思っています」

店の中を、波の音が通り抜けた。

水月は佐知の顔を見た。

「店、出すん?」

「まだ、店を持つわけではありません」

佐知は鞄から一枚の紙を取り出した。

潮路の食堂を利用した、月二回の昼営業。

料理は一種類。

予約は十二人まで。

調理と接客は、基本的に佐知一人。客が十人を超える日は、美代が配膳を手伝う。

食堂と厨房の使用料、光熱費、食器の破損時の負担、食中毒保険、清掃の範囲まで、項目ごとに書かれていた。

「美代さんのとこで?」

「はい。宿の昼食を出してほしいという話ではありません。食堂と厨房を借ります。売上も責任も、私のものです」

「いつから話してたん」

「最初に声をかけてもらったのは、東京へ行かれていた頃です」

水月の胸の奥に、小さな棘が刺さった。

「それから、ずっと黙ってたん?」

「決めてから話したかったので」

「相談したいことがあるって言うたやろ」

「静波の日数を減らす相談です。自分で料理を出すことは、もう決めました」

佐知の声は落ち着いていた。

その落ち着きが、水月には冷たく感じられた。

「うちに何も言わんと?」

「許可が必要でしょうか」

「そういうことやない」

「では、どういうことですか」

水月は答えられなかった。

佐知が自分の仕事を始めることに、水月の許可は要らない。

それは分かっている。

分かっているからこそ、口にできる言葉がなかった。

「静波で覚えた料理を、そのまま出すん?」

ようやく尋ねた言葉は、自分でも嫌になるほど狭かった。

佐知の眉がわずかに動いた。

「出しません」

「出汁の取り方や、魚の扱いは、ここで覚えたこともあるやろ」

「あります。でも、私がホテルで働いていた頃に覚えたことも、自分で試してきたこともあります」

「そら、そうやけど」

「静波の料理を使うつもりはありません。献立も、出し方も、値段も変えます」

佐知は紙を一枚めくった。

予定している献立が書かれている。

焼き鯖と香味野菜の混ぜご飯。

蒸し鶏と無花果の白和え。

南瓜のすり流し。

梨と生姜の寒天。

静波では出していない組み合わせだった。

水月は一行ずつ読んだ。

悪くないと思った。

焼き鯖へ大葉や茗荷を合わせるのだろう。混ぜご飯なら、一人でも十二人分を出しやすい。蒸し鶏は前日に仕込める。無花果を白和えに使えば、料理全体へ甘みが入りすぎる恐れはあるが、胡麻を控えればまとまるかもしれない。

