第十九章 町の中の桑橋さん
一九四一年十二月十六日 朝
前日の昼、食堂へ戻った僕が桑橋さんへ伝えたのは、石橋大尉に会えたことと、十二月二十三日まで待つことだけだった。
何を待つのかとは尋ねられなかった。僕も、それ以上は話さなかった。
翌朝も、起きるとすぐ店内を掃き、米を研いだ。
桑橋さんは米櫃と薪の残りを確かめると、帳場の紙へ短く書きつけた。
「黒馬さん。出頭から戻ったら、仕入れに付き合ってください」
「はい。重い物は僕が持ちます」
「何をどちらへ入れるかは、買ってから決めます。先に全部引き受けないでください」
「分かりました。戻ったら、すぐ声をかけます」
派出所でいつもの確認を受け、今日は仕入れと店の手伝いをすると伝えた。
紀伊巡査は答えを帳面へ書き、明日の朝も来るように言った。
石橋大尉からの呼出しはなかった。
二通の紙を残しても、僕の立場は変わらなかった。
* * *
店へ戻ると、桑橋さんは入口の近くに二つの籠を置いていた。
僕が両方へ手を伸ばすと、深い方だけを渡された。
「そちらへ魚と重い物を入れます。葉物は私が持ちます」
「最初から決めていたんですね」
僕は渡された深い籠を見て、苦笑した。
桑橋さんは、ほんの少し口元を緩めた。
「帰りのことを考えて、籠を出しましたから」
桑橋さんが先に店を出た。
以前にも、交番や銭湯、開店前の買い出しで、桑橋さんと町を歩いたことはある。
けれど、そのときは僕自身の用事や、けがをした右手のことで頭がいっぱいだった。桑橋さんが、町で誰とどのように関わっているのかまで見る余裕はなかった。
その朝は、通りへ出て間もなく、店先を掃いていた女性が桑橋さんへ声をかけた。荷車から箱を下ろしていた男は、「今日は荷持ちがいるんですね」と言って道を空けた。
桑橋さんは、相手の手を止めさせない長さで言葉を返し、そのまま歩いた。
その人たちは、見慣れない僕より先に桑橋さんを見ていた。
町なかを歩き、京町の公設市場へ入った。大きな上屋の下を通路が延び、その両側に魚や青物の店棚が向かい合っていた。
魚と土のついた野菜の匂いが重なり、品の名を呼ぶ声や、木箱を動かす音が続いていた。
桑橋さんは迷わず魚屋へ向かった。
年かさの主人が、冷たい水で赤くなった手を前掛けで拭いた。
「おう、桑橋さん。今朝の鯵は小ぶりだ。いつもの数でいいか」
桑橋さんは値を尋ねてから、一尾だけ手に取り、すぐに戻した。
「いいえ。この大きさなら十二尾ください。なるべく大きさをそろえてください」
「分かった。十二尾だな」
主人はそれ以上勧めず、魚を数え始めた。
主人は魚を包みながら、僕の持つ籠へ目を向けた。
「ところで、そっちの若いのは誰だ」
「黒馬さんです。いま、店を手伝ってもらっています」
「初めまして。黒馬です」
僕が頭を下げると、主人は僕の顔から手元の籠までを一度見た。
「毎日、手伝いに来ているのか」
「いいえ。店で寝泊まりしてもらっています」
主人の手が止まった。
隣の青果屋で大根を並べていた男が、桑橋さんへ聞き返した。桑橋さんと同じくらいの年頃に見える。
「桑橋さんの店にですか」
「ええ。毎日、朝の支度から、夜の片づけまで手伝ってくださっています」
向かいの乾物屋から、別の男が顔を出し、面白そうに口を挟んだ。
「朝から夜まで一緒で、そのまま同じ店に寝るのか」
「人手があるのは助かります」
桑橋さんは、まだ仕事の話をしているつもりらしかった。
青果屋の男が、魚屋の主人より先に僕へ尋ねた。
「いつから店にいるんですか」
「今月四日の夜からです」
乾物屋の男が、さらに言葉をつないだ。
「四日の夜に来て、その晩からか」
魚屋の主人は、包みの上に手を置いたまま、桑橋さんへ尋ねた。
「桑橋さん。前からの知り合いだったのか」
「いいえ。初めてお会いしたのは、その晩です」
三人の視線が、僕へ集まった。
魚屋の主人は包みから手を離し、青果屋の男は店棚の端まで出ている。乾物屋の男だけは、口元を緩めたままだった。
聞いているのは僕の身元ではない。桑橋さんのそばに置いてよい男かどうかを、それぞれのやり方で確かめていた。
三人の中で場を決めていた魚屋の主人へ、僕は向き直った。
