第十六章 ここで、実際にやる
一九四一年十二月十四日 夜
僕は、書き終えた三行を見つめたまま、長椅子へ背を預けた。
そこにあるのは、船を止める方法でも、戦争を変える答えでもなかった。
身元の分からない僕が、海軍へ話を届けるための、ごく細い手がかりにすぎない。
その文字を見ていると、買った店の明るい棚が一瞬だけ浮かんだ。
これは拓海へ送る荷物へ入れるはずだったメモ帳だった。
「リサリサ。僕たちが歴史を変えたら、里香と拓海はどうなる」
《判断できません。過去が別の歴史として枝分かれするのか、禎さんのいた現代そのものが変わるのか、確かめる方法がありません》
「僕が選ぶのは、この時代のことだけじゃない」
《里香さんと拓海さんにつながる未来へ影響する可能性があります》
「それでも、何が二人を守る選択かは分からない」
《はい》
答えは一つも増えなかった。
僕が帰ったとき、里香が官舎で待っているのか。拓海が三沢にいるのか。そもそも帰れるのか。いまの僕たちには分からない。
「家族を守るなら動くなとも、言い切れないか」
《言い切れません。ただし、分からないことを、都合のよい方へ決めるべきでもありません》
「そうだね」
僕はメモ帳から手を離した。
「ウェークの情報が外れる可能性は」
《あります。私たちが何もしなくても、すでに把握していない変化が起きているかもしれません。情報を伝えれば、日本側は史実と違う判断を始めます》
「リサリサが知っている未来は、正解じゃなくなる」
《私は、後世に記録された一つの経過を説明できます。しかし、変わった後に何が起きるかは知りません》
竈の火が見えたときと同じだった。
リサが未来の断片で見たのは、僕が動かなかった場合に近い、数秒先だけだった。
桑橋さんを引いたあと、鍋が卓へ当たり、森下がやけどをするところまでは、誰にも見えていなかった。
戦争なら、動いた先に生まれるものは、やけどでは済まない。
「日本側の被害を減らせば、その代わりにアメリカ側の死者が増えるかもしれない」
《はい。史実では起きなかった戦闘が起きる可能性もあります》
「助ける人間を、僕が選ぶことになる」
《結果をすべて選ぶことはできません。それでも、情報を渡す相手を選べば、どちら側の判断へ力を貸すかは変わります。だからこそ、最初に伝える情報は、相手が確かめられるものに絞る必要があります》
「情報を当てるために、犠牲が出るのを黙って待つようなこともしない」
《はい。その一方で、証明を急いで、確かめられないことまで事実のように話すのも避ける必要があります》
「端末は見せない」
《はい。私の存在まで明かせば、端末を取り上げられる危険があります。それに、一度伝えれば、なかったことにはできません》
「それも分かってる」
「現代で、僕が相談していた小説、覚えてる?」
《太平洋戦争で、日本が壊滅的な敗戦を避けながら、勝利に驕らず現代へつながる道を作れるか、という構想です》
「あの主人公なら、ここで日本を勝たせる方法を考え始めてたかもしれない」
《物語なら、都合の悪い結果を書き直すこともできます》
「今はできない」
《はい》
「だから、いま決めるのは戦争全体じゃない。日本を勝たせることでもない」
僕は、メモ帳の最初の二行へ指を置いた。
「近い未来の情報を一つ、海軍へ届ける。まず、それだけだ」
《その一つで、別の犠牲が生まれる可能性もあります》
「ある」
《予測が外れ、信用を失う可能性もあります》
「ある」
《いまは、帰る手段そのものがありません。だから、介入しなければ帰れるとも、介入すれば帰れなくなるとも言えません。歴史を変えることが、帰る道を開く可能性も、閉ざす可能性もあります。禎さんの家族につながる未来が変わる危険もあります》
「何を選んでも、帰れる保証はない」
《はい》
一つずつ口にしても、危険と不確かさは小さくならなかった。
「それでも、僕はもう、この時代の外から歴史を眺めてるだけじゃない」
《森下さんと田所さんの交代があったからですか》
「それだけじゃない。でも、あの注文書きで分かった。何もしないつもりで店に立っていても、僕が動けば人の行き先は変わる」
《何もしないことも、一つの選択だと》
「そうだね。何もしない方が正しい場合もある。けど、知らないふりをすれば、責任がなくなるわけじゃない」
《私は、何もしない選択が間違いだとは言えません》
「僕も言えない」
《正解が分からないまま、最初の情報を届ける方を選ぶのですね》
「選ぶ」
答えが出たからではなかった。
答えのないままでも、自分が選んだこととして引き受けるしかないと分かったからだった。
「明日の朝、派出所で石橋大尉への取次ぎを頼む。会えたら、まずあの人の立場と、僕の話を記録に残せるかを確かめる。ウェーク島を話すとしても、すでに決まっている作戦を未来の予測には数えない。その先は、相手の反応と結果を見て、もう一度考える」
《私が、この先のやり方に反対したら、止まれますか》
「止まる。ただ、そのときは僕が納得できるように、理由を聞かせてほしい」
《分かりました。反対するときは、理由も話します》
《私も禎さんが正しいと決めつけて、従うだけにはなりません》
「そうしてほしい。僕が分からないことを分かったように言っていたら、遠慮なく止めて」
《私が史実を正解のように扱っていたら、禎さんが止めてください》
「二人とも、間違うかもしれない」
《はい》
「それでも、一緒に来るか」
リサは、すぐには答えなかった。
《……行きます》
《正解が分からないなら、一緒に考えます》
完全な自信が得られたわけではない。
未来を変えてよいという許しを、誰かにもらえたわけでもない。
明日、石橋大尉へ会わせてもらえる保証すらなかった。
それでも、自分がこの時代の外側にはいないことだけは、もう分かっていた。
僕はボールペンを置き、メモ帳を閉じた。
「ここで、実際にやる」
《はい。私も、禎さんとやります》




