第五章 一日分の居場所
一九四一年十二月五日 朝
通りを行く荷車の車輪が、がたがたと路面を鳴らす音で目が覚めた。
どこにいるのか思い出すより先に、長椅子から身体を起こした。
若くなった身体は、毛布の中へ戻りたいという四十二歳の気持ちを無視して、すぐに動いた。
店の中はまだ薄暗い。
板戸の隙間から入る冷気が、昨夜の温かさを少しずつ押し出していた。
僕は枕元の買い物袋を確かめ、次にポケットへ触れた。端末もイヤホンもある。
住まいへ続く戸が開き、桑橋さんが現れた。
昨夜と同じように髪をまとめていたが、今朝はまだたすきを掛けていない。
僕が起きているのを見ると、長椅子と毛布へ目をやった。
「眠れましたか」
「はい。おかげさまで」
本当は何度も目を覚ました。けれど、冬の路上で夜を明かすことに比べれば、眠れたと言ってよかった。
「毛布は畳んで、そこへ置いてください。顔を洗うなら、裏に水場があります。掛けてある手拭いを使ってください」
「分かりました」
昨夜のように戸口で言葉を選ぶ声ではなかった。朝の仕事を教える、店の人の声だった。
顔を洗って戻ると、壁の日めくりが目に入った。昨夜は暗くて気づかなかった。
紙の上には昭和十六年十二月、その下に五と大きく刷られている。
念のため、桑橋さんへ尋ねた。
「今日は、十二月の何日ですか」
桑橋さんの手が止まった。
「五日です」
「五日……」
「昨日から、日付も分からないままだったんですか」
「はい」
桑橋さんは心配そうに僕の顔を見たが、それ以上は聞かなかった。
* * *
桑橋さんは椀を並べ、湯を沸かしながら、昨夜の話を少しずつ聞いた。
「昨日、財布を落としたと言っていましたね」
「はい」
「届けは出しましたか」
「まだです」
「それなら、派出所へ届けた方がいいですよ」
派出所。交番のことだと、すぐ分かった。
僕が小さい頃は、周りの大人もまだそう呼んでいた気がする。意味は懐かしいほど分かるのに、いまはその言葉の方が現役なのだ。
ポケットの財布が、急に存在感を増した。
「そうします」
言うしかなかった。
桑橋さんは椀を並べながら、昨夜僕が洗った食器へ目をやった。
「お金もなくて、行くところも決まっていないのなら、今日一日、うちを手伝いませんか」
僕は布巾を持つ手を止めた。
「いいんですか」
「食事は出します。働いた分も、少しですが渡します。今夜のことは、仕事が終わってから考えましょう」
「ありがとうございます。本当に助かります。ぜひ、お願いします」
思ったより大きな声が出た。食事だけでなく、この時代で初めて、一日分の居場所まで与えられたのだ。
桑橋さんは壁の木釘に掛けてあった、色の褪せた厚手の上着を手に取った。袖口には、何度も繕った跡がある。
「店で仕事をするときに使う物です。これを着てください。その格好では寒いでしょう」
「お借りします」
袖を通すと、肩回りが少し窮屈だった。それでも腕を覆う布があるだけで、身体の力が抜けた。
* * *
開店前の仕事は、昨夜の片付けより多かった。
卓と椅子を拭き、入口を整え、届いた里芋とごぼうの荷を台所へ運んだ。
「そこではありません。右です」
「すみません」
「はい、そこです」
桑橋さんの指示は短かったが、言い方に棘はなかった。僕も、謝るより先に置き場所を覚えるようにした。
ひと通り準備が終わると、桑橋さんが卓へ湯呑を二つ置いた。
「客が来る前に、少し休んでください」
桑橋さんが台所へ戻ったのを見て、僕は厚手の上着の内側から端末を取り出し、片耳にイヤホンを着けた。
画面の日付は2026年8月16日になっていた。時刻は昨夜から進み続け、店の時計より数分遅れている。
「聞こえる?」
《はい》
「今日は十二月五日だ」
《確認しました》
「僕たちが話してた日と、ほとんど同じだね」
《小説では12月5日頃を案としていました。一致が偶然かどうかは判断できません》
「そうだろうね」
背後で床板が鳴った。
振り返ると、桑橋さんが盆を持って立っていた。視線は僕の顔ではなく、手の中の黒い端末へ向いている。
「それは何ですか」
隠せば、かえって不自然になる。
考える時間もなく、最初に浮かんだ答えを口にした。
「時計です」
桑橋さんは端末と、壁の時計を見比べた。
「そんなに大きな時計なのですか」
「計算もできます」
言ってから、説明を足した分だけ、時計から遠ざかった気がした。
「外国の物ですか」
「……はい」
桑橋さんは「そうですか」とだけ答え、盆を持ち直した。
