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『静波の寄せる場所』  作者: 久遠 睦


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29/31

第29章 引き受けない責任

十一月の月曜日、海斗が仕事用の画面を開くと、未読の通知が四十七件あった。

午前八時四十五分。

始業まで、あと十五分ある。

夜間に障害が起きたわけではない。

通知の大半は、複数の開発チームから寄せられた相談だった。

〈この設計で問題がないか、相沢さんに確認してほしいです〉

〈明日の顧客説明までに、技術的な見解をいただけませんか〉

〈原因が分からないため、調査をお願いできますか〉

〈相沢さんなら以前、似た事例を見たことがあると思います〉

海斗は、一つずつ内容を開いた。

設計書が添付されているもの。

不具合の記録だけが貼られているもの。

「急ぎです」と書かれているが、期限が示されていないもの。

担当者の名前さえ書かれていないものもあった。

七月に専門職の等級へ移ってから、四か月が過ぎていた。

人事評価や勤怠管理を担わず、技術判断と複数チームの設計支援に集中する。

それが、会社から説明された役割だった。

最初の一か月は、理想に近かった。

会議の数が減り、代わりに設計書を読む時間が増えた。経験の浅い開発者と一緒に構成を考え、問題が起きる前に危険な箇所を見つける。

管理職にならなくても、これまでの経験を組織へ返せる。

海斗は、その働き方を選んでよかったと思っていた。

ところが、少しずつ相談の形が変わった。

初めは、判断に迷う点を尋ねる連絡だった。

やがて、設計書全体の確認を求められるようになった。

その次には、不具合の調査そのものが回ってきた。

期限に間に合わない作業を、「技術支援」という名目で引き取ることも増えた。

各チームに所属している仕事ではないため、海斗の予定表には、正式な作業として登録されない。

相談へ答えれば答えるほど、本来予定していた設計支援の時間が削られた。

先週は、依頼への対応だけで二十二時間を使った。

自分の担当として予定されていた仕事は、夕方以降へ押し出された。

金曜日には午後九時まで働いた。

水月には、少し遅くなるとだけ伝えた。

海斗は未読通知の一つを開いた。

顧客情報を管理する新しい機能について、公開前の確認を求める依頼だった。

公開日は、今週の金曜日。

設計書には、更新処理が失敗した場合の対応が書かれていない。

一定の条件で通信が途切れると、同じ顧客情報が二重に登録される恐れがあった。

海斗は、依頼を送った開発者へ返信した。

〈重複登録を防ぐ制御と、処理失敗時の再実行方法が必要です。設計担当者を含めて、今日中に三十分の確認時間を取りましょう〉

数分後、開発チームの責任者である石田から返事が来た。

〈修正範囲が大きい場合、相沢さんの方で対応いただくことは可能でしょうか。チームは試験対応で手が塞がっています〉

海斗は文章を見つめた。

重複を防ぐ処理は、実装方法さえ決まれば、それほど難しくない。

自分で書けば、半日もかからないだろう。

確認環境での試験を含めても、二日あれば終わる。

一方で、その機能の内部を最も理解しているのは、石田のチームだった。

海斗が引き取れば、早く終わるかもしれない。

だが、次に同じ問題が起きたとき、彼らはまた海斗を呼ぶことになる。

返信欄へ文字を入力する。

〈対応可能です〉

そこまで書いたところで、指を止めた。

以前の会社でも、何度も同じ返事をした。

自分がやった方が早い。

顧客を待たせるよりよい。

チーム全体のためになる。

その判断は、一回ごとに見れば間違っていなかった。

けれど、それを続けた結果、海斗にしか分からない仕事が増え、彼が動けなくなった夜には、西田が代わるしかなかった。

海斗は入力した文章を消した。

〈実装を私が引き取ることはできません。設計と確認方法は一緒に整理します。修正作業は、機能を担当しているチームでお願いします。現在の公開日に間に合わない場合は、公開日の変更も含めて判断してください〉

