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『静波の寄せる場所』  作者: 久遠 睦


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30/31

第30章 海へ出ない朝

二月の終わり、源治が静波へ持ってきた魚は二尾だけだった。

一尾は丸々と太った鰆。もう一尾は、銀色の鱗を残した小ぶりの鯵だった。

水月は店の裏口で発泡箱を受け取り、鰆の腹へ指を当てた。まだ硬い。鰓を開くと、鮮やかな赤色が残っている。

「ええ鰆やな」

「湾の外で一尾だけ掛かった」

「一尾だけ?」

「鯵はおまけや。網に迷い込んどった」

源治は以前より時間をかけて長靴を脱いだ。

右手首をかばう癖は、怪我が治ったあとも残っている。寒い朝は痛むのだと聞いていたが、本人はほとんど口にしなかった。

水月は魚を仕込み台へ運んだ。

「鰆は西京焼きにしよか。半分は今日、半分は明日」

「好きにしたらええ」

源治は店へ上がり、入口近くの椅子へ腰を下ろした。

いつもなら魚を置くとすぐに帰る。舟を洗い、網を干し、使った道具を片づけなければならないからだった。

だが、その日は帽子を膝へ置いたまま動かなかった。

佐知が湯飲みを出した。

「お茶、飲まれますか」

「もらおか」

「熱い方がいいですか」

「ぬるい方がええ。猫舌やから」

「初めて聞きました」

「聞かれたことなかったからな」

佐知がお茶を淹れている間、水月は鰆へ包丁を入れた。

腹を開き、内臓を外す。脂が包丁の刃へ薄くまとわりついた。

背後で、源治が茶を啜る音がした。

「水月」

「何?」

「三月いっぱいで、舟を降りる」

包丁が止まった。

鰆の腹から、まな板へ血が細く流れている。

水月は布巾を取り、刃を拭いた。

「しばらく休むん?」

「休むんやない。漁をやめる」

「手首、また悪なった?」

「悪いいうほどやない。天気の変わり目に痛むくらいや」

「ほな、暖かくなってから考えたらええやろ」

「暖かくなったら、また暑くなるまでと言う。暑なったら、秋までと言う。そうやって延ばすんは、もうやめた」

水月は振り返った。

源治は湯飲みを両手で包んでいた。

日に焼けた指の節が太い。爪の際には、何度洗っても落ちない黒ずみが残っている。

「急すぎる」

「去年から考えとった」

「聞いてへん」

「言うてへんからな」

「何で言わんかったん」

「決めてへんこと言うても、あんたが心配するだけやろ」

「決めてから言われても困る」

源治が少し笑った。

「どっちにしても困るんやな」

水月は笑わなかった。

鰆を三枚に下ろす。骨へ沿わせたはずの包丁が、いつもより深く身へ入った。

「もったいない」

源治が言った。

水月は切り口を見た。

中骨に白い身が厚く残っている。

「源治さんが急なこと言うからや」

「魚のせいにしたらあかん」

佐知が、新しい布巾を水月の横へ置いた。

「一度、手を止めた方がいいです」

「止めたら魚が温なる」

「一分では温まりません」

水月は包丁を置いた。

手を洗い、源治の向かいへ座る。

「舟はどうするん」

「谷口が使いたい言うとる。網と一緒に譲る話をしとるところや」

谷口は、同じ湾で漁をしている四十代の漁師だった。父親の代から使っていた舟が古くなり、買い替えを考えていると聞いたことがある。

「もう、そこまで決まってるん?」

「金額はまだや。舟底も見てもらわなあかん」

「陸には?」

「まだ言うてへん」

「先に言わなあかんやろ」

「今度の休みに帰ってくる。顔見て言う」

「電話でもええやん」

「顔見て言いたいこともある」

水月は言葉を止めた。

源治には、源治の順番がある。

分かってはいたが、納得できなかった。

「静波の魚、どうしたらええの」

「俺以外からも仕入れとるやろ」

「せやけど、源治さんの魚を中心に献立を決めてきた」

「これからは、別の魚を中心に決めたらええ」

あまりに簡単に言われ、水月の胸へ苛立ちが湧いた。

「そんな簡単な話やない」

「簡単やとは言うてへん」

「魚の締め方も、持ってくる時間も違う。量も毎日読めへん。予約に合わせて頼めるもんでもない」

「今までも、俺の漁に合わせとったやろ」

「源治さんの都合は分かってたから」

「谷口の都合も、そのうち分かる」

水月は黙った。

源治は湯飲みへ目を落とした。

「困らせたいわけやない。来月までに、ほかの漁師にも話をしとく。谷口には、静波へ持ってくるときの締め方も伝える」

「教えたから同じになるわけやない」

