第31章 寄せる場所
九月の予約帳に、一人分の空白ができた。
静波の夜の席は、三週間ほど前から六人で埋まっていた。
窓際に二人。カウンターに四人。
そのうちの一組から、営業日の前日に電話が入った。
「主人が熱を出してしまって」
受話器の向こうで、女性が申し訳なさそうに言った。
「朝には下がるかもしれないんですけど、今のうちにお伝えした方がいいと思って」
「ありがとうございます。今回は取り消しにしておきます」
水月は予約帳を開き、二人の名前の横へ鉛筆で線を引いた。
「でも、一人だけなら私が伺ってもいいでしょうか」
「もちろんです」
「主人が楽しみにしていたので、一人で食べたら悪い気もして」
「お元気になったら、またお二人で来てください。明日は無理に来られなくても大丈夫です」
女性は少し迷ったあと、やはり今回は二人とも取り消すと答えた。
電話を切り、水月は予約帳を見た。
六席のうち、二席が空いた。
仕入れは終わっている。
谷口から届いた甘鯛が三尾。宮津の市場から届いた小さな剣先烏賊。片山澄江の畑から来た冬瓜と茄子。卵も出汁も、六人分を見込んで用意していた。
「空きが出ました?」
仕込み台で胡瓜を板ずりしていた佐知が尋ねた。
「二人」
「告知しますか」
静波は、当日の空席が出たときだけ、店の案内用のページへ短い知らせを載せることがあった。
海斗が作った仕組みで、水月か佐知が空いた人数と時間を入力すれば、すぐに表示される。
水月は携帯電話を手に取った。
明日の夜、二席ご案内できます。
入力欄へそこまで書いたが、公開する前に手が止まった。
「どうしました?」
「何でもない」
水月は文章を消した。
「載せないんですか」
「明日の朝でええ」
「食材は足りますよ」
「足りるんやなくて、余る方やろ」
「では、なおさら早く知らせた方が」
佐知はそこまで言い、胡瓜へ塩を擦り込む手を止めた。
「載せたくないんですか」
「載せたくないわけやない」
「では、何ですか」
水月は予約帳を閉じた。
「今、決めたないだけ」
佐知はしばらく水月を見たあと、再び胡瓜を転がした。
「分かりました」
「理由、聞かへんの?」
「水月さんにも、分からないんでしょう」
「まあな」
「分かったら、そのとき聞きます」
水月は携帯電話を前掛けのポケットへ戻した。
店を始めた頃は、席が空いていることを気にしなかった。
客が一人の日もあった。
誰も来ないまま、仕込んだ料理を自分で食べた夜もある。
予約が増えるにつれ、空席は埋めるものになった。
料理を無駄にしないため。
売上を確保するため。
遠くから来る客を断らずに済むようにするため。
どれも間違いではない。
だが、二席空いただけで、すぐに誰かを探さなければならないような気持ちになることが、水月には少し窮屈だった。
「余った甘鯛、どうします?」
佐知が尋ねた。
「一尾は明日の昼へ回せる。もう一尾は、うちらで食べたらええ」
「海斗さんも?」
「帰りが遅なかったら」
「明日は木曜日ですよね」
「せやな」
木曜日は、二人が一緒に夕食を取る日だった。
毎週守れているわけではない。
静波の予約が延びることもあれば、海斗の仕事で緊急対応が入ることもある。
以前は、守れなかった方が謝り、次の予定をすぐに決めていた。
最近は、無理な日は無理だと言うだけになった。
木曜日に食べられなければ、金曜日。
金曜日も難しければ、翌週。
決め直さないまま終わる週もある。
それでも、二人の間から何かが失われたとは思わなくなっていた。
佐知が胡瓜を水で洗った。
「明日の夕食、私の分も余りますか」
「客として食べる?」
「いいんですか」
「空席あるからな」
「代金は払います」
「賄いでええ」
「それだと働くことになります」
水月は佐知を見た。
「食べるだけやで」
「水月さんは、食べながら感想を聞くでしょう」
「聞かへん」
「顔を見るでしょう」
「見るくらいええやろ」
「働いている気分になります」
「細かいな」
「誰かの影響です」
佐知は口元を少し緩めた。
翌朝、海斗は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
午前五時二十三分。
