第十五章 一人分の行き先
一九四一年十二月十四日 朝
開店前、田所が一人で店へ来た。
昨日と同じ短い外套の下に、油の染みた仕事着を着ている。
桑橋さんは、笹の葉で包んだ握り飯を四つ、風呂敷へまとめて渡した。
「第五十二播州丸へ移る方、四つです」
「ありがとうございます」
田所は数を確かめた。
「今日から、艇へ入るんですね」
「はい。出港まではまだありますが、それまでに覚えることも、積み込む物もあります」
僕の口から、声が出かけた。
行かない方がいい。
けれど、それを言えば何が起きるのか、僕には分からなかった。
「黒馬さん?」
田所が僕を見た。
「……いえ。お気をつけて」
「はい」
それだけ答え、田所は店を出た。
桑橋さんは注文書きの四つの印へ、渡し済みの線を引いた。森下の名は消されたまま、その下に田所の名が残っている。
四つ用意して、四つ渡した。
誰が受け取っても、数は同じだった。
* * *
朝の派出所では、昨日と同じことだけを確かめられた。
昨夜は桑橋食堂にいたこと。今日も店で働くこと。佐世保を離れるつもりはないこと。
石橋大尉から新しい連絡が来たとは言われなかった。
僕も、会わせてほしいとは頼まなかった。
まだ、何を話すのかも、話してよいのかも決めていない。
店へ戻る途中、人通りの切れ目でイヤホンを耳へ戻した。
「リサリサ。田所さんだけへ、第五十二播州丸に乗るなと言ったら、どうなる」
《理由のない警告を信じてもらえる可能性は高くありません》
「理由を言えたとしてもだ」
《田所さんが外れれば、別の船員が選ばれる可能性があります》
森下が外れ、田所が入ったのと同じだ。
「じゃあ、森下さんを戻しても意味はない」
《左腕が治っていないことも事実です》
「乗組を一人減らせとも言えない」
《必要な乗員を一人減らせば、残った人へ負担が移り、別の危険が増える可能性があります》
僕は歩みを緩めた。名前だけを書き替えても、包みの数は減らない。
「変えるなら、乗る人の名前じゃないのか」
《何を変えるのですか》
問われて、初めてその先を言葉にした。
「船を出すか。どこへ行かせるか。何をさせるか。そういう判断だ」
《その判断は、田所さんには変えられません》
「海軍へ伝えるしかない」
口にした途端、昨日の男の顔が浮かんだ。
「石橋大尉か」
《石橋大尉は、禎さんに船上勤務の経験があることだけは認めました。必要があれば、再び話を聞くとも言っています》
「僕の身元を信用したわけじゃない」
《はい。未来については、まだ何も話していません》
「でも、身元の分からない男が、これから危険があると言っても、スパイか、頭のおかしい男だと思われる」
《その可能性があります。端末の存在まで疑われれば、私を取り上げられる危険もあります》
「最初から信じてもらえるとは思わない。話が正しいかもしれないと、確かめてもらうところからか」
《何を使って確かめてもらいますか》
「第五十二播州丸が沈むことを、最初の予測に使えるか」
《沈没は一月二十日です。その結果を海軍が確かめる頃には、艇は十二月二十四日に佐世保を出た後です。田所さんの行き先を変えるための信用には間に合いません》
「それでは遅い。だが、出港まで十日しかない。別の出来事を当てたとしても、身元の分からない僕が信用を得て、船の予定まで変えさせるのは無理がある」
《第五十二播州丸の出港を止めるほどの信用を、十日で得るのは現実的ではありません》
「じゃあ、田所さんには間に合わない」
《出港を止めるという意味では。沈没は一月二十日です。それまでに警告を届けられる可能性は残りますが、保証はできません》
出港前に予定を変えさせるには、もう間に合わない。その現実を受け入れなければならなかった。
* * *
昼になると、店は客で埋まった。
新聞を広げた客が、数日前のマレー沖海戦を、まだ興奮の冷めない声で話していた。
イギリスの戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を、日本海軍航空隊が海上で沈めたという。
「飛行機だけで、英国の主力艦を二隻も沈めたんだ。日本の海軍なら、この先も負けはせん」
別の客がうなずき、真珠湾の戦果まで持ち出した。誰かが笑い、桑橋さんは空になった椀へ汁を足した。
二隻を失った衝撃が、世界の海軍に何を突きつけたのかを、僕は後世の知識で知っている。
目の前では、その大戦果が、この先も勝ち続けられるという確信へ変わり始めていた。
僕は飯を運び、膳を下げ、空いた卓を拭いた。
目の前の客に、この先どこへ行く人がいるのかは分からない。家族を送り出した人もいるのだろう。ここで名前を知っているのは数人だけで、歴史に残る者は一人もいないかもしれない。
それでも、戦場へ向かう一人分は、こういう店の椅子から立ち上がっていく。
「黒馬さん」
桑橋さんの声で、僕は盆の上へ視線を戻した。
「二番の卓へ、飯を二つと、こんにゃく田楽を一つです」
「はい」
考えるのは、客が引いてからにした。
* * *
一九四一年十二月十四日 夜
住まいへ続く戸が閉じると、里香に頼まれて買った日用品の中から、小さなメモ帳と黒いボールペンを取り出した。
現代の文具は、今夜も人前へ出さない。