頭の中で、勝手に修正を始めている自分に気づいた。

「試作、したん?」

「何度か」

「どこで?」

「自宅です。美代さんにも食べてもらいました」

「美代さんに先に?」

口にした瞬間、佐知の表情が硬くなった。

「水月さんに先に食べてもらったら、静波の料理になってしまう気がしたんです」

「私は、そんなことせえへん」

「水月さんが奪うという意味ではありません」

「ほな、何」

「教えてくれるでしょう」

佐知はまっすぐ水月を見た。

「火の入れ方が甘ければ言う。味がぼやけていれば言う。盛りつけに無駄があれば直す。私は、その通りにしたくなると思います」

「直したらあかんの?」

「悪くありません。でも、最初の一回くらい、自分が考えたまま出してみたいんです」

「失敗するかもしれんで」

「はい」

「十二人分を一人で出すんは、家で作るのと違う」

「分かっています」

「分かってへんこともあるやろ」

「あると思います」

佐知は湯飲みを置いた。

「その分からないところも、自分で引き受けたいです」

水月は茶漬けを見た。

出汁を吸ったご飯が、椀の中で膨らんでいる。

食べる気がしなくなった。

「十一月から週二日」

「はい」

「そのあと、店を辞めるつもり?」

「まだ決めていません」

「うまくいったら辞める?」

「今は答えられません」

「答えられんまま、こっちは日数減らせって?」

佐知は息を吐いた。

「一か月前に伝えています。日数を減らせないなら、静波を辞めます」

水月は顔を上げた。

「そこまで決めてたん?」

「どちらでもいいわけではありません。静波でも働きたいです。でも、自分の仕事も始めたい」

「両方欲しいんやな」

水月の声には、責める響きが混じった。

佐知は否定しなかった。

「はい。両方欲しいです」

静波の外を、観光客らしい二人連れが通った。

暖簾を見て足を止める。

水月は戸口へ出た。

「すみません、昼は終わりました」

二人は店内を覗いたあと、頭を下げて歩き去った。

水月は暖簾を外し、強く畳んだ。

「今日は、もう帰ってええよ」

「片づけが残っています」

「一人でできる」

「明日の仕込みも」

「できる言うてるやろ」

佐知は立ち上がった。

「分かりました」

前掛けを外し、折り畳む。

何か言いたそうにしたが、結局、鞄へ入れた。

「明日は来ます」

「勤務日やからな」

「はい」

佐知は頭を下げ、店を出た。

戸が閉まる。

水月は一人になった厨房で、佐知が残した茶漬けを見た。

半分以上残っていた。

自分の椀も、ほとんど減っていない。

二つの椀を流しへ運び、出汁ごと捨てた。

その夜、水月が帰宅すると、海斗は仕事部屋にいた。

扉は半分開いている。

画面には設計図が表示され、海斗はイヤホンをつけて誰かと話していた。

水月は居間へ入り、冷蔵庫を開けた。

昼から何も食べていない。

空腹はあるはずなのに、何を口へ入れればよいか分からなかった。

冷蔵庫には、豆腐、卵、胡瓜、昨日の煮物がある。

水月は豆腐を取り出し、皿へ載せた。

醤油をかけようとして、やめる。

何もかけずに一口食べた。

味がしなかった。

十五分ほどして、海斗が仕事部屋から出てきた。

「おかえり。遅かったね」

「片づけしてた」

海斗は食卓の上を見た。

豆腐が半分残っている。

「夕飯、それだけ?」

「今はいらん」

「何かあった?」

「別に」

