第二十章 明日の支度
一九四一年十二月十七日から十八日
朝の戸を開ける前に、美由紀が決めなければならないことはいくつもあった。
米をどこまで炊くか。その朝仕入れた鯵を朝と昼へどう分けるか。大根を汁へ回すか、煮物にするか。客足は毎日同じではなく、残せばそのまま損になる。
美由紀は米櫃の蓋を閉じ、竈の火を見た。
入口の掃除を終えた黒馬が、店の奥へ声を掛けた。
「派出所へ行ってきます」
「はい。気をつけて」
黒馬は毎朝、派出所へ出ていく。そこで何を尋ねられているのか、美由紀は聞かなかった。聞いたところで、答えにくいこともあるのだろう。
ただ、戻る時刻だけは、店の段取りに関わる。
戸が閉まる音を聞いて、美由紀は包丁を取り上げた。
黒馬が来る前にも、朝は同じように始まっていた。火を起こし、米を量り、出汁を取り、その日の客へ出すものを決める。手が一組増えても、その判断まで人へ預けるつもりはなかった。
暖簾を出すには、まだ少し早かった。
それでも、表の戸が二度、遠慮のない調子で叩かれた。
「桑橋さん、もうよかか」
声で分かった。朝の早い仕事へ向かう男が二人だった。いつもなら、もう少し遅い時刻に来る。
美由紀は戸を細く開けた。
「今日は早いですね」
「向こうの始まりが早まった。腹へ入るものなら何でもよか。急いどる」
もう一人が、湯気の立ち始めた竈をのぞいた。
「魚はまだか」
「焼くなら待ってください。飯と汁だけなら、すぐ出せます」
二人は顔を見合わせた。
「待てん。今日はそれで頼む」
「では、いつもの勘定から魚の分を引きます」
「朝からきっちりしとるなあ」
「朝だからです」
美由紀が戸を開けると、二人は肩をすぼめて店へ入った。
飯と汁に、昨日のうちに煮ておいた大根の小皿を添えた。二人は話す間も惜しむように箸を動かし、椀を空にした。
「明日も、このくらいになるかもしれん」
立ち上がりながら、一人が言った。
「分かりました。明日は少し早く支度します」
「魚も頼むぞ」
「それは、明日の仕入れを見てからです」
男は苦笑し、もう一人に背を押されて出ていった。
美由紀は暖簾を掛け、仕込む量は変えずに次の客を待った。
間もなく、いつもの客が一人、また一人と戸を開けた。
誰が急いでいて、誰なら少し待つか。美由紀は注文だけでなく、入ってきたときの足音や、腰を下ろす前に時計へ向ける目も見ていた。急ぐ者には先に汁を置き、話をしたい者には茶を足した。声を荒らげなくても、店の中の順番はそれで決まった。
朝の客が引いたころ、買い物籠を腕へ掛けた女が入ってきた。長く通っている客で、今日は脇に畳んだ新聞を抱えている。
「桑橋さん、これ、もう読みましたか」
膳を下げていた美由紀は、女が開いた面へ目をやった。
紙面の下半分を、映画の広告が占めていた。題名にも出演者にも覚えはなかったが、光の差す階段に立つ女優の絵が、しばらく目に残った。
「まだです」
「今度のは、桑橋さんが好きそうでしたよ。昨日見てきた人が、よかったって」
「そう言われると、見たくなりますね」
「でしょう。たまには行けばいいのに」
「ええ。でも、店の時刻と合いませんから。滅多には行けません」
女は店の奥を見回した。
「いまは、手伝いの方がおるでしょう」
昨日の市場の話が、もうここまで届いたのかもしれなかった。美由紀は、女の顔に浮かんだ笑みを見たが、問い返さなかった。
「手伝ってもらうのと、店を任せるのは別です」
「それはそうね。でも、一人のときよりは出やすいでしょう」
「どうでしょう。よく働く方ですが、まだ覚えていただくことがあります」
「厳しい先生だこと」
「お客さんに出すものですから」
女は笑い、新聞を畳んで帳場へ置いた。
「読み終わったら、焚きつけにでもしてください」
「ありがとうございます」
広告の面が上を向いていた。美由紀はそれを裏返さず、次の膳を運んだ。
昼が近づくと、空いていた席が順に埋まった。
美由紀は焼き物の加減を見ながら、急ぐ客の膳を先に整えた。馴染みの客は、順が前後しても声を上げなかった。
水瓶の水が半分を切った。
いつもなら、このあたりで黒馬が戻り、水を足す。
先に水を汲みに出るか、残った分で次の客まで回すか。
美由紀が空の桶へ手を掛けたところで、表の戸が開いた。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい。先に水をお願いします。そのあと、三番の卓へお茶を」