「同じにする必要あるんか」

水月は答えられなかった。

源治は残った茶を飲み干した。

「俺の魚がなくなったら、静波の料理ができんようになるんやったら、それはあんたの店やない」

椅子から立ち上がり、帽子をかぶる。

「鰆、傷めるなよ」

「分かってる」

水月が低い声で返すと、源治は裏口から出ていった。

戸が閉まり、冷たい風が途切れた。

佐知は何も言わず、湯飲みを下げた。

水月は仕込み台へ戻った。

中骨に残った身を、薄い匙で掻き取る。少し崩れているが、つみれにすれば使える。

「佐知さん」

「はい」

「来月から、魚の仕入れ増やさなあかん」

「そうですね」

「谷口さんだけやと足りんかもしれへん。宮津の市場にも、もう一軒頼めるよう話しとく」

「はい」

「冷凍庫も、大きい方がええかな」

「何を冷凍するんですか」

「魚が多い日に仕入れて」

「水月さん」

「何」

「今日中に全部決めなくていいと思います」

水月は返事をしなかった。

再び包丁を握る。

残った半身を切り分け、塩を当てる。

手は動いていたが、魚の重さがいつもと違って感じられた。

源治が魚を持ってくる朝は、これから何度あるのだろう。

数えようとして、水月はやめた。

翌週、陸が京都から帰ってきた。

季彩堂で働き始めて、間もなく一年になる。

髪は以前より短く、手の甲には細かな火傷の跡が増えていた。料理人らしくなったというより、毎日厨房へ立っている人間の手になっていた。

午後のバスを降りた陸は、まっすぐ静波へ来た。

「腹減った」

戸を開けた第一声がそれだった。

昼の営業を終えた店では、佐知が器を拭き、水月は夜の煮物を火へ掛けていた。

「久しぶりに帰ってきて、それか」

水月が言うと、陸はカウンターへ鞄を置いた。

「賄い、朝の十時に食べてから何も食ってへん」

「京都駅で何か買えばよかったやろ」

「弁当、高いやん」

「働いてるんやから買えるやろ」

「買えるんと、買いたいんは別や」

佐知が、小皿へ鰯の生姜煮を載せた。

「ご飯もありますよ」

「佐知さん、やっぱり優しいな」

「水月さんも、食べさせないとは言っていません」

「まだ言うてへんだけかもしれん」

水月は炊飯器を開けた。

「二杯までやで。夜の分、足りんようになる」

陸はカウンターの端へ座り、出されたご飯を勢いよく食べた。

「季彩堂、どう?」

佐知が尋ねた。

陸は口の中のものを飲み込んだ。

「今月から、焼き場の横につかせてもろてる」

「魚を焼いているんですか」

「まだ触らせてもらえるんは賄いだけ。客に出す方は、串打ちした魚を並べたり、炭を足したり」

「炭、見られるようになった?」

水月が尋ねる。

「前よりは」

「前より、やと分からんな」

「自分でも分からん。ええと思ったら火が強い言われるし、弱めたら温度落とすな言われる」

水月は鍋の蓋を開けた。

里芋へ竹串を刺す。

少し抵抗が残っている。

「言われた通りにするだけやと、ずっと分からんで」

「聞いても、見ろって言われる」

「ほな、見るしかないな」

「それが分からん言うてるんや」

「分からんまま見るんや」

陸は不満そうに味噌汁を飲んだ。

だが、以前のように、教えてくれないなら辞めるとは言わなかった。

食べ終える頃、源治が店へ来た。

陸は椅子から立ち上がった。

「じいちゃん」

「帰っとったんか」

「今日帰るって言うたやろ」

「覚えとった」

「ほな、何で驚いた顔するん」

「思ったより早かったからや」

源治は陸の隣へ座った。

佐知が茶を出そうとすると、源治は手を振った。

「今はいらん。こいつと家で飲む」

陸が源治の顔を見た。

「何かあるん?」

「家へ帰ってから話す」

「ここで言えばええやん」

「水月にはもう言うた」

陸の視線が水月へ向いた。

「何?」

「じいちゃん、どっか悪いん?」

源治は顔をしかめた。

「何で悪い話から考えるんや」

「そういう言い方するからやろ」

水月は鍋の火を弱めた。

自分から伝えることではない。

源治が陸を見た。

「三月で漁をやめる」

陸の表情が止まった。

「何で」

「歳や」

「まだできるやろ」

「できるうちにやめる」

「手首が痛いん?」

「それもある」

「病院、行ってるん?」

「行っとる」

「俺、聞いてへん」

源治は少しだけ眉を上げた。

「今、言うた」

「そういう意味やない」

陸は椅子から立ったまま、拳を握っていた。

「いつ決めたん」

「年明けには、だいたい決めとった」

「二か月も黙ってたんか」

「仕事しとるお前に、決まってへん話を何度も電話する必要ないやろ」