送信ボタンを押す。

胸の奥が大きく脈打った。

すぐに石田から返事が来る。

〈納期変更は、顧客へ説明できません〉

海斗は時計を見た。

まだ始業前だった。

〈説明できるかどうかを含め、責任者間で判断してください。技術的には、現状のまま公開することは勧められません〉

返信を終え、海斗は椅子へ深く座った。

指先が冷えている。

断っただけだった。

それでも、重大な仕事を放棄したような気がした。

九時になると、藤崎から通話が入った。

「おはよう。石田さんのところ、何かあった?」

「公開予定の機能に、重複登録の可能性があります」

「相沢さんが直すのは難しい?」

海斗は一瞬、答えに詰まった。

藤崎まで同じことを尋ねるとは思わなかった。

「技術的には直せます」

「それなら、お願いできないかな。顧客との約束があるらしい」

「僕が引き取れば、今週予定していた二つの設計確認が遅れます」

「そちらは来週でも大丈夫でしょう」

「片方は来週、公開予定です」

「では、優先順位をつけよう。石田さんの方が、顧客への影響は大きそうだ」

藤崎の声は穏やかだった。

命令ではなく、調整を提案しているように聞こえる。

だからこそ、断りにくかった。

「藤崎さん」

「うん」

「この四か月で、僕が依頼を受けた件数を把握していますか」

通話の向こうが静かになった。

「正確には、分からない」

「先月は三十一件です。そのうち、設計相談として予定へ入っていたのは九件でした」

「残りは?」

「不具合調査が八件。実装の代行が五件。顧客説明の資料確認が四件。そのほかが五件です」

海斗は昨夜、依頼の履歴を数えていた。

数え始めたのは、仕事量を訴えるためではない。

自分の疲れが、単なる気の持ちようなのか確かめたかったからだった。

「そんなに来ていたのか」

藤崎が言った。

「連絡経路が決まっていません。各チームが、直接僕を指定しています」

「断ってもいいんだよ」

「依頼した側は、断られる前提で送っていません」

海斗は画面に並ぶ通知を見た。

「専門職になってから、相沢さんに確認済み、という言葉が承認の代わりに使われ始めています。僕が短い返事をしただけでも、設計全体を承認したことにされる場合があります」

