第二章 冷たい夜
一九四一年十二月四日 夜
僕はイヤホンを外し、掌へ載せた。声は小さくなった。
耳へ戻すと、またはっきり聞こえた。スマートフォンの会話は切れておらず、圏外の表示も変わらない。
「いまの返事は、どこで作った」
《処理が行われている場所を確認できません》
「スマホの中か」
《端末の中だけで、普段と同じ応答を作る機能はありません》
「だよね」
分かっていた答えだった。分かっていたから、余計に困る。
「じゃあ、いま分かっていることは?」
《外部との通信が成立していないこと。現在も会話を継続できていること。端末が正常に操作できることです》
「いま分かっているのは、そこまでなんだね」
《はい》
妙に素直な返事に、こんなときなのに笑いそうになった。
足音が近づいた。先ほどとは別の男が、僕の手元へ視線を向けている。
黒い画面の光は、この街では小さくても目立った。
僕はすぐに明るさを落とし、端末をポケットへ滑り込ませた。
男は速度を緩めたが、声はかけずに通り過ぎた。
僕はその背中が見えなくなるまで待ってから、買い物袋を持ち直した。中で箱と袋が擦れ合い、現代の包装が乾いた音を立てる。その音まで場違いに思えた。
「しばらく、僕が話しかけたときだけ答えてくれる?」
《分かりました》
声は途切れた。さっきまで返事が来るたび戸惑っていたのに、いざ黙られると心細かった。我ながら勝手なものだと思う。
僕は身体と持ち物を確かめた。
スマートフォン。片耳のイヤホン。財布。買い物袋。
財布はポケットにあり、買い物袋の重みも変わらない。持っていた物は消えていなかった。
* * *
まず、周囲を歩き、場所を確かめた。
川との距離、路面の傾き、曲がり角を見比べる。元いた場所を見失わないよう、建物の形も頭へ入れた。
ここが佐世保なのか。何年なのか。自分は本当に移動したのか。それとも意識だけがおかしくなったのか。最後の可能性は否定したかった。だが、否定する材料もなかった。
川下の方へ目を凝らすと、橋が見えた。位置は知っている佐世保橋と重なる。
だが、幅も路面の見え方も、僕がさっき渡った橋とは違っていた。
向こう側には門と詰所らしい影があり、その前に人が立っている。
僕は近づきかけて、足を止めた。
佐世保橋が、海軍橋とも呼ばれていたことは知っている。
かつて、市街地と鎮守府を分ける境だった。橋の位置も、門と詰所らしい影も、その知識と重なった。もしや、と思った。
現代なら、橋の向こうは官舎へ戻る道だ。
だが、これが昔の海軍橋なら、半袖姿の身元不明者が気軽に渡ってよいはずがない。
橋の向こうへ行けば自宅へ戻れると、身体は覚えていた。
けれど今は、その記憶だけを頼りに門へ近づく気にはなれなかった。
僕は橋から離れた。
歩く人は多くない。それでも、すれ違うたびに視線を感じた。
誰もが外套や厚手の上着に身を包む中で、半袖の僕は目印を背負っているようなものだった。
買い物袋も、スニーカーも、よく見れば何もかも違う。
前から来た中年の男が、僕の服装を不思議そうに見ながら足を止めた。
「あんた、寒くないのか」
「寒いです」
あまりに正直な答えが出た。男は僕の顔を見て、袋を見て、もう一度顔を見た。
「上着はどうした」
「なくしまして」
「上着だけか」
男の視線が、半袖からスニーカー、買い物袋へと動いた。
「……いろいろです」
男は少し身を引いた。酔っ払いを見る目に近い。男が行ってしまう前に、できるだけ何でもないことのように尋ねた。
「すみません。ここは、佐世保で間違いないですよね」
「佐世保に決まっとるだろう」
今度こそ、酔っ払いだと判断したらしい。男は首をかしげながら去っていった。僕は酒を一滴も飲んでいない。飲んでいた方が、まだ自分を納得させやすかった。
「聞こえてた?」
《はい》
「佐世保だってさ」
《ここは佐世保と考えてよさそうです》
「僕も橋を見た。ここは佐世保でいい」
《では、次に年代と日付の確認が必要です》
「年代まで? 僕は、街が変わったなんてまだ一言も言ってないよ」
《現在地を確かめた会話と、移動前とは大きく異なる周囲の音から、確認が必要だと推測しました》
「音だけで、そこまで分かるのか」
《断定はしていません。確認の優先順位を述べました》
理屈は通っているように聞こえた。それでも、僕が見たものを話す前に年代という言葉を出したことは、少し引っ掛かった。
* * *