「決まってからでも、すぐ言えばええやん」

「顔見て言うた方がええと思った」

「俺が帰ってこんかったら?」

「次の休みを聞いた」

陸は水月を見た。

「水月さんも知ってたん?」

「先週聞いた」

「何で連絡くれへんかったん」

「源治さんが自分で言う言うたから」

「俺だけ知らんかったんやな」

陸は鞄を掴んだ。

「どこ行くん」

水月が尋ねる。

「家」

「源治さんも一緒に帰るやろ」

「一人で帰れる」

戸を開け、外へ出ていった。

源治は追わなかった。

店の前を通り過ぎる足音が遠ざかる。

佐知は伏せていた器を、もう一度布巾で拭いた。

「追わなくていいんですか」

「家へ帰る言うとる」

源治が答えた。

「家で待っとったらええ」

水月は、源治の横顔を見た。

「陸、戻ってくる言うかもしれへんで」

「何が」

「漁を継ぐって」

「言うやろな」

「ほな、どうするん」

源治はしばらく黙った。

「断る」

その日の夜、陸は家へ帰ってこなかった。

源治の家ではなく、水月と海斗の家へ来た。

午後九時を過ぎた頃、玄関の戸が強く叩かれた。

海斗が開けると、陸が鞄を肩へ掛けたまま立っていた。

「泊めて」

「源治さんと喧嘩した?」

「してへん」

「その顔で?」

「話が合わんかっただけや」

水月は台所から顔を出した。

「布団、自分で敷くんやで」

「分かってる」

「風呂も最後」

「分かってる」

「晩ご飯は?」

陸は一瞬黙った。

「食ってへん」

水月は冷蔵庫を開けた。

昼に残った鰯の生姜煮と、里芋の煮物がある。炊飯器には冷えたご飯が一膳分だけ残っていた。

「座り」

陸は食卓へ腰を下ろした。

海斗がご飯を温め、水月が味噌汁を作った。陸は料理が並ぶまで、両腕を組んで俯いていた。

「じいちゃん、舟を谷口さんに渡すって」

味噌汁を置くと、陸が言った。

「聞いた」

「俺に何も言わんと」

「舟、欲しかったん?」

陸は答えなかった。

「欲しかったなら、そう言えばええ」

「別に、欲しいわけやない」

「ほな、何に怒ってるん」

「俺が継ぐかもしれんって、考えへんかったんかなと思って」

水月は向かいへ座った。

海斗は急須へ湯を注ぎ、少し離れた席へ腰を下ろした。

「継ぎたいん?」

水月が尋ねる。

「今すぐやなくても。京都で二年働いたら、戻るって話もしてたやろ」

「静波で働きたい、とは聞いた。漁師になるとは聞いてへん」

「魚がなかったら料理できへんやん」

「せやから、自分で獲るん?」

「じいちゃんがやめるなら、誰かがやらなあかん」

「誰かは、あんたやないかもしれへん」

陸が顔を上げた。

「水月さんまで、俺には無理やと思ってるん」

「できるかどうかの話やない。やりたいか聞いてる」

「やってみんと分からん」

「漁師は、空いたから入る仕事やないやろ」

「料理人かて同じや」

「せやから、あんたは京都で働いてるんちゃうの」

陸は箸を置いた。

ほとんど食べていない。

「じいちゃん、一人でずっと海へ出て、俺を育てたんや」

「知ってる」

「高校も、専門学校も行かせてもろた。京都で働けてるんも、じいちゃんが金出してくれたからや」

「ほな、その金を返すために、漁師になるん?」

「そういう言い方すんなや」

「そう聞こえるから聞いてる」

陸は口を閉じた。

海斗が、急須から三つの湯飲みへ茶を注いだ。

陸が海斗を見る。

「海斗さんは、どう思う」

「何を?」

「俺が戻った方がええか」

海斗はすぐには答えなかった。

以前なら、京都で働き続けた場合と、伊根へ戻った場合の利点を並べたかもしれない。

収入。将来性。技術。地域の担い手。静波の席数。

いくつもの条件を整理し、陸が選びやすい形にしようとしただろう。

だが、今、陸が求めているのは正しい答えではない。

「僕には決められない」

海斗は言った。

陸の眉が寄った。

「何かは思うやろ」

「思うことはある。でも、僕が言ったことで決めてほしくない」

「逃げてるみたいやな」

「そう見えるかもしれない」

海斗は湯飲みを両手で持った。

「ただ、一つだけ言えるなら、今夜決めなくていいと思う」

「じいちゃんは、もう決めてる」

「源治さんが決めたのは、自分が漁をやめることだよ。陸君が仕事を辞めることじゃない」

陸は味噌汁へ目を落とした。

湯気は、もうほとんど立っていなかった。

「季彩堂、辞めたいの?」

海斗が尋ねる。

「辞めたい日もある」

「今日は?」

「分からん」

「戻りたい?」

「それも分からん」

「だったら、分からないままご飯を食べた方がいい」

