第四章 一食を稼ぐ
一九四一年十二月四日 夜
明かりの残る通りへ出ても、すぐに人へ助けを求める気にはなれなかった。
僕は川へ戻り、タイムスリップした場所の周りを何度も歩いた。
大きな音がした辺りで、来たときと同じ向きに立ってみた。
音声会話もつなぎ直した。何を試しても、夏の佐世保は戻ってこなかった。
「もう一回、あの音がしたら戻れると思うか」
《判断できる情報がありません》
「音が原因じゃない可能性もある?」
《はい。タイムスリップと同時に聞こえただけで、原因ではない可能性があります》
「だよね」
分かっていた。
けれど、ほかに試せることがなかった。
端末の時計で確かめると、最初の異変から一時間以上が過ぎていた。
表示される日付は2026年8月15日のまま、時刻だけは進んでいる。
僕は時刻より、電池の印へ目をやった。
まだ余裕はある。
それでも、いつまで持つかは分からない。電源が落ちたあと、充電できる場所があるとも思えなかった。
「このまま使っていて、電池がいつまでもつか分かるか」
《現在の残量表示だけでは、正確には推定できません》
「ここでは充電もできない。必要なとき以外は画面を消す。会話も短くする。それなら、少しは延びるか」
《はい。画面表示と音声会話を減らせば、消費電力は抑えられます。ただし、どの程度延びるかは、端末の状態と今後の使用状況によります》
「結局、残量を見ながら使うしかないね」
《はい》
答えは慎重だった。
少し前なら、こんなふうに電池の先まで相談する相手だとは思わなかった。
僕はイヤホンを外し、端末と一緒にポケットへしまった。
返事が聞こえなくなると、不安になる。けれど、電池を惜しみながら機械に寂しさを埋めてもらうというのも、我ながら情けなかった。
歩き続けたせいで身体は温まっていたが、止まればすぐに冷気が入り込んだ。空腹も、気づかないふりができなくなっている。
買い物袋の中には、里香に頼まれた日用品と、拓海へ送る食品が幾つも入っている。
すぐ口にできる物もあった。袋の口へ手を入れれば、追加で頼まれた菓子の箱にも触れられた。食べてしまっても、誰に責められるわけではない。
拓海は、まだ生まれてさえいない。それでも箱から手を離した。あれは里香が選び、拓海へ送るつもりだったものだ。
いま開ければ、二人のいる場所へ帰る道まで一つ減るような気がした。
理屈ではない。非常食として残しておく方がよいという理屈は、あとから付け足した。
* * *
通りの端まで来たところで、煮炊きの匂いがした。
足が勝手に止まった。
明かりの漏れる小さな店があり、入口では一人の女性が短い暖簾を外していた。
中の客席に人影はない。もう店を閉めるところらしい。
女性は三十歳前後に見えた。
濃い色の着物に白っぽい前掛けを締め、たすきで袖を上げている。
黒い前髪はまっすぐに切りそろえられ、後ろ髪は仕事の邪魔にならないようまとめられていた。
こちらを見る黒目がちな目には、親しみより先に用心が浮かんでいた。四十二歳の記憶を持つ僕からすれば、まだ十分に若く、きれいな人だった。
こちらに気づくと、女性は一度だけ目を丸くした。
暖簾を持ったまま、僕の半袖とスニーカー、買い物袋へ視線を移す。
戸口に立ったまま、僕が用件を切り出すのを待った。
「もうおしまいです」
「すみません。注文ではないんです」
自分でも、注文でないなら何の用だと思う。女性は暖簾を腕に抱え直した。
「では、何ですか」
ここで曖昧にしても仕方がない。僕は頭を下げた。
「お金がありません。一食いただく代わりに、片付けでも洗い物でも、働かせてもらえませんか」
しばらく返事はなかった。
顔を上げると、女性は僕の手を見ていた。次に靴、買い物袋、もう一度顔を見る。
「食べる物なら、少し残っています。包みますから、持ってお帰りなさい」
食事だけ渡して帰す方が、この人にはずっと楽なはずだった。
けれど、何もしないでもらうことには、どうしても抵抗があった。
「ありがとうございます。でも、ただではいただけません。掃除だけでもさせてください」
女性は困ったように息をついた。
「どうして、そこまで」
「働けるのに、もらうだけでは落ち着かないんです」
女性は、後ろの通りへ一度目をやった。
「この近くの方ですか」
「いいえ」
「では、どちらへ帰るおつもりで」
答えが出なかった。女性は、その沈黙から何かを読み取ったらしい。
「帰るところはあるんですか」
「……ありません」
「お名前は」
「黒馬 禎です」
「てい?」
「はい。しめすへんに、貞の字です」
「お国は、どちらですか」
「大分の別府です」
「別府ですか」
女性は僕の半袖姿をもう一度見た。
「上着はどうしたんですか」
「なくしました」
「お金も?」
「財布を落としたようです」