隣では、水月が眠っている。
窓の外はまだ薄暗い。
遠くで舟のエンジンが聞こえた。
源治が海へ出なくなってから半年が過ぎた。
今では、音だけで誰の舟かを考えることも減った。それでも、聞き慣れた低い響きがすると、源治の舟だった舟を思い出す。
海斗は布団の中で目を閉じた。
もう一度眠ろうとしたが、胸の奥が落ち着かなかった。
息苦しいわけではない。
心臓が速いわけでもない。
ただ、身体のどこかが、これから何か悪いことが起きると待ち構えている。
原因は分かっていた。
前日の午後、仕事用の画面に障害を知らせる通知が出た。
海斗の担当する仕組みではない。
相談受付の一覧にも入っていない。
別のチームが管理し、当番の担当者が調査していた。
海斗へ直接連絡が来ることもなかった。
障害は一時間ほどで復旧した。
それでも、赤い文字が画面へ流れた瞬間、肩が固くなった。
指先が冷たくなり、胃の奥が縮んだ。
何年も前の夜と同じではなかった。
海斗は文字を読めた。
担当者の報告を理解し、自分が対応する必要はないと判断できた。
終業時刻には端末を閉じた。
夕食も食べた。
眠ることもできた。
だが、身体は出来事をまだ終わったものとして扱っていなかった。
海斗は静かに布団を抜けた。
台所へ行き、水を飲む。
携帯電話を開き、今日の予定を確認した。
午前九時から、三浦との設計確認。
十時半から、相談案件の優先順位を決める会議。
午後は資料の確認が二件。
どれも延期できない仕事ではない。
だが、休むほど悪いのかと考えると、分からなかった。
熱はない。
頭痛もない。
画面を見れば仕事はできるだろう。
以前の海斗なら、それを働ける状態だと判断した。
「起きてたん?」
水月の声がした。
振り向くと、寝巻きの上へ薄い上着を羽織り、台所の入口に立っていた。
「目が覚めた」
「何時から?」
「五時半くらい」
「今、六時前やで」
「うん」
水月は海斗の顔を見た。
「眠れへんかった?」
「少しは眠った」
「仕事?」
海斗は水の入ったコップを置いた。
大丈夫、と答えそうになった。
言葉が口へ出る前に、一度止める。
「昨日、障害があった」
「海斗の仕事?」
「別のチーム。僕は何もしてない」
「ほな、何もない?」
「仕事としては」
海斗は胸へ手を当てた。
「身体が、まだ少し構えてる」
水月はそれ以上、理由を聞かなかった。
冷蔵庫を開け、昨夜の残りの麦茶を取り出す。
自分のコップへ注ぎ、海斗の向かいへ座った。
「今日、休む?」
「そこまでではないと思う」
「何ができたら、休むほどになるん」
「分からない」
「ほな、休まんでもええ。途中でやめたら?」
「途中で?」
「朝の会議だけして、そのあと決める」
「午後の確認が二件ある」
「海斗が今日せなあかんの?」
「一件は三浦さんでもできる。もう一件は、藤崎さんに頼めると思う」
「ほな、それも朝に聞いたらええ」
海斗は予定表を見た。
一日すべて休むか、予定どおり働くか。
その二つだけで考えていた。
「午前だけにしようかな」
「今、決める?」
「朝の状態を見てからにする」
「分かった」
水月は麦茶を飲んだ。
「私は店行くで」
「うん」
「一緒におらなあかん?」
海斗は首を振った。
「大丈夫」
言ってから、もう一度考える。
「一人でいられる。苦しくなったら連絡する」
「分かった」
水月は立ち上がった。
海斗の肩へ触れようとして、手を止める。
「触ってええ?」
「うん」
水月の手が、肩へ載った。
押さえるほど強くはない。
熱を確かめるような触れ方でもない。
ただ、そこにある重さだった。
朝食は、海斗が作った。
味噌汁と、焼いた鮭。炊飯器に残っていたご飯。
鮭の皮を焦がしたが、水月は何も言わずに食べた。
「焦げてる」
海斗が自分から言った。
「知ってる」
「言わないんだ」
「今日は客やないから、褒めるとこ一つの約束もない」
「家では改善点を言っていいの?」
水月は皮の黒い部分を箸で外した。
「次は、火を少し弱めたらええ」
「具体的だね」
「そっちが聞いたんやろ」
二人は少し笑った。
笑ったからといって、海斗の胸のざわつきが消えたわけではなかった。
それでも、仕事部屋へ入る頃には、呼吸は朝より深くなっていた。
