第十三章 伝えるために
一九四一年十二月十二日 朝
十二月十二日の朝、派出所では、前日の火事についてもう一度だけ聞かれた。
若い客が自分で医院を出たこと、店に燃え残りがなかったことを、僕は見たまま答えた。
紀伊巡査は、今後も火の扱いに気をつけるよう言い、帳面を閉じた。
身元の確認に新しい進展はなかった。
店へ戻ると、桑橋さんは僕の右手の布を見て、洗い場へ向かおうとした僕を止めた。
「黒馬さん、その手で洗い物はなりません」
「片手ならできます」
「できるかどうかではありません」
桑橋さんは箒を僕へ渡し、店先へ顎を向けた。言い返しても無駄らしい。
僕は礼を言って受け取った。
昨日までなら、仕事を任されるたびに、いつまでここへ置いてもらえるのかを考えた。
今日は、桑橋さんの中で僕が店へ戻ることが、もう予定の一つになっているように見えた。
開店前の買い出しでは、桑橋さんは明日の煮豆に使う、一番軽い豆の包みだけを僕へ渡し、残りは自分で抱えた。
「僕が持ちます」
「右手が治ってから言ってください」
「左手は空いています」
「片手しか使えない人へ全部持たせるほど、困ってはいません」
桑橋さんは取り合わずに歩き出した。僕は豆の包みを持って、その後ろをついていった。
通りでは、開戦を知らせる紙の前で足を止める人がまだいた。
勝ったらしいという声の横を、本当に長くなるのだろうかという声が通り過ぎる。
始まってから、まだ四日しかたっていない戦争は、誰にとっても輪郭が定まっていなかった。
店へ戻る途中、前から来た若い男が僕たちを見て足を止めた。
昨日、熱い汁を浴びた客だった。左腕には、医院で巻かれた布が残っている。
「腕は、どうですか」
桑橋さんが尋ねると、若い男は布の上から左腕をかばうように右手を添えた。
「まだ痛みます。いまから、もう一度診てもらいに行くところです」
僕は包みを持ったまま頭を下げた。
「昨日は、本当にすみませんでした。僕が急に動かなければ――」
「痛くないと言えば嘘になります」
若い男は、僕の言葉を遮った。責める声ではなかった。
「でも、黒馬さんを恨んではいません。あのまま火が広がっていたら、桑橋さんだけでは済まなかったかもしれませんから」
「それでも、けがをさせたことは変わりません」
若い男は、僕の右手に巻かれた布へ目をやった。
「けがをしたのは本当です。でも、火が広がらずに済んだのも本当でしょう。黒馬さんが気にされるのは分かりますが、私は恨んでいません。それだけは、伝えておきます」
答えを探している間に、若い男は桑橋さんへ「また食べに来ます」と告げた。軽く頭を下げ、医院の方へ歩いていく。
痛みが残っていることも、恨んではいないことも、どちらも本当なのだろう。
僕は片方だけを選んで、自分を許してもらったことにはできなかった。
「黒馬さん」
桑橋さんに呼ばれて顔を上げた。
「包みを落としますよ」
左手の指が緩んでいた。僕は慌てて持ち直した。桑橋さんは何も言わず、歩く速さを少しだけ緩めた。
その日、政府は、今度の対米英戦争と中国で続いていた戦争をまとめて「大東亜戦争」と呼ぶことを決めた。
店の客たちがまだ「米英との戦」と呼んでいる間に、東京では戦争へ一つの名前が与えられていた。
名前がついても、遠い戦場で何が起きているのかが見えるわけではない。
僕だけが知っている先の出来事も、名前を口にしただけでは誰にも届かなかった。
* * *
昼を過ぎ、客が二人だけになった頃、店の戸が開いた。
朝に会った巡査がそこにいた。
「黒馬さん。本署から、明日の午前九時に、もう一度来てもらいたいと連絡がありました」
「別府から、何か返事があったんですか」
「私からは何とも言えません。以前に乗っていた船のことを、もう一度聞きたいそうです」
船の名も、経歴も思い出せないと答えていた。
僕が隠しているのは、思い出せない過去ではない。まだ起きていない未来だった。
「分かりました。明日の九時ですね」
「はい。それでは失礼します」
巡査は店を出た。
桑橋さんは空いた膳を重ね始めた。
「明日も、戻ってこられますか」
「戻ります」
答えてから、桑橋さんが尋ねているのは僕の意思ではないと気づいた。
「……警察が、ここへ戻してくれるかということですか」
「はい」
「分かりません。ただ、戻れるなら、僕はここへ戻ります」
桑橋さんは重ねた膳の端を揃えた。
「明日の夕飯も、いつもの時間にします」
「明日、遅くなるかもしれません」
「遅くなったら、残しておきます」
あまりに普通に言われ、返事が一拍遅れた。
「ありがとうございます。本当に助かります」
桑橋さんは手を止めず、「仕事をしてもらっていますから」と答えた。
* * *
その夜、住まいへ続く戸が閉じたあと、僕はイヤホンを耳へ戻した。
壁の時計へ目をやった。明日は午前九時に本署だ。
「リサリサ。明日、本署へ入る前にイヤホンを外す。端末も上着の内側へ隠す」
《分かりました》
「それと、先の断片がまた見えたら、最初に、いつ、どこで、誰に何が起きるのかを教えてほしい。分かる範囲でいい」
《すべてを同時に確認できない場合があります》
「そのときは、分かっていることと分からないことを分けて教えてほしい。僕が動いたあとは、見えたとおりになるとは限らない。それも最初に確認する」
《はい》
「すぐに動かなきゃ間に合わないのか、考える時間があるのかも大事だ。時間があるなら、何をすれば被害が少なくなるか、二人で考えよう」
《考えても、正しい結果が分からない場合があります》
「昨日みたいにね」
右手の布へ目を落とした。
「それでも、目の前で間に合うなら、見なかったことにはできない」
《長い歴史については、どうしますか》
質問の意味は分かった。
僕たちは、この戦争がどこへ向かうのかを知っている。
けれど、知っていることと、自分から変えに行くことは別だった。
「今は何もしない」
《なぜですか》
「帰る方法も、この先どうなるかも分からない。昨日のように目の前で起きることは別だ。でも、戦争の先を僕たちの都合で動かすつもりはない」
《分かりました》
「明日聞かれるのは、僕がどこで、どんな船に乗っていたかだ。答えられることは、僕一人で答える」
《はい》
戸の向こうでは、桑橋さんが明日の米を量る音がしていた。
その米には、本署から戻る僕の分も入っている。僕は、その音を聞きながら目を閉じた。
まだ、未来を誰かへ持ち込むつもりはなかった。