答えたあと、水月は自分が海斗と同じ言葉を使ったことに気づいた。

海斗は追及しなかった。

冷蔵庫から煮物を出し、鍋へ移す。

「僕は食べるけど、水月も欲しくなったら言って」

「うん」

海斗は火をつけた。

温まるまでの間に米をよそい、即席の味噌汁を作る。

水月は食卓へ頬杖をついたまま、その動きを見ていた。

「佐知さんが、店始める」

海斗の手が止まった。

「店?」

「潮路の食堂借りて、月二回だけ昼を出す」

「そうなんだ」

「十一月から、静波は週二日に減らしたいって」

海斗は鍋の火を弱めた。

「水月は、どう答えたの?」

「答えてへん」

「そう」

「何か言わんの?」

「何を?」

「困るとか、急やとか」

「僕が?」

水月は苛立った。

「静波のこと、何も分かってへんみたいに言わんといて」

「分かってないことは多いよ。勤務日が一日減ったら、どのくらい困るのかも知らない」

「困るに決まってるやろ」

「予約を減らすことになる?」

「なるかもしれん」

「新しい人を探す?」

「簡単に見つからへん」

「佐知さんの仕事を断らせる?」

「そんなこと言うてへん」

「じゃあ、何をしてほしい?」

水月は唇を噛んだ。

海斗は鍋の火を止めた。

「僕に佐知さんを止めてほしい?」

「違う」

「佐知さんが間違ってると言ってほしい?」

「違う」

「水月が怒るのは当然だって言ってほしい?」

「分からん」

海斗は煮物を皿へ盛り、食卓へ座った。

すぐには箸を取らなかった。

「腹立つ」

水月が言った。

「うん」

「美代さんには先に試食してもらって、私には全部決めてから言うた」

「それが嫌だった?」

「嫌や」

「寂しかった?」

水月は海斗を見た。

「子どもみたいに言わんといて」

「寂しいのは、子どもだけじゃないよ」

水月は返事をしなかった。

海斗はご飯を一口食べた。

水月も残りの豆腐を口へ入れた。

今度は醤油を少しかけた。

「うちを信用してへんのやと思った」

しばらくして、水月が言った。

「料理を盗ると思ってるわけやない。でも、私に見せたら、静波の料理になる気がしたって」

「佐知さんにとって、水月の意見が大きいんじゃない?」

「そやから、先に聞いたらええやろ」

「大きすぎるから、聞かなかったのかもしれない」

水月は醤油差しを置いた。

「海斗も、佐知さんの味方するんやな」

「味方を決めて話してない」

「でも、私が間違ってるみたいに聞こえる」

「間違ってるとは言ってない」

海斗は箸を置いた。

「水月が傷ついたことと、佐知さんが自分で決めたかったことは、両方あるんじゃないかな」

「きれいに二つ並べんといて」

「並べられない?」

「今は無理」

海斗はうなずいた。

「分かった」

それ以上、何も言わなかった。

水月は、腹が立ったまま居間を出た。

自分の部屋へ入り、戸を閉める。

鞄から佐知の計画書を取り出した。

返し忘れていた。

食卓へ置かれたときには、内容を半分しか見ていなかった。

水月は床へ座り、紙を開いた。

営業は午前十一時半から午後二時まで。

一度に受ける客は六人。

一時間後に、次の六人。

予約時に食物アレルギーを確認する。

当日の仕入れで鯖が入らない場合、鶏と茸の混ぜご飯へ変更する。

価格は一人二千二百円。

食材原価、厨房使用料、光熱費、消耗品費を差し引いた予想利益が書かれている。

数字には、何度も書き直した跡があった。

欄外に小さな文字がある。