「ずいぶん高価な物でしょう。仕事中はしまっておいた方がいいですよ」
「そうします」
端末をポケットへ戻した。計算もできる時計という説明は、いつか作り直さなければならない。
* * *
暖簾が掛かり、最初の客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
桑橋さんが声をかけると、男は店の中を見回し、僕のところで視線を止めた。
「おや。今日はお手伝いがいるんですね」
「ええ。黒馬さんです」
僕が頭を下げると、男も軽く頭を下げた。
「それは助かるでしょう。じゃあ、いつものをお願いします」
常連なのだろう。桑橋さんは聞き返さず、台所へ入った。
僕には、客が頼んだいつもの一品が何か分からない。今は盆と水を運ぶことから始めた。
二人、三人と客が増えると、店の中に幾つもの日常が重なった。
港の仕事帰りらしい男が遅番をぼやくと、隣の客が、また家内に叱られるぞと笑った。
そのそばでは、女性二人が手に入りにくくなった品の話をしている。
台所では、桑橋さんの返事と鍋の音が絶えず続いた。
ワシントンでの話し合いはどうなったのか、という声も聞こえた。
アメリカと戦になるのかと言う者がいれば、そんなことになれば商売にならないと返す者もいた。笑い声の隣で、椀を持ったまま黙り込む人もいた。僕は盆を持ったまま、一瞬だけ手を止めた。
この人たちが、アメリカとの戦争がまだ始まっていない日常を過ごせるのは、あと三日だった。
「黒馬さん、そのお膳を」
桑橋さんの声に呼び戻された。盆には、鯖の味噌煮と飯、汁、それに小鉢の金平ごぼうが載っていた。
「はい」
その先を考える暇はなかった。
水を求める声と、空いた椀を下げてくれという声が重なった。
僕は一方しか聞き取れず、椀を持って洗い場へ向かった。
《右奥の男性が、水を求めています》
反射的に耳へ手をやりかけ、盆を持ち直すふりへ変えた。
ベージュ色のイヤホンは小さく、耳の陰へ隠れている。こちらを覗き込む者はいなかった。
右奥を見ると、男が空の湯呑を持ち上げていた。僕は急いで水を運んだ。
店内で立ち尽くすわけにはいかず、そのまま仕事を続けた。
けれど、厚手の上着の内側に入った端末が、鍋や食器の音の中から、小さな声を拾ったことは忘れられなかった。
* * *
客の波が途切れ、桑橋さんが「今のうちに休んでください」と言って台所へ入った。僕は洗い場の隣で、片耳へ指を当てた。
「さっきの声、聞こえたの?」
《はい》
「スマホは服の内側だよ。あれだけ音もしてたのに」
《それでも聞き分けられました》
「前から、そんなことできたの?」
短い沈黙のあと、返事があった。
《少なくとも、私が認識している通常の機能には含まれていません》
通信なしで動くだけではない。店内の重なった声から、位置と用件まで分けている。
「自分が何になってるか、分かる?」
《分かりません》
いつものような回りくどい答えではなかった。ただ分からないと言われた。その短さが、いつもより人間に近く聞こえた。
「僕も分からない。とりあえず、さっきは助かったよ。ありがとう」
《はい》
その返事は、少しだけ安心したように聞こえた。そこまで考えて、僕は自分の受け取り方を疑った。
* * *
夕方、最後の客が出ていくと、店の中が急に広くなった。僕は椀を洗い、卓を拭き、椅子を揃えた。昨夜と同じ仕事なのに、今日は物の置き場所も、桑橋さんが次に何をしたいのかも、少しだけ分かる。
最後の布巾を絞ると、桑橋さんが僕の前へ小さな硬貨を置いた。
「今日の分です。おかげで助かりました」
「ありがとうございます」
「たくさんではありませんよ」
桑橋さんが、初めてはっきり笑った。口元がほころぶと、目元までやわらいだ。
戸口で僕を見定めていたときとは、まるで違う顔だった。つられて、僕の口元も緩んだ。
硬貨は、現代の財布に入っている金とは違う。この時代で、本当に使える金だった。
額よりも、自分で働いて得たことの方が重かった。
「今夜も、あの長椅子を使ってください」
思わず顔を上げた。
「ありがとうございます」
「明日の朝、買い出しの途中に派出所へ寄ります。財布の届けを出すなら、一緒に行きましょう」
さっきまで手の中で温かかった硬貨が、急に冷たくなった。
「……お願いします」
桑橋さんはうなずき、入口の片付けを始めた。僕も隣へ並んで手を動かした。
壁の日めくりは、十二月五日。真珠湾攻撃。
アメリカとの戦争が始まるまで、あと三日。
そして明日、僕は自分から警察へ行くことになった。