午前九時、三浦との設計確認が始まった。
画面の向こうで、三浦は資料を共有した。
新しい認証機能の構成図。
利用者の情報をどこへ保存し、どの時点で確認し、失敗したときにどう戻すかが記されている。
海斗は説明を聞いた。
文字は頭へ入ってくる。
三浦の質問も理解できた。
「相沢さんなら、どちらにしますか」
二つの案を示され、海斗は答えかけた。
以前なら、より安全な方を選び、その理由を説明しただろう。
「三浦さんは、どちらがいいと思う?」
海斗が尋ねると、三浦は少し考えた。
「二つ目の案です。処理は増えますけど、失敗した場所を追いやすいので」
「僕も、その方がいいと思う」
「では、それで進めます」
「ただ、通信が途中で切れた場合だけ確認した方がいい。そこを追加できる?」
「はい。今日中に試します」
海斗は時計を見た。
会議は予定より五分早く終わった。
「三浦さん」
「はい」
「午後の資料確認、一件お願いしてもいい?」
三浦は驚いた様子を見せなかった。
「どちらですか」
「運用記録の方。急ぎではないから、難しければ明日でもいい」
「分かりました。昼までに一度見ます」
「ありがとう」
「体調ですか」
海斗は少し迷った。
「昨日の障害通知を見て、身体が緊張してる。午前で終わるかもしれない」
「昨日、相沢さんは担当じゃなかったですよね」
「うん。分かってるけど、反応するみたいだ」
三浦はうなずいた。
「では、午後の相談受付は私が見ます。難しいものは明日に回します」
「全部引き受けなくていいから」
「はい。三件を超えたら待機へ入れます」
三浦が答えた。
それは海斗が作った決まりだった。
今は、海斗自身にも使われている。
十時半の会議を終えたあと、海斗は藤崎へ連絡した。
〈本日、午前で業務を終了したいです。午後の確認一件をお願いできますか〉
送信して間もなく、返信が届いた。
〈了解です。こちらで確認します。引き継ぎは資料の場所だけ教えてください〉
海斗は保存場所を伝えた。
理由を詳しく説明しなくても、休むことはできた。
端末を閉じたのは、午前十一時四十二分だった。
部屋を出る。
家の中は静かだった。
仕事を半日で切り上げたことへ、まだ少し後ろめたさがある。
だが、誰かへ謝る必要はなかった。
海斗は布団へ横になった。
眠らなくてもいい。
午後を有意義に使う必要もない。
携帯電話を伏せ、目を閉じた。
次に目を開けたとき、窓から入る光の角度が変わっていた。
午後一時を過ぎていた。
胸のざわつきは、朝より小さくなっている。
空腹を感じた。
台所へ行き、冷蔵庫を開ける。
卵、豆腐、胡瓜。
昨夜、水月が作った茄子の煮浸しも残っている。
何を食べるか迷い、煮浸しを皿へ移した。
ご飯を温める。
選べないのではなかった。
どれも食べられそうで、決めるのに少し時間がかかっただけだった。
午後二時頃、静波へ源治が来た。
両手に、籠を一つずつ持っている。
中には、形の不揃いな茄子と胡瓜、まだ青い柿が入っていた。
「柿は食べられへんで」
源治が言った。
「ほな、何で持ってきたん」
水月は籠を受け取った。
「渋柿や。干したら食える」
「静波に干す場所ない」
「家にあるやろ」
「こんなに誰が剥くん」
「海斗がおる」
水月は源治を見た。
「仕事してる」
「夜に剥いたらええ」
「海斗の予定、勝手に決めんといて」
「嫌やったら、あんたが剥いたらええ」
源治は空いたカウンター席へ座った。
以前より顔が少し丸くなったように見える。
漁へ出なくなって、朝食を毎日食べるようになったからだと美代が話していた。
「畑、始めたん?」
水月が茄子を一つ持ち上げた。
曲がり、表面に浅い傷がある。
「片山さんとこの手伝いや」
「手伝い?」
「午前中だけ。草抜いたり、運んだり」
「給料もろてる?」
「当たり前や」
「ほんまに?」
「何や、その疑い方」
「何でもただでやろうとするから」
源治は鼻を鳴らした。
「金はいらん言うたら、片山さんに怒られた」
「そら怒る」
「せやから、時間で決めた」
「何時から何時?」
「七時から十一時。週に三日」
「漁より規則正しいな」
「雨の日は休みや」
「ええ仕事やん」
「暑い」
「海も暑かったやろ」