陸は海斗を見た。

「それ、水月さんみたいなこと言うな」

「一緒に暮らしてるからかな」

水月は陸の前にある味噌汁を取り、台所へ立った。

鍋へ戻し、火を入れる。

「冷めたもん食べて考えても、ええ答え出えへん」

「温めたら出るん?」

「出ん。せやけど、温かい方がましや」

温め直した味噌汁を置くと、陸はようやく箸を持った。

その夜、三人は結論を出さなかった。

陸は客間へ布団を敷き、携帯電話を枕元へ置いた。

源治へ連絡したのか、水月は尋ねなかった。

翌朝、陸が起きたのは九時を過ぎてからだった。

海斗はすでに仕事部屋に入り、水月は静波へ仕込みに出ている。

台所のテーブルには、おにぎりが二つ置かれていた。

梅と昆布。

紙には何も書かれていない。

陸は梅のおにぎりを食べ、残った一つを上着のポケットへ入れた。

それから、源治の家へ帰った。

二人が何を話したのか、水月は聞かなかった。

昼前、陸は静波へ来た。

「今日、手伝ってええ?」

調理着は持ってきていない。

水月は予備の前掛けを渡した。

「給料出えへんで」

「いらん」

「ほな、客と同じや」

「手伝わせて言うてるやん」

「働くなら払う。手伝いなら断る」

陸は前掛けを受け取ったまま黙った。

佐知が予約帳から顔を上げた。

「一時間だけ、洗い場をお願いできますか。時給は通常どおりで」

「一時間だけ?」

「そのあと、私が入ります」

「もっとできるけど」

「今日は一時間分しか必要ありません」

陸は不満そうだったが、うなずいた。

「分かった」

昼の営業が始まると、陸は洗い場へ入った。

季彩堂の厨房に比べれば、静波の仕事量は少ない。

六人分の器を下げ、洗い、水気を拭く。空いた時間には盛りつけを見ようとするが、水月は声をかけなかった。

一時間が過ぎると、佐知が陸へ言った。

「交代します」

「まだ客おるやん」

「お願いしたのは一時間です」

「忙しくなるかもしれん」

「そのときは、水月さんと二人で対応します」

陸は水月を見た。

「帰れってこと?」

「客として座るなら、賄い出す」

「金取る?」

「働いた一時間分から引いとく」

「細かいな」

それでも陸は前掛けを外した。

カウンターの端へ座り、水月が作った昼の膳を食べた。

鰆の西京焼き。蕪の含め煮。菜の花の辛子和え。味噌汁とご飯。

鰆を一口食べ、陸が尋ねた。

「これ、じいちゃんの?」

「そうや」

「あと何回、持ってくるんかな」

「分からん」

「最後の日、何を作るん」

水月の手が止まった。

そのことを、何度も考えていた。

源治が最後に持ってくる魚。

最後の漁。

最後の献立。

常連客へ知らせるべきか。源治の名前を出すべきか。長く静波を支えた魚として、一日だけ特別な膳を用意するべきか。

だが、源治は何も頼んでいない。

「まだ決めてへん」

水月は答えた。

「鯛がええんちゃう」

「獲れるか分からん」

「じいちゃんに狙ってもらったら」

「海の都合は決められへん」

陸はそれ以上言わなかった。

午後、京都へ戻るバスを待ちながら、陸は源治と並んで停留所に立っていた。

水月は店の前から二人を見た。

何を話しているのかは聞こえない。

源治は腕を組み、陸は足元の小石を靴の先で動かしている。

バスが来ると、陸は荷物を持ち上げた。

乗る前に、源治へ頭を下げた。

深い礼ではない。

少し首を下げただけだった。

源治が陸の肩を一度叩いた。

バスが走り去ると、源治はしばらくその場に立っていた。

水月が近づく。

「何て言うたん」

「聞かんかったんやな」

「聞いてへんから、今聞いてる」

源治は海の方へ歩き始めた。

「京都へ戻る言うた」

「それだけ?」

「来年の春までは季彩堂におる。それから先は、また考えると」

「漁は?」

「今はやらん」

「源治さん、それでええの」

源治は足を止めた。

「俺が決めることやない」

「寂しくない?」

「寂しい言うたら、あいつが戻ってくるんか」

「戻るかもしれへん」

「ほな、言わん方がええ」

源治は湾へ目を向けた。

風は弱く、水面には細かな光が揺れている。

「昔は、陸が舟を継いだらええと思っとった」

「いつ頃?」

「小学校へ入る前くらいや。舟へ乗せたら、魚見て喜んどったから」

「子どもは、大体喜ぶやろ」

「その頃は、分からんかった」

源治が笑った。

「息子が海へ出んかった分、孫が出ればええと思ってたんやろな。誰かが続けるんが当たり前やと思っとった」

「今は?」

「続けたい奴が続けたらええ。谷口は舟が欲しい。陸は、今は包丁を持ちたい。それでええ」

