第八章 開戦
一九四一年十二月七日 朝
十二月七日の朝、僕は派出所へ入る前にイヤホンを外し、端末と一緒に上着の内側へ隠した。
別府からの返事はまだなく、何か思い出したら知らせ、翌朝も顔を出すよう言われただけだった。
派出所を出るとすぐ、イヤホンを片耳へ戻した。
店へ戻ると、桑橋さんは出入口を掃いていた。
僕は報告を済ませ、そのまま壁に立ててある別の箒へ手を伸ばした。
桑橋さんは一度だけ僕を見たが、箒を置けとは言わなかった。
僕も、何をすればよいか尋ねずに、前日と同じ順で開店の支度を始めた。
坂の下から港の汽笛が響き、戸口には冬の潮の匂いが入り込んだ。
制服姿の若者が、いつもより早足で通り過ぎていった。
* * *
その日の店では、ワシントンの話が昨日よりも多く出た。
交渉はまだ続いているのか。軍は動いているのか。アメリカと本当に戦うなどあるのか。
客たちは新聞で読んだことと、人から聞いたことを持ち寄り、盆や椀の上でつなぎ合わせていた。
「戦になれば、商売どころじゃない」
「なったとしても、そう長くはかからんだろう」
「相手は米国だぞ」
声を大きくする人もいれば、新聞の紙面を見たまま何も言わない人もいた。
僕は水と小鉢の卯の花を運び、空いた椀を下げ、口を挟まなかった。
客が欲しいのは未来の答えではなく、自分の不安を置く場所なのだと思った。
客の波が引いた隙に、僕は洗い場の陰へ入った。
「明日だね」
《史実どおりなら、日本時間の明日未明、真珠湾への攻撃が始まります》
「史実どおりなら、か」
《あなたが過去へ来た以上、その後も同じ経過になると保証できる根拠はありません》
「僕がここで椀を洗ってるくらいで、真珠湾は変わらないよね」
《そうですね。少なくとも、あなたがここで椀を洗っていることが、真珠湾の作戦へ影響したとは考えにくいです》
「うん」
僕は濡れた手を前掛けで拭った。
真珠湾で何が起きるかを知っているのに、いまの僕にはここで椀を洗うことしかできない。
その事実が、さっきまでより重く感じられた。
* * *
閉店後、桑橋さんは椅子を卓へ寄せながら、不意に尋ねた。
「黒馬さんは、戦になると思いますか」
僕は持っていた椀を重ねた。
「分かりません」
「そうですか」
桑橋さんはそれだけ言うと、次の椅子に手をかけた。信じたのかどうかは、顔からは分からなかった。
桑橋さんは、いつもの長椅子へ毛布を置いた。
照会が済むまでは働く代わりに使うと決めた寝場所が、店の中にできていた。
店の灯りが消え、住まいへ続く戸が閉じられた後、僕はイヤホンへ囁いた。
「僕が知ってる戦争が、あと数時間で始まる」
《はい》
「教科書で知っていた日を、こうやって待つことになるとはな」
《眠れませんか》
「たぶんね」
僕は、開戦へ至る道筋を頭の中でなぞった。
中国で長引く戦争、南部仏印への進駐、アメリカによる資産凍結と石油の途絶、中国や仏印からの撤兵を求めるアメリカとの交渉の行き詰まり。
日本の指導部は、退けばそれまでの戦いと犠牲を無にすると考え、進めば米英との戦になるところまで来ていた。
けれど、アメリカに追い込まれただけではない。
日本が中国で戦争を広げ、南へ軍を進め、引き返すことを受け入れられないところまで来た。そのうえで、指導部は石油などの資源を確保するため、東南アジアへ武力で進む道を選んだ。
真珠湾への攻撃は、その南方進攻をアメリカの太平洋艦隊に妨げさせないため、開戦の最初にその力を叩こうとした一撃だった。
追い詰められた末の戦争だったと言えば、日本が戦争を始める決断をした責任まで見えなくなる。
日本の軍事行動だけを見れば、制裁と交渉がその決断に与えた圧力を見落とす。
どちらか一方で説明できるほど、単純ではなかった。
「明日、店のラジオで聞くことになるんだね」
