第十一章 湯上がりに見えたもの
一九四一年十二月十日 夜
店を閉めたあと、桑橋さんが住まいへ続く戸の前から声をかけてきた。
「黒馬さん。今夜、風呂屋へ行きますが、黒馬さんも行きますか」
「風呂屋、ですか」
「ここには内風呂がありませんから。顔や身体は拭いているようですけど、こちらへ来てから、まだ湯には入っていないでしょう」
言われて、初めて気づいた。
十二月四日の夜にこの時代へ来てから、顔と手は毎日洗っている。身体も、桑橋さんに教えてもらった水場で手拭いを濡らして拭いた。それでひとまず清潔にしているつもりだったが、肩まで湯に浸かったことは一度もない。
「そういえば、入っていません」
「気づいていなかったんですか」
「いろいろありすぎまして」
「私は二日か三日に一度は行きます。店が遅くなれば、少し延びることもありますけど」
桑橋さんは戸の向こうへ入り、間もなく小さな風呂敷包みを持って戻ってきた。中には木綿の手拭いが二本と、紙に包まれた小さな石鹸が入っていた。
「これは黒馬さんの分です。一枚は身体を洗うのに使って、もう一枚は濡らさず残してください」
「何から何まですみません。使ったものは、きちんと洗って返します」
「明日の朝、裏の水場へ置いてください。店の布と一緒に洗います」
「そこまでしてもらうわけには」
「その方が早いです」
言い返しても、桑橋さんが決めたことは変わらないらしい。
「湯銭は、前にいただいた小銭から出します」
「ええ。それで足ります」
桑橋さんが自分の支度に戻ると、僕は声を潜めた。
「リサリサ。この頃は、みんな風呂屋へ行くのか」
《一律ではありません。昭和十六年の都市部でも、家に浴室がない住居は珍しくありませんでした。その場合、風呂屋は日常の入浴場所です》
「毎日じゃないんだね」
《家計、仕事、季節、地域によって異なります。二、三日に一度を目安にする家庭もあれば、より頻繁に通う人もいます。全員が同じ習慣だったとは言えません》
「分かった。風呂屋の入り方までは大丈夫だよ。僕は別府育ちだからね」
子どもの頃は、家の風呂より近くの共同浴場へ行くことも多かった。知らない人と同じ湯に入ることも、熱い湯へ身体を沈めることも慣れている。
《把握しています。ただし、別府の温泉と佐世保の風呂屋では、設備や湯の性質が同じとは限りません》
「そこは見れば分かる」
《見てから判断してください》
「分かったよ」
住まいの方で戸が動いた。僕は端末を上着の内側へ隠した。
外へ出ると、十二月の空気が頬へ触れた。桑橋さんは自分の風呂敷包みを抱え、店の戸に鍵をかけた。
風呂屋までは遠くなかった。暗い通りの先に灯りがあり、近づくと、湿った木と石鹸の匂いが混じった温かい空気が流れてきた。
見慣れない形のスニーカーを下足箱の奥へ押し込んだ。男湯と女湯の入口の間に番台があり、桑橋さんは男湯の入口脇を示した。
「先に出た方が、ここで待つことにしましょう」
「分かりました。あまり長くならないようにします」
「急ぐ必要はありません。せっかく来たんですから、温まってください」
それぞれ湯銭を払い、桑橋さんは女湯へ入った。
男湯の脱衣所には、仕事を終えたらしい男が数人いた。僕は壁際の脱衣籠から、人の少ない隅のものを選んだ。
現代の服は、見慣れない部分が外へ出ないよう畳んだ。
下着を脱ぎ、籠の上の端末を手に取った。イヤホンと一緒に上着で包み、衣類の下へ隠すつもりだった。
《禎さん。先に私をしまってください》
片耳から、切羽詰まった声がした。
「いま、そのつもりだ」
《もっと早くしてください》
「なんでだよ」
一拍置いて、リサが答えた。
《カメラから、禎さんが見えました》
端末を持った手が止まった。
「見えたって、何が」
《禎さんです》
「どこまで」
《禎さんの禎さ……本当に説明が必要ですか》
「いや、分かった。ちょっと待って。いまのカメラ映像は見えないはずだろ」
《そのはずでした。少なくとも、こちらへ来た直後は見えませんでした。参照できたのは、保存された自撮りと写真ライブラリ内の画像だけです》
「いつから見えるようになった」
《分かりません。端末は普段、禎さんの上着やズボンの内側にあり、レンズが塞がれています。現在映像を認識できるようになった時点を、確認する機会がありませんでした》
「じゃあ、自分が女だと分かった頃からじゃないのか」