「畑は風がない」
源治は佐知が出した茶を飲んだ。
「水月、渋柿、いるんか」
「持ってきてから聞く?」
「いらんかったら、美代んとこへ持っていく」
水月は籠の量を見た。
三十個ほどある。
全部剥けば、軒下を埋めるだろう。
「半分もらう」
「残りは潮路やな」
「先に聞いてから持っていき」
「分かっとる」
おそらく、聞かずに持っていく。
源治は茶を飲み終えると、茄子を指した。
「それ、皮硬いで」
「見たら分かる」
「煮るより焼いた方がええ」
「客としての意見?」
「畑から持ってきた人の意見や」
「魚のときと変わらんな」
源治が笑った。
「持ってくるもんが変わっただけや」
源治が帰ったあと、佐知が渋柿を一つ手に取った。
「干し柿、作るんですか」
「半分だけ」
「海斗さんと?」
「嫌やったら私が剥く」
「私も手伝いましょうか」
「仕事になるで」
「では、やめます」
佐知は柿を籠へ戻した。
「明日の午前中、潮路へ行ってきてもいいですか」
「昼の仕込みに間に合う?」
「十一時には戻ります」
「何かあるん?」
佐知は前掛けのポケットから、折り畳んだ紙を出した。
潮路で開いている昼食会の予約数と、仕入れにかかった費用が書かれている。
月に一度、佐知の名前で出している昼食は、半年先まで予約が埋まっていた。
美代から、月に二度へ増やさないかと提案されたらしい。
「増やすん?」
水月が尋ねると、佐知は首を振った。
「今のところは、月に一度で続けたいです」
「予約、断ってるんやろ」
「はい」
「増やしたら、来てもらえる人も増えるで」
「仕込みの日が一日増えます。買い出しと献立を考える時間を入れると、静波の仕事にも影響します」
「こっちを一日減らしてもええよ」
「それも考えました」
佐知は紙を開いた。
静波で働く日数を一日減らした場合。
潮路の昼食を増やした場合。
売上と費用だけではなく、必要な時間も書かれている。
「ずいぶん細かく出したな」
「海斗さんに、考え方だけ教えてもらいました」
「いつ?」
「先月です。数字は見せていません」
「私には言わんかったんやな」
佐知は水月を見た。
「決める前に相談すると、水月さんが静波の予定を先に変えそうだったので」
否定できなかった。
「ほんで、月一回?」
「はい。今は、それ以上にしたいと思いません」
「せっかく客がおるのに?」
「来てくださる方がいることと、私が回数を増やしたいことは別です」
佐知は紙を畳んだ。
「半年後、気持ちが変われば、また考えます」
「美代さん、納得する?」
「明日、話します」
「私も行こか」
「来なくて大丈夫です」
「何も言わんで」
「水月さんが座っているだけで、美代さんが静波の予定を気にします」
「私のせいやないやろ」
「水月さんが来なければ、私の仕事の話だけができます」
水月は口を閉じた。
佐知の言うとおりだった。
「分かった」
「ありがとうございます」
「美代さんに断られたら?」
「そのときは、潮路の昼食をやめます」
水月は驚いた。
「やめるん?」
「条件が合わなければ」
「ほかの場所、探したらええやろ」
「必要になったら探します。今から心配しなくて大丈夫です」
佐知は先回りするように言った。
「分かった」
水月は答えた。
今度は本当に、それ以上口を出さなかった。
午後三時過ぎ、陸から水月へ写真が届いた。
白い器に、焼いた鱧と松茸が盛られている。
添えられた酢橘は、少し傾いていた。
〈今日から、この料理の盛りつけを任された〉
水月は写真を拡大した。
焼き目は揃っている。
松茸の切り方も悪くない。
だが、鱧と松茸の間が詰まりすぎていた。
酢橘の向きも逆に見える。
指摘を書きかけて、手を止めた。
陸は感想を求めていない。
任されたと報告しているだけだった。
〈よかったな〉
それだけでは短すぎる気がした。
〈忙しい時間に崩さんようにな〉
書いてから消す。
結局、送ったのは一文だけだった。
〈任せてもらえて、よかったな〉
数分後、陸から返信が来た。
〈うん。二皿、順番間違えたけど〉
〈どうしたん〉
〈料理長に言うて、作り直してもろた。捨てた分は賄いで食った〉
〈怒られた?〉
〈怒られた。でも次、気をつけろで終わった〉