調理時間を測り直す。

盛りつけを一皿三十秒以内にする。

南瓜の濃度、再確認。

予約が八人以下でも実施。

十二人に満たなくても、失敗ではない。

水月は最後の一文を繰り返し読んだ。

佐知が自分へ向けて書いた言葉だと分かった。

客を集めることだけが目的ではない。

自分で考えた料理を、自分の名前で出す。

その経験をするための一日なのだろう。

水月は計画書を畳んだ。

翌朝、静波へ行くと、佐知はすでに仕込みを始めていた。

昨日と同じ白い調理着を着ている。

水月が入ってくると、包丁を置いた。

「おはようございます」

「おはよう」

二人とも、前日のことには触れなかった。

午前中は予約が多かった。

六席が二回転する。

最初の客が予定より十五分遅れて到着し、料理を出す順番が重なった。

佐知が焼き台、水月が椀物を担当する。

言葉を交わす余裕はなかった。

「鯛、あと二分」

「椀、先に出します」

「二番さん、葱抜き」

「分かってます」

二人は互いの動きを見ながら、滞りなく料理を出した。

最後の客を見送ったのは、午後二時を過ぎていた。

佐知が暖簾を外す。

水月は冷蔵庫から麦茶を取り出し、二人分の湯飲みへ注いだ。

「昨日は、言い方悪かった」

水月が言った。

佐知は湯飲みを持ったまま、何も答えなかった。

「先に言うてほしかったんは、ほんまや。でも、許可取ってほしかったわけやない」

「はい」

「たぶん、置いていかれると思った」

佐知が顔を上げる。

水月は続けた。

「陸が京都へ行って、佐知さんも別のこと始めて。私だけ、同じ場所に残る気がした」

「水月さんは、静波があります」

「せやからや」

水月は、カウンターの木目を指でなぞった。

「私は自分でここを選んだ。誰かに残されたわけやない。それでも、周りが動くと、私だけ動いてへんみたいに思うことがある」

「店を広げたいんですか」

「広げたない」

「別のことを始めたい?」

「今はない」

「それなら、動かなくてもいいのでは」

佐知の言葉に、水月は目を細めた。

「簡単に言うな」

「すみません」

「でも、そうやな」

水月は麦茶を飲んだ。

冷たさが、喉を通った。

「動かんことも、自分で決めてたら、取り残されるんとは違うな」

佐知は小さくうなずいた。

「私も、静波から逃げたいわけではありません」

「うん」

「ここで働くのは好きです。水月さんの料理も、仕事の仕方も。ただ、それだけになったら、いつか水月さんの料理ができる人で終わると思いました」

「それは、あかんの?」

「私には、嫌です」

迷いのない返事だった。

水月は、佐知の顔を見た。

「料理の名前、どうするん」

「名前?」

「誰が作ったか、書くんやろ」

「そこまで考えていませんでした」

「考えた方がええ。店の名前がなくても、献立に自分の名前は書ける」

佐知は少し驚いたようだった。

「静波では、陸さんの料理に名前を書いていましたね」

「陸のためだけやない」

水月は、佐知の計画書を差し出した。

「これ、昨日持って帰ってしもた」

「読んだんですか」

「うん。返す」

佐知は紙を受け取った。

「週二日に減らすんは、分かった」

「いいんですか」

「困るけど、受ける」

水月は言葉を区切った。

「ただし、勤務日は決め直す。仕入れ先と食材が重なるときは、静波の予約分を先に確保する。ここの道具も食材も、勝手には持ち出さん。静波で出した料理と似るときは、先に話す」