「リサリサ。この先の警告を海軍に聞いてもらうには、次も僕の話を聞く理由を作らなきゃいけない」
《最初から戦争全体の未来を話しても、内容が多すぎて確認できません》
「一つに絞ろう」
《海軍自身が数日から十日ほどで結果を確かめられ、まだ結果が出ていない出来事である必要があります》
「偶然の推測だと思われない程度に、具体的なものだね」
《日付や部隊の動きが含まれていれば、検証しやすくなります》
「ただし、向こうがもう知っている命令を言っても、未来を知っていた証拠にはならないね」
《はい。日本側ですでに決まっていることと、後世から見た未来を混同できません》
メモ帳を開き、端末の背面レンズをページへ向けた。
画面は消したままだが、リサにも書く内容は見えている。声が続いた。
《最初の記録にできる可能性があるのは、ウェーク島です》
ウェーク島の名は知っていた。
だが、そこでの戦闘がどう進んだかまでは覚えていなかった。
僕はまだ、その名をメモ帳へ書かなかった。
「中部太平洋にある島だったな。そこで、いつ、何があった」
《はい。ハワイからグアムやフィリピンへ向かう経路上にある、アメリカ領の小さな環礁です。飛行場と海兵隊の守備隊があり、日本側にとっては、マーシャル諸島の北東に残るアメリカ軍の拠点です》
《日本海軍は十二月八日から空襲し、三日前の十一日には、一度目の上陸作戦を試みました》
「それで、どうなった?」
《失敗しています》
「損害は」
《陸上砲台の砲撃で駆逐艦「疾風」が沈没し、残っていたアメリカ軍戦闘機の爆撃で「如月」も沈没しました。攻略部隊は兵を上陸させないまま退いています》
「三日前のことだ。それを言っても予測にはならないね」
《はい。過去のことで日本側で公表されていない詳しい損害を知っていれば、未来人ではなく、軍事情報を盗んだ者だと疑われる可能性もあります》
「使えるのは、その先か」
《第一次攻略の失敗を受け、連合艦隊は、帰投中の機動部隊から第二航空戦隊の空母「蒼龍」と「飛龍」を支援へ回します。二隻を含む部隊は十六日に機動部隊本隊から分かれ、艦載機が二十一日と二十二日に島を攻撃します》
「上陸はあったの?」
《二十三日です。日本軍は二度目の上陸作戦を行い、その日のうちに島を占領します》
「十四日の今、空母を回すことは決まっていた?」
《実際に二隻を含む部隊が機動部隊本隊から分かれるのは十六日です。ただし、十四日の時点でその方針がどこまで固まり、佐世保鎮守府へどこまで伝わっていたかは分かりません》
「島の兵や飛行機が、いまいくつ残ってるかわかる?」
《正確な数は分かりません。十四日現在の島の状況も、日本側の会議の内容も、私が直接見ているわけではありません》
知っている歴史と、いま起きていることは同じではない。
僕はそのページに三つの見出しを書いた。
すでに起きたこと。
この先、史実では起きること。
いまの僕たちには分からないこと。
「アメリカは、救援に来ないの?」
《来ようとします。後世のアメリカ側の記録では、空母「サラトガ」を中心とする救援部隊が、航空機、兵員、弾薬などを運ぶために真珠湾を出ます。しかし、ウェーク島へ着く前に撤退を命じられます》
「それなら、救援部隊の出撃と撤退を言えば、細かい予測にはなるね」
《日本側が、その部隊の正確な編成や出撃日、撤退命令まで十日ほどで確認できるとは限りません。後世のアメリカ側の記録だから分かることです》
「海軍自身が確かめられないなら、最初の試験には使えないね」
《はい。それに、位置を知らないまま存在だけを伝えれば、確かめようのない脅威として作戦を混乱させる可能性があります》
僕は、救援部隊という言葉を、最初に伝える候補から外した。
海軍が自分で確かめられるのは、空母二隻が支援へ回ること、二十一日と二十二日の空襲、二十三日の再上陸と占領だった。
ウェーク島の経過が出るのは、第五十二播州丸が佐世保を出る前日だ。
田所さんの出港を止めるためには使えない。
それでも、今後の警告を無視されにくくする最初の記録にはなる。
石橋大尉へ話せる時点ですでに命令が出ていたことは、予測として扱わない。
僕の話を受けて日本側が決めたことも、的中とは数えない。
分からないことを、知っているようにも言わない。
一致する記録が残れば、次の警告を、身元不明者の戯言だけでは片づけにくくなる。
「最初に伝えるなら、ウェーク島だ」
《はい。ただし、予測として扱えるのは、伝えた時点で日本側がまだ決めておらず、禎さんの話によって変わっていない部分だけです》
「石橋大尉が何を知っているかを確かめてから、言えることを絞る」
僕はページに三つの行を書き加えた。
第五十二播州丸――二十四日。信用を得てからでは、出港を止めるには間に合わない。
ウェーク島――二十三日。最初の確認材料。
石橋大尉――もう一度会うなら、明日の朝。
「もし踏み出すなら、明日の朝だ。警察を通して石橋大尉へもう一度会わせてほしいと頼む。未来の話は、本人へ直接伝える」
《取次ぎを頼んだ時点で、警戒や拘束が強まる可能性があります》
「分かってる。だが、この先の警告へ間に合わせるなら、明日の朝には決めるしかない」
海軍へ話を届ける相手と、最初に使う候補は見えた。
けれど、実際にその一歩を踏み出すかは、まだ決めていなかった。