水月は源治の横へ並んだ。

「私は、源治さんの魚がなくなるん、嫌や」

「それも、あんたの都合やな」

「分かってる」

「嫌なままでええやろ」

源治は歩き出した。

「俺かて、何とも思ってへんわけやない」

水月はその背中を追わなかった。

三月に入ると、源治が海へ出る日はさらに減った。

風の穏やかな日だけを選び、朝の短い時間に網を上げる。

魚が多い日もあれば、何も持ってこない日もあった。

水月は、仕入れ先を増やした。

谷口からは、週に二度、魚を買うことにした。宮津の市場にも連絡し、必要な日だけ受け取れるよう話をつけた。

最初に谷口が持ってきた鯛は、源治のものより血が残っていた。

水月は、締めた時刻と方法を尋ねた。

谷口は嫌な顔をせず、自分の手順を説明した。

「源治さんと同じようにしたつもりなんやけどな」

「同じにせんでもええです。ただ、どうした魚か知りたいんです」

「次から、締めた時刻を書いとこか」

「お願いします。あと、氷が直接身に当たらんようにしてもらえますか」

「箱、変えた方がええな」

二人で方法を確かめた。

値段も決めた。

源治との取引は、長い間の習慣で成り立っていた。魚を見て、その日の相場を考え、水月が払う。源治が多いと言えば少し下げ、少ないと言えば翌日に足す。

谷口とは、最初に基準を作る必要があった。

面倒ではあった。

同時に、曖昧にしない方が互いに安心できることも分かった。

「源治さんから、細かい店やと聞いとった」

谷口が言った。

「悪口ですか」

「褒めとるんやろ。たぶん」

「たぶん、ですか」

「源治さんの褒め言葉は、分かりにくいからな」

三月十四日。

源治は、翌朝を最後の漁にすると決めていた。

日の出前に舟を出し、湾の外へ置いた網を上げる。それを最後に、残った道具を谷口へ渡す。

水月はその日を店休日にした。

源治には、休む必要はないと言われた。

魚が獲れるかどうかも分からない。特別な料理を作ってほしいとも思っていない。

それでも水月は、予約を入れなかった。

佐知も休む予定だったが、夕方、静波へ来た。

「明日の献立、決めましたか」

「魚を見てから」

水月は、昆布を水へ浸していた。

鍋には、源治が好きな大根を下茹でしている。

「何人分ですか」

「源治さんと、陸。海斗と佐知さん。美代さんにも声かけた」

「陸君、帰ってくるんですか」

「最終の特急で京都を出る。着くんは夜中やな」

「季彩堂、休めたんですね」

「料理長が、行ってこい言うたらしい」

佐知は、仕込み台に並べられた器を見た。

静波で最も古い揃いの椀が五つ。

開店した年から使っており、縁の漆が少し薄くなっている。

「送別会ですか」

「そんなんやない」

「お疲れさまの会?」

「名前つけなあかん?」

「いいえ」

佐知は椀を一つ手に取った。

「水月さんが、名前をつけたがっているように見えたので」

水月は昆布の入った鍋へ目を落とした。

「最後の魚やから、ちゃんとせなあかんと思って」

「何をですか」

「分からん」

「源治さんに、してほしいことを聞きました?」

「何もいらん言うてた」

「では、何もしなくていいのでは」

「ほんまに最後やで」

「最後だからといって、源治さんの望まないことをする必要はないと思います」

水月は、佐知の顔を見た。

「明日、来んでええよ」

「呼ばれたので来ます」

「休みやろ」

「夕食を食べに来るだけです」

「手伝わせへんで」

「そのつもりです」

佐知は椀を元へ戻した。

「私も客ですから」

午後八時頃から、風が強くなった。

戸の隙間で音が鳴り、吊るした暖簾が壁へ何度も当たった。

水月は携帯電話で天気予報を確認した。

夜中には弱まり、明け方には風速が下がる予報だった。

しかし、湾の外には波の高い状態が残る。

「出られるかな」

家へ戻ると、水月は海斗へ尋ねた。

海斗は仕事用の端末を閉じたところだった。

「源治さんが決めることだね」

「天気予報では、朝には少し落ち着く」

「予報どおりになるかは分からない」

「最後やから、多少は出るんちゃう」

海斗は水月の顔を見た。

「源治さん、多少の無理をする人?」

「昔はした」

「今は?」

水月は答えなかった。

海斗は立ち上がり、窓を閉めた。

風が入らなくなると、家の中が急に静かになった。

「陸君、もう着いた?」

「さっき源治さんの家へ着いたって」

「寝られるといいけど」

「たぶん、二人とも寝られへんやろな」

水月も、その夜は何度も目を覚ました。

風の音を聞くたび、枕元の時計を見る。

午前一時。

