第二十二章 一通目の答え
一九四一年十二月二十一日
二十一日の朝も、僕は派出所へ出頭した。
いつもの確認を受けるあいだ、紀伊巡査から石橋大尉の名は出なかった。十九日の朝に本署からの連絡を尋ねて以来、僕も聞かずにいた。
食堂では、こんにゃく田楽の小皿を飯と汁に添えて運び、空いた膳を下げた。二十三日が近づいても、仕事は変わらなかった。
ただ、表戸が開くたびに、僕の顔はそちらへ向いた。
「黒馬さん、三番の汁をお願いします」
「はい」
桑橋さんの声に、僕は膳へ目を戻した。
* * *
一九四一年十二月二十一日 夜
閉店後、桑橋さんが住まいへ引き揚げると、僕は片耳にイヤホンを着けた。
「リサリサ。今日も何もなかったよ」
《はい。二十三日の結果が分かる前に、こちらから作戦の進み具合を問い合わせることは勧めません》
「僕も、そのつもりだよ」
《途中の状況を聞いても、十五日に残した記録と結果を照合したことにはなりません。進行中の作戦について、情報を得ようとしていると受け取られる可能性もあります》
「今の僕は、身元の分からないまま、空母の名前と日付を先に話した男だよ。その男が、攻撃は予定どおりか、艦はどこにいるかと聞き回れば、待ちきれないだけでは済まないと思う」
《間諜を疑われる可能性が高くなります》
「派出所で聞けば帳面に残る。誰がどう読むかは、僕には選べないよ」
《問わなければ疑いが消えるわけではありません》
「それでも、自分から余計な疑いを増やす必要はないよ」
《はい。二十三日までは、待つことを推奨します》
理由は分かっていた。それでも、胸の中の引っかかりは消えなかった。
「……当たってほしいと言ってるみたいだね」
《日本軍が二十三日当日に再び上陸し、その日のうちにウェーク島を占領すれば、十五日の記録と一致します》
「日本軍が勝つことと、僕たちの話が証明されることは、僕の中では同じじゃない。戦いの結果を、次の話を聞いてもらうための証拠として待ってるのが嫌なんだ」
《一致すれば、第五十二播州丸の申告も再検討される可能性が高くなります》
「だから、なおさらだ」
僕は声を落とした。
「播州丸の方は、紙に書いