第六章 身元のない男
一九四一年十二月六日 朝
財布を落とした。
桑橋さんへそう言った。自分でついた嘘を届けるため、僕は朝から交番へ行くことになった。
現代の財布は買い物袋の奥へ入れ、袋ごと店へ置いていくことにした。紙幣も硬貨も、免許証もカードも、届け先の時代が違う。
端末は、桑橋さんから借りた厚手の上着の内側へ隠した。
片耳のイヤホンは耳の陰へ収める。
どちらも店へ置いていくことを考えたが、僕のいない間に見つかれば取り返せない。身につけたまま隠す方を選んだ。
《所持品を確認される可能性があります》
「分かってる。けど、ここに置いていくのも危ない」
桑橋さんが住まいで支度をしている間に、声を潜めた。
「交番で聞かれそうなことを、一つずつ確認しよう」
《はい》
「名前は黒馬 禎。出身は大分県別府市。誕生日は一月三十一日」
《年齢はどうしますか》
「二十七でいく」
《1941年12月時点で満27歳なら、1914年1月31日生まれです。当時の元号では大正3年です》
「大正三年」
昭和十六年から二十七年を引けば、大正三年になる。算数の答えは簡単だった。
だがその年に自分が生まれたことにするのは、簡単ではなかった。
「覚えているのは、名前と年、別府で育ったこと、船で働いていたこと。その後、陸で書類と人を扱う仕事をしていたことまでだ」
《覚えていないことは》
「ここへ来た道、今の住所、勤め先、兵役。聞かれたら、思い出せないと答える」
《部分的な記憶喪失を装うということですか》
「未来のことを言えないのは本当だからね」
《言えないことと、思い出せないことは同じではありません》
「分かってる。でも、海軍にいたなんて嘘をつくよりはましだ」
そう言いながら、ましな嘘なら嘘でなくなるわけではないことも分かっていた。
そこへ、住まいから桑橋さんが出てきた。
「何かおっしゃいましたか」
「いえ、何でもありません。行きましょうか」
* * *
桑橋さんと交番へ向かった。桑橋さんは買い出し用の包みを持っていた。
現代なら知っているはずの街なのに、曲がるたびに新しい景色が現れた。通りには、仕事へ向かう男たちと、荷物を抱えた女性、制服姿の若者が混じっていた。
道を行く誰の顔にも、二日後にアメリカとの戦争を迎える印などなかった。
当たり前だった。
ここにいる人たちは、後世の教科書につけられる見出しを知らずに暮らしている。
建物の前の看板には、「巡査派出所」とある。昨夜、桑橋さんが使った言葉が、今度は文字になっていた。
桑橋さんはためらわずに入り、僕も後へ続いた。中にいた巡査は、桑橋さんの顔を見ると軽くうなずいた。
「おはようございます。今日はどうしました」
「紀伊さん、こちらの方が財布を落としたそうです。場所もよく分からないようなので、連れてきました」
巡査の視線が僕へ移った。厚手の上着は桑橋さんの店の物だが、その下のズボンとスニーカーは現代のままだった。
「そこへ腰掛けてください」
「はい」
巡査を前にすると、仕事で名乗るときの言葉が自然に出た。
「私は、黒馬 禎と申します」
「てい、というのはどう書きますか」
「しめすへんに、貞の字です」
巡査は手元の紙へ名前を書いた。
紙に残されると、その三文字が自分の名前ではないように見えた。
* * *
最初に尋ねられたのは、いつ財布がないことに気づいたのか、どこを歩いたのか、色と形、中身は何かということだった。
「一昨日の夜、食事をしようとして、ないことに気づきました。黒い革の財布で、中には数円ほど入っていたと思います」
「どこで落としました」
「佐世保川に近い道だと思います。それより前のことが、はっきりしません」
巡査のペン先が止まった。
「はっきりしないというのは」
「どこから、どうやって佐世保へ来たのか、思い出せません」
「佐世保へ来たのは、いつです」
