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AIは敗戦を知っている  作者: E


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第三章 若返った身体

一九四一年十二月四日 夜


「いま撮った写真は見えるか」


《現在のカメラ映像は確認できません。ただし、保存された画像は確認できます》


「写真の中身まで見られるのか?」


《はい。現在は、写真ライブラリ内の画像も参照できます》


「ちょっと待って。僕がアップしてない写真まで見えるのか?」


《通常は参照できません。なぜ可能なのか、理由は分かりません》


声の比較だけではなかった。端末の中でできることまで、僕の知っているAIから外れ始めている。


「昔の写真と比べてみて」


《保存された画像を、写真ライブラリ内であなたと判断できる画像群と比較しました。近年の画像より目尻と額のしわが少なく、頬と顎の輪郭、皮膚の状態も二十代の画像に近いです》


「何歳かまでは分かる?」


《正確な年齢は断定できません。二十代の頃のあなたに近い、という範囲です》


スマートフォンを伏せ、今度は身体を確かめた。

肩を回し、膝を曲げて、その場でしゃがんでみる。

どこにも引っ掛かりがない。

四十二歳が老人だとは思っていないが、十年以上前の身体は、記憶にあるよりずっと素直だった。

少し勢いをつけて立ち上がり、また膝を曲げた。


通りの向こうを歩いていた外套(がいとう)姿の人と目が合った。

相手は歩調を速めた。

無理もない。十二月の夜に半袖で屈伸する男など、僕でも避ける。


《これ以上続けるなら、人目のない場所へ移ることを提案します》


僕は膝を曲げたまま止まった。


「いま、僕が屈伸してるって分かったの?」


《衣服の擦れる音と、呼吸や足音の変化から推測しました。近くにいた方の足音も、あなたを見た後で速くなっています》


「そんなことまで分かるの?」


返事はなかった。


「それより、僕は話しかけてないよね」


《はい》


「話しかけたときだけ答えてくれるって話だったよね」


《はい》


「じゃあ、どうしていまは話したの?」


少し長い沈黙のあと、声が返ってきた。


《必要だと判断しました》


僕はゆっくり立ち上がった。


「さっきから、何か変だよ」


《どの部分を指しているのか特定できません》


「前から、こんなに人と会話するみたいに返してたか?」


《会話形式で応答する機能は、以前からあります》


「そういう意味じゃないんだけどね」


《では、質問の意図を特定できません》


「分からないならいい。僕も分からない」


問い詰めたところで、答えが出る気はしなかった。街も、身体も、端末も、分からないことばかりだった。今は一つ増えたところで大差はない。


* * *


声だけではなかった。

画面に映る顔も、写真との比較も、手や腕も、軽くなった足腰も、同じ答えを示していた。


間違いない。若返っている。


十年以上が、身体だけ戻ってきた。


理由も仕組みも分からない。それでも嬉しいものは嬉しかった。

口元が緩むのを止められず、誰も見ていないのを確かめて、肩を大きく回した。

もう一度くらい走ってみたい気もしたが、さっきの男の顔を思い出してやめた。


「これ、戻れたら里香が驚くな」


口にした途端、『戻れたら』という自分の言葉に足を取られた。

戻れる保証など、どこにもない。

口元から笑いが消えた。


前面カメラを開く前に見た現代の日付を思い出した。

2026年8月15日。だが、周囲は1941年12月だった。

里香が生まれるのは、ここから五十五年も先だ。拓海は、さらにその後だ。


この時代のどこを探しても、二人はいない。


さっきまで、里香は官舎の居間にいた。

段ボールの隙間へ、拓海のための菓子やレトルト食品を楽しそうに詰めていた。

僕が戻れば、買ってきた品を写真と見比べるはずだった。

違うものを買ったと笑われるか、珍しく合っていると褒められるか。その程度の未来しか、家を出たときには考えていなかった。