「分かりました」

「そっちの料理を、静波で使いたいときは、私が佐知さんに聞く」

佐知の表情が少し変わった。

「使うことがあるんですか」

「ええもんやったら」

「そのときは、私の名前も書いてください」

「当たり前や」

佐知は湯飲みへ目を落とした。

「ありがとうございます」

「まだ礼言うとこやない」

「では、何と言えばいいですか」

「条件、そっちも出したらええ」

二人は営業日と仕込み日を確認した。

佐知は火曜日と金曜日に静波へ入る。

月に二回の水曜日、潮路で料理を出す。

仕入れは、静波と重ならないよう、自分で別の発注をする。漁師から直接買うときは、代金と受け取り時刻を明確にする。

予約管理も会計も、佐知が行う。

「一人で十二人、ほんまに出せる?」

水月が尋ねる。

「やってみないと分かりません」

「一回、厨房で動く時間測った方がええ」

佐知は苦笑した。

「もう教えています」

「聞かれたから言うただけや」

「聞いていません」

水月は口を閉じた。

佐知が笑った。

「でも、それは試します」

営業日を二週間後に決めた。

告知は潮路の入口と、観光案内所の掲示板だけに出す。

大きく宣伝はしない。

予約が何人入るかも分からなかった。

店の名前は、まだ決めなかった。

献立表には、ただこう書くことになった。

川原佐知の昼ごはん。

その日の夜、佐知から海斗へ連絡が来た。

〈一時間、仕事として相談をお願いできますか〉

海斗は、依頼内容を確認した。

原価と売上の計算。

予約が何人を下回ると赤字になるのか。

厨房使用料を固定額にするか、売上に応じた割合にするか。

食材が予定より高くなった場合、価格を変えるべきか。

海斗は、相談料を伝えた。

佐知からすぐに返信が来た。

〈支払います〉

水月は、そのやり取りを横から見ていた。

「知り合いやのに、金取るん?」

「仕事として頼まれたから」

「一時間だけやろ」

「一時間でも仕事だよ」

「前は、何でも無料でしてたのに」

「だから、やめた」

海斗は、佐知から送られてきた計画書を開いた。

「水月も見る?」

「見ん」

「どうして?」

「私は料理以外、口出さん」

「本当に?」

「今のところは」

海斗は笑った。

相談は、翌日の夜に行われた。

佐知が二人の家へ来た。

海斗は食卓にノートパソコンを置き、数字を一つずつ確認した。

佐知は、十二人の予約が入る前提で食材を計算していた。

「予約が七人だった場合、食材は減らせますか」

海斗が尋ねる。

「前日までなら減らせます。でも、鯖は一尾で何人分と決まるので、完全には合わせられません」

「予約締切をいつにします?」

「二日前です」

「その時点で仕入れ量を決める?」

「はい」

「余った食材は?」

「自宅で使うか、翌日の静波で使わせてもらえるなら」

台所にいた水月が振り返った。

「静波で使う前提にはせんといて」

「はい」

佐知はすぐに書き直した。

「余ったときの処理まで、値段に入れた方がいいですか」

「廃棄が出る可能性は、最初から考えた方がいいと思います」

海斗は表へ新しい欄を作った。

「一番多く残る場合と、ほとんど残らない場合の両方を見ましょう」

佐知は画面を見つめた。

「思ったより、残りませんね」

「十二人満席なら。七人だと、佐知さんの時給はほとんど出ません」

「赤字ではない?」

「現金だけを見れば。でも、前日の仕込み時間を含めると、労働時間に対して少ないです」

「最初は、それでもいいです」

「何回までなら、それで続けますか」

佐知の手が止まった。

「何回まで?」

「最初だから安く働くという期間を、決めておいた方がいいです。決めないと、ずっと最初のままになるかもしれない」

水月は台所から二人を見た。

海斗が以前なら、自分で数字を直し、最適な価格を決め、こうすべきだと伝えただろう。

今は、佐知へ問い返している。

決めるのは佐知だった。

「三回」

佐知が言った。

「三回営業して、平均が八人を下回るなら、献立と価格を見直します」

「分かりました。書いておきましょう」

「六人以下なら?」

「佐知さんは、どうしたいですか」

「中止にはしたくありません」

「では、六人でも出す。赤字になった場合に負担できる上限を決める」

佐知は、しばらく考えて数字を書いた。

相談は予定より十五分長くなった。

海斗は追加料金を取らなかった。

佐知が帰ったあと、水月が言った。