三時十二分。

四時四十八分。

目覚ましは五時に設定していた。

鳴る前に起き、調理着へ着替える。

海斗も布団から身体を起こした。

「一緒に行く」

「寝ててええよ」

「目が覚めたから」

二人で外へ出た。

空はまだ暗い。

風は前夜より弱まっていたが、海から低い音が届いていた。舟屋の間を抜ける風が、頬へ冷たく当たる。

港へ向かう途中、陸が立っていた。

防水の上着を着て、長靴を履いている。

「源治さんは?」

水月が尋ねる。

「舟のとこ」

三人で岸へ下りた。

源治は舟の中にいた。

エンジンはかかっていない。

縄を確かめ、積んでいた箱を一つずつ岸へ戻している。

水月は足を止めた。

「出えへんの?」

源治が顔を上げた。

「出ん」

陸が舟へ近づいた。

「風、落ちてるで」

「外は波が残っとる」

「少しくらいなら行けるやろ」

「行けるんと、行くんは別や」

「今日が最後なんやで」

「せやから何や」

源治は空の発泡箱を岸へ置いた。

「今日出んかったら、昨日までのどれかが最後になるだけや」

陸の顔が歪んだ。

「そんなん、分からんやん」

「最後の日いうんは、大体あとから分かるもんや」

「じいちゃんが決めたんやろ。十五日で終わるって」

「漁をやめる日を決めた。海が出させてくれるとは決めてへん」

陸は海を見た。

暗い水面が、岸壁へ繰り返し当たっている。

湾内は穏やかに見えても、遠くから大きなうねりが入っていた。

「俺、休み取って帰ってきたのに」

「休み取れたんやったら、休んだらええ」

「そういうことやない」

「分かっとる」

源治は舟から岸へ上がった。

以前なら軽く跨いでいた高さを、両手で身体を支えながら越える。

陸が腕を出そうとしたが、源治は自分で立った。

「最後の漁、見たかったんやろ」

陸は答えなかった。

「俺も、最後やと思って出たかった」

源治は舟を見た。

「せやけど、最後やから無理して出て、戻れんようになったら、それが一番あほらしい」

空がわずかに明るくなり始めていた。

舟の輪郭が、黒から灰色へ変わっていく。

源治は長靴についた水を払い、陸へ言った。

「網、片づけるぞ」

「海の中にあるんやろ」

「昨日、谷口が上げてくれた。倉庫に置いてある」

「頼んだん?」

「風が出る前にな」

源治は、前日から今日出られない可能性を分かっていたのだ。

それでも、陸へ戻らなくていいとは言わなかった。

水月は尋ねた。

「最後に獲った魚、何やった?」

源治は考えた。

「先週の鯵と、小さい鯛やな」

「あれが最後?」

「そうなるな」

鯛は静波で塩焼きにした。

鯵は潮路へ持っていき、美代が宿泊客の朝食へ出したと聞いた。

特別な料理にはならなかった。

写真も撮っていない。

水月は、魚の形さえはっきり覚えていなかった。

源治は岸へつないだ縄を確かめた。

「腹減ったな」

水月はうなずいた。

「大根、炊いてある」

「魚は?」

「ない」

源治が笑った。

「漁師の最後の日に、魚なしか」

「谷口さんに頼めば持ってきてもらえる」

「いらん。大根でええ」

「陸、何か作れる?」

水月が尋ねると、陸は海を見たまま答えた。

「卵焼きくらいなら」

「ほな、卵買って帰ろ」

四人は静波へ戻った。

途中で、美代と佐知にも連絡を入れた。

予定より早い時刻だったが、二人とも一時間ほどで来ると言った。

店へ着くと、水月は昆布の鍋へ火を入れた。

陸は調理着へ着替え、卵を割る。

十個の卵を大きなボウルへ入れ、箸で白身を切るように混ぜた。

「出汁、どれくらい?」

陸が尋ねる。

「自分で決め」

「久しぶりに作るのに」

「季彩堂で作ってへんの?」

「賄いでは作る。客に出したことはない」

「今日は客に出すんちゃう。源治さんが食べるだけや」

「余計緊張するわ」

陸は出汁を量り、薄口醤油と塩を加えた。

砂糖へ手を伸ばし、止める。

「じいちゃん、甘い方が好きやったかな」

「本人に聞いたら」

カウンターでは、源治が海斗と茶を飲んでいた。

陸が厨房から顔を出す。

「じいちゃん、卵焼き、甘いんがええ?」

「甘ない方」

「昔、甘いの食ってたやん」

「あれは、お前が甘い方しか食わんかったからや」

陸が黙った。

「何や」

「別に」

砂糖の容器を棚へ戻した。

銅の卵焼き器へ油を引き、卵液を流す。

最初の一巻きは、端が破れた。

陸は箸で形を整え、次の卵液を流す。

水月は隣で大根の味を確かめていた。

口は出さない。

卵焼きは少しずつ厚くなった。

最後まで巻き終えると、陸は巻き簾へ移し、形を整えた。