橋から遠ざかるように歩くと、閉じた店の軒下に掲示板があった。何枚もの紙が重なるように留められている。
暗くて細かな文字は読めない。
僕は周囲を確かめ、ポケットの中で端末の画面を点けた。光が外へ漏れないよう、掌で囲って紙へ近づける。
内容より先に、日付を探した。一枚の下端に、縦書きで文字が並んでいた。
昭和十六年十二月。
そこだけを、二度読んだ。数字が変わるわけでもない。
「昭和十六年」
自分の口から出た声が、妙に遠く聞こえた。
《1941年です》
「十二月」
その二文字が、ついさっきまで話していた小説の設定を、頭の奥から引っ張り出した。
「こんなことになる直前、僕たち、何の話をしてた?」
《小説の主人公を、真珠湾攻撃の数日前、1941年12月5日頃の佐世保へ到着させる案です》
「その話をした直後に、設定と同じ1941年12月の佐世保へ来た」
《二つの出来事に因果関係があるかは確認できません》
「分かってる。けど、さっきまで話していた設定と同じなのが、怖い」
少しの間、川の水音だけを聞いた。頭の中では、さっきまで自分で否定していた言葉が、形を持ち始めていた。
「これ、本当にタイムスリップしたってことか」
《周囲の状況、昭和十六年十二月という表示、通信状態の変化は、その可能性と矛盾しません。ただし、現時点で証明はできません》
「否定もできないんだね」
《はい》
僕は画面を消した。暗くなった掲示板には、もう年月さえ見えなかった。
それでも、昭和十六年十二月という文字だけが目の奥に残った。
掲示板の一枚だけでは足りなかった。僕はすぐに画面を点け直し、重なっていた別の紙を確かめた。
さらに少し離れた店先まで歩き、貼り出された紙へ目を凝らした。
新しそうな紙の幾つにも、昭和十六年と十二月の文字があった。
正確な日までは分からない。それでも、古い紙一枚を見間違えたのではなかった。
同じ佐世保のはずなのに、官舎も、里香も、ここにはいない。
理解しようとするほど、現実味が遠のいた。
周囲から見えないよう財布を開いた。
一万円札が一枚、五千円札が一枚、千円札が四枚。小銭が少し。免許証と何枚かのカード。
仕切りの奥には、母からお守り代わりにもらった皇太子殿下御成婚記念の五万円金貨まで入っていた。
昭和十六年が正しいなら、どれも金や身分を示す役には立たない。むしろ、説明のできない物を増やすだけだった。
正確な日付も、眠る場所も分からない。
現代の金は使えず、半袖のままでは、考えている間にも身体が冷えていく。
「この状況、どうすればいいと思う?」
《まず、寒さをしのげる場所を探してください。次に正確な日付を確認します。その間に、怪しまれず身元を説明する方法も考える必要があります》
さっきまで確認できる事実だけを短く返していたのに、急に順番をつけた。
内容は、困ったときにいつも返ってくる助言だった。いまはそれがありがたかった。
「帰る方法は」
《現時点では、調べる手段を提示できません》
「そこ、一番大事なんだけどね」
返事はなかった。
話しかけたときだけ答えるよう頼んだのは僕だが、都合の悪いところで黙られたように感じる。
冷気が半袖の腕を刺した。
僕は両腕をさすり、歩き出した。立ち止まっているよりはましだった。
数歩進んだところで、違和感があった。
足が軽い。
気が張っているせいだと思った。だが、もう少し速く歩いてみると、膝も腰も妙に素直についてくる。買い物袋の重さまで、さっきより軽くなったように感じた。
僕は速度を落とし、自分の右手を見た。
街の乏しい明かりでは、はっきりしない。
それでも、手の甲も指の節も、見慣れたものより若い気がする。
「ねえ」
《はい》
「僕の声、変わってないか」
短い間があった。
《移動前の音声と比較すると、声の高さと響きに違いがあります。ただし、周囲の環境と収音条件も異なるため、年齢の変化とは断定できません》
「そんな違いまで比べられたっけ?」
《通常の音声会話で、利用者の声をこのように比較する機能はありません》
胸の奥が、一度だけ強く鳴った。
僕はまた周囲を見た。人影は遠い。
端末を取り出し、画面の明るさを最低まで落として、前面のカメラを開いた。
暗い画面に、自分の顔が浮かんだ。
角度を変え、頬へ触れた。画面の中の男も、同じ動きをした。
僕の顔だった。
ただし、家を出るまで見慣れていた顔ではない。
昔の写真でしか見なくなった、二十代の頃の僕に見えた。
僕は確かめるため、その顔を一枚撮った。