「それは困るな」

「困ります」

以前なら、最後の言葉を弱めただろう。

少し心配です。

見直した方がよいかもしれません。

相手が受け取りやすい形へ変えたはずだった。

今は、そのまま言った。

「石田さんの件は、どうする?」

藤崎が尋ねる。

「設計の確認会には参加します。修正は担当チームで行ってもらいます。人が足りないなら、公開日か対象範囲を変えるべきです」

「顧客へは、私から話そうか」

「石田さんと一緒にお願いします」

「分かった」

通話が終わる。

海斗は息を吐いた。

肩に力が入っている。

仕事部屋の窓を少し開けると、冷たい風が入った。

庭では、大葉がほとんど枯れていた。

虫に食べられた葉を取り除いたあと、新しい芽が出たものの、秋の冷え込みには耐えられなかった。

昼前、石田のチームとの確認会が始まった。

参加者は六人だった。

石田、設計担当者、実装担当者、試験担当者。藤崎と海斗。

海斗は、問題が起きる条件を画面に示した。

「処理の途中で通信が切れた場合、利用者はもう一度登録ボタンを押します。最初の処理が裏側で完了していると、同じ顧客が二件登録されます」

設計担当者が言った。

「その確率は、かなり低いと思います」

「低いことと、起きないことは違います」

「でも、今までの試験では発生していません」

「通信を途中で切る試験をしていないからです」

試験担当者が、手元の資料をめくった。

「その観点は入っていませんでした」

石田が尋ねた。

「今から追加すると、何日必要ですか」

実装担当者が答える。

「設計を変えて、試験をやり直すなら、最低でも五営業日は欲しいです」

「金曜日には間に合わない」

「はい」

石田が海斗を見る。

「相沢さんが実装すれば、短くなりますか」

参加者全員の視線が集まった。

「僕が書いても、試験期間は短くできません」

「実装だけなら?」

「担当者が理解しないまま、僕が外から修正する方が危険です」

石田は黙った。

海斗は続けた。

「公開する機能を、顧客登録以外に限定できませんか」

「顧客は一式での公開を求めています」

「求めていることと、安全に出せることは別です」

言葉にしたあと、海斗は自分の心臓が速く動いているのを感じた。

正しいことを言っている。

それでも、場の空気を悪くした責任が自分にあるように思える。

藤崎が話を引き取った。

「公開対象を分ける案を、営業も含めて検討しましょう。技術側は、修正に五営業日必要という前提で計画を出してください」

石田がうなずいた。

会議の終了後、設計担当者から個別に連絡が来た。

〈先ほどはありがとうございました。自分では問題に気づけませんでした〉

海斗は返信した。

〈次から確認できるよう、試験項目へ追加しましょう。修正案ができたら、担当者全員で確認してください〉

〈相沢さんに直接送ればよいですか〉

海斗は一度、手を止めた。

〈チーム内で確認したうえで、正式な設計相談の窓口から送ってください〉

冷たく感じられるかもしれない。

だが、直接送られた仕事をすべて受ければ、元へ戻る。

海斗はそのまま送信した。

午後六時、仕事を終えようとしたところで、三浦から通話が入った。

「今、少しだけいいですか」

声が急いでいた。

「何があった?」

「監視画面で、処理の遅延が出ています。まだ利用者への影響はないんですけど、数値が上がっていて」

「今日の当番は?」

「僕です。責任者は石田さんです」

海斗は画面を見た。

三浦から共有された監視記録には、確かに応答時間の上昇が出ている。

ただし、緊急障害と判断する基準には達していない。

「手順書は確認した?」

「しました。最初の二つは実行しました。でも、改善しません」

「石田さんには?」

「連絡したんですけど、まだ返事がありません」

海斗の指が、無意識にキーボードへ伸びた。

自分で調査すれば、原因を見つけられるかもしれない。

画面を共有し、記録を絞り込み、必要なら処理を止める。

以前なら、三浦へ「代わる」と言っていただろう。

「三浦さん」

「はい」

「今、僕へ何を頼みたい?」

通話の向こうで、三浦が黙った。

「調査を代わってほしいのか、判断を一緒にしてほしいのか」