「はい」
黒馬が水汲みに出ると、美由紀は焼けた魚を皿へ移した。
客がひと息つくころには、朝に分けておいた魚は一尾も残っていなかった。
「今日はもう魚はなしか」
遅く来た常連が、空になった焼き網を見て言った。
「煮物ならあります」
「手伝いが増えたなら、魚も増やしてくれんか」
「手が二本増えても、魚の数は増えません」
常連は黒馬を見てから、声を上げて笑った。
「黒馬さん、しっかり働いて、魚まで増やしてくれ」
「それは、桑橋さんが決めることです」
黒馬が真顔で答えると、また笑いが起きた。
美由紀は煮物の鉢を置いた。
「笑っている間に冷めますよ」
常連は箸を取り、店の中は元の調子へ戻った。
* * *
暖簾を下ろしたあと、美由紀は帳場でその日の勘定をつけた。
朝の二人が早く来たこと。昼までに魚がなくなったこと。煮物は残らなかったが、米には少し余裕があったこと。
一日だけなら、たまたまかもしれない。
「明日は、今日より早く火を入れます」
卓を拭いていた黒馬が振り返った。
「魚を増やしますか」
「いいえ。仕入れは変えません。早く来た方を待たせないようにするだけです」
「でも、昼には足りませんでしたよね」
「明日も同じなら、その次を考えます。一日で増やすと、雨が降っただけで余りますから」
黒馬は少し考え、うなずいた。
「分かりました。では、起きたら先に薪を割ります」
「お願いします」
帳面の脇には、女が置いていった新聞があった。美由紀はそれを四つに畳み、帳面の下へ差し込んだ。
それから、二人分の飯をよそった。
* * *
翌朝、美由紀はいつもより早く竈へ火を入れた。
まだ外は暗かった。黒馬は眠そうな顔を見せずに薪を運び、米を研いだあと、昨日と同じ時刻に店を出た。
「派出所へ行ってきます」
「はい。今日は、店が終わったら裏の箱を動かしてください」
「分かりました」
美由紀は魚を焼く前の支度を済ませ、高野豆腐の含め煮も小鉢へ出せるよう整えた。
昨日の男たちは、暖簾を出す少し前にやってきた。
「今日は魚もあるか」
「あります。待たなくていいようにしてあります」
「助かった」
二人が腰を下ろすころには、飯と汁、焼いた魚に、高野豆腐の含め煮を添えた膳が揃った。
一人が箸を持つ前に、店の奥を見た。
「あの手伝いの人は、今日は休みか」
「少し出ています。戻ってきますよ」
美由紀がそう答えると、男はもう一人と顔を見合わせ、わずかに肩の力を抜いた。
「そうか。桑橋さんに面倒だけ掛けて、急におらんようになったわけじゃないならよか」
「どうして、そこまで心配するんですか」
「いや、昨日、桑橋さんが見慣れん男と一緒に暮らしとるって、町で話になっとったからな」
「朝ご飯を冷ます話ではありませんね」
男は口を閉じ、もう一人が笑いをこらえながら魚へ箸を入れた。
早く支度をした分、そのあとの客にも余裕を持って膳を出せた。店の流れは、美由紀が考えたとおりに進んだ。
昼が近づいたとき、美由紀は柱時計を見た。
水瓶にはまだ水がある。裏の箱も、いま動かす必要はない。急ぐ理由はなかった。
表の足音が一つ止まり、戸が開いた。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい。手を洗ったら、二番の膳をお願いします」
「はい」
黒馬は置き場を聞き返すことなく、皿と汁椀を揃えて二番の卓へ運んだ。
美由紀はそれを確かめると、すぐ鍋へ向き直った。
昼を過ぎても、客足は前の日と大きくは変わらなかった。魚は最後の一人でなくなり、高野豆腐の含め煮も余らなかった。
二日続いたのなら、朝の支度を早めることは続けてよい。
ただし、仕入れを増やすのは、もう一日見てからで遅くない。
美由紀は客のいなくなった卓を拭きながら、そう決めた。
* * *
夜、帳場には二日分の数字が並んだ。
黒馬は裏で、頼んでおいた箱を動かしていた。重い木箱が床を擦る音がして、それから静かになる。
美由紀は売上を書き終え、帳面を閉じた。
下へ挟んでいた新聞の端が見えた。引き出すと、折り目の脇に映画の広告が残っている。
美由紀はしばらく眺め、また同じ折り目で畳んだ。見に行く時刻がないことは、昨日と変わっていない。それでも、焚きつけの紙と一緒にはしなかった。
新聞を帳場の端へ置くと、美由紀は翌朝の米を量った。最後に、もう一杯を足した。
黒馬の分だった。
美由紀は数え直すことなく、米櫃の蓋を閉じた。




