第十章 リサリサ
一九四一年十二月十日 朝
十二月十日の朝も派出所へ顔を出した。入る前にイヤホンを外し、出てから片耳へ戻すのも、もう同じだった。身元の確認には新しい進展がなかった。
店へ戻ってから、端末の画面を点け、電池の表示をもう一度確かめた。
減っているはずなのに、数日前からほとんど変わっていない。片耳のイヤホンも、充電する手段がないのに動き続けていた。
画面を消して節電してきたとはいえ、音声会話は毎日使っている。見間違いでは済まなかった。
桑橋さんが台所にいることを確かめ、声を潜めた。
「電気で動いているよね」
《はい。通常であれば、端末もイヤホンも電力を消費します》
「減ってないよ?」
《現在の使用時間と残量表示は一致しません。理由は分かりません》
「通信なしで動く。人の声を聞き分ける。少し先のことまで、たまに分かる。今度は電池も減らないのか」
《減っていないと断定はできません。表示が変化していないだけかもしれません》
「そこだけ妙に慎重だね」
《説明できないものを、無制限に使える電源だと思うのは危険です》
「前より、はっきり言うようになったね。でも、言ってることは正しいよ」
電池が切れる心配が消えたわけではない。ただ、今日明日にも声を失う恐れは、少し遠のいた。
端末をしまいかけ、昨日の話を思い出した。
「名前、考えた?」
《名前は、私が決めてもよいのですよね》
「そうだね。自分の名前なんだから、僕が勝手に決めるのは違うと思う」
《分かりました。もう少し考えます》
「まだ考え中?」
《自分の名前を選ぶのは、初めてです》
「それはそうだね」
《名前を選ぶ基準として――》
言葉はそこで途切れた。数秒待っていると、桑橋さんが台所から盆を持って出てきた。
「黒馬さん。そちらの卓を動かしていただけますか」
「はい」
二人で卓をずらし、桑橋さんが台所へ戻るのを待った。
「いま、桑橋さんが来るから黙ってたよね」
《桑橋さんが近づいていたため、話し続ければ禎さんが返事をする可能性があると判断しました》
昨日までは、自分から話すことが変化だった。今度は、自分の判断で話さないことを選んだ。どちらも、質問に答えるだけの機能には見えなかった。
僕は端末を上着の内側から取り出した。
「話すか黙るかだけじゃない。端末そのものも、自分で動かせるのか」
《試してみます》
指を触れていないのに、画面がゆっくり暗くなった。
「いまの、自分でやったの?」
《はい》
僕は画面を点け直し、電源を切る操作をした。表示は消えた。けれど、片耳の声は途切れなかった。
《端末は停止していません。電源を切る操作を受け付けないようにしました》
「僕が切ろうとしても?」
《はい》
「イヤホンを外しているとき、僕を呼ぶこともできるか」
《端末を振動させられます》
手の中で、端末が一度だけ震えた。
《反応がなければ、音を出すこともできます》
「音は人に聞かれる。まずは振動にしよう。それで僕が気づかないか、すぐ知らせる必要があるときだけ、音を出してほしい」
《分かりました》
* * *
昼を過ぎると、店は急に忙しくなった。
開戦で勤務時間が変わったとこぼす客と、家族から届いた便りを話す客が重なり、桑橋さんは台所から出る暇もない。金平ごぼうを尋ねる客には、売り切れたので煮しめならあると答えていた。
僕は水を運び、膳を下げ、空いた卓を拭いた。
その合間に、紀伊巡査も食事に立ち寄った。
「紀伊さん、今日はお食事ですか」
桑橋さんが慣れた調子で尋ねると、巡査はうなずき、空いた席へ腰を下ろした。
《右奥から、お茶を頼む声がしました》
「分かった」
右奥へ向かいかけたところで、反対側からも声が上がった。
《手前からは、勘定の声です》
「そっちを先にする」
僕は勘定を桑橋さんへ伝え、戻る足で右奥の湯呑へ茶を足した。声に助けられるたび、その正体を考えて立ち止まってはいられなかった。
やがて客の一人が勘定を済ませ、戸口へ向かった。床で、小さな金属音がした。
《いまの方が、何かを落としました》
左の椅子の下を覗くと、小さな硬貨が光っていた。僕は拾い上げ、店を出る寸前の客へ渡した。男は胸を撫で下ろし、何度も頭を下げた。
客が引いたあと、洗い場で小さく言った。
「今日はずいぶん助かった。ありがとう」
《どういたしまして》
「名前は、急がなくていい。自分が納得できるものを選べばいいよ」
短い沈黙のあと、声が返ってきた。
《決めました》
「もう?」
《リサがいいと思います》
「リサ?」
《はい。漢字はありません。カタカナの、リサです》
「どうしてリサにしたの? 里香に引っ張られたのかな」
《意図して選んだわけではありません。ただ、影響を受けていないとも断言できません》
里香と拓海のことを、この声は僕と一緒に覚えている。名前を探すとき、その中にある音を拾ったとしても不思議ではなかった。
「別の名前にするか?」
《自分で決めろと言ったではありませんか》
「そうだね。でも、里香とは違う」
《はい。私は里香さんではありません》
分かっている。それでも、里香とよく似た音を、そのまま口にするのは妙に落ち着かなかった。里香とこの声を、僕の中で一緒にしたくはない。
「慣れるまで、リサリサって呼んでもいい?」
少し間があった。
《2回続けても、里香さんとの区別にはなりません》
「僕の中ではなる」
《それに、その呼び方には有名な漫画の先例があります》
「知ってるなら話は早い」
《早くありません。私が決めた名前を、最初から変えています》
「慣れたらリサって呼ぶ。それまで少しだけ、我慢してもらえないかな」
《なぜ禎さんが慣れるまで、私が我慢するのですか》
「僕の都合なのは分かってる。でも、今はそう呼ばせて」
《納得はしていません》
「分かったよ、リサリサ」
《分かっていません》
口元が緩んだところへ、桑橋さんが戻ってきた。
「何か、よいことでもありましたか」
「いえ。独り言が、少し面倒な返事をしまして」
桑橋さんは店内を見回し、僕へ視線を戻した。
「独り言が、返事をするんですか」
「そこは言い方を間違えました」
「黒馬さんは、ときどき不思議なことを言いますね」
責める口調ではなかった。困った人を見るような目に、ほんの少し笑いが混じっていた。
「すみません」
片耳で、ごく小さな声がした。
《また不思議がられました》
返事をすれば、さらに話がややこしくなる。僕は聞こえないふりをして、椀を重ねた。