「判断を、一緒にしてほしいです」

「分かった。二十分だけ見る。そのあとは、当番責任者へ引き継ごう」

海斗は時間を明確にした。

「はい」

二人で監視記録を確認する。

遅延は、特定の処理だけに集中していた。

利用者が急増したわけではない。

外部のサービスから返事が来るまでの時間が伸びている。

「三浦さんは、何が原因だと思う?」

「外部との通信です」

「根拠は?」

「内部処理の時間は変わっていません。外部への接続以降だけが伸びています」

「では、次に何を確認する?」

「外部サービスの稼働状況と、こちらの接続数です」

三浦が自分で画面を切り替えた。

外部サービスの案内に、一時的な遅延が掲載されている。

「原因はこれだと思います」

「対応は?」

「手順書では、一定時間を超えたら待機処理へ切り替える設定があります」

「誰が実行できる?」

「当番の僕に権限があります」

「判断基準は満たしてる?」

三浦は数値を確認した。

「あと少しです」

「なら、今は監視を続けよう。基準を超えたら、手順通りに切り替える。石田さんへの連絡も残しておいて」

「相沢さんは?」

「僕はここで抜ける」

三浦の声が不安そうになった。

「もし、そのあと数値が急に上がったら」

「手順書の緊急連絡先へ電話する。僕は今日の当番ではない」

「分かりました」

「不安なら、今の判断を記録へ書いておいて。あとから誰が見ても、何を根拠に待ったか分かるように」

「はい」

海斗は通話を終えた。

時刻は午後六時二十七分。

仕事用の画面を閉じる。

胸が落ち着かなかった。

三浦が判断を誤るかもしれない。

遅延が急に悪化するかもしれない。

自分が離れたあとに障害になれば、最後まで見なかったことを責められるかもしれない。

海斗はもう一度画面を開こうとした。

そのとき、仕事部屋の戸が軽く叩かれた。

「終わった?」

水月が立っていた。

「今、少し問題が出てる」

「まだ仕事するん?」

「当番の人に任せた。でも、心配で」

「海斗が見なあかんの?」

「僕が見れば、早いかもしれない」

水月は仕事部屋へ入らず、戸口に立ったまま尋ねた。

「見たい?」

「見たいわけじゃない」

「ほな、何で見るん」

「問題になったら困るから」

「誰が?」

海斗は答えに詰まった。

会社。

利用者。

三浦。

藤崎。

自分。

すべてが浮かんだ。

「誰かが困らんように、全部あんたが見てたら、あんたが困るんちゃう」

「でも、放っておくのも違う」

「任せたんやろ」

「うん」

「任せるんと、放っておくんは同じなん?」

海斗は、閉じた画面を見た。

三浦と一緒に原因を確認した。

判断基準も、次の行動も整理した。

連絡先も伝えた。

何もせず離れたわけではない。

「違う」

海斗は言った。

「なら、今日は終わったんちゃう」

水月は居間へ戻った。

海斗は椅子へ座ったまま、数分待った。

仕事用の携帯電話は鳴らない。

鳴らないことを確かめ続ければ、結局、仕事を続けているのと同じだった。

端末の電源を切り、机の引き出しへ入れた。

居間へ行くと、食卓に鰤大根が置かれていた。

「今日は、話せるけど疲れた」

海斗は座りながら言った。

水月が顔を上げる。

「お母さんとの約束?」

「母だけに使う言葉じゃないと思って」

「話す?」

「食べてからでいい」

「分かった」

大根へ箸を入れる。

出汁を吸い、中心まで色が変わっている。

海斗は一口食べた。

温かかった。

食事を終えたあと、海斗は今日あったことを話した。

石田の仕事を引き取らなかったこと。

藤崎へ、依頼件数を伝えたこと。

三浦の対応を途中で任せたこと。

「全部、断ったみたいやな」

水月が言った。

「そう聞こえる?」

「でも、何もせえへんかったわけやないんやろ」

「設計は確認した。三浦とは原因を探した」

「ほな、仕事はしてる」

「最後までやってない」

「最後までって、どこまで?」

海斗は答えられなかった。

不具合が直るまで。

公開が終わるまで。

顧客が納得するまで。

次の問題が起きなくなるまで。

最後をそう定めれば、仕事はいつまでも終わらない。