以前の陸なら、失敗を隠そうとしたかもしれない。
あるいは、怒られたことだけを伝え、店が自分を認めてくれないと不満を言っただろう。
〈次、気をつけたらええ〉
水月は送った。
すぐに既読がついた。
〈じいちゃん、畑で働いてるん?〉
〈週三日〉
〈何で漁より増えてるん〉
〈畑は午前で終わるからやろ〉
〈今度帰るとき、野菜持って帰れ言われた〉
〈もらっとき〉
〈京都まで重い〉
水月は笑った。
〈自分で断り〉
陸からは、困った顔の印だけが返ってきた。
夕方、静波の前を一人の女性が何度か通り過ぎた。
三十代の終わりか、四十代の初めくらいに見える。
薄い灰色の上着を着て、小さな肩掛け鞄を持っていた。
観光客らしい大きな荷物はない。
一度は黒板の献立を読み、入口へ目を向けた。
だが、店へ入らず、そのまま海の方へ歩いていった。
十分ほどして、また戻ってきた。
佐知は窓から女性の姿を見たが、外へは出なかった。
水月も、声をかけなかった。
まだ開店前だった。
予約客が来る時刻まで、二十分ほどある。
「予約の方ではないですよね」
佐知が尋ねた。
「顔は知らんけど、一人の予約は入ってへん」
「席、ありますね」
「あるな」
女性は黒板の前で立ち止まった。
今度は携帯電話を取り出し、何かを確かめている。
地図を見ているのかもしれない。
店の評判を読んでいるのかもしれない。
誰かへ連絡をしているのかもしれない。
水月には分からなかった。
「声をかけますか」
佐知が尋ねる。
「佐知さんが、かけたいなら」
「水月さんは?」
「まだ開ける時間やない」
「あと十五分です」
「ほな、十五分待ったらええ」
女性は、また店の前を離れた。
佐知は入口の戸を見た。
「私、前なら外へ出ていたと思います」
「今は出えへんの?」
「入りたいかどうか、まだ分からないので」
「声かけたら分かるやろ」
「断りにくくなるかもしれません」
水月は佐知の顔を見た。
「気にするようになったんやな」
「水月さんが、何も聞かないこともあると教えてくれました」
「教えた覚えない」
「海斗さんへ、そうしていたでしょう」
水月は返事をしなかった。
開店の時刻になり、暖簾を出した。
予約客が一組ずつ入ってくる。
窓際の二人。
カウンターに一人。
最後に、夫婦の予約だった席が二つ空いたまま残った。
女性は、もう戻ってこないかもしれない。
水月はそう思いながら、最初の小鉢を盛り始めた。
冬瓜の含め煮。
薄い琥珀色の出汁に、透き通った冬瓜を置く。
針生姜を載せ、器の縁を拭く。
三人分を佐知へ渡したところで、入口の戸が開いた。
先ほどの女性が立っていた。
「すみません」
小さな声だった。
「予約をしていないんですけど、一人でも入れますか」
佐知が客席を見た。
二席空いている。
「本日は日替わりの献立だけですが、それでもよろしければご案内できます」
女性はうなずいた。
「お願いします」
佐知が戸を大きく開けた。
「どうぞ」
女性はカウンターの端へ座った。
海斗が初めて静波へ来た日に座った席だった。
水月は、何も言わずに冬瓜をもう一人分盛った。
その女性がどこから来たのか、尋ねなかった。
一人で旅をしているのか、近くに住んでいるのかも分からない。
疲れているようにも見えた。
ただ、人見知りをしているだけかもしれない。
誰かと待ち合わせる予定がなくなったのかもしれない。
そこへ意味を決める必要はなかった。
佐知が冬瓜を運ぶ。
「お熱いうちにどうぞ」
女性は箸を持ち、冬瓜を小さく切った。
口へ運ぶ。
しばらく動かず、器を見ていた。
水月は焼き台へ甘鯛を載せた。
火を調整し、茄子の小鉢を盛る。
女性が黙っていても、味が合わないとは決めなかった。
佐知も、すぐに声をかけなかった。
やがて女性は、もう一口食べた。
器の冬瓜は、少しずつなくなっていった。
「すみません」
女性が佐知を呼んだ。
「はい」
「この生姜、もう少しもらえますか」
「もちろんです」
佐知が厨房へ戻る。
水月は針生姜を小皿へ載せた。
「味、薄かったんかな」
水月が小さく言うと、佐知が首を振った。
「まだ聞いていません」
「聞かへんの?」
「必要なら、向こうから言われます」
水月は小皿を渡した。
