第十七章 再面談と二つの文書
一九四一年十二月十五日 朝
米を研いでいると、店の裏口が開いた。
桑橋さんが魚の入った籠を抱えて、仕入れから戻ってきた。
僕が起きたときには、桑橋さんはもう店にいなかった。その間に店内を掃き、竈の冷えた灰も片づけておいた。
「おはようございます。魚、入ったんですね」
「はい。今日は入ると聞いていましたので、早めに行ってきました」
桑橋さんは仕入れを帳場の紙へ書きつけ、米と薪の残りを確かめた。
桑橋さんは、米を研いでいる僕の右手へ目を止めた。
右手の布は、もう外れていた。水から上げて掌を見せると、桑橋さんは赤みが残っていないことを確かめた。
「痛むようでしたら、すぐやめてください」
「はい。それと、今朝は派出所から本署へ行くことになるかもしれません」
魚を取り出しかけた手が止まった。
「呼ばれたんですか」
「いいえ。僕から、先日ここへ来られた石橋大尉に連絡を取ってもらえないか、頼んでみます」
「何か、思い出したんですか」
その言い方なら、桑橋さんがそう考えるのは当然だった。
「僕の身元のことではありません。船のことで、大尉へ伝えたいことがあります」
桑橋さんは僕の顔を見たが、その先は尋ねなかった。
「帰りがいつになるか、まだ分かりません」
「分かりました。気をつけて行ってきてください」
「はい」
桑橋さんは籠から魚を取り出し、朝の支度へ戻った。
米を研ぎ終えるころには、外も明るくなっていた。僕は毎朝の出頭へ向かった。
人目のないところで、僕は片耳に着けたイヤホンへ指を当てた。
昨夜決めたのは、まずウェーク島について、日付の残る記録を作るところまでだった。
だが、第五十二播州丸が一月二十日に沈むと知っていながら、ウェーク島の結果が出るまで黙っている理由はなかった。
「リサリサ。播州丸のことも今日話そう。石橋大尉と何度会えるか分からないから、伝えられるときに伝えておきたい」
《はい。分かっているのは、一月二十日にスービック湾で掃海中、機雷に触れて沈むことです。機雷原の位置と乗員の被害は分かりません》
派出所の手前でイヤホンを外し、上着の内側へ収めた。ここからは、相手の反応を見ながら、僕自身の言葉で伝える。
* * *
派出所へ入ると、紀伊巡査は僕の顔を見て、いつもの帳面を開いた。
「昨夜も桑橋食堂にいましたか」
「はい。店を出ていません」
「今日の予定は」
「このあと、本署へ行くことになるかもしれません。用件が済んだら食堂へ戻ります。桑橋さんには伝えてあります」
「佐世保を離れる予定はありませんね」
「ありません」
巡査は答えを一つずつ書き留めた。「身元が確かめられるまで、毎朝の居所とその日の予定を確認するよう、本署から言われています。店を出るときは桑橋さんへ行き先を伝えること。明日の朝も来てください」
「承知しました」
巡査が帳面を閉じるのを待ってから、僕は口を開いた。
「毎朝の確認とは別に、お願いしたいことがあります」
「何でしょう」
「先日本署で面談した石橋大尉に、もう一度お会いしたいんです。連絡を取っていただけますか」
「用件は何ですか」
「前回の面談の続きです。海軍の船のことで、大尉に直接お伝えしたいことがあります」
巡査は帳面から顔を上げた。
「急ぎの用件ですか」
「今日でないと間に合わないわけではありません。ただ、できるだけ早く、大尉ご本人にお伝えしたい話です」
「分かりました。本署へ連絡しておきます」
巡査は本署へ電話をかけた。
受話器を置くと、「前にあなたを調べた巡査部長へ伝えました。本署で、石橋大尉へ連絡できるか尋ねてください」と言った。
「ありがとうございます」
石橋大尉が佐世保鎮守府附だとは聞いているが、訪ね先までは分からない。身元も確かめられていない僕が鎮守府の門で説明するより、前に会った本署から連絡してもらう方が早い。
本署へ着くと、受付にいた巡査へ名を告げ、派出所から連絡が入っているはずだと伝えた。
「黒馬さんですね。聞いています。少しお待ちください」
玄関脇の長椅子で待っていると、前に僕を聴取した巡査部長が現れた。
「黒馬さん、お待たせしました。こちらへどうぞ」
前回と同じ部屋で、巡査部長は用件を確かめた。
「石橋大尉へは、どのような用件だと伝えればよいですか」
「先日の面談のあと、海軍の船に関わることを思い出しました。詳しくは、大尉ご本人にお話ししたいんです」
「分かりました。そのまま大尉へ伝えます。大尉の都合もありますので、返事が来るまでお待ちください」
僕は廊下の長椅子へ戻った。署員が何度も行き来し、昼の仕込みが始まる時刻になっても、返事は来なかった。
かなり待ったあと、巡査部長が長椅子まで来た。
「石橋大尉が来られました。こちらへどうぞ」
前回の部屋へ案内されると、石橋大尉は記録担当者とともに席に着いていた。巡査部長は「あとは大尉へ直接お話しください」と言い、部屋を出た。
「長くお待たせして、申し訳ありません」
「いえ。急にお願いしたのは私です」
「先日の面談のあと、思い出したことがあるそうですね。海軍の船に関わる話と聞きました」
「はい。ウェーク島と、第五十二播州丸の二件です」
石橋大尉の目がわずかに細くなった。
「第五十二播州丸ですか」
「はい。先に、ウェーク島からお話ししてもよろしいでしょうか」