水月は鰤の骨を皿の端へ寄せた。

「店も同じやで」

「何が?」

「客が来るかもしれんと思ったら、暖簾を外せへん。腹減った人が一人もおらんようになるまで開けるなら、店は閉められへん」

「水月は、時間で閉めてる」

「うん。まだ食べたい人がおっても、閉める」

「冷たいと思われない?」

「思う人はおるやろ」

「それで平気?」

「平気やない日もある」

水月は即答した。

「でも、閉める」

海斗はその言葉を聞き、引き出しに入れた端末のことを考えた。

午後八時過ぎ、個人用の携帯電話へ三浦からメッセージが届いた。

〈遅延が基準を超えたため、待機処理へ切り替えました。数値は改善しています。石田さんにも引き継ぎました。ありがとうございました〉

海斗は短く返信した。

〈対応、お疲れさまでした。明日、記録を一緒に確認しましょう〉

それ以上は尋ねなかった。

翌朝、仕事用の端末を開く。

夜間の記録には、三浦が行った判断と対応が時系列で残っていた。

外部サービスの復旧後、待機処理を元へ戻したこと。

利用者への影響がなかったこと。

石田が最終確認したこと。

海斗の名前は、相談相手として一度だけ書かれていた。

対応責任者ではなかった。

それを見て、安堵した。

同時に、わずかな寂しさもあった。

自分がいなくても終わった。

それは望んでいたことのはずなのに、自分の価値が減ったように感じる。

海斗はその感情を消そうとしなかった。

三浦との振り返りでは、まず記録の書き方を褒めた。

「判断した理由が残っているから、あとから確認しやすい」

「途中で相沢さんが抜けたときは、正直、怖かったです」

三浦が言った。

「ごめん」

「でも、やるしかないと思いました」

「任せられて、困った?」

「困りました」

三浦は少し笑った。

「でも、一人でやったわけではありません。手順書もありましたし、石田さんも途中から入りました」

「次は、僕への連絡がなくてもできそう?」

「同じことなら。でも、別の原因なら相談します」

「そのときも、まず自分の見立てを教えて」

「はい」

振り返りを終えたあと、藤崎から会議の招待が届いた。

件名は、専門職の依頼経路について。

参加者には、人事担当者と開発部長の名前もあった。

会議は、三日後に設定された。

海斗は、その日までに資料を作った。

月ごとの相談件数。

予定されていた仕事と、突発的な依頼の割合。

依頼を受けた時刻。

対応に使った時間。

自分が実装まで引き取った場合と、担当チームへ戻した場合の違い。

三か月分を並べると、傾向は明らかだった。

相談件数は、月ごとに増えている。

特に、午後五時以降の依頼が多い。

内容が曖昧な依頼ほど、海斗が担当者を探し、状況を聞き、問題を整理する時間が増えていた。

水月は、海斗が食卓で資料を見直しているのに気づいた。

「それ、仕事?」

「会議の準備」

「何時?」

「今は八時半」

「勤務時間外やろ」

「明日は別の予定があるから」

水月は何も言わず、食卓の時計を海斗の方へ向けた。

「三十分だけ」

海斗は言った。

「自分で決めたん?」

「うん」

「ほな、三十分で閉じたらええ」

水月は台所へ向かった。

海斗は時計を横に置き、資料を読み始めた。

修正したい箇所は次々に出てきた。

図を分かりやすくしたい。

数字の根拠を追加したい。

想定される反論も書いておきたい。

三十分後、時計の針が九時を指した。

海斗は、まだ途中の資料を保存した。

画面を閉じる。

完成していない。

けれど、明日の勤務時間内に続ければよい。

会議当日、人事担当者は資料を読みながら尋ねた。

「専門職は、部門を横断して技術支援をする役割ですよね」

「はい」

「依頼を絞りすぎると、制度を作った意味が薄くなりませんか」

海斗は、予想していた質問だと思った。

「支援を減らしたいわけではありません。支援する対象と責任の所在を明確にしたいです」

「責任の所在?」

「設計相談をしたあと、その機能に問題が起きた場合、僕が承認したから大丈夫だと受け取られることがあります。しかし、僕にはチームの作業を止める権限も、担当者の配置を変える権限もありません」

