第十二章 救った後に残るもの
一九四一年十二月十一日 朝
十二月十一日の朝も、僕は開店前に派出所へ顔を出した。
身元の確認に新しい進展はなかった。記憶が戻ったかと聞かれ、戻っていないと答えた。
店を離れるときは桑橋さんへ行き先を告げることと、明日も来ることを繰り返されただけだった。
派出所を出て片耳へ戻したイヤホンに、小声で話しかけた。
「リサリサ、毎朝、同じことの繰り返しだね」
《警察は、確認できる情報が増えるのを待っています》
「増えないけどね」
《増えないこと自体が、警戒を強める可能性はあります》
「朝から耳の痛いことを言うね、リサリサ」
《事実になり得ることを述べました。それと、その呼び方にはまだ同意していません》
昨日と同じ抗議に、少しだけ気持ちが緩んだ。
店の戸口には、桑橋さんが箒を持って立っていた。僕が戻ると、桑橋さんは何も聞かず、壁に立ててあるもう一本の箒へ目を向けた。
僕も何も言わず、それを取った。
* * *
開店の支度が半分ほど済んだ頃、禎は客席を整えていた。
竈の前では、美由紀が汁の入った小鍋を持ち上げた。
火のそばには、乾いた布が一枚掛かっていた。
戸口が開き、見覚えのある若い客が入ってきた。いつもより早い時間だったが、美由紀は鍋を持ったまま声をかけた。
「もう少しで支度ができます。そちらでお待ちください」
若い男は入口に近い卓へ座った。禎は水を出そうと、湯呑を手に取った。
そのとき、禎の片耳で、リサの声が鋭くなった。
《桑橋さんを火から離してください。急いで》
禎は湯呑を置いた。
「未来の方か。何が見えた」
《前掛けに火が移ります。六秒ほどです》
禎が竈を見ると、まだ炎は中にあり、美由紀の前掛けにも何も起きていなかった。
それでも禎は、前の二度を思い出すより先に動いた。
「桑橋さん、その鍋を卓へ。火から離れて!」
美由紀が振り返り、鍋を置こうとした。
「黒馬さん、何を――」
その背後で、火のそばに掛かっていた布が滑り落ちた。
端が竈の火へ触れ、一息で炎が走った。
燃えた布は、美由紀が立っていた場所へ倒れた。
禎は美由紀と火の間へ入り、鍋を持つ腕を卓の方へ押しやった。
あと少し遅ければ、前掛けの裾へ炎が触れていた。
けれど、急いだ拍子に小鍋が卓の角へ当たった。
熱い汁が大きく揺れ、入口にいた若い男の左腕へかかった。
男が声を上げて立ち上がった。
椅子が後ろへ倒れる音と、鍋が床へ落ちる音が重なった。
美由紀をかばっていた禎の手が止まった。
助かった、と考えるより先に、別のうめき声が聞こえた。
禎は洗い場にあった濡れた布巾を燃えた布へかぶせ、火が消えたことを確かめた。
すぐに水差しをつかみ、若い男の腕へ冷たい水を流した。
「袖を上げられますか。無理にこすらないでください」
若い男は歯を食いしばりながら、濡れた袖をゆっくりまくった。
皮膚は赤くなり、一部が腫れ始めている。
「水を、もう少し」
美由紀が桶を運んできた。顔から血の気が引いている。
禎は水を替えながら、熱を逃がした。
「黒馬さん、手が」
見ると、禎の右の手のひらも赤くなっていた。
燃えた布へ濡れ布をかぶせたとき、熱が伝わったらしい。
痛みに気づいたのは、そのときだった。
「これくらい大丈夫です。先に、この人を医院へ」
「黒馬さんも、手を冷やしてください」
美由紀が桶を禎の方へ寄せた。
若い男も、痛みに顔をしかめたまま禎の手を見た。
「私の腕は、もう冷やしてもらっています。黒馬さんも一緒に医院で診てもらってください」
禎は返事をする代わりに、右手を桶の水へ入れた。
* * *
僕と桑橋さんは、若い男を近くの医院へ連れていくことにした。
火が完全に消えていることを確かめて、店を閉めた。
医院へ向かう途中、僕はイヤホンを外し、端末と一緒に上着の内側へ隠した。
医者は若い男の左腕を水で冷やし、皮膚の状態を確かめた。
命に関わる傷ではないが、しばらく手当てが必要だと言い、薬を塗った布を当てた。
僕の右手も診てもらったが、こちらは軽いやけどで、しばらく冷やしておけば大丈夫だと言われた。
若い男は痛みに顔をしかめながらも、自分で歩いて帰れると言った。
僕が謝ると、火から人を助けようとしたのだろうと返した。
その言葉で、責任が軽くなるわけではなかった。