「十五分、無料やったな」

「初回は少しくらい」

「そうやって増えるんちゃう」

「次から延長料金を決める」

「ほんまに?」

「今、料金表に追加する」

海斗はその場で画面を開いた。

水月は笑った。

佐知の昼営業は、十二席すべて予約で埋まった。

潮路へ泊まったことのある客が三組。

美代の知人が二人。

観光案内所の掲示を見た旅行者が四人。

残りは、中村文子と吉岡夫婦だった。

営業日の前日、佐知は静波へ来なかった。

仕込みはすべて、潮路で行うと決めていた。

水月は、一人で静波の昼営業をした。

予約は六人だけに減らした。

やろうと思えば、以前と同じ数を受けることはできた。

だが、夜の営業もある。

一人で無理をして、佐知がいないことを埋めるのは違うと思った。

最後の客を見送ったあと、静波の前で文子と会った。

「明日、佐知さんのご飯食べに行くんよ」

「聞いてます」

「水月さんも行くんやろ?」

「予約してません」

「何で?」

「一人でやりたいんちゃうかと思って」

文子は首を傾げた。

「客として行くんやったら、一人でさせることになるんちゃう?」

水月は、その意味を考えた。

厨房へ入らず、手も口も出さず、出された料理を食べる。

それは手伝うことではない。

佐知の仕事を奪うことにもならない。

「席、もうないやろ」

「私の隣、一つ空いてるで」

「十二人満席って聞いたけど」

「吉岡さんとこのご主人、急に病院の検査入ったんやて。一席減ったらしい」

水月は迷った。

「佐知さんに聞いてみたら?」

文子はそう言い、歩き去った。

水月は携帯電話を取り出した。

佐知への連絡画面を開く。

〈明日、一席空いたと聞きました。客として行ってもいいですか〉

送る前に、何度も読み返した。

客として。

その四文字が、言い訳のように見えた。

それでも、そのまま送った。

十分ほどして、返事が来た。

〈お待ちしています。厨房には入らないでください〉

水月は笑った。

〈分かりました〉

翌朝、静波は休みだった。

海斗は仕事があるため、潮路には水月一人で向かった。

午前十一時二十分。

潮路の入口には、小さな白い布が掛かっていた。

店名はない。

墨色の文字で、「川原佐知の昼ごはん」とだけ書かれている。

水月はその文字を見上げた。

佐知の筆跡ではない。

美代が書いたらしい、少し丸みのある文字だった。

戸を開けると、美代が出迎えた。

「いらっしゃい」

「佐知さんは?」

「厨房。朝からずっとしゃべらん」

食堂には、二人掛けの机が六つ並んでいた。

普段、潮路の朝食を出す部屋である。

窓の向こうに海が見える。

水月は文子の隣へ案内された。

「緊張してる?」

文子が尋ねる。

「私が?」

「佐知さんが」

「してるやろ」

「水月さんもしてるように見えるで」

水月は返事をせず、卓上の献立表を手に取った。

川原佐知の昼ごはん。

焼き鯖と香味野菜の混ぜご飯。

蒸し鶏と無花果の白和え。

南瓜のすり流し。

胡瓜と梨の甘酢漬け。

生姜寒天。

献立の下に、小さく書かれていた。

調理 川原佐知。

協力 安藤美代。

水月の名前はなかった。

当然だった。

それでも、そのことを確かめて、胸の奥が少し痛んだ。

午前十一時半、美代が入口を閉めた。

予約客は十一人。

吉岡の夫が来られなくなったため、一席空いている。

佐知が厨房から出てきた。

白い調理着ではなく、淡い茶色の上着を着ている。前掛けは深い緑色だった。

静波で働くときとは、まるで違う姿に見えた。

「本日は、お越しいただきありがとうございます」

声は少し硬い。

「料理は順番にお持ちします。急がず、お召し上がりください」

短く頭を下げ、厨房へ戻る。

最初に、南瓜のすり流しが運ばれてきた。

冷たい器だった。

水月は匙ですくう。

南瓜の甘さのあとに、わずかな酸味がある。

「これ、何が入ってるんやろ」

文子が尋ねる。

水月は分かっていた。

ヨーグルトだと思う。

だが、答えなかった。

「佐知さんに聞いたらええ」

一口飲む。

静波では出さない味だった。

出汁を前へ出さず、南瓜の甘さを残している。

水月なら、もう少し塩を加える。

そう考えたあと、口を閉じた。

次に、蒸し鶏と無花果の白和えが運ばれた。

豆腐の衣に、白味噌が入っている。

無花果は大きく切られ、蒸し鶏には黒胡椒が振られていた。

文子が一口食べた。

「面白い味やな」