未来の金しか入っていない財布は、ポケットの中にある。嘘は、口にした瞬間から重かった。
女性は買い物袋へもう一度目を向け、それから客席の裏手を振り返った。洗い場には、まだ食器が積まれている。
「仕事ができなければ、途中でやめてもらいます。それでもいいですか」
「はい」
女性は暖簾を店内の卓へ置いた。戸口の脇に、一脚だけ椅子が残っている。
「あの椅子を、中へ入れていただけますか。床を擦らないように」
僕は椅子を持ち上げ、床を擦らずに中へ運んだ。
椅子を置くと、女性が店の中を指した。
「そのまま中へどうぞ。まだ片付けがあります。皿を割らないでくださいね」
「分かりました」
「住まいへ続く戸の向こうには、入らないでください」
「はい」
* * *
買い物袋は、女性から見える入口脇へ置いた。
スマートフォンとイヤホンはポケットの奥へ隠した。明るい店内で端末を見られれば、食事どころではなくなる。
最初に渡されたのは、箒だった。
床には食べこぼしと小さな紙片が落ち、椅子はあちこちへずれている。
僕は床を掃き、椅子を揃えた。
終わる頃には、女性が運んでいた食器の山が洗い場へ積まれていた。
「次は、あれを」
客席の裏手にある洗い場には、大きな盥と、湯の入った桶が用意されていた。
僕は腕まくりをしようとして、半袖だったことを思い出した。
女性の口元がほんの少し動いた。笑みをこらえたのかもしれない。
食器を手に取ると、身体が先に動いた。
大きさごとに分け、欠けがないかを見て、手早く洗う。
艦でも学校でも、片付けは次の作業のためにするものだった。使う順番と数が分かるように置く癖は、時代が変わっても同じだった。
ただし、最初の一枚をすすごうとしたところで止められた。
「水をそんなに使わないで」
「すみません」
女性がやり方を一度見せた。僕は同じようにやり直した。現代の癖で余計なことをするより、この店のやり方に従う方が早い。
「前にも、こういう仕事を?」
「船で働いていました。今は陸の仕事です」
「船の何をしていたんです」
どこまでなら怪しまれずに話せるか考え、手が一度止まった。
「船の上で、道具を扱ったり、人の仕事をまとめたりしていました。今は陸で書類仕事をしています」
女性は横目で僕を見たが、それ以上は聞かなかった。代わりに、洗い終えた皿を一枚持ち上げ、裏表を確かめた。
「きちんと洗うんですね」
「それなら、よかったです」
女性は皿を元の場所へ戻した。褒めたつもりだったのか、まだ品定めをしているだけなのか、表情からは分からなかった。
洗い物が終わると、卓を拭き、残りの片付けをした。
頼まれていないところへは触れず、分からない物は聞いた。
四十二歳まで組織の中で働いてきた経験が、昭和十六年に来て最初に役立ったのが、食堂の閉店作業だった。
若い身体も役に立った。しゃがんでも腰が痛まない。重い物を持っても腕が素直についてくる。さっきまで嬉しさと寂しさを一緒に運んでいた身体が、いまは単純に便利だった。
* * *
桑橋 美由紀は、黒馬 禎と名乗った男の話を、まだ丸ごと信じたわけではなかった。
十二月に半袖で、見慣れない靴を履いている。
傍らの荷物は、紙とも布とも違う、薄く光を返す袋に入っていた。
袋の口からは、色鮮やかな文字や絵のある箱と包みが幾つも見える。
財布を落としたという話とも、きれいにはつながらない。
見たところ、二十代の後半だった。
受け答えは落ち着き、酔っている様子もない。
それだけに、金も行き先もなく、一食のために働かせてほしいという話が、かえって腑に落ちなかった。
美由紀は洗い場を教えながら、男の目の動きも見ていた。
住まいへ続く戸や竈、包丁へ視線を走らせないか。背を向けた隙に勝手なことをしないか。必要以上に近づいてこないか。
黒馬は買い物袋を美由紀から見える場所へ置き、戸の向こうへ入るなと言えば従った。
水の使い方を直されても、黙ってやり直した。
椅子の運び方も皿を洗う手つきも、見せかけには見えなかった。
美由紀は、今夜だけ飯を出すかどうかなら、男の言葉より、洗い終わった椀を見て決めようと思った。
* * *
最後の椅子を揃えると、女性が壁の時計へ目をやった。
僕には文字盤より、その視線の方が気になった。
働きが遅ければ追い出される。
そう思って待っていると、女性は台所へ入り、間もなく湯気の立つ椀と飯を運んできた。
「こちらへお掛けください」
言われた席へ座った。目の前に置かれたのは、温かい汁と飯、それにわずかな漬物だった。
「働いた分です。冷めないうちにどうぞ」
豪華ではない。けれど、湯気が顔へ触れた瞬間、腹が強く鳴った。
女性は聞こえなかったふりをして、向かいではなく一つ離れた席へ座った。自分の前には、白湯の入った湯呑を置いた。
「いただきます」