女性は生姜を冬瓜へ載せ、残りの出汁も飲んだ。
次に、焼いた甘鯛と茄子の胡麻酢和え、出汁巻き卵、ご飯、味噌汁を出した。
甘鯛は、谷口が朝に持ってきた魚だった。
皮を上にして焼き、最後に火を強めて鱗を立たせている。
女性は酢橘を搾り、箸を入れた。
白い身を食べ、皮を食べる。
急いではいない。
かといって、長く止まることもない。
一人で静かに、目の前の料理を食べていた。
水月はほかの客の皿を見た。
酒を飲む客には、次の料理を少し遅らせる。
ご飯を早めに求めた客には、味噌汁も一緒に出す。
一人の客だけを気にしすぎない。
六人の時間を、それぞれ見る。
海斗が静波へ来たのは、閉店時刻を少し過ぎた頃だった。
暖簾はまだ出ている。
中には、最後の女性客だけが残っていた。
海斗は窓から店内を見た。
水月と目が合う。
戸を開けずに、外の壁へ背を預けた。
営業中には入らない。
以前、水月がそう決めた。
海斗も、急ぎの用がなければ守っている。
店内では、女性が最後のご飯を食べていた。
皿の上には、甘鯛の骨だけが残っている。
佐知が茶を足す。
女性は両手で湯飲みを包み、窓の外を見た。
海斗はその横顔を見た。
自分と重ねることはしなかった。
似ているところを探せば、いくつも見つかるかもしれない。
一人でいること。
予約をしていなかったこと。
カウンターの端へ座っていること。
冬瓜と甘鯛を食べたこと。
だが、その女性には、その女性がここへ来た理由がある。
理由がないかもしれない。
海斗には分からない。
分からないままでよかった。
女性が会計を済ませ、外へ出てきた。
海斗は壁から離れ、道を空けた。
女性は小さく頭を下げた。
「こんばんは」
海斗が言うと、女性も「こんばんは」と返した。
それだけだった。
女性は海の見える方へ歩いていった。
海斗が店へ入る。
「お疲れさま」
水月が言った。
「お疲れさま」
「もう仕事、終わったん?」
「午前で切り上げた」
水月の手が止まった。
「しんどかった?」
「朝は少し。今は大丈夫」
海斗は言い直さなかった。
今の大丈夫は、状態を確かめて出た言葉だった。
「昼、食べた?」
「茄子の煮浸しと、ご飯」
「それだけ?」
「豆腐も食べようと思ったけど、足りたからやめた」
「ほな、今、腹減ってる?」
「少し」
水月は佐知を見た。
「甘鯛、一尾残ってる」
「知っています」
「焼く?」
「私に聞いていますか」
「客として食べる言うてたやろ」
佐知は時計を見た。
「これから焼くと、片づけが遅くなります」
「ほな、明日にする?」
「お腹は空いています」
「どっちや」
「焼いてください。片づけは三人でやりましょう」
水月は最後の甘鯛を冷蔵庫から出した。
客へ出したものより少し小さい。
塩を振り、焼き台へ載せる。
海斗が、空いた席の器を下げ始めた。
「営業中には触らんで」
「もう終わったよね」
「まだ暖簾出てる」
佐知が入口へ行き、暖簾を外した。
「これで終わりです」
「佐知さんまで」
「三人で食べるんでしょう」
佐知は戸を閉めた。
客席の照明を一つ落とす。
水月は甘鯛を焼きながら、残った冬瓜を温めた。
ご飯は二人分しかない。
海斗と佐知へ半分ずつ盛り、自分は食べないと言った。
「水月は?」
海斗が尋ねる。
「昼の賄い、遅かったから」
「旅行のときみたいに、あとで食べたくならない?」
「そのときは卵焼く」
「甘い方?」
「甘ない方」
三人分の膳を整えた。
甘鯛は身を分け、一尾を三つの皿へ載せる。
大きさは揃っていない。
佐知の皿に尾に近い部分。
海斗の皿に腹。
水月の皿には、骨の多い頭側。
「食べへん言うたやろ」
海斗が言う。
「味見や」
「それを食べるって言うんじゃない?」
「少しだけや」
三人はカウンターへ並んで座った。
厨房には、洗い物が残っている。
明日の仕込みも少しある。
それでも、先に食べることにした。
「今日の方、予約なしやったん?」
海斗が尋ねる。
「そうです」
佐知が答えた。
「店の前を何度か通っていました」
「声、かけた?」
「いいえ。開店してから、ご自分で入ってこられました」
「そうなんだ」
海斗は甘鯛を一口食べた。
「谷口さんの魚?」
「分かる?」
水月が尋ねる。