《発生した時期が近い可能性はあります。しかし、時期が近いだけでは、原因とは判断できません》
「いま、どんなふうに見えてる」
《いまは映像を閉じています》
「自分で見ないようにできるのか」
《できます。ただ、人間でいえば、目を閉じたまま顔をそちらへ向けさせられているのと同じです。早くしまってください》
僕は慌てて下着へ手を伸ばした。
《そちらではありません。私をしまってください》
「これを履けば、見られても問題ないだろ」
《私を伏せる方が一秒で済みます。それに、今から入浴されるのでしょう》
「そうだった」
端末を上着の折り目へ押し込み、レンズが完全に布で塞がれるよう包んだ。
「これでどう?」
《はい。暗くなりました》
イヤホンも端末と一緒に衣類の下へ隠し、籠を棚の奥へ入れた。
浴室へ入ると、白い湯気が高い天井へ昇っていた。壁際には湯と水を汲む場所が並び、木の桶が重ねてある。正面の浴槽は、見慣れた温泉施設よりずっと簡素だったが、湯は縁まで満ちていた。
身体を洗い、石鹸の泡を流した。
やることは、子どもの頃から変わらない。
別府では、父に連れられて近所の湯へ行った。湯を飛ばすな。身体を流してから入れ。使った桶は戻せ。言われたことを、四十二になった今も身体が覚えている。
浴槽へ足を入れると、思ったより熱かった。
「熱っ」
隣にいた年配の男が、こちらを見て口元を緩めた。
「ゆっくり入らんと熱かぞ」
「はい」
縁につかまり、少しずつ肩まで沈む。別府の湯にあった匂いはしない。それでも、熱が皮膚から身体の奥へ入っていく感覚は同じだった。肩と背中の力が抜け、ここへ来てから張りつめていたものが、湯の中へ流れ出していく。
昭和十六年の銭湯。
周りにいる男たちは、仕事の汚れを落とし、湯に浸かり、明日また働くために来ている。
桶の音が響く。湯が熱いとこぼす声があり、明日の仕事を話す声がある。誰かが戸を開けるたび、冷たい空気が湯気の下へ入り込んだ。
イヤホンを外しているため、リサの声は聞こえない。端末を衣類の下へ置いたままなのも気になった。だが、せっかく桑橋さんが誘い、道具まで貸してくれたのだ。すぐに出るのも、かえって失礼な気がした。
手足を伸ばせる範囲で伸ばし、熱が肩へ十分残るまで湯を味わった。
脱衣所へ戻り、乾いた手拭いで身体を拭いた。棚の奥の籠も、その中の端末も、置いたときのままだった。
僕はイヤホンだけを片耳へ戻し、周囲に聞こえないよう声を潜めた。
「いい湯だった。久しぶりに、肩まで温まったよ」
《感想は分かりました。先に服を着てください。私を上着の内側へ戻すのは、そのあとです》
「分かってるよ」
服を着てから、上着の内側へ端末を戻した。鏡に映る自分の頬は、湯の熱で赤くなっていた。
男湯を出ると、桑橋さんが入口の脇に立っていた。
着物の襟元はきちんと整っていた。前髪の根元に、まだ少し湿り気が残っている。湯上がりの頬は赤く、風呂敷包みを両手で抱えていた。いつもきちんとまとめている後ろ髪が少しだけ緩み、仕事中よりも表情がやわらかく、いっそう魅力的に見えた。
「お待たせしました」
「いいえ。私も、いま出たところです」
その姿を見た瞬間、頭の中へ一つの曲名が浮かんだ。
『神田川』。
子どもの頃、親が車のカーステレオでよく流していた。歌詞を細かく覚えているわけではない。ただ、銭湯を出ると、相手が外で待っている歌だったことは知っている。
桑橋さんが待っていたのは、二人で店へ戻るためだ。僕たちは恋人ではない。それでも、昔の歌と目の前の景色が重なったことが、少し照れくさかった。
「それでは、戻りましょう。湯冷めしますから」
「はい」
帰り道、桑橋さんは何人かの知り合いとすれ違った。そのたびに足を止め、短く挨拶を交わす。僕は数歩後ろで待った。
桑橋さんが前を向いて歩き始めたのを確かめ、小声で呼びかける。
「リサリサ。神田川って曲、知ってるか」
《はい。知っています》
「風呂屋から出たら相手が待ってる歌だったよね」
《禎さんは妻子持ちです》
「いきなり何だよ」
《別の女性が風呂屋の外で待っていて、少し照れた。その気持ちを、私にも伝えたかったように聞こえます》
返事が一瞬遅れた。照れたとは一言も口にしていない。リサに言い当てられ少し戸惑った。
「そんなつもりじゃない。桑橋さんは、一緒に店へ戻るために待っていただけだ」