隣の席の女性も、白味噌と胡椒が合うと話している。

水月は、もう一口食べた。

最初に計画書を見たとき、甘くなりすぎると思った。

実際には、黒胡椒が無花果と白味噌の間を切っている。

悔しいとは思わなかった。

驚いた。

佐知は、試作の段階からその味を決めていたのだろう。

厨房で、器のぶつかる音がした。

続いて、美代の声が聞こえる。

「一枚、割れた」

食堂の会話が一瞬止まった。

水月は立ち上がりかけた。

すぐに座り直す。

文子が横目で見た。

「行かんの?」

「行かへん」

「気になるやろ」

「気になる」

厨房から、佐知の声がした。

「大丈夫です。予備を使います」

美代が割れた器を片づける音がする。

しばらくして、焼き鯖と香味野菜の混ぜご飯が運ばれてきた。

十一人分の器は揃っていなかった。

水月と文子の前には、白い浅鉢。

別の卓には、青い茶碗が置かれている。

佐知は揃わない器を隠そうとしなかった。

「器が一枚割れたため、一部、違う器でお出ししています」

客の一人が笑った。

「味は変わらんやろ」

「はい。変わりません」

佐知も少し笑った。

緊張が、ようやくほどけたように見えた。

水月は混ぜご飯を食べた。

焼いた鯖の脂。

大葉、茗荷、胡麻。

酢飯ではなく、温かいご飯に梅酢を少し混ぜてある。

食べ進めると、底から刻んだ沢庵が出てきた。

食感が変わる。

十二人分を一度に盛っても、味が落ちにくい。

冷めても食べられる。

一人で出すために考えた料理だった。

ただ、効率のためだけではない。

佐知が、客にどう食べてほしいのかが伝わった。

「静波と、ずいぶん違うな」

文子が言った。

水月は箸を止めた。

厨房へ声が届いたかもしれない。

文子は悪い意味で言ったのではない。

だが、水月は佐知の表情が気になった。

しばらくして、佐知が食堂へ出てきた。

空いた器を下げながら、文子へ尋ねる。

「お口に合いませんでしたか」

「違う違う。水月さんとこのご飯は、魚と出汁がまっすぐ来るやろ。佐知さんのは、途中で味が変わる。食べてて楽しいわ」

佐知は、少しだけ肩の力を抜いた。

「ありがとうございます」

別の客が言った。

「静波で教わったんですか」

佐知は一瞬、答えを探した。

水月は口を挟まなかった。

「魚の扱いと、出汁の基本は、静波で多く学びました」

佐知は答えた。

「でも、今日の献立は、自分で考えました」

「そうなんですね」

客はそれ以上、何も尋ねなかった。

佐知は水月を見た。

水月は、小さくうなずいた。

最後に、生姜寒天が出た。

透明な寒天の中に、細く切った梨が入っている。

甘さは控えめだった。

食べ終える頃には、食堂の空気が和らいでいた。

客たちは、次回の営業日を尋ねた。

佐知は、まだ決めていないと答えた。

「今日の片づけと計算をしてから、次を決めます」

満席だからといって、その場で次の予定を入れない。

水月は、その答えを聞いていた。

客を見送ったあと、水月は食堂に残った。

文子は先に帰った。

美代が入口を閉める。

「水月さん、厨房へ入りたい顔してるで」

「入ってええ?」

「佐知さんに聞き」

水月は厨房の戸口へ立った。

佐知は洗い場で、皿をすすいでいる。

割れた器は新聞紙に包まれ、床の隅へ置かれていた。

「入ってもええ?」

水月が尋ねる。

佐知は振り返った。

「もう営業は終わりましたから」

「手伝う?」

「大丈夫です」

「ほな、ここで待つ」

水月は厨房へ入らず、食堂の椅子へ座った。

三十分ほどして、佐知が前掛けを外した。

疲れた顔をしている。

水月の向かいへ座り、水を一杯飲んだ。

「どうでしたか」

佐知が尋ねた。

「何を聞きたい?」

「料理です」

「一個だけでええ?」

「全部聞きたいです」

水月は献立表を見た。

「南瓜は、私はもう少し塩があってもええと思った。でも、あの甘さが好きな客もおる」

「はい」

「白和えは、思ってたよりよかった」

「思ってたより?」

「計画書見たとき、甘くなりすぎると思った。黒胡椒で切ったんやな」

「最後まで迷いました」

「混ぜご飯は、出すのも早かった。冷めても崩れへん。沢庵、よかった」

佐知は一つずつ、手帳へ書いた。

「寒天は?」

「梨が細すぎる。寒天と一緒に飲み込んでしまう。もう少し厚みがあった方が、梨の食感が残る」

佐知の鉛筆が止まった。

「私も、そう思いました」

「なら、次は変えたらええ」

水月は、割れた器の包みへ目を向けた。

