第十八章 二つの文書の行方
一九四一年十二月十五日 昼
本署を出た佐世保鎮守府附の海軍大尉・石橋 万次郎は、二通の記録を携えて鎮守府へ戻った。
軍用地の門を通ると、警察署とは異なる時間が動いていた。歩哨が立つ先を、文書を抱えた下士官と伝令が行き交う。煉瓦造りの庁舎に入れば、廊下に靴音が続き、開いた扉の向こうから電話の声と紙を繰る音が漏れている。
本署では、石橋は海軍から照会に応じて来た者だった。ここでは、自分が確かめたことを報告し、判断を仰ぐ側に戻る。
石橋は、上司である佐世保鎮守府参謀・海軍中佐・天川 光のもとへ向かう前に、第五十二播州丸について確かめた。
手元の書類と、照会への返答から、徴用した漁船を特設掃海艇として用いていること、現在は佐世保に在泊し、十二月二十四日の出港へ向けた準備中であることまでは確認できた。出港後の行き先と任務は、すぐ参照できる範囲の書類だけでは確かめられなかった。
一通は、八日後に正否の分かる記録。
もう一通は、十日もしないうちに佐世保を離れる船を救うための申告だった。
警察が確認した事実。黒馬 禎本人の申し立て。石橋自身の評価。内容が異様であるほど、それらを混ぜずに報告しなければならない。
石橋の知る天川中佐は、そこを曖昧にした報告を通さない。
石橋は天川の部屋に入り、敬礼した。
天川は答礼し、向かいの椅子を示した。机には別の書類が開かれていた。
「警察から照会のあった、黒馬 禎という男の件です。先日の所見とは別に、本日、本人から二件の申告を受けました」
「十三日に、身元と船務知識を確かめるため、本署で面談した男だな。所見は、身元は確認できない。ただし、船を知らぬ者とも思えない、というものだった」
「はい。その評価は変わりません。変わったのは、本人が、まだ起きていない二件を日付の残る文書にするよう求めたことです」
天川は、開いていた書類を閉じた。
天川は石橋の報告をただの噂として退けない。だが、石橋の人物評価だけで結論を出す上司でもなかった。
「まず、確認できていることから聞こう」
「はい。黒馬の身元は、いまも確認できていません。記憶を失っているというのは、本人の申し立てです」
「警察が確認している行動は」
「桑橋食堂で寝泊まりし、店の仕事を手伝っています。毎朝の派出所への出頭を続け、呼出しにも応じています」
「それは、行動が確認できたというだけだ。身元の裏付けにはならん」
「承知しています」
「船務についての所見は、何を根拠にした」
「見張りからの報告と、射撃中の故障を想定して問いました。個々の用語だけでなく、何を先に確かめ、どの段階で誰へ判断を渡すかという考え方に、船上で人を動かした経験が現れていました」
「海軍で習ったとは限らんな」
「はい。所属の裏付けにはしていません」
天川は、書類挟みへ目を移した。
「二件を聞こう」
石橋は一通目を取り出した。
「ウェーク島に関するものです。黒馬は、日本軍が十二月二十三日にウェーク島へ再び上陸し、その日のうちに占領すると話しました」
天川の視線が、紙の上の日付で止まった。
「二十三日まで、ではないのだな」
「はい。二十三日当日に再び上陸し、その日のうちに占領する、と断定しました」
「作戦の予定を知っている、という話ではないのか」
「本人は、予定と結果を分けて話していました。上陸するだけでなく、占領の日まで分かると」
「根拠は」
「黒馬は、内容は思い出したものの、いつ、どこで、どのような形で知ったのかは思い出せないと申しております」
「記憶を失った男が、まだ起きていない結果だけを思い出したということか」
「本人の説明は、そうなります」
天川の表情は動かなかった。
「それを、今日の日付で残してほしいと」
「はい。二十三日の結果と照合し、今後の話を聞いてもらうための信用を得たいと申しています」
「信用を得て、次の話を通す。よく組み立てた申し立てだ」
