第二十一章 仕事ではない時間
一九四一年十二月十九日 朝
十九日の朝、紀伊巡査が帳面を閉じたところで、僕は一度だけ尋ねた。
「本署から、私への連絡は来ていますか」
「来ていません。呼出しがあれば、こちらから桑橋食堂へ知らせます」
「分かりました」
巡査の声にも、僕を見る目にも、昨日までとの違いはなかった。
二十三日のウェーク島の結果が、今日分かるはずはなかった。それでも、何か動いていないか確かめずにはいられなかった。
派出所を出て、人目が途切れたところでイヤホンを戻すと、リサが言った。
《返答するまでの間の取り方も、声の調子も、これまでと変わりません》
「そうだね。何も変わっていないことは確認できた。今日は、それでいいよ」
僕は食堂へ戻り、そのあとはいつもどおり働いた。
* * *
その日の閉店後、桑橋さんは帳場へ三日分の数字を並べた。三日目も、客足と売れ方は大きく変わっていなかった。
桑橋さんは明日の仕込みの予定を書き終えると、帳面を閉じ、脇にあった新聞を開いた。
「黒馬さんは、映画は嫌いですか」
「いいえ」
新聞の折られた面には、映画の広告が載っていた。
「では、明日の午後、付き合ってください」
「映画に、ですか」
「ええ。映画を観に」
「桑橋さんは、映画がお好きなんですか」
桑橋さんは上映の時刻を確かめ、指で紙面を押さえた。
「好きですよ。時間があれば、何でも観ます。面白くなかったものにも、面白くなかったと誰かに話す楽しみがあります」
「明日は昼の分だけ仕込みます。夕方は休みます」
「店を閉めるんですか」
「夕方だけです。三日分見ましたから、昼までなら余らせずに済みます」
「僕でいいんですか」
「一人で観るより、話す相手がいた方がいいでしょう。面白くなかったときにも、無駄になりません」
「それなら、責任がありますね」
桑橋さんは、ほんの少し口元を緩めた。
「映画を面白くしてくれとは頼んでいません」
* * *
一九四一年十二月二十日 昼
翌朝も決められたとおり派出所へ顔を出し、それから食堂へ戻った。本署のことはこちらからは聞かなかった。
昼どきの最後の客が帰ると、桑橋さんは残った飯と、れんこんとごぼうの煮しめを夕飯に取り分け、昼までの勘定をつけた。
「黒馬さん。今日は、ここまでです」
「はい」
僕は表へ出て、暖簾を外した。いつもなら夕方の仕込みを始める時刻には、まだ早かった。
「夕方に来る方には、明日、私から謝ります」
桑橋さんはそう言いながらも、開け直す様子はなかった。
片づけを済ませ、桑橋さんはあの新聞を手に取った。
前掛けを外して上着を着ると、店の中をもう一度見回した。まだ日のあるうちに店を閉じたことが、落ち着かないらしかった。
「いまなら、開け直せますよ」
「開けません。そういうことを言わないでください」
「はい」
桑橋さんは戸に鍵を掛けたあと、取っ手を二度揺すった。
《桑橋さんは、戸を二度揺すりました》
リサの声が、片耳にだけ届いた。
「だから、もう開け直せるとは言わないよ」
桑橋さんに聞こえない声で答えると、リサは少し間を置いた。
《禎さんは、行きたくないのですか》
「逆だよ。行くと決めた人を、店へ戻したくないんだよ」
《分かりました》
桑橋さんが振り返ったので、僕はそれ以上話すのをやめた。
「何か言いましたか」
「いいえ。行きましょう」
桑橋さんと店の外を歩くのは、初めてではない。買い物のときには、籠か包みが必ずあった。今日は、持っていく物も届ける物もなかった。
「この辺りまで来るのも久しぶりです」
「今日は、間に合いそうですね」
「はい」
そう答えたあと、桑橋さんは少し歩調を速めた。午後の回に遅れないか気になるらしく、通りの時計を見上げた。
僕も隣で歩調を合わせた。
映画館の入口には、まだ何人か並んでいた。桑橋さんに続き、僕も、これまでの手伝いで受け取った小銭で入場料を払った。
中へ入ると、桑橋さんは客席を見渡した。
「前すぎると首が疲れます。後ろすぎると細かいところが見えません」
「よくご存じですね」
「好きだと言ったでしょう」
桑橋さんが選んだ席に、並んで座った。
やがて灯りが落ちた。
映画が始まると、桑橋さんはほとんど動かなかった。可笑しい場面では声を抑えて笑い、何でもない会話にも、聞き漏らすまいと耳を傾けていた。
僕も物語に引き込まれた。
終わり近く、長く家を離れていた息子が、母親の待つ駅へ帰ってくる場面があった。
拓海から届いた短い返事を、嬉しそうに僕へ見せた里香の顔を思い出した。
画面がにじんだ。何度か瞬きをしたが、間に合わなかった。
「黒馬さん」
桑橋さんが画面を見たまま、小さな声で呼んだ。
「はい」
「泣いていますか」
「少しだけ」
桑橋さんは、それ以上は聞かなかった。
息子が、別れの日にもらった手拭いを懐から取り出して母親へ返すと、母親は泣きながら、ひどく汚したと叱った。客席のあちこちから笑い声が上がった。桑橋さんも笑い、僕も目元を拭ってから笑った。
* * *
映画が終わり、外へ出ると、空はもう夕方の色になっていた。
「最後に返した手拭い、最初とは畳み方が違っていたのに気づきましたか」
桑橋さんが歩きながら尋ねた。
「分かりませんでした」
「最初は母親がきちんと三つに畳んで渡したでしょう」
「そこまで見ていませんでした」
「最後は、息子が同じように畳もうとしていましたが、折り目が少し曲がっていたんです」
「桑橋さんは、よく覚えていますね」
「次にいつ観られるか分かりませんから。一度で覚えておくんです」
それから桑橋さんは、途中の短い台詞が最後につながっていたことや、別れの場面と再会の場面で二人の立ち位置が入れ替わっていたことを話した。店で話すときより、少しだけ早口になっていた。
「私も、黒馬さんが映画で泣く方だとは知りませんでした」
「昔から、涙もろいんです」
桑橋さんは「そうですか」とうなずいた。
「覚えておきます」
「映画の話を始めると、桑橋さんが止まらなくなることも覚えておきます」
「止めた方がいいですか」
「いいえ。聞いています」
桑橋さんは、また映画の話を続けた。
店へ戻るころには、通りに明かりがともり始めていた。
僕が竈へ向かうと、桑橋さんが止めた。
「何をするんです」
「湯を沸かします」
「今日は、もう働かなくていいです」
「お茶は飲まないんですか」
「飲みます。私が淹れますから、黒馬さんは座っていてください」
僕は客のいない卓へ座った。店にいるのに何もしないのは落ち着かなかったが、桑橋さんが湯呑を二つ持ってきても、立たないことにした。
向かいに座った桑橋さんは、茶を一口飲んだ。
「今日は楽しかったです」
「僕もです」
暖簾はしまわれたままだった。
卓の上には、伝票も帳面もなかった。それでも僕たちには、まだ映画の話が残っていた。




