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AIは敗戦を知っている  作者: E


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第七章 記憶の空白

一九四一年十二月六日


佐世保警察署の玄関をくぐる前に、僕は片耳のイヤホンを外した。

端末と一緒に上着の内ポケットへ押し込み、外から形が分からないようにボタンを留める。

声が聞こえなくなっただけで、急に一人になった気がした。


中では何人もの警察官が行き交い、机の上には紙の束と帳面が積まれていた。

僕を連れてきた紀伊巡査は、奥の机にいた年上の警察官へ交番での話を伝えた。

巡査部長と呼ばれた男は、途中で二度、僕の服とスニーカーを見た。


「財布をなくしたと申し出られたそうですが、ご本人の記憶も一部抜けている、ということですね」


「はい」


「そこへお掛けください」


同じ話を、もう一度初めから聞かれた。

名前、生年月日、別府で育ったこと。船で働いたこと。陸で書類を扱ったこと。佐世保へ来るまでの道筋と、いまの住所、勤め先は思い出せないこと。学校、両親の名、船の名、兵役についても尋ねられた。


答えられることと『思い出せません』を分け、派出所で話した内容から外れないようにした。


巡査部長は交番から持ってきた紙と見比べ、さらに僕の薄いズボンとスニーカーの形、縫い目まで確かめた。どこで手に入れたのかと聞かれ、それも思い出せないと答えた。


ペン先が止まるたび、僕が作った空白の輪郭だけが濃くなった。

『思い出せません』を重ねるたび、自分の人生を少しずつ捨てているような気がした。


* * *


しばらくして、小さな革鞄を提げた男が来た。

巡査部長は、近くで医院を開いている医者だと紹介した。

僕は借りた上着を脱ぎ、端末の入った側を内側へ折って膝の上に置いた。


医者は頭に傷や腫れがないかを確かめ、瞳の動きを見て、脈を取った。手足を動かすよう言い、頭痛、吐き気、めまい、意識を失った覚え、酒を飲んだかを一つずつ尋ねた。


「どれもありません」


「今日は何日で、ここはどこですか」


僕は日付と場所を答えた。

今朝の食事と昨日の店での仕事にも答えられた。

佐世保へ来る前のことに質問が移ったところで、僕はまた同じ言葉を使った。


「思い出せません」


答えられることを確かめられるほど、答えられない部分だけがくっきり残った。


「家族はいますか」


医者に尋ねられ、里香と拓海の顔が浮かんだ。

名前を口にすれば、この時代の警察の帳面へ二人を存在させることになる。


「妻と、息子がいます」


「名前と居場所は」


喉が詰まった。覚えている。二人とも、はっきり覚えている。


「……思い出せません」


医者は追及せず、僕の目をもう一度見た。


「全部を忘れたわけではなく、ある時期の記憶が抜けているようですな。いまのところ、頭を強く打った跡も、すぐ入院させなければならない様子もない。ただし、原因までは分かりません。頭が痛む、吐く、急にぼんやりするようなことがあれば、すぐ知らせてください」


「分かりました」


医者は巡査部長へ、当面は誰かの目が届く場所で休ませるよう伝えた。

病院へ送られなかったことにほっとした。同時に、安堵した自分へ後ろめたさを覚えた。


* * *


診察が終わると、今度は身元を確かめるための話になった。


「別府には照会します。あなたの名前と生年月日、それに別府市という申告に合う人物がいるか、捜索の届けが出ていないかを調べます」


巡査部長は、紙に書かれた僕の名と生年月日をもう一度読み上げた。

大正三年生まれの黒馬 禎を、昭和十六年の別府で探すことになる。


「返事が来るまで、ここにいなければなりませんか」


「医者は、すぐ入院させる状態ではないと言っています。桑橋さんが今夜も店へ置くと言ったのなら、ひとまずそこへ戻って構いません」


胸の内側で息を吐いた。


「照会が済むまでは佐世保を離れず、桑橋さんの店にいてください。外へ出るときは桑橋さんへ行き先を伝え、記憶が戻ったらすぐ連絡をください。また明日の朝も、あの派出所へ顔を出してください」


