第十四章 同じ数
一九四一年十二月十三日 朝
本署へ向かう支度を終えても、約束の午前九時まではまだ間があった。
湯豆腐と飯の朝食を終えると、桑橋さんは小さな包みを卓へ置いた。
「昼を過ぎるかもしれませんから、持っていってください」
布の隙間から、握り飯が見えた。
「桑橋さんの昼は」
「私の分は別にあります。これは黒馬さんの分です」
「ありがとうございます。夕飯だけでも十分ありがたいのに、昼まで。本当に助かります」
「右手が治るまでは、できる仕事が減ります。その分、治ってから働いてください」
桑橋さんはそう言い、僕の右手に巻かれた布が緩んでいないかを確かめた。
「戻りましたら、今日の分もきちんと働きます」
「無理に早く戻らなくていいです。警察の話を、先に済ませてきてください」
僕は包みを持って店を出た。
佐世保警察署が見えるところまで来ると、人通りの切れ目で片耳のイヤホンへ手をやった。
「リサリサ。中では話しかけないでほしい。船の話は、僕が自分で答える」
《分かりました》
イヤホンを外し、端末と一緒に上着の内側へ隠した。
* * *
午前九時、前にも話を聞かれた机へ通された。巡査部長は、これまでの申告を書いた紙を確かめた。
「別府には、あなたの申告に合う黒馬 禎という人物はいませんでした。捜索の届けも出ていません」
「はい。前にも伺いました」
「その後、何か思い出しましたか」
「いいえ」
「船の名も」
「思い出せません」
巡査部長はペンを置いた。
「ご自分の年齢も、出身地も、船で働いたことも覚えている。それなのに、身元を確かめられることだけが抜けているように見えます」
「そう見えることは分かります。しかし、いま答えられることは前にお話ししたとおりです」
「一昨日、桑橋さんの店で火が出かけたそうですね」
机の端に、見覚えのない紙が重ねられた。
「はい」
「火が移る前に、あなたが桑橋さんを火から離したと、二人が話しています」
「竈のそばの布が落ちかけているのに気づきました。焦げる匂いもしました」
「本当に、それだけですか」
「はい」
危険を知った本当の理由は、話せなかった。
「この町は、海軍の施設が集まる場所です。身元の分からない方が、船で働いていたと話している。店で真面目に働いているからといって、それだけで確かめるのをやめるわけにはいきません」
「分かっています」
「今日は、船の話をもう少し聞きます」
* * *
同じ質問が形を変えて繰り返されたあと、僕は廊下の長椅子で待つように言われた。
昼近くになっても呼ばれなかった。イヤホンは上着の内側に入れたままだった。
リサが声を出せないだけでなく、僕からも尋ねられない。
答えを決めるのは僕一人だった。
包みを開くと、握り飯が二つ入っていた。
あの人の昼を減らしたのではないと分かったうえで食べられることが、ありがたかった。
二つ目を食べ終える頃、朝の巡査部長が廊下へ出てきた。
「お待たせしました。こちらへ」
部屋には、濃紺の軍服を着た男が座っていた。巡査部長が僕へ向き直った。
「警察からの照会を受けて来られた、佐世保鎮守府附の石橋海軍大尉です。船で働いていたという話が、どの程度確かなのか。そこだけを見ていただきます」
「石橋 万次郎です。船のことを、いくつか伺います」
石橋大尉は、僕の服と靴を見たあと、右手の布へ目を止めた。
「船では、どのような仕事をしていたのですか」
僕は背筋を伸ばした。
「砲を扱う仕事をしていました。人をまとめ、上の者へ報告する立場にもいました」
「船の名は」
「思い出せません」
「砲の種類は」
「砲を扱ったことは覚えていますが、種類は思い出せません」
「身元に関わることだけ思い出せない。都合がよいようにも見えます」
「そう見えることは分かります」
石橋大尉の表情は動かなかった。
「では、一つ伺います。夜、航行中の船で、右見張りから灯火一つを認めたとの報告が来た。あなたなら、最初に何を確かめますか」
「赤灯ですか、緑灯ですか」
石橋大尉の目がわずかに細くなった。問いから灯の色を抜いたのは、知らなかったからではない。僕がそこを確かめるかを見ていたらしい。
「右見張りが赤灯を見たなら、相手の左舷側が見えています。相手はおおむねこちらと同じ向き、同行です。緑灯なら右舷側が見え、おおむね反航側と判断します」
「赤灯一、右九十度、方位落ちる。右見張りから、そう報告が来たとします」
「夜は距離を無理に言わせません。私が知っている報告の仕方なら、いまのように灯色、数、方位、方位の変化を先に取ります。昼間なら『距離二〇(ふたまる)』など、距離も加えます」
「それだけですか」
「こちらの針路と速力を確かめ、方位の変化を続けて見ます。方位がほとんど変わらないまま灯が近づくなら、衝突のおそれがあります」
「それから、どう命令します」
「誰が当直を指揮し、私がどこまで任されているかによります。私が指揮を執る立場なら、相手の動きを続けて確かめさせ、必要な号令を出します。そうでなければ、分かったことを指揮する者へ報告します」
「自分で避ける方が早いとは思いませんか」
「同じ船で、二人が別の号令を出す方が危険です」
石橋大尉は、しばらく僕を見た。
「砲を扱っていたと言いましたね。射撃中に一門が撃てなくなった。命令は続いている。どうします」