「はい」
「その先で、何を求めている」
「自分の知っている範囲で、これから海軍が受ける損害を少しでも減らしたいと話しました。金銭や身分、今受けている制限の緩和は求めていません」
「海軍の損害か」
「はい」
天川は記録から目を上げ、石橋に視線を据えた。
「その男は、これから海軍に何が起こるかを知っているとでもいうのか」
「今後も伝えるべきことがあるとは申しました。ただ、何をどこまで知っているのかは話していません」
石橋は二通目を示した。
「もう一件は、第五十二播州丸の沈没に関する申告です」
「第五十二播州丸は、確認したのか」
「はい。徴用漁船を特設掃海艇として用いており、現在は佐世保で十二月二十四日の出港へ向けた準備中です。出港後の行き先と任務は、さらに確認が要ります」
天川の指が、二通目の紙の上で止まった。
「黒馬は、その船について何と言った」
「翌年一月二十日、ルソン島のスービック湾で掃海中、機雷に触れて沈没すると申しました」
「一月二十日。スービック湾で掃海中に触雷し、沈没」
「そのとおりです」
「機雷原の位置は」
「分からないと」
「乗員の被害は」
「それも分からないと答えています」
「こちらも、後で的中を確かめるための記録か」
「いいえ。黒馬は、こちらは外れてほしい話だと、はっきり分けています。沈没を防ぎ、船と乗員を危険から遠ざけるため、ウェーク島の結果を待たずに今日伝えたと」
「一件目の結果を待たず、二件目まで出した。信用を得るためだけなら、余計な話を増やす必要はないな」
「はい。それでも、船が出る前に伝えておく方を選んだのだと、私は見ています」
石橋の言葉に、天川の目が二通目から離れた。
「見ている、と言ったな」
「それは、私の評価です」
「その男を信じているのか」
「身元も、情報源も確認できていません」
「では、何を認めている」
「船を知らない者ではないこと。それから現時点で、海軍を害する意図を裏付ける言動は確認していないことです」
「それを、二件が正しい根拠にするのか」
「いいえ」
石橋は、首を横に振った。
「黒馬の人柄をどう見るか。身元と情報源を確認できるか。その情報を軍の判断に使えるか。三つは分けて考えるべきです」
「船を救いたいという話も、情報の裏付けにはならん。害意が見えないことと、害がないことも同じではない」
「承知しています」
天川は、二通を並べたまま、その上に手を置いた。
「だが、確認できたことと、自分の評価を分けて持ち込んだ件だ。ただの噂話として退けるつもりはない」
「はい」
「何をすべきだと考える」
石橋は、その問いを待っていた。
「まず、こちらで確かめられる事実を揃えるべきだと考えます。第五十二播州丸は出港後の予定まで確認し、ウェーク島は二十三日の結果と照合します」
「身元と情報を得た経路の調査は」
「警察と連絡を取り、続けます」
天川は、一通目の冒頭にある十二月十五日の日付を指先で押さえた。
「二通とも、この日付が残る形で保管する」
「はい」
「第五十二播州丸は、出港後の行き先と任務を確かめろ。ウェーク島は、二十三日にこの紙と結果を照合する」
「承知しました」
「確認のための照会と、この男の話をさらに上へ報告することは別だ。現段階で、黒馬 禎の件は私のところで止める」
「では、第五十二播州丸の出港や任務は、現時点では変更しないということですか」
「現段階では変更しない。船の予定を調べることと、身元も情報源も分からぬ者の申告だけで命令を変えることは別だ。まず、事実を揃える」
「承知しました」
天川は並べた二通の日付を見た。
「十二月二十三日。翌年一月二十日」
天川は、先に来る方の文書へ目を戻した。
「まず、八日後だ。結果が分かり次第、報告しろ」
「はい」
石橋は敬礼し、部屋を出た。
廊下では、電話の声と靴音がまだ続いていた。
二通は、閉じた扉の向こうに残った。