「分かりました。伺いましょう」
記録担当者は、机の端で筆を取っていた。
「空母『蒼龍』と『飛龍』が支援に回り、二十一日と二十二日に空襲が行われる。そこまでは、すでに決まっていることですか」
「その話を、どこで聞きました」
「内容は思い出しましたが、いつ、どこで、どのような形で知ったのかは、まだ思い出せません。人から聞いたのか、何かで読んだのかも分かりません」
「作戦について、私から答えることはできません。ただ、その二つは、あなたが今ここで初めて持ち込んだ話ではない」
「それで十分です。私がお伝えしたいのは、その先です」
石橋大尉は何も言わず、続きを待った。
「日本軍は十二月二十三日にウェーク島へ再び上陸し、その日のうちに占領します」
「上陸する予定ではなく、占領すると言うのですね」
「はい。占領するのは二十三日当日です」
「作戦の予定だけでなく、成功する日まで確かだというのですか」
「はい。現時点では、間違いないと考えています」
「なぜ、その話を私へ持ってきたのです」
「今の私が海軍に話を伝えるには、大尉にお願いするしかありません」
「では、私に何をしてほしいのです」
「今日、私が『占領は二十三日当日だ』と話したことを、日付が残る形で記録して欲しいです。結果が出れば照合できます」
「記録に残すことが目的ですか」
「いいえ。記録は、その先の話を聞いていただくためのものです」
「その先とは」
「今後も、海軍へ伝えなければならないことがあります。ですが、身元も分からず、情報を得た経緯も説明できない今の私が話しても、取り合っていただけないと思っています」
「それで、まず今日の話を結果と照らし合わせる」
「はい。少なくとも、私の話は確かめる必要があると判断していただきたいんです」
「その信用を得た先で、何をするつもりですか」
「私の知っている範囲で、これから海軍が受ける損害を少しでも減らしたいと思っています」
石橋大尉は、僕から目を離さなかった。
「目的は分かりました。二十三日に、今日の記録と結果を照らし合わせます」
「ただし、それであなた自身を信用すると約束するものではありません。空母の動きを知った経路も、別に調べます」
「承知しています」
「もう一件を聞きましょう」
「第五十二播州丸のことです」
「続けてください」
「来年一月二十日、第五十二播州丸はルソン島のスービック湾で掃海中、機雷に触れて沈みます」
「その話も、思い出したことですか」
石橋大尉の目が僕を捉えた。
「はい。ただ、知った経緯は思い出せません」
「機雷原の位置は」
「分かりません」
「乗員の被害は」
「分かりません」
「分かっているのは、一月二十日、スービック湾で、掃海中に機雷へ触れて沈むということだけですか」
「はい」
石橋大尉は、少しのあいだ黙っていた。
「この話も、ウェーク島と同じように、結果を確かめるためのものですか」
「いいえ。こちらは、外れてほしい話です。船の沈没を防ぎ、乗員を危険にさらさないために、今のうちにお伝えしています」
「分かりました。第五十二播州丸の現状と予定を確認します。二件の記録は、確認できた事実とともに、私の上司へ報告します」
「お願いします」
「ただし、その先でどう判断されるかは、私から約束できません」
「分かっています」
「空母の動きも、まだ起きていない沈没も、あなたがなぜ知っているのか説明がつきません」
「はい」
「記憶が戻らないという事情は承知しています。それでも、この情報をどこで得たのかは、海軍として調べます」
「承知しています」
「前にも言いましたが、あなたが船を知らない者ではない、という見方は変わりません。これまでの行動と、いまの話を聞く限り、海軍を害するために近づいたとも思っていません」
「ですが、あなたの意図と、この情報を軍の判断に使えるかどうかは別です。今日の話で、確かめなければならないことは増えました」
僕は黙ってうなずいた。
面談が終わるころには、記録担当者の前に二通の紙が置かれていた。
どちらにも十二月十五日の日付があり、一通にはウェーク島が二十三日当日に占領されること、もう一通には第五十二播州丸が一月二十日にスービック湾で触雷して沈むことが記されていた。
僕が記録の内容を確かめると、石橋大尉は二通を受け取った。
二人が部屋を出ると、入れ替わるように巡査部長が入ってきた。
「明日もこれまでどおり派出所へ来てください。本署から呼出しがあれば、応じてもらいます」
「承知しました」
変わった条件は一つもなかった。
僕の身元だけでなく、思い出した情報をどこで得たのかも、調べられることになった。
* * *
本署を出ると、冬の陽はもう高く上がっていた。
通りを二つ曲がり、人目が途切れたところでイヤホンを戻した。
「リサリサ。二つとも残せたよ」
《二件とも、十二月十五日に伝えた記録になりました》
《第五十二播州丸について、海軍があの情報をどう扱うかは、私たちには分かりません》
「なら、今は待つしかないね」
食堂では、まだ昼の仕事が続いているはずだ。僕は桑橋さんの店へ向かって歩き出した。
二通はもう僕の手元になかった。どちらの結果も、まだ出ていない。
ただ、十二月十五日に僕が何を伝えたかは残った。
十二月二十三日まで、あと八日だった。




