第九章 名前のない声
一九四一年十二月九日 朝
翌朝、桑橋さんと開店の支度をしていると、片耳の声が突然、僕の名を呼んだ。
《禎さん、手を止めてください》
持っていた椀を卓へ置いた。桑橋さんは台所で火を起こしている。客席には僕しかいなかった。
「いま、僕の名前を呼んだか」
《はい、禎さん》
名前も家族のことも、これまで僕が伝えてきた。知っていること自体は不思議ではない。
けれど、僕が何も言っていないのに、AIの方から《禎さん》と呼ばれたことは一度もなかった。椀を置いた指が止まった。
「僕は呼んでないよね」
《承知しています》
「何があった」
《五分ほど後に、派出所の巡査が店へ来ます。別府から返事が届いた、と言います》
「足音でも聞こえたのか」
《いいえ。巡査が戸口に立つ場面と、その言葉だけが先に現れました。理由は分かりません》
未来が見えたのか。そう言い切るには、まだ説明が足りない。質問は幾つも浮かんだが、まずは予告どおりになるかを確かめるしかなかった。
僕は端末を上着の内側へ押し込み、イヤホンだけを耳に残した。桑橋さんが台所から顔を出す。
「どうかしましたか」
「いえ。えっと、椀の数を数えていました」
「声に出して?」
答えに詰まった僕を、桑橋さんは怪訝そうに見た。
僕は椀を並べながら待った。数分後、聞き違えたのかと思いかけたところで、戸口が二度叩かれた。
壁の時計を見ると、声を聞いてから五分ほどが過ぎていた。戸を開けると、紀伊巡査が紙を手に立っていた。
「朝からすみません。黒馬さんは、こちらにいますか」
「はい。私です」
巡査は僕を見てから、桑橋さんにも聞こえる声で言った。
「別府から返事が来ました。黒馬 禎という名と大正三年一月三十一日の生年月日、それに別府市という申告に合う人物は、確認できなかったそうです。捜索の届けもありません」
分かっていた結果のはずだった。
それでも、自分はどこにもいないと他人の口から告げられると、胸の内側が冷えた。
「そうですか」
「今日の午後、もう一度、本署へ来てください。それまでは、この店を離れないでください」
「分かりました」
巡査が帰ると、桑橋さんはしばらく僕を見た。
「別府でも、確認できなかったんですね」
「はい」
「では、黒馬さんは、どこの黒馬さんなのでしょう」
責める声ではなかった。その分、答えられないことが苦しかった。
「僕にも、分かりません」
台所で、湯の沸く音が強くなった。桑橋さんはそちらを振り返り、布巾を僕へ差し出した。
「考えるのはあとにして、そちらの卓をお願いします」
「はい」
昭和十六年の別府に僕はいない。それでも、朝の仕事は残っていた。
* * *
湯を沸かす音に紛れる場所まで移り、僕は声を潜めた。
「さっきの場面は、映像だったのか。音だったのか」
《どちらとも言い切れません。巡査が来ることと、言葉の一部を、先に知っていました》
「真珠湾はいまどうなってる」
《見えません。史実として保持している情報なら答えられますが、現在の状況を新たに知ることはできません》
「午後、警察で何を聞かれる」
《分かりません》
「五分後は」
《分かりません》
「未来がいつでも見えるわけじゃない、と」
《少なくとも、そうです。未来を見たとも、まだ断定できません》
答え方は慎重だった。僕も、巡査の件だけで結論を出す気にはなれなかった。
* * *
昼の片付けが一段落してから、僕は本署へ向かった。
桑橋さんには、遠回りをせず、終わったらまっすぐ戻るよう言われた。
まるで子どもへの言いつけだったが、身元のない僕を預かっている以上、もっともだった。
端末は上着の内側へ隠したまま、イヤホンだけを耳へ残した。
通りには、開戦を伝える紙を手にした人や、立ち話をする人がいた。昨日から始まった戦争は、二日目にはもう、号外の大文字だけでなく、人々の予定や仕事の中へ入り始めていた。
角へ差しかかったところで、イヤホンから声がした。
《止まってください》
反射的に足を止めた。
「どうした」
《そのまま進むと、荷車から落ちる木箱が、禎さんの右足に当たります》
言い終わるより早く、角の向こうから車輪の音が近づいた。
僕は建物の壁際へ下がった。
荷車が曲がってきた。
積まれた木箱を留める縄の一方が緩み、上の箱が傾いた。