「焦げた」

「少しや」

「店では出されへんな」

「今日は店、休みや」

美代と佐知が到着し、六人でカウンターへ座った。

料理は、大根の含め煮、菜の花のお浸し、陸の卵焼き、炊きたてのご飯、浅利の味噌汁だけだった。

魚はない。

美代が膳を見て言った。

「源治さん、魚持ってこんかったん?」

「今日は漁師やないからな」

「昨日までは漁師やったんやろ」

「昨日も海へ出てへん」

「細かいこと言う人やな」

源治は卵焼きを一切れ食べた。

陸が横目で様子を見る。

「どう?」

「焼けとる」

「それ見たら分かる」

「味もついとる」

「感想になってへん」

源治はもう一切れ取った。

「甘ないのがええ」

陸は不満そうな顔をしたが、自分も卵焼きを食べた。

「ちょっと出汁多かったな」

「自分で言うんか」

「分かるから」

「ほな、次は減らしたらええ」

源治の言葉に、陸の箸が止まった。

次。

漁をやめても、源治が卵焼きを食べる日はなくならない。

陸が伊根へ帰る日もある。

次に作る機会が、いつなのかは分からない。

それでも、今日だけで終わるものではなかった。

佐知が大根を食べた。

「おいしいです」

「それ、水月さんのやで」

陸が言った。

「卵焼きもおいしいですよ」

「ついでみたいに言わんといて」

「焦げたところが香ばしいです」

「東京の卵焼きみたいやな」

海斗が言うと、水月が笑った。

「うちも、同じこと思った」

「何の話?」

陸が尋ねる。

「旅行で食べた卵焼きの話」

「俺の方がうまいやろ」

「自分で言うんやな」

食事が終わる頃には、外が明るくなっていた。

風はまだ残っている。

店の窓から、岸へつながれた源治の舟が見えた。

その日の午後、源治と陸は倉庫の道具を片づけた。

水月と海斗も手伝おうとしたが、源治は断った。

「二人でやる」

陸も何も言わなかった。

網を広げ、使えるものと処分するものに分ける。

浮きへ絡んだ糸を外し、錆びた金具を捨てる。

日が傾くまで、二人は倉庫から出てこなかった。

翌朝、陸は京都へ戻った。

停留所には、源治だけが見送りに来た。

水月は静波の窓から、二人の姿を見た。

今度は陸が先に手を上げた。

源治も応えた。

バスが見えなくなると、源治は港ではなく、自宅の方へ歩いていった。

三月の終わり、谷口の舟が源治の舟を引いていった。

名義を変え、整備を済ませたあと、同じ湾で使うことになっている。

舟が伊根からなくなるわけではない。

色も、船名も、しばらくはそのまま残すという。

けれど、次にあの舟を動かすのは源治ではない。

水月は見送りに行かなかった。

静波で、谷口が持ってきた鯛を下ろしていた。

源治の魚とは、身の硬さが少し違う。

包丁を入れる角度を変え、皮を引く速度を落とす。

佐知が隣で、締めた時刻を書いた札を確認している。

「今日の鯛、どうですか」

「悪くない」

「源治さんのものと比べて?」

水月は切り分けた身を持ち上げ、光へ透かした。

「違う魚や」

「同じ鯛です」

「獲った場所も、締めた人も違う。ほな、違う魚やろ」

佐知は少し笑った。

「献立、変えますか」

「塩焼きにするつもりやったけど、酒蒸しの方がええな」

「付け合わせは?」

「蕪。出汁を少し濃くする」

「分かりました」

昼の営業が始まる頃、源治が一人で店へ来た。

作業着ではなく、紺色の上着を着ている。

「予約してへんけど、入れるか」

水月は客席を見た。

予約は五人。

一席だけ空いている。

「日替わりの献立だけやけど、それでもええ?」

「ほかに何があるんや」

「ない」

「ほな、それでええ」

水月は入口の戸を大きく開けた。

「どうぞ」

源治はカウンターの端へ座った。

かつて海斗が初めて座った席だった。

佐知が茶を出し、水月は鯛を蒸し器へ入れた。

源治は厨房へ口を出さなかった。

魚の扱いも、味つけも尋ねない。

ほかの客と同じように、運ばれた料理を食べた。

鯛の酒蒸しを一口食べ、箸を止める。

水月は声をかけなかった。

しばらくして、源治はもう一口食べた。

皿には、骨だけが残った。

「ごちそうさん」

会計のとき、水月は代金を受け取らないつもりだった。

源治は財布から、決められた金額を出した。

「いらん」

「客や」

「今までの魚代で、これくらい」

「魚代は魚代や。飯代は飯代」

「今日くらい、ええやろ」

「今日からや」

源治は金を会計皿へ置いた。

「これからは、魚持ってくる人やない。食べに来る人や」

水月は金を見た。

受け取ることが、源治の漁が終わったことを認めるようで嫌だった。