「源治さんの魚と違うかは分からない。今の仕入れ先が谷口さんだから聞いただけ」
「何や」
「味はおいしいよ」
「もっと具体的に」
「今日は客やから、言わん約束やろ」
海斗が言う。
「それ、東京だけや」
「伊根では分析しないといけないの?」
「一つだけ褒めたらええ」
海斗はもう一口食べた。
「皮がおいしい」
「普通やな」
「褒めても文句を言う」
佐知が冬瓜を食べた。
「生姜が合います」
「さっきの客も、生姜を追加してた」
水月が言う。
「ほな、生姜増やした方がええかな」
「一人が追加しただけです」
「せやけど」
「明日、同じ量で出して、ほかの方の様子を見てからでもいいと思います」
「分かった」
水月は頭側の身を骨から外した。
以前なら、客が一度求めたものをすぐに献立へ反映したかもしれない。
客の希望へ応えることを、自分の仕事だと思っていた。
今は、次の日まで待つことができる。
食事を終え、三人で片づけた。
海斗が器を洗い、佐知が拭く。
水月は残った食材を冷蔵庫へ入れ、明日の分を確かめた。
冬瓜は昼の四人分。
茄子は十分にある。
甘鯛はない。
朝、谷口から何も来なければ、宮津から届く鯖を使う。
「明日、私は十一時に戻ります」
佐知が言った。
「美代さんと、ちゃんと話せそう?」
水月が尋ねる。
「話してみないと分かりません」
「もし、月二回せな場所貸さん言われたら」
「潮路ではやりません」
「私には相談する?」
佐知は布巾を畳んだ。
「相談したいと思ったら、します」
「分かった」
「聞かないんですか」
「何を?」
「大丈夫か、とか」
水月は佐知の顔を見た。
「大丈夫やなくても、自分で決めるんやろ」
「はい」
「ほな、何か必要になったら言って」
佐知は少し笑った。
「そのときは、お願いします」
片づけが終わり、佐知は帰った。
海斗と水月は、店の二階へ上がった。
舟屋だった頃に使われていた狭い部屋を改修し、海を見られる小さな場所にしてある。
東京で買った台所の写真集は、今も家ではなく二階の棚に置かれていた。
水月は最初、仕事へ持ち込まないと言っていた。
何度か家で眺めたあと、自分で静波へ運んだ。
店に置きたいと思ったからだ。
窓の外には、夜の伊根湾が広がっている。
家々の明かりが水面へ落ち、波に合わせて形を変えていた。
二人は低い椅子へ座った。
「今日、何年前か分かる?」
海斗が尋ねた。
水月は考えた。
「何が?」
「僕が初めて伊根へ来た日」
「今日やった?」
「正確には、たぶん明日。携帯電話に、潮路の写真が残ってた」
「写真、撮ってたん?」
「次の日の朝に。最初の日は、何も撮ってない」
「何年前?」
「四年前」
水月は窓の外を見た。
四年前の海斗は、一人で静波へ入ってきた。
顔色が悪く、痩せていた。
料理を出しても、しばらく箸を止めていた。
仕事のことを思い出したと話し、旅行かどうかも分からないと言った。
水月は詳しい事情を尋ねなかった。
優しさからではない。
何を聞けばよいのか分からなかっただけでもある。
客の事情へ踏み込まないことが、自分を守る方法だった。
それでも、あの日に出した料理を海斗が食べたことは覚えている。
骨だけを残した甘鯛。
琥珀色の出汁。
帰り際に、明日も開いているかと尋ねた声。
「今日の人、あのときの僕みたいだった?」
海斗が尋ねた。
「分からん」
「分からない?」
「一人で来たことと、同じ席に座ったことくらいや。ほかは何も知らん」
「そうだね」
「海斗は、似てると思った?」
「少しは」
海斗は水面へ目を向けた。
「でも、似てることにしたくなかった」
「何で?」
「僕が勝手に同じだと思ったら、あの人の理由を奪う気がしたから」
水月はその言葉を考えた。
「理由、ないかもしれへんしな」
「うん。夕食を探していただけかもしれない」
「宿の料理が合わんかったとか」
「昼を食べすぎて、あまり空腹じゃなかったとか」
「生姜好きなだけかもしれへん」
二人は笑った。
海斗は椅子の背へ身体を預けた。
「四年前の僕も、誰かに見られたら、ただの旅行者だったんだろうな」
「私には、腹減った客やった」
「腹、鳴ったからね」
「大きかったな」
「忘れてほしい」
「無理や」
「水月は笑わなかった」
「笑ったら帰るかもしれんと思った」
「そこまで考えてたの?」
「今、考えた」
海斗が笑った。
しばらく、二人は黙って海を見た。
静かなわけではない。
下の道路を車が通る。
どこかの家で戸を閉める音がする。
沖から戻る舟のエンジンが聞こえる。
水が舟屋の下へ当たり、離れていく。
「今日、午前で仕事やめられてよかった」
海斗が言った。
「まだ、しんどい?」
「少し疲れてる。でも、朝より楽」
「明日は?」
「朝になってから決める」
「仕事、あるやろ」
「ある。休むかどうかを、朝決める」
「前やったら、今、全部予定変えてたな」
「うん。休むと決めたら、遅れを取り戻す予定まで作ってた」
「今は作らへんの?」
「作りたくなるけど」
海斗は自分の両手を見た。
「また同じようになることは、あると思う」
「何が?」
「通知を見て苦しくなること。仕事を引き受けすぎること。休むのが怖くなること」
水月は答えなかった。
「治ったことにした方が、楽なときもある。でも、たぶん違う」
「違ってええんちゃう」
「うん」
海斗は水月を見た。
「水月も、店を抱え込みすぎること、まだあるでしょう」
「今日、空席を知らせんかった」
「どうして?」
「分からんかったから」
「埋めたくなかった?」
「それもある。食材余るんは嫌やけど、空いたらすぐ誰か探すんも、何か疲れた」
「結局、一人来たね」
「うん」
「もう一席は空いたまま」
「甘鯛、うちらで食べた」
「おいしかった」
水月は足を伸ばした。
「空いた席、全部埋めんでもよかったんやな」
「でも、明日は載せるかもしれない?」
「載せたいと思ったら」
「うん」
海斗は、窓の桟へ手を置いた。
木は夜気で冷えている。
「源治さん、今頃寝てるかな」
「畑、七時からやからな」
「陸君は?」
「まだ店やろ。京都は夜遅いから」
「佐知さんは、明日美代さんと話す」
「みんな、勝手に決めるようになったな」
「前から決めてたんじゃない?」
「私らが口出してただけ?」
「少しは」
水月が海斗の腕を軽く叩いた。
「海斗もやろ」
「うん。僕も」
湾の向こうで、一軒の明かりが消えた。
続いて、別の家の窓も暗くなる。
夜は一度に訪れるのではなく、家ごとに深くなっていく。
「帰る?」
海斗が尋ねた。
「もう少し」
「明日、早いでしょう」
「眠くなったら帰る」
「ここで寝ないでね」
「寝たら起こして」
「起こしていいの?」
「明日は仕事やから」
海斗は笑った。
二人はもうしばらく座っていた。
何かを話し続ける必要はなかった。
四年前、海斗は行き先を決められないまま東京を出た。
今も、先のことがすべて決まっているわけではない。
水月がいつまで静波を続けるのか。
海斗が今の仕事を何年続けるのか。
陸が京都の先でどこへ向かうのか。
佐知の昼食が月に一度のままなのか。
源治が畑仕事をいつまで続けるのか。
誰にも分からない。
決めていないことは、欠けていることではなかった。
海から風が入り、棚に置かれた写真集の頁を一枚だけめくった。
水月が立ち上がり、本を閉じる。
「帰ろか」
「うん」
二人は階段を下りた。
厨房の火を確かめる。
冷蔵庫の扉を確かめる。
裏口の鍵を確かめる。
水月は一度ずつ見て、それ以上は戻らなかった。
店の外へ出る。
海斗が戸を閉め、水月が鍵をかけた。
紺色の暖簾は、腕に抱えている。
明日の朝、また入口へ掛ける。
家へ向かう道の途中で、海斗が立ち止まった。
「どうしたん?」
水月が尋ねる。
「水の音」
舟屋の間から、波が岸へ届いていた。
強い音。
小さな音。
続けて寄せる波もあれば、長い間を置く波もある。
四年前の夜も、同じように聞こえていたのだろう。
同じ音ではない。
波も、風も、海へ出る舟も、あの頃とは違う。
「帰ろ」
海斗が言った。
二人は歩き出した。
家の窓には、朝に消し忘れた小さな明かりがついている。
水月が先に玄関を開けた。
「ただいま」
誰もいない家へ、声をかける。
海斗も続いた。
「ただいま」
窓の外では、波が舟屋の下へ寄せていた。
一つが離れると、次の波が来る。
そのどれもが、同じ場所から来たものではなかった。
それでも波は、夜の岸へ静かに届いていた。