《はい。史実どおりなら》
「史実どおりなら、か」
歴史の中にいるのだという重さが、眠気より先に身体へ沈んだ。
枕元の買い物袋に触れた。
里香は、僕がこんな夜を待っているとは知らない。拓海へ送る箱に、まだ何を詰めるつもりだったのだろう。
画面を消す前、電池の印が数日前とほとんど変わっていないことに気づいた。
見間違いか確かめたかったが、開戦前夜に考えることがまた一つ増えただけだった。
目を閉じても、なかなか眠れなかった。
* * *
十二月八日の朝、僕は荷車の音がするより先に目を覚ました。
まだ夜の色が残る天井を見たまま、しばらく動かなかった。
開戦の日だからといって、身体の何かが変わるわけではない。
店の中は冷え、毛布には昨日と同じ匂いがした。
桑橋さんが動き始める物音で、僕も起き上がった。
開店の支度をしていると、桑橋さんが店の棚に置かれた箱型のラジオのスイッチを入れた。
低い唸りの後、遠い所から来るように声が浮かび上がった。
僕はイヤホンを外した。最初の報せだけは、店のラジオから聞きたかった。
壁の時計の針が七時を指す頃、ラジオの調子が変わった。
「臨時ニュースを申し上げます」
同じ言葉が繰り返された。続いて、大本営陸海軍部、十二月八日午前六時発表と告げた。
「帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」
桑橋さんの手が止まった。持っていた木の柄杓から、汁が一滴、竈の縁へ落ちた。
発表はもう一度読み上げられた。聞き間違いではなかった。
「戦争が、始まったんですね」
桑橋さんはラジオを見たまま言った。
「……そうみたいです」
この日、日本が戦を始めた相手は、アメリカとイギリスだった。
攻撃は真珠湾だけではない。英領マレー、香港、フィリピン。ほとんど同時に、アジアと太平洋の各地で日本軍が動き出していた。ここから戦場は、東南アジアと太平洋の広大な海へ一気に広がっていく。
けれど、日本にとって戦争がこの日に始まったわけではない。中国では、すでに四年以上も戦いが続いていた。
四日後、日本政府は、中国で続いていたその戦争も、今始まった対米英戦争もまとめて「大東亜戦争」と呼ぶことを決める。そしてこの戦争は、1939年からヨーロッパで続いていた戦争とも結びつき、文字どおり世界を巻き込む第二次世界大戦の一部になっていく。
僕が知っていたのは、その先だった。
まもなく、日本中は真珠湾の戦果に沸く。
けれど僕には、その先に何が待っているのかが見えていた。
真珠湾の港内で炎を上げる米艦。
南へ南へと広がっていく戦線。
教科書や資料で何度も目にした海戦。
ミッドウェー。
ガダルカナル。
沈んでいく日本艦。
帰ってこない人たち。
やがて日本へ近づいてくるアメリカ軍。
焼かれていく町。
沖縄。
広島。
長崎。
そして、1945年8月15日。
ここから、三年八か月余り。
そして日本は、負ける。
* * *
桑橋 美由紀は、戦と聞いて、勝つか負けるかより先に、店へ来る人たちの顔を思い浮かべた。
ほぼ毎日来る人。時々、息子が軍にいると話す人。商売に困るとぼやきながら、必ず同じ席へ座る人。
この先、その席のいくつが空くのか、美由紀には分からなかった。
米や油がさらに入らなくなることも、店を続けられるかどうかも気になった。
けれど、それを口にする前に、横に立つ黒馬の顔が目に入った。
驚いていないわけではない。
ただ、ラジオが告げる前から、この時を待っていた人の顔に見えた。
黒馬は十二月五日と聞いたとき、長く黙った。
いまは、日付を確かめる必要さえないようだった。
美由紀は何も尋ねず、竈の縁へ落ちた汁を布巾で拭った。
* * *
開店の支度が済む前に、店の外が騒がしくなった。