「分かりました」


「それから、財布を落としたという話ですが」


巡査部長は、最初の紙を指で押さえた。


「どこから来たかも覚えていないのなら、本当に財布を持っていたのかも確かではないでしょう」


「……はい」


「この届けは、記憶が戻ってから改めて出してください」


僕の嘘から始まった紛失届は、受理されなかった。

安心していいのか、情けなく思うべきか分からなかった。


所持品についても尋ねられた。

僕は、桑橋さんから受け取った小銭と借り物の上着があり、残りの荷物は店へ置いていると答えた。紀伊巡査が、上着は桑橋の店の物だと補った。


巡査部長は折り畳んだ上着の外側へ手を当てた。端末のある側を僕が膝へ押しつけていたせいか、内側まで開かせることはなかった。


調べられなかったのではない。たまたま、そこまでされなかっただけだ。


巡査部長は書類を別の警察官へ渡し、上役にも報告すると告げた。

身元の分からない男が、軍港の街に現れたのだから当然だった。


上着を着直すと、内ポケットの端末が胸へ当たった。冷たい重みが、さっきまでより大きく感じられた。


* * *


美由紀が一人で店へ戻ったのは、昼前だった。

入口脇には、黒馬の買い物袋が残っている。

美由紀は中を見ようとは思わず、客の足が当たらない場所へ寄せた。


警察へ渡したのだから、店へ戻るかどうかは黒馬と警察が決めることだった。

身元を保証したつもりもない。

それなのに、上着をまだ返してもらっていないと、自分から帰ってくる理由を作った。


買い物袋の口は、黒馬が出ていったときのままだった。

空腹だったはずの男は、家族へ持って帰る物だと言って、袋の食べ物に手をつけなかった。


美由紀は昼飯をすませると、黒馬のために飯と里芋の甘煮を一人分だけ残した。


* * *


店へ戻ったのは、昼をずいぶん過ぎてからだった。

桑橋さんは僕の姿を見ると、手にしていた盆を卓へ置いた。

警察官が一緒ではないことと、借りた上着を着ていることを確かめるように、上から下まで一度見た。


「戻ったんですね」


「はい。遅くなりました」


「お腹は」


そう聞かれた途端、腹が鳴った。

警察署では今朝食べた物まで尋ねられた。それでも、腹が減っていないかと気にかけた人はいなかった。

桑橋さんの目元が、少しやわらいだ。


「食べてから働いてください。昼の分まで、しっかりお願いします」


「ありがとうございます。本当に、何度もすみません」


「もう謝らなくていいです。冷めないうちに食べてください」


「はい」


台所へ向かう桑橋さんの背中を見ながら、ようやく帰ってきたと思った。

二日前まで名前も知らなかった人の食堂が、昭和十六年で僕を待つ唯一の場所になっていた。


食事のあと、洗い場へ入る前にイヤホンを耳へ戻した。


「聞こえる?」


《はい》


「警察署でのこと、聞こえてた?」


《はい。上着の内側から、会話の多くを聞いていました》


「別府へ照会するそうだ」


《あなたが申告した名前、生年月日、別府市という情報に合う人物が、確認される可能性は低いと考えます》


「そりゃそうでしょ」


警察は、僕の帰る家を探している。


けれど、里香も拓海も、まだこの世にいない。


この時代で帰る場所は一つ増えたのに、僕の身元はどこにもなかった。


その日の閉店後、桑橋さんは、照会の返事が出るまでのことを初めて言葉にした。


「朝から店を手伝ってくださるなら、食事は出します。夜も、あの長椅子を使ってください」


「ありがとうございます」


「どちらも、働いてもらう分です。借りが増えるとは思わなくていいですから」


その言葉で、食事と寝場所は施しではなく、ひとまず仕事との交換になった。

いつまで続くかは分からない。それでも、明日の朝に戻る理由ができた。


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