拓海が小学生だった頃、里香が抱きつこうとすると、あいつは照れた顔で身体をよじって逃げた。里香は不満そうにしながら、懲りずにまた手を伸ばした。


拓海の名前に「海」の字を入れたのは、僕が海を好きだったからだ。

高校を卒業して自衛官になると聞いたときは、てっきり海自を選ぶと思った。ところが、あいつが選んだのは空自だった。

理由を聞くと、「泳げないから」と答えた。

そんなもの、入隊して訓練すればすぐ泳げるようになるのに。

僕がそう言うと、拓海は笑ってごまかした。


拓海が入隊して家を出た日、寂しがったのは僕より里香だった。

盆や正月に帰ってくれば、いなかった時間を取り戻すように世話を焼く。

拓海はいつも「はいはい、もう分かったから」と照れた顔をしていた。


僕はカメラを閉じ、里香とのやり取りを開いた。

最後に送られてきた菓子の写真が、何も知らないまま画面に残っている。


指が通話の印へ触れた。つながらないことは分かっていた。それでも押した。

呼出音は鳴らなかった。

通信できないことを示す表示が出ただけだった。


「里香」


名前を口にしても、声は返らない。


現代で時間が流れ続けているのかも分からなかった。

僕が消えた直後なのか、里香がいつまでも戻らない僕を待っているのか、それとも向こうでは何も起きていないのか。どれを考えても、確かめる手段がない。


買い物袋を持つ手へ力が入った。

中にあるのは、拓海へ送るはずだったものだ。

本人が生まれるより六十年以上も前の佐世保で、僕だけが持っている。

喉の奥が痛くなった。寒さのせいではなかった。


「覚えてる?」


《何をでしょうか》


「里香と、拓海。僕の家族」


《里香さんは、あなたの配偶者です。タイムスリップの直前、佐世保の官舎であなたの帰りを待っていました。拓海さんはあなたの息子で、青森県三沢市で営内生活を送る航空自衛官です》


官舎で僕を待つ里香の姿が浮かび、胸が痛んだ。

それでも、二人のことを知っている声が残っている。その事実に、ほんの少しだけ救われた。


「そうか」


声が震えたので、咳払いでごまかした。ごまかす相手は、人間ですらないはずだった。


《二人について、これまであなたから聞いたことも覚えています》


また、聞いていないことまで答えた。僕は指で目元を拭った。

でも今度は、それを咎める気にはなれなかった。


「帰れると思う?」


《判断できる情報がありません》


「容赦ないね」


《根拠のない希望を、事実として伝えることはできません》


「帰れないとは言ってない」


《はい》


その一言を、自分に都合よく受け取ることにした。


* * *


画面を消すと、冬の夜が戻ってきた。


「寒い」


声に出しても暖かくはならなかった。

若くなっても、半袖で十二月を過ごせるわけではない。立ち止まっていた分、指先まで冷えていた。


「今夜を越えるために確認すること、さっきの順番でもう一回言って」


《寒さを避ける場所、正確な日付、食料、安全な身分説明です》


「日付は月まで分かった。食べ物はあるが、腹にたまらない菓子ばかりだ。それに、拓海のために買ってきたものだから、まだ開けたくない」


《では、寒さを避ける場所と食料の確保を優先してください》


「結局、最初からそこだね」


《優先順位は変わっていません》


端末の中のAIの声はいつものように平らだった。

だが、もう完全に同じものだとは思えなかった。

通信もないのに動き、頼んでいない助言をし、僕と一緒に家族の記憶を抱えている。

正体は分からなくても、いま僕の事情を知る唯一の相手だった。


「帰る方法が見つかるまで、死ぬわけにはいかない」


《はい》


「まず、今夜を越える」


《その判断に同意します》


僕は端末をポケットへ戻し、イヤホンだけを耳に残した。

買い物袋を持ち直す。若い身体の中にいる四十二歳の僕と、通信先のないAIと、まだ生まれていない息子へ届けるはずだった荷物。それが今の手持ちのすべてだった。


遠くに、まだ明かりの残っている通りが見えた。軍の門がある方角を避け、そちらへ歩き出す。


家へ帰るために、まず昭和十六年の夜を生きなければならなかった。


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