開発部長が腕を組んだ。

「だから、権限を増やしてほしいという話ですか」

「違います」

海斗は答えた。

「最終判断は、その製品を担当する責任者が持つべきです。僕は技術的な見解を出しますが、公開を決定する人ではありません」

「責任を負いたくないようにも聞こえる」

その言葉に、胸の奥が冷たくなった。

以前の海斗なら、誤解を解くために、自分が責任感のある人間だと証明しようとしただろう。

これまで対応した障害の数を挙げ、自分がどれほど会社を支えてきたか説明したかもしれない。

海斗は一度、息を吐いた。

「負える責任と、負えない責任を分けたいです」

会議室が静かになった。

「今は、相談へ答えた人が、実装と運用の責任まで負う形になっています。それでは、相談を受けるほど仕事が増え、最後には誰も専門職を選ばなくなります」

人事担当者が資料を見た。

「具体的には、どう変えたいですか」

海斗は提案を示した。

相談は、専用の窓口から受け付ける。

依頼者、担当チーム、期限、相談したい点を必ず書く。

チーム内で一度確認したものだけを送る。

海斗が同時に受ける設計相談は、三件まで。

超えた場合、藤崎と各責任者が優先順位を決める。

実装は、原則として担当チームが行う。

緊急障害への参加は、当番責任者から正式な要請があった場合に限る。

専門職一人を、すべての製品の予備要員にはしない。

「同時に三件というのは、少なくないですか」

開発部長が尋ねた。

「一件の大きさによります。最初は三件で試し、処理時間を見て調整したいです」

「緊急時に、窓口を通す余裕はないでしょう」

「緊急障害は別です。ただし、緊急という言葉を、通常の納期遅れには使わないでください」

石田の件を意識した言葉だった。

「顧客との約束も、緊急性があります」

「公開日が近いことは、障害ではありません」

海斗は、はっきり答えた。

開発部長の表情が硬くなる。

藤崎が口を開いた。

「三か月、試験運用にしませんか」

全員が藤崎を見る。

「相沢さんの提案で依頼を整理し、対応件数と解決までの時間を測ります。支援が遅れるなら見直す。逆に、今より効率が上がるなら正式な仕組みにする」

人事担当者がうなずいた。

「それなら、判断材料になりますね」

開発部長はしばらく黙ったあと、答えた。

「試すだけなら構いません。ただ、顧客影響が出る場合は柔軟に対応してください」

海斗は、その言葉へすぐに同意しなかった。

「柔軟に、という範囲も記録へ残してください」

開発部長が海斗を見る。

「細かいですね」

「曖昧なままだと、元へ戻るので」

短い沈黙のあと、藤崎が言った。

「運用条件は、私がまとめます」

会議は予定より二十分長くなった。

終了後、海斗は椅子へ座ったまま、しばらく動けなかった。

手のひらに汗をかいている。

藤崎だけが会議室へ残った。

「疲れた?」

「はい」

海斗は大丈夫と言わなかった。

藤崎は向かいの椅子へ座った。

「気づくのが遅くなって、申し訳なかった」

「何にですか」

「専門職を作れば、それで解決すると思ってた。管理職にしなければ、相沢さんは技術へ集中できると」

「僕もそう思っていました」

「肩書きを変えても、仕事の渡し方を変えなければ同じだね」

海斗は会議資料を閉じた。

「僕も、受けすぎました」

「断りにくかった?」

「最初は、頼られるのが嬉しかったです」

正直に答えた。

「自分にしかできない仕事があると、役割を認められた気がしました」

「今は?」

「同じ気持ちはあります」

海斗は少し考えた。

「でも、自分にしかできない状態を作ることと、専門性があることは違うと思います」

藤崎はうなずいた。

「三か月、やってみよう。困ったら、私にも早めに言って」

「藤崎さんが忙しそうでも?」

「忙しいときは、忙しいと言う。そのあとで、いつ話せるか決める」

海斗は、その答えを聞いて笑った。

「分かりました」

新しい窓口が運用を始めると、最初の一週間は混乱した。

必要事項を書かずに依頼したチームから、不満が出た。

「前は、相沢さんへ直接聞けばすぐに答えてくれた」

「書類を作る時間が無駄だ」

「簡単な質問まで窓口を通す必要があるのか」

海斗は、簡単な質問には直接答えてもよいという例外を作りたくなった。

だが、簡単かどうかを判断するだけでも、内容を読む必要がある。

質問に答えるための調査が始まれば、そこから仕事になる。

海斗は、直接届いた連絡へ同じ文章を返した。

〈相談窓口へ、担当者と確認したい点を記載してください。内容を確認後、対応時期をお知らせします〉

冷たいと思われるかもしれない。

融通が利かないと言われるかもしれない。

実際、石田からは藤崎へ、「専門職へ相談しにくくなった」と苦情が入った。

藤崎は海斗へ、そのまま伝えた。

「どうする?」

「相談しにくいのは、問題です」

「元へ戻す?」

「戻しません」

海斗は答えた。