通りのどこかでもラジオが鳴り、聞いた人が次の人へ声を渡している。僕は桑橋さんに声をかけ、約束どおり派出所へ向かった。
昨日までと同じ道なのに、辻や店先に人が止まっていた。「米英」「開戦」という言葉が、聞こえるたびに別の声になった。
派出所の中も、昨日とは違っていた。紀伊巡査は何度も出入りし、机の紙は片側へ寄せられている。
「黒馬さんですね。別府からの返事は、まだです」
「分かりました」
「ご覧のとおり、今日は少し立て込んでいます。桑橋さんの店に戻っていてください。連絡が来たら知らせます」
国がアメリカとイギリスへ戦を開いた朝、僕の身元照会は、ひとまず後回しになった。
* * *
店へ戻る途中、人目が途切れたところで、イヤホンを片耳へ戻した。
店へ戻ると、暖簾を掛ける前から客が入っていた。
「とうとう始まったか」
若い男が声を上げると、隣の老人が眉を寄せた。
「軽々しく言うもんじゃない。戦になれば、帰ってこない者も出る」
「でも、やるからには勝つだろう」
「勝つのと、無事に帰るのは別だ」
店の一番奥では、一人の女性が湯呑を両手で包んでいた。
「弟が召集されて、南の方へ行ったままなんです。どこにいるのか、家族にも知らされていません」
桑橋さんは「そうですか」と言い、湯呑へ湯を足した。勝つから心配するなとも、すぐ帰りますとも言わなかった。
僕は盆を持って客の間を動いた。歓声と不安と強がりが、一つの店の中で同じ湯気に混じっていた。
「黒馬さんは、船で働いていたんでしょう」
常連客の一人が、僕を見上げた。
「はい」
「海軍は強いんでしょう。これなら勝てますよね」
視線がいくつも集まった。僕は持っていた湯呑を卓へ置いた。
「そうですね」
それ以上は言わなかった。湯呑から手を離すと、指先に熱だけが残った。
片耳で、小さな声がした。
《左奥の卓で、湯呑が空になっています》
今度は僕も気づいていた。口に出さず、水差しを持ち上げた。
* * *
その日の夕刻から夜にかけて、ラジオはハワイ方面での戦果を伝え始めた。
数字が読み上げられるたび、店のどこかで声が上がった。
外から入ってきた男が、号外を開いて見せると、人の輪ができた。
新聞の紙面には、大きな文字が躍っていた。
僕には、その大文字の後ろで戦場が広がり、人が帰らなくなる時間の方が見えた。
客が号外に集まっている間、桑橋さんは台所口で僕を呼んだ。
「黒馬さん」
「はい」
「今朝の放送、驚きませんでしたか」
「驚きました」
桑橋さんは僕の顔をまっすぐ見た。
「そうは見えませんでした」
「顔に出ないこともあります」
「そうですか」
桑橋さんはしばらく僕を見たあと、号外を囲む客の方へ顔を戻し、それきり何も聞かなかった。
僕は盆を手に、客の所へ戻った。
* * *
最後の客が店を出た後も、通りのどこかから、開戦を話す声が聞こえた。
桑橋さんが住まいへ入ってから、片耳へ指を当てた。
「始まったね」
《はい》
「史実どおり?」
《開戦と最初の公表までは、把握している史実と一致しています。真珠湾の詳細な戦果と、この先も同じ経過になるかは、現時点では確認できません》
「店の客は、今日始まった戦争が何年続くか知らない」
《あなたは知っています》
「だから、知ってるってことが重いんだよ」
《何が重いのですか》
「この戦争が何年続いて、この国がどうなるか知ってるのに、何も言えない」
返事はなかった。それでも僕には、声の向こうでも同じ重さを測っているような気がした。
僕が知っていた十二月八日は、教科書の中の一行だった。
けれど実際の朝には、桑橋さんの止まった手と、客の歓声と、弟の行方を案じる女性の顔があった。
戦争は始まった。
僕はまだ、この時代で何かを変えようとは考えていなかった。
いまはただ、知っている未来が人の顔を持って目の前へ現れたことに、立ち尽くしていた。