「ご心配なのは分かります。事情があって桑橋さんに助けてもらっていますが、ただ世話になっているだけではありません。朝の掃除から閉店後の片づけまで、できることは私がやっています」
乾物屋の男が、間を置かずに言った。
「結局、閉店後まで一緒なのは同じじゃないか」
青果屋の男の視線が、僕から桑橋さんへ移った。
僕は魚屋の主人へ向いたまま、言葉を継いだ。
「寝ているのは店の長椅子です。桑橋さんの住まいには入ったこともありません」
魚屋の主人が、わずかに顎を引いた。
「住まいとは別なんだな」
「はい」
乾物屋の男は、まだ口元を緩めていた。
「住まいへ入っていないことまで、ずいぶん丁寧に言うんだな」
桑橋さんは小銭を出しかけた手を止め、三人の顔を順に見た。
「……皆さん、何を考えているんですか」
魚屋の主人が言った。
「桑橋さんが、初めて会った男を、その晩から店に泊めたと聞いたんだ」
「働ける方か見てから決めました。店の長椅子です。ほかの話ではありません」
乾物屋の男が笑った。
「事実の並べ方が、少し悪かったな」
「事実を一つずつ聞いたのは、皆さんです」
桑橋さんの声は穏やかだったが、食堂で僕へ向けるものより少しだけくだけていた。
乾物屋の男が、まだ何か言おうとした。僕は先に、三人へ言った。
「私のことはどう言われても構いません。ただ、私のせいで、桑橋さんが商売を続けにくくなるような噂は、広めないでください」
青果屋の男が、先ほどまでより硬い声で言った。
「自分のことより、桑橋さんの心配か」
乾物屋の男が、桑橋さんへ笑いかけた。
「大事にされているな、桑橋さん」
言い方を選んだつもりだったが、別の意味では、さらに悪くなったらしい。
「黒馬さん。それ以上は、説明しない方がよさそうです」
「はい」
桑橋さんは僕を止めると、三人へ向き直った。
「心配してくださるのはありがたいです。でも、黒馬さんに働いてもらうと決めたのは私です。困ることがあれば、私が言います」
乾物屋の男は両手を上げて、自分の店へ半歩戻った。
魚屋の主人は僕を見たままだった。
「黒馬だったな」
「はい」
「桑橋さんを困らせるなよ」
「はい」
主人は少し間を置き、包んだ魚を僕へ渡した。
「分かった。まずは、それを傾けずに持て」
「はい」
魚の包みを籠の底へ収めると、桑橋さんは勘定を確かめ、青果屋へ移った。
騒ぎを引きずる様子はなかった。
「大根を四本と、青菜を三束ください」
青果屋の男は、店棚の奥から形のよい大根を出した。
「桑橋さんの分に、よけておきました」
「ありがとうございます。でも、いつものように、品を見て決めますね」
「分かりました」
男はよけていた大根を店棚へ戻した。
選んだ大根は僕の籠へ、青菜は桑橋さんの籠へ収まった。
「店までなら、私が持ちましょうか」
「ありがとうございます。今日は、黒馬さんがいますから」
「荷物は私が持ちます」
男は僕へ短くうなずき、すぐ桑橋さんへ向き直った。
桑橋さんは僕の籠を見た。
「大根を片側へ寄せすぎないでください。魚の包みが傾いています」
僕は大根の向きと魚の包みを直した。
三人に向かって説明はできても、仕入れた物をどこへ入れるかは、桑橋さんの方がよく分かっていた。
向かいから、乾物屋の男が声を飛ばした。
「もう、ずいぶん息が合っているじゃないか」
「籠の話です。それから、今日は乾物は買いません」
乾物屋の男は口を閉じ、魚屋の主人が声を上げて笑った。
勘定を済ませると、桑橋さんは僕へ歩くよう目で合図した。
市場を出ようとしたところで、通路の先にいた別の店の男が声をかけてきた。
「桑橋さん、住み込みを雇ったそうですね」
話は、もう一つ先の店まで届いていた。
「雇ったわけではありません。黒馬さんは、店を手伝っている方です。聞いた話を増やさないでください」
「私からも説明を――」
「黒馬さんは、もう説明しなくて結構です」
「はい」
桑橋さんは何事もなかったように市場を出た。
帰り道では、行きと同じように何人かが桑橋さんへ声をかけた。
けれど今度は、桑橋さんを見たあと、隣を歩く僕へも視線が向いた。
「先ほどは、余計なことを言われましたね」
桑橋さんが前を向いたまま言った。