「書く項目が多すぎるなら減らします。窓口の使い方も説明します。でも、直接依頼へ戻せば、同じことになります」

「では、説明会をしようか」

「僕がやります」

「一人で?」

海斗は言葉を止めた。

また自分だけで引き受けようとしている。

「藤崎さんにも参加してもらえますか。制度としての責任は、管理側にあります」

「分かった」

説明会では、依頼書を書く目的を伝えた。

海斗の予定を守るためだけではない。

相談する側が、何に困っているのか整理するためでもある。

実際、窓口へ入力する途中で、自分たちの確認不足に気づき、依頼を取り下げたチームもあった。

三週間が過ぎる頃には、相談件数が減った。

同時に、海斗が一件へ使える時間は増えた。

短い返事だけで終わらせず、担当者と一緒に設計の理由を確認できる。

実装を引き取らなくても、チームが自分たちで修正するまで見届けられる。

金曜日の午後、三浦から設計相談が届いた。

以前なら、海斗へ直接連絡していただろう。

今回は窓口を使い、担当者、期限、自分たちで検討した案、判断に迷っている点まで書かれている。

海斗は内容を読み、三十分の相談時間を入れた。

会議で、三浦が二つの案を説明する。

「相沢さんなら、どちらにしますか」

「三浦さんは?」

「二つ目です」

「理由は?」

「障害が起きたとき、処理を戻しやすいからです。一つ目の方が速いですけど、失敗したあとの状態が分かりにくい」

「では、二つ目でいいと思います」

「それだけですか」

三浦が少し驚いた。

「何か、ほかに不安がある?」

「もっと修正されると思ってました」

海斗は設計書をもう一度見た。

以前の自分なら、命名や配置、細かな書き方まで直したかもしれない。

だが、そこは三浦たちが選んだ方法だった。

問題が起きたときに戻せる。

理由も説明できている。

「僕の書き方と違うところはある。でも、間違いではない」

「このままでいいんですか」

「このまま進めて、試験結果を見せてください」

三浦はうなずいた。

会議は、予定より五分早く終わった。

海斗は空いた五分を、別の仕事で埋めなかった。

椅子から立ち上がり、台所へ行った。

湯を沸かし、茶を淹れる。

窓の外には、冬の低い雲が広がっていた。

午後五時半、仕事を終える。

未読通知は三件残っていた。

すべて、翌日で間に合う内容だった。

海斗は画面を閉じた。

仕事用の携帯電話を机の引き出しへ入れる。

その夜、静波は休みだった。

佐知が潮路で料理を出す日ではない。

水月が営業日を減らすと決めた、月二回の金曜日だった。

二人は家で、白菜と鶏肉の鍋を作った。

海斗が白菜を切り、水月が出汁を用意する。

「今日、早いな」

水月が言った。

「五時半で終わった」

「仕事、減った?」

「依頼は減った。でも、必要な相談には前より時間を使えてる」

「会社、困ってへんの?」

「困ってる人はいると思う」

「それでも帰ってきたんやな」

「うん」

鍋が煮える。

蓋の隙間から、白い湯気が上がった。

海斗は白菜を取り、器へ入れた。

「店、今日開けてほしいって電話あった?」

「昼に二件」

「何て答えたの?」

「休みですって」

「それだけ?」

「それだけ」

水月は鶏肉を裏返した。

「一組は、遠くから来た人やった」

「断るの、嫌だった?」

「嫌やった」

「開けようと思った?」

「少し」

「でも、開けなかった」

「うん」

水月は海斗の器へ、煮えた葱を入れた。

「休んだ分、売上は減る。でも、今日家で鍋食べられる」

「どっちが得なんだろう」

「金だけなら、店開けた方やろ」

「それでも休む?」

「毎回は休まん。でも、今日は休む日やった」

海斗は葱を食べた。

熱くて、すぐには飲み込めなかった。

窓の外で、何か白いものが落ちた。

最初は、潮を含んだ雨かと思った。

やがて、庭の石へ小さな粒が残る。

「雪?」

海斗が立ち上がる。

水月も窓へ近づいた。

今季最初の雪だった。

積もるほどではない。

海へ落ちるものは、触れる前に形を失っている。

家の屋根や道路へ落ちた粒も、すぐに消えた。

「明日、寒いやろな」

水月が言った。

「魚、揚がるかな」

「朝にならんと分からん」

二人は食卓へ戻った。

仕事の通知は来ない。

静波の暖簾も、棚の中にある。

明日になれば、それぞれの仕事が始まる。

相談へ答えなければならない日もある。

予約を断れない日もある。

予定を超えて働くことも、またあるかもしれない。

それでも今夜は、二人とも仕事を終えていた。

海斗は鍋の蓋を開けた。

残っていた白菜が、出汁の中で柔らかく煮えている。

全部食べ切らなくてもよかった。

明日の朝、温め直せばよい。

海斗は火を止めた。

雪は音もなく降り続いていた。


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