誰も死ななかった。若い男も、自分の足で医院を出た。
それでも、布を巻かれた左腕は消えなかった。
外へ出ると、紀伊巡査が待っていた。
店先へ人が集まり、火事になりかけたと聞いて、事情を確かめに来たのだという。
若い男は、布が落ちかけたところで僕が声を上げ、桑橋さんを火から離したことを話した。
桑橋さんも、僕が危ないと叫んだ直後に布へ火が移ったと答えた。
巡査の目が僕へ向いた。
「先に危ないと気づいていたんですか」
「布がずり落ちかけているのに気づきました。焦げる匂いもしたので、危ないと思いました」
巡査は帳面へ書きつけた。
「本署にも報告します。明日の朝、いつものように派出所へ来てください」
「分かりました」
* * *
店へ戻ると、桑橋さんは戸を閉めたまま、僕を椅子へ座らせた。
冷たい水で湿らせた布を取り、右の手のひらへ当てる。
「痛みますか」
「少しだけです」
「少しの顔ではありません」
布が赤くなったところへ触れ、思わず肩に力が入った。
桑橋さんはそれ以上強く押さえず、細く裂いた布を手のひらへ巻いた。
「さっき、どうして分かったんですか」
巡査にした説明を繰り返しかけて、やめた。
桑橋さんは、布に火が移る前の僕を見ている。
「……思い出せないわけではありません。でも、いまは理由を話せません」
桑橋さんの手が止まった。
「今回は、覚えていないのではないんですね」
「はい。信じてくれとは言いません」
「全部を信じたわけではありません」
桑橋さんは布を結び、僕の手を放した。
「でも、ご自分の手もやけどしていたのに、あの方の手当てを先になさったでしょう。黒馬さんが悪い方ではないことは、分かりました」
返す言葉がすぐには出なかった。
自分のやけどより先にあの人の手当てをしたのは、僕の動きで熱い汁を浴びさせてしまったからだ。褒められるようなことではない。
「桑橋さんが無事で、本当によかったです。でも、あの人にやけどをさせたのは僕です」
「そうかもしれません。でも、あのとき黒馬さんが動かなければ、私がやけどをしていたかもしれません。ほかのことまで考える時間はなかったでしょう」
桑橋さんは、まっすぐ僕を見た。
「身元が分かるまで、というだけではありません。ここで働いてくださる間は、この店へ戻ってきてください」
「いいんですか」
「仕事をしてもらうのですから。食事も長椅子も、これまでどおりです」
言い方は仕事の話だった。
けれど、警察に置くよう言われたからではなく、桑橋さん自身が戻ってきてよいと言った。
「ありがとうございます」
「明日の買い出しも、手伝ってください」
「はい」
* * *
その夜、住まいへ続く戸が閉じたあと、僕はイヤホンを耳へ戻し、長椅子へ座ったまま、布の巻かれた手を見ていた。
「桑橋さんは助かった」
《はい》
「代わりに、あの人がけがをした」
少し間があった。
《代わりだったとは断定できません。未来の断片で見えたのは、桑橋さんの前掛けへ火が移るところまでです。禎さんが動いた後の未来は、見えていませんでした》
「僕が急に引いたから、鍋の汁があの人へかかった」
《その結果、左腕を負傷した可能性はあります》
「リサリサが知らせなければ、桑橋さんがけがをした」
《はい》
「知らせたら、別の人がけがをした」
《はい》
初めて、声が沈んで聞こえた。
「リサリサだけの責任じゃない。聞いて、動くと決めたのは僕だ」
《私が知らせると決めました》
「じゃあ、二人で決めた。責任も二人で考える」
返事はすぐには来なかった。
《次も同じことが起きたら、どうしますか》
「分からない」
正直に答えた。
「桑橋さんを助けたことは後悔してない。あの人がけがをしたことも、なかったことにはできない。次にもっと悪い結果へ変わるかもしれない。それでも、見えたのに黙っていろとは言えない」
《私も、黙るべきだったとは言えません》
「未来が見えても、正解まで見えるわけじゃないんだね」
《はい。見えるのは、選ぶ前の断片だけです》
明日、派出所で今日のことをまた聞かれるのかもしれない。
桑橋さんが無事だったこと。若い男の腕に布が巻かれたこと。
僕の右手にも、小さなやけどが残ったこと。
救った後に残ったものは、一つではなかった。