汁を一口飲んだ。熱さが舌から喉へ落ち、胸の内側へ広がった。味を考える前に、身体が次を求めた。飯を口へ運び、また汁を飲む。
「急がなくても大丈夫です。ゆっくり食べてください」
箸が止まった。
「すみません」
「謝ることではないでしょう」
僕は今度こそ噛んで食べた。
温かいものが腹へ入るだけで、考える力が少し戻ってくる。
さっきまで知らない時代の風景だった店内が、柱の傷や卓の染みまで見える、人の暮らす場所に変わっていった。
女性の視線が入口脇の買い物袋へ向いた。何かを尋ねかけ、少しためらった。
「その袋には……何が入っているんですか」
「家族に頼まれた日用品と、食べ物です」
女性は僕の空になりかけた椀と、入口脇の袋を見比べた。
「食べる物も、あるんですか」
「はい。でも、家族へ持って帰る物なんです。今はまだ、開ける気になれなくて」
「家族は、どこに」
これもすぐには答えられなかった。
方角で示せる場所ではない。けれど、黙ったままでは余計に疑われる。
「……遠いところです」
口にしてから、遠いという言葉では足りないと思った。約八十五年先にいる人を、どの方角で示せばよいのか分からない。
「待っているんですか」
「はい」
女性はしばらく僕を見た。半袖で、金もなく、家へ帰れないと言う男だ。それでも、笑うでも追い返すでもなく、白湯を一口飲んだ。
「なら、早く帰らないと」
「帰り方が分からなくて……」
それ以上は言えなかった。女性も、それ以上は聞かなかった。
食べ終えると、頭を下げた。
「助かりました。本当に、ありがとうございます」
「私も片付けが早く終わりました。お互いさまです」
その言い方に甘えきってはいけないと思い、もう一度、静かに頭を下げた。
女性は椀を受け取り、また僕の服を見た。
店の中にいても、身体を動かすのをやめれば寒さが戻ってくる。僕は無意識に両腕をさすっていた。
「行くところはあるんですか」
答える前に、入口の方を見た。外へ出ても、行く先はない。
「……ありません」
僕は下を向いた。女性は眉間へ指を当て、しばらく考え込んだ。
「店の隅でよければ、今夜だけです」
耳を疑った。
「本当に、いいんですか」
「ただし、住まいへ続く戸には掛け金をします。夜中に、決めた場所から出ないと約束してください」
「約束します」
女性は空の椀を重ねながら、小さく息を吐いた。
「このまま帰して、明日の朝、店の前で倒れられても困りますから」
「ありがとうございます」
女性は住まいへ続く戸を指した。
「お話は、明日の朝、改めて聞かせてください」
「分かりました」
女性は住まいへ戻りかけてから、何かを思い出したように足を止めた。
「まだ名乗っていませんでしたね。桑橋 美由紀です」
「桑橋さん。ありがとうございます」
桑橋さんは短くうなずき、古い毛布を取りに戸の向こうへ入った。
* * *
桑橋さんが持ってきた古い毛布を借り、壁際の長椅子へ横になった。
客席の灯りは消され、客席と住まいを隔てる戸が閉まった。
しばらくして、掛け金の触れ合う音がした。僕も、決められた場所から出るつもりはなかった。
枕元へ買い物袋を置き、イヤホンを耳へ戻した。端末の画面を最小限の明るさで点ける。
「聞こえてた?」
《はい。会話は聞こえていました》
「桑橋さん、僕を信用したわけじゃない。それでも食事を出して、寝る場所まで貸してくれた」
《桑橋さんは、自分の店を守る条件を明確にした上で、あなたを泊める決断をしました》
「分かってる。ありがたいよ」
《明朝、事情を説明する必要もあります》
「それも分かってる」
閉じた戸の向こうから、桑橋さんの声が飛んできた。
「独り言なら、もう少し小さな声でお願いします」
僕は慌ててイヤホンを押さえた。
「すみません」
返事はなかった。閉じた戸の向こうで、衣擦れ(きぬずれ)の音だけがした。
画面を消し、イヤホンも外して端末と一緒にポケットへ戻すと、店は暗くなった。
毛布には長くしまわれていたような匂いがしたが、冬の路上よりは何倍も温かい。
腹の中には、桑橋さんからもらった汁と飯が残っている。
枕元には、里香が拓海へ送るはずだった荷物がある。
落ち着いて考えると、空腹だけであそこまでしたわけではない気がした。
腹は減っていたが、この時代へ来て、まだ一日も経っていない。
その程度の空腹だけなら、普段の僕なら、知らない店の戸口で、働くから飯を食わせてくれと頼むところまではいかなかったはずだ。
家族のいる時代から切り離され、帰る場所も分からず、片耳の声だけを頼りに歩いていた。
だから、明かりの中に人がいるのを見たとき、腹を満たしたい以上に、誰かに声をかけたかったのかもしれない。
帰る方法は見つかっていない。正確な日付も分からない。明日の朝、何をどう説明するかも決めていなかった。
それでも、この時代へ来て初めて、今夜を越えられると思った。