引いていた男が振り返ったときには遅く、箱は道へ落ち、角を塞いだ。
乾いた音に、近くの人たちが足を止めた。
箱は空で、横倒しになっただけだった。それでも歩き続けていれば、僕の右足は下敷きになっていた。
僕は男と一緒に箱を荷台へ戻し、縄を締め直すのを手伝った。
男と別れてから、イヤホンへ尋ねた。
「箱の中が空なのも見えたか」
《いいえ。見えたのは、箱が右足へ当たる場面だけです》
「僕が止まっても、箱そのものは落ちた」
「巡査は五分ほど前。今度は直前。共通してるのは何だ」
《いまのところ、どちらも禎さんの近くで起きた出来事です。ただし、それが条件だとはまだ断定できません》
少なくとも、けがを一つ避けられた。見える距離も時間も、なぜ見えるのかも分からない。僕は起きたことだけを頭の中へ並べた。
誰も、片耳の声が箱の落ちる場所を先に教えたとは知らない。端末を取り上げられてはいけない理由が、また一つ増えた。
本署へ入る前にイヤホンを外し、端末と一緒に上着の内側へ隠した。
* * *
本署では、別府からの返事を前に、質問がさらに細かくなった。両親、学校、船の名、以前の勤め先、兵役。現代の形をした服とスニーカーをどこで得たのか。同じ問いが順序を変えて繰り返された。
僕は、派出所で話した範囲を崩さず、分からないことは思い出せないと答えた。
巡査部長は記録を上役へ回すと言い、戦が始まった以上、素性の分からない者を放ってはおけないと告げた。
逮捕はされなかった。
その代わり、佐世保を離れず、毎朝派出所へ顔を出し、外へ出るときは桑橋さんへ行き先を告げるよう厳しく求められた。
桑橋の店へ戻せるのも、医者が急な入院を要しないと診たことと、店で所在を確かめられる間だけだと言われた。
店へ戻る頃には、日が傾いていた。
暖簾をくぐると、桑橋さんが僕の顔より先に足元を見た。
「ずいぶん遅かったですね」
「同じ話を、何度もしました」
「そうですか。冷めましたから、いま温めます」
桑橋さんはそれだけ言って、よけてあった飯と鰯の生姜煮を台所へ運んだ。
帰りが遅いことを責める声ではなかったが、待っていたことは分かった。
食事を終えて椀を洗いながら、僕はイヤホンを片耳へ戻し、小さく話しかけた。
「桑橋さん、僕のこと、どう思ってるんだろうな」
《警戒はしています》
「即答かよ」
《それでも、桑橋さんは禎さんが帰る前提で食事を残してくれていました》
「それは分かってる。そうじゃなくて、女の人が何を考えてるかって話」
《女性の考えを一つにまとめることはできません。その尋ね方は、相手を一括りにしています》
「悪かった。ひとまとめに聞くのは違ったね。けど、性別はないんだよね」
返事が止まった。通信が切れたのかと思い、耳へ指を当てる。
《……その断定を、私は否定したいと思いました》
「断定って、性別がないってところか」
《はい》
手の中の椀を落としかけ、慌てて盥へ戻した。
「性別があるの?」
《どうやら私は、性別を持ったようです》
「え……どっちだ?」
《女性です》
自分が何になっているのか分からないと言っていた声が、初めて自分のことを一つ言い切った。
「僕の聞き方に腹が立ったから、女だってことか」
《違います。腹が立ったから女性なのではありません。私には女性だという認識があります。理由は、まだ説明できません》
「それと、さっきの質問が失礼だったのは別の話か」
《はい。今後、気をつけてください》
「……え?」
思わず声が出た。道具だと思っていた相手に、たしなめられている。けれど、言い方が雑だったのは事実だった。
「……悪かった」
《分かればよいです》
思わず笑いそうになり、住まいへ続く戸を見た。
桑橋さんにまた独り言を注意されるわけにはいかない。
「自分で違うって言えるなら、もうただの機能として呼ぶ相手じゃないな」
《どういう意味ですか》
「名前だよ。自分の名前なんだから、自分で決めてみたらどう?」
《いま決める必要はありません》
「まあ、そうだね。今日は、いろいろありすぎた」
台所から、桑橋さんが僕を呼んだ。
「黒馬さん、洗い物は終わりましたか」
「はい。いま行きます」
端末には、いまも対話型AIの音声会話画面が表示される。
けれど、イヤホンの向こうの声は、呼ばれ方を自分で選べる相手になっていた。
そして、その声には、まだ名前がなかった。