「器、怪我せんかった?」

「はい。盛りつけ台から落としました」

「何で?」

「混ぜご飯の器を先に並べすぎて、白和えを下げた皿を置く場所がなくなりました」

「次は?」

「一度に全部並べません。六人分ずつにします」

「うん」

佐知は手帳を閉じた。

「水月さん」

「何?」

「自分で出してみて、よかったです」

「うん」

「怖かったです。最初の料理を運んだとき、全部持って帰って、なかったことにしたくなりました」

「客、もう座ってたやろ」

「だから、できませんでした」

佐知は苦笑した。

「満席になったのも嬉しい。でも、次も同じだけ来るとは限らないと思っています」

「来ん日もある」

「はい」

「今日来た人が、次は違うと思うかもしれん」

「はい」

「それでも続けたい?」

佐知はすぐには答えなかった。

厨房では、美代が床を拭いている。

窓の外で、午後の海が揺れていた。

「次を、もう一度やりたいです」

佐知は言った。

「その先は、まだ分かりません」

「それでええんちゃう」

水月は立ち上がった。

「会計も、自分でするんやろ」

「はい」

「計算合わんかったら、海斗に金払って聞き」

「そうします」

美代が厨房から顔を出した。

「私には聞かんの?」

「美代さん、朝の宿代でも合わない日があるでしょう」

佐知が言った。

「最後には合う」

「海斗さんへ聞きます」

三人で笑った。

家へ戻ると、海斗は仕事を終えたところだった。

「どうだった?」

玄関で尋ねられた。

水月は靴を脱ぎながら答えた。

「おいしかった」

「それだけ?」

「器、一枚割った」

「佐知さんが?」

「怪我はしてへん」

「なら、よかった」

海斗は台所へ向かった。

夕食には、冷蔵庫に残っていた鯵を焼くつもりらしい。

水月は食卓へ、佐知の献立表を置いた。

海斗が手に取る。

「名前が書いてあるね」

「うん」

「水月の名前はない」

「ないで」

「寂しかった?」

水月は椅子へ座った。

「少し」

正直に答えた。

「でも、なくてよかった」

海斗は献立表を戻した。

「静波の日数、どうする?」

「十一月から、佐知さんは週二日」

「予約を減らす?」

「金曜の夜を、月二回休みにする」

「売上は下がるね」

「下がる」

「大丈夫?」

「計算する」

水月は海斗を見た。

「仕事として、頼んでもええ?」

「もちろん」

「金は払う」

「家計の中で動くだけじゃない?」

「それでも、仕事やろ」

海斗は笑った。

「分かった。見積もりを出す」

数日後、静波の入口へ新しい営業予定を掲げた。

十一月から、月二回、金曜日の夜を休む。

予約を入れようとした客には、別の日を案内する。

電話口で残念そうにされることもあった。

「前は金曜の夜も開いてましたよね」

そう言われるたび、水月は説明した。

「営業日を見直しました」

人手が足りないとは言わなかった。

佐知が別の仕事を始めたとも言わなかった。

静波が、自分たちで選んだ営業日へ変わるだけだった。

佐知の二回目の昼営業は、十月の終わりに決まった。

予約は九人だった。

最初より三人少ない。

佐知は中止しなかった。

献立表には、前回と同じように自分の名前を書いた。

水月は予約しなかった。

今度は静波の営業日だった。

昼の片づけをしていると、佐知から写真が届いた。

少し厚く切った梨の入った生姜寒天。

前回とは違う器に盛られている。

〈今日は器を割りませんでした〉

水月は写真を見て笑った。

〈梨、今度は食感残った?〉

返事が来る。

〈残りました。ただ、厚すぎるという方もいました〉

水月は入力した。

〈次、また変えたらええ〉

送信してから、携帯電話を伏せた。

厨房には、水月一人だった。

佐知がいない日は、以前より静かに感じる。

寂しくないわけではない。

けれど、その静けさは、誰かに置いていかれたあとの空白ではなかった。

佐知は別の厨房で、自分の料理を出している。

陸は京都で、賄いの汁物を作っている。

海斗は家の仕事部屋で、誰かの設計を支えている。

それぞれが別の場所にいる。

同じ場所にいないことは、つながりが消えることではなかった。

水月は静波の暖簾を外した。

紺色の布を畳み、棚へ置く。

次の営業日に、また掛けるためだった。


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