「状態も原因も分からないまま、人を触れさせません。装填の状態、けが人の有無、どこまで確認できたかを短く報告させます。すぐ復旧できないなら、ほかで補えるかを上が判断できるようにします」
「自分で直さないのですか」
「直す者へ任せます。私に必要なのは、直せるふりをすることではなく、いま何ができず、次に何を決めてもらう必要があるかを伝えることです」
僕が今まで仕事で繰り返してきたことは、昭和十六年でもさほど変わらなかった。
石橋大尉は、巡査部長の前にある紙へ目を落とした。
「船の名も、砲の名も言えない。言葉にも妙なところがあります」
「はい」
「あなたの身元を信じたわけではありません」
「分かっています」
「しかし、船を知らない者が、いまの答えを作ったとも思いません」
石橋大尉は立ち上がり、帽子を手に取った。
「警察からの照会に対する所見は、私から鎮守府へ報告します。必要があれば、もう一度話を聞きます」
「承知しました」
石橋大尉はそれ以上何も言わず、部屋を出た。
巡査部長からは、佐世保を離れないこと、店を出るときは桑橋さんへ行き先を伝えること、明日の朝も派出所へ顔を出すことを、もう一度言い渡された。
疑いも、行動の制限も消えていない。それでも、認められたことが一つだけあった。
身元は分からない。
だが、船のことは知っているらしい。
それだけだった。
* * *
店へ戻る頃には、冬の日が傾き始めていた。
戸を開けると、桑橋さんが台所から顔を出した。
僕の後ろに警察官がいないことを確かめ、目元をやわらげた。
「お帰りなさい」
胸の奥へ、言葉がまっすぐ入ってきた。
「ただいま戻りました」
昭和十六年に来てから、初めてそう答えた。
「お昼は召し上がりましたか」
「はい。二つともいただきました。本当に助かりました。ありがとうございます」
「では、夕飯まで働いてください。右手を濡らさない仕事だけです」
「はい」
僕が卓を拭き終えた頃、戸口から二人の若い男が入ってきた。
一人は、この店でやけどしたあの客だった。左腕に布を巻いていた。
もう一人も同じくらいの年頃で、二人とも紺の軍衣の上に短い外套を着ていた。
「腕は、いかがですか」
桑橋さんが尋ねると、若い男は左腕を少し持ち上げた。
「まだ力を入れるなと言われました。それで、明日の包みのことで来ました」
桑橋さんは帳場の脇から、小さな注文書きを取り出した。
「第五十二播州丸へ移る方、四つでしたね」
「数は、そのままでお願いします。森下を消して、田所に替えてください」
そこで僕は、やけどをした若者が森下という姓だと知った。
隣の若者が頭を下げた。
「田所です。森下の代わりに、明朝から第五十二播州丸の乗組へ移ります」
「代わりに」
思わず口へ出た。
やけどをした若い男が、僕を見た。
「私も同じ艇の乗組へ入るよう命ぜられていましたが、この腕では索具も掃海具も扱えないと、軍医に止められました。治るまでは陸上勤務です」
森下は、決まったことを伝えるように言った。田所も、急な命令を大事のようには見せない。
二人にとっては、同じ一人分の乗組が入れ替わっただけなのだ。
桑橋さんは注文書きの森下という名字へ一本線を引き、その下へ田所と書いた。
四つという数は、変わらなかった。
「朝までに用意しておきます」
「助かります」
二人は一緒に頭を下げた。
店を出る前、僕は森下へ「腕を、お大事に」とだけ声をかけた。
森下は「はい」と答え、田所と一緒に戸を出た。
戸が閉じたあとも、桑橋さんの書いた二つの名字が目に残った。
一つは線で消され、一つはその下へ加えられた。
* * *
一九四一年十二月十三日 夜
夕飯の時間まで店に立ち、住まいへ続く戸が閉じてから、僕はイヤホンを耳へ戻した。
「リサリサ。第五十二播州丸という船を調べられるか」
《後世に残った記録の範囲で確認します》
しばらくして、声が返った。
《第五十二播州丸は、民間の漁船を海軍が徴用した小型の特設掃海艇です。後世の記録では、十二月二十四日に佐世保を出て、台湾の馬公を経由し、フィリピンへ向かいます》
「その先は」
《翌年一月二十日、ルソン島のスービック湾で掃海中に機雷へ触れ、沈没します》
僕は、包帯の巻かれた左腕と、その隣に立っていた若者を思い出した。
「沈むのか」
《はい。沈没後に救助が行われた記録はあります。ただし、沈没して田所さんが亡くなったかまでは分かりません。後世の記録で確認できるのは、艇の行動と沈没までです》
「僕があの店にいなければ、桑橋さんがやけどをしていたかもしれない」
《はい》
「僕が動いたから、森下さんがやけどをした。森下さんがやけどをしたから、田所さんが、史実では沈む艇の乗組へ入る」
《その交代は、禎さんが来る前の記録には残らない変化です》
店の帳場に置かれた注文書きが浮かんだ。包みは四つのまま、受け取りに来る名字だけが変わった。
僕がこの時代へ来てから、まだ十日もたっていない。
歴史を変えるつもりはないと、昨夜は言った。
「僕は、もう何かを変えてるんだな」
《はい。ただし、田所さんがその先でどうなるかまでは分かりません》
答えが出ないまま、僕は右手の布を見た。
救ったことも、やけどを負わせたことも、入れ替わった名前も、どれか一つだけをなかったことにはできなかった。