佐知が、会計皿を水月の方へ少し押した。

水月は金を受け取った。

釣りを渡す。

源治は小銭を財布へ入れた。

「谷口の鯛、どうやった?」

水月が尋ねる。

「俺に聞くんか」

「客の感想や」

源治は少し考えた。

「うまかった」

「それだけ?」

「ほかに何がいる」

水月は笑った。

「何もいらん」

源治が店を出る。

暖簾が一度揺れ、元へ戻った。

その日の夕方、海斗の会社から連絡が届いた。

三か月間試していた技術相談の受け付け方を、正式な制度にすることが決まったという。

相談内容と責任者を明記する。

同時に抱える案件は三件まで。

緊急時には通常の相談経路と分け、対応者を一人へ集中させない。

海斗個人へ直接依頼するのではなく、チームで受け付ける。

最初に海斗が提案した内容が、いくつか修正されたうえで残っていた。

藤崎からの文章の最後には、短く書かれていた。

〈相沢さんが休める仕組みでなければ、制度として続かないので、引き続き調整しましょう〉

海斗は返信欄を開いた。

改善したい点が、二つ頭へ浮かんだ。

相談が三件に達したときの待機案件の扱い。

緊急と通常を判断する基準。

すぐに書き始めようとして、時計を見た。

午後五時二十八分。

終業まで、あと二分だった。

海斗は短く返信した。

〈承知しました。来週の定例で、運用後の確認項目を相談させてください〉

送信し、端末を閉じた。

今日中にまとめる必要はない。

来週の定例までに、自分一人で答えを作る必要もない。

仕事部屋を出ると、台所には誰もいなかった。

水月は静波。佐知はすでに帰っている時間だった。

海斗は上着を羽織り、店へ向かった。

外へ出ると、日が長くなっていることに気づいた。

冬の間なら真っ暗だった時刻に、山の端がまだ薄く明るい。

港では、何艘かの舟が戻っていた。

その中に、源治が使っていた舟がある。

操縦しているのは谷口だった。

海斗は足を止めた。

舟は同じでも、岸へ寄せる角度が違う。エンジンを切る位置も、縄を投げる動きも違った。

谷口は海斗に気づき、手を上げた。

海斗も返した。

静波へ着くと、昼の営業を終えた水月が暖簾を外していた。

「終わった?」

「うん」

「何かええことあった?」

水月が尋ねる。

「どうして?」

「顔が、少し緩んでる」

海斗は会社からの連絡を話した。

水月は暖簾を畳みながら聞いた。

「正式になったんやな」

「三か月試して、問題もあったけど」

「続けるん?」

「うん。今の形なら」

「今の形が変わったら?」

「そのときは、また話す」

水月はうなずいた。

「源治さん、今日、客で来た」

「何を食べたの?」

「鯛の酒蒸し」

「源治さんの魚?」

「谷口さんの魚」

海斗は店の中を見た。

源治が座った席には、片づけを待つ湯飲みが一つ残っている。

「どうだったって?」

「うまかった、だけ」

「源治さんらしいね」

水月は暖簾を抱えたまま、港へ目を向けた。

かつて源治が使っていた舟から、谷口が魚の箱を下ろしている。

「同じ舟やのに、違って見える」

「そうだね」

「ちょっと寂しい」

「うん」

「でも、魚は来る」

「うん」

水月は海斗を見た。

「晩ご飯、どうする?」

「家に何かあったかな」

「卵と、大根」

「また卵焼き?」

「海斗が作るなら」

「焦げるよ」

「温かかったらええ」

二人は店の戸を閉めた。

鍵をかけ、並んで家へ向かう。

背後で、舟のエンジンが止まった。

源治の音ではなかった。

けれど、海から戻る舟の音には違いなかった。

翌朝、水月はいつもの時刻に目を覚ました。

遠くでエンジンがかかる。

布団の中で、その音を聞く。

以前なら、源治が海へ出たのだと思った。

今は誰の舟なのか分からない。

起き上がり、窓を少し開ける。

春の手前の冷たい空気が入ってきた。

湾には、何艘かの舟が動いていた。

源治の舟だった舟も、その中にいる。

水月はしばらく眺めたあと、窓を閉めた。

今日、静波へ届く魚はまだ分からない。

谷口から何か来るかもしれない。

市場の魚だけになるかもしれない。

風が変わり、何も入らないかもしれない。

水月は台所へ立ち、昨夜から水へ浸しておいた昆布を見た。

鍋へ火を入れる。

沸くまでの間に、米を研ぐ。

背後で、海斗が起きてくる音がした。

今日の献立は、まだ決めていなかった。

それでも、朝の支度は始まっていた。


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