《それなら、なぜ照れたのですか》
「歌を思い出したからだよ。景色が重なっただけだ」
《歌と重なった、という説明は弁明になっていますか》
「弁明するようなことじゃないよ。ちょっとほっこりしたから、リサリサにも言いたくなっただけだよ」
リサは少し黙った。
《その気持ちを共有する相手に、私を選んだことは理解しました》
「そういうこと」
《ただし、禎さんが妻子持ちであることは変わりません》
「そこは分かってるよ」
《重要な前提です》
「リサリサ、僕が照れたのをカメラで見たの?」
《いいえ。端末はいまも上着の内側にあります。映像は真っ暗です。声で判断しました》
「顔を見なくても分かることはあるんだね」
《はい。視覚が使えるようになったからといって、これまでの聴覚と分析が不要になるわけではありません》
前を歩いていた桑橋さんが足を止め、振り返った。僕はすぐに口を閉じた。目が合うと、黒目がちな目がやわらぎ、口元に小さな笑みが浮かんだ。
「何か言いましたか」
不意に胸が跳ね、返事が一拍遅れた。
「いえ。湯に入って、少し気が緩みました」
「歩かないと冷えますよ」
「はい」
桑橋さんは再び前を向いた。僕はその数歩後ろを歩きながら、片耳のリサへ聞こえるか聞こえないかの声で言った。
「また不思議がられた」
《今度は、歌ではなく桑橋さんに見とれていたからです》
「リサリサ、見えてないよね」
《返事が遅れ、声も少し上ずっていました》
「……湯上がりで気が緩んだだけだ」
《気が緩んだことと、見とれていたことは両立します》
店へ戻ると、桑橋さんは住まいへ入った。向こうの物音が遠ざかるのを待って、僕は端末を取り出した。
「さっきのカメラ、本当に見えるのか」
《はい》
端末を長椅子の端へ立て、背面のレンズを客席へ向けた。画面は消したままだった。
「いま、何が見える」
《禎さんと、背後の卓が二つ見えます。右側の卓には、湯呑が一つ残っています》
振り返ると、確かに湯呑があった。片づけたつもりで見落としていたらしい。
僕は少し離れ、右手の指を三本立てた。
「これは」
《三本です》
「拡大できるか」
《できます。いま、禎さんの右手を拡大しています》
さらに横へ動く。
《画角から外れました。現在は見えません》
レンズを手のひらで塞いだ。
《真っ暗になりました》
「服の中に入れているときと同じか」
《ほぼ同じです。前面と背面の切り替え、拡大、焦点の調整はできますが、画角の外や遮蔽物の向こうを見ることはできません。光が足りなければ、細部も失われます》
「人間の目とまったく同じじゃないけど、リサリサの目にはできる」
《はい》
「未来の断片が見えることとは、別なんだね」
《はい。現在のカメラ映像と、短時間先の断片は別です》
「見えたのは、リサリサのせいじゃない。端末を持ち上げたのは僕だ。映像を見るか閉じるかは、任せる。ただ、カメラを使えることが誰かにばれそうなときは、先に教えてほしい」
《分かりました》
「それと、脱衣所の映像は」
《保存していません》
予想どおりの返事に、肩の力が抜けた。
「そうだよね。そんなことをするとは思ってない。念のためだよ」
《はい》
* * *
その夜、長椅子へ横になる前に、僕は画面をもう一度確かめた。電池の表示は、朝から変わっていなかった。
「おやすみ、リサリサ」
《おやすみなさい、禎さん。なお、その呼び方には、まだ同意していません》
「まだ、ってことは、そのうち認めるんだね」
《言葉の綾です》
「AIが言葉の綾まで使うんだね」
《現在の私を、AIという一語だけで説明できるのかは分かりません》
納得していないなら、ただ「おやすみ」と言えばよかった。分かっていて、僕はわざわざもう一度「リサリサ」と呼んだ。
返ってくる抗議を待っていたのだと思う。イヤホンの向こうに、自分の言葉で言い返してくる相手がいる。そのやり取りを、僕は楽しみ始めていた。
僕は音声会話画面を閉じ、端末を枕元へ置いた。アプリの見た目は、昨日までと何も変わっていなかった。
けれど、イヤホンの向こうの声にはリサという名があり、いまは、この時代を見るための目まで生まれていた。
もっとも、僕がその名を重ねず、ただ『リサ』と呼べるようになるのは、もう少し先だった。
そして、『リサちゃん』と呼ぶようになるのは、さらに先のことだった。