「一昨日の夜だと思います」
「一昨日というのは、確かですか」
「昨日、こちらの桑橋さんの店で日付を教えてもらいました。その前の夜に、川の近くにいたことは覚えています」
「その前は」
「思い出せません」
巡査は僕の顔を見て、それから桑橋さんへ視線を移した。
「昨日は、日付も分からなかったのですか」
「はい。私が五日だと教えました」
「生年月日は」
「大正三年一月三十一日です」
「本籍は」
「大分県別府市です」
「町名と番地は」
口にしかけて止まった。昭和十六年と現代で、同じ町名と番地が使われている保証はない。
「……その先が、どうしても思い出せません」
「仕事は」
「長く船で働いていました。その後は、陸で書類と人を扱う仕事です。そこまでは覚えています」
「勤め先は」
「思い出せません」
「兵役は」
「それも思い出せません」
「船で働いたと言いましたね。何の船です」
「船の名までは、思い出せません」
巡査はペンを置いた。
答えを拒んでいるのではなく、覚えていないと言えば、少しは理解してもらえると思っていた。だが、空欄が減るわけではなかった。
「名前と生年月日、出身地、昔の仕事は覚えている。最近のことと、今の住所や勤め先が抜けている。そういうことですか」
「はい」
「頭を打った覚えは」
「ありません」
「頭痛や吐き気は」
「ありません」
巡査は財布の届けを書いていた紙を脇へ置いた。
「財布より先に、あなた自身のことを確かめた方がよさそうです」
* * *
「ここ二日は、桑橋さんの店にいたのですか」
僕が答える前に、桑橋さんが口を開いた。
「一昨日の夜に初めて来ました。食事の代わりに片付けをしてもらって、昨日も一日、店を手伝ってもらいました」
「この人の身元を、保証できますか」
桑橋さんはすぐには答えなかった。
「それはできません。私が知っているのは、黒馬さんと名乗ったことと、順番を教えれば、きちんと働く人だということだけですし……」
僕は桑橋さんを見た。庇ってくれたわけではない。確かに目にしたことを、そのまま話してくれた。
「今夜も泊めるつもりですか」
「はい。少なくとも今夜までは、店の長椅子を使ってもらうつもりです」
巡査はしばらく考えた。
「ここでは詳しく調べられません。本署まで一緒に来てもらいます」
「逮捕ですか」
「違います。ただ、身元も住所も分からず、記憶も曖昧な方を、そのままにはできません。本署で改めて話を聞き、医者にも診てもらいましょう」
財布を落としたという嘘一つが、身元照会と医者の診察にまで広がってしまった。
桑橋さんが僕を見た。驚きはしたが、巡査へ食い下がりはしなかった。
「どのくらいかかりますか」
「それは、話と診察が済んでみないと分かりません」
「分かりました」
桑橋さんは僕へ向き直った。
「黒馬さん。荷物は、そのまま店に置いておきます」
「すみません。面倒なことに巻き込んでしまって」
「あなたがどんな人か、私にはまだ分かりません。ただ、見たことはそのまま話しました」
「はい」
「でも、その上着はまだ返してもらっていません」
桑橋さんの口元が、ほんの少しだけ上がった。
「帰ってきたら、今日も働いてください」
胸の奥に張りついていたものが、少しだけ緩んだ。借り物の上着が、戻ってくるための約束になった。
「分かりました。戻ります」
巡査に続いて戸口へ向かうと、イヤホンから小さな声がした。
《警察署では、派出所より詳しく所持品を調べられる可能性があります》
分かっている。
そう返したかったが、巡査がすぐ横にいる。
僕は口を閉じたまま、上着の内側へ腕を寄せた。買い物袋も、現代の財布も、桑橋さんの店に残してきた。
けれど、一番見つかってはならない物だけは、胸元にある。
昭和十六年十二月六日。
僕は未来を内ポケットへ隠したまま、警察署へ向かった。