「皆さん、桑橋さんを心配していたんだと思います」
「心配しすぎです。面白がっていた人もいます」
「乾物屋の方ですね」
「あの人は、心配よりも面白がっていた方が大きいです」
桑橋さんの口元が、ほんの少しだけほころんだ。
「それにしても、桑橋さん。町では、ずいぶんもてるんですね」
桑橋さんが僕を見た。口元の笑みは残っていたが、目だけがわずかに細くなった。
「そんなことありません。皆さん、昔からの顔馴染みなだけです」
「そうでしょうか。青果屋の方は、少し違って見えました」
「大根は、店へ売るためによけていたんです」
「大根はそうでしょう。でも、荷物まで店へ運ぼうとしたのも、商売ですか」
一拍遅れて、桑橋さんの視線が僕の持つ籠へ落ちた。
「……魚が傾いています」
僕は籠の中を見た。包みは、わずかに大根へ寄っていた。
「すみません」
僕は包みを真ん中へ戻した。桑橋さんは前を向き、何もなかったように歩き続けた。
「今日からは、僕のことも知られましたね」
「黒馬さんが、あれだけ詳しく説明するからです」
「最初に、寝泊まりしているところまで話したのは桑橋さんです」
桑橋さんはすぐには返さなかった。
「……私も、少し説明しすぎました」
「僕もです」
「では、お互いさまです」
その一言で話を終え、桑橋さんはいつもの速さで店へ向かった。
* * *
店へ戻ると、桑橋さんは仕入れた品を確かめ、帳場の紙へ値と数を書きつけた。
「黒馬さん。鯵は台所へ。今日は煮付けにします。大根は水場の近くへお願いします」
「はい」
僕が仕入れた物を運び終えると、桑橋さんは台所へ入った。
僕は人目がないのを確かめ、イヤホンを着けて声を落とした。
「リサリサ。聞いてた?」
《はい。少し面白かったです》
「え、何が面白かった?」
《桑橋さんが、いちばん遅く誤解に気づいたところです。それと、帰り道にも興味深い点がありました》
「青果屋の話?」
《はい。荷物を運ぶ申し出も商売なのか、と聞き直しましたね》
「うん。あれは商売だけじゃないと思ったからだよ」
《青果屋の方が桑橋さんへ好意を持っているか、確かめたかったのですか》
「見たままを言っただけだよ」
《桑橋さんが魚の話へ変えたことには、気づいたのですね》
「……あれには気づいたよ」
《桑橋さんも、禎さんへ聞き返しませんでした》
「何を?」
《青果屋の方が桑橋さんに好意を持っているとして、それが禎さんに何の関係があるのか、です》
「……市場の話に戻そう」
《いまも市場の話です》
「本人は仕事の話しかしてなかったからね。魚屋は、本気で桑橋さんを心配してたよ」
《魚屋の方も青果屋の方も、心配だとは一度も言いませんでした》
「真正面から言えば、桑橋さんが答えにくい。冗談に混ぜておけば、違うと言われたときに引ける」
《人は、直接言わずに誰かを守ろうとするのですね》
「そういうこともある。乾物屋は、面白がってる方が大きかったけどね」
《それと、禎さんは説明しすぎです》
「途中で気づいた」
《気づいたあとも、また説明しようとしていました》
「……もういいよ」
台所から、桑橋さんが顔を出した。
「黒馬さん。そろそろ店を開けます」
「はい」
イヤホンを外すと、桑橋さんはまだ僕を見ていた。
「市場で言われたことは、気にしないでください」
「気にしていません。桑橋さんが、町の人たちに大切にされていることが分かりました」
「余計なところまで、大切にしすぎです」
「それでも、魚屋の方は本気で心配していました」
桑橋さんは、ほんの少し目を伏せた。
「昔から、私が一人で決めたことに、一言言わないと気が済まない方なんです」
それから、帳場へ視線を戻した。
「次からは、店を手伝っている方だとだけ言います」
「それがいいと思います」
「黒馬さんも、店と私の立場まで説明しなくて結構です」
「はい」
「その代わり、今日もきちんと働いてください」
「もちろんです」
桑橋さんが暖簾を掛け、僕は店の戸を開けた。
町の中には、僕の知らない桑橋さんの暮らしが、僕と会うずっと前から続いていた。
そしてその朝、町の人たちもまた、僕を通りすがりではなく、桑橋さんの店で暮らし、働く男として見始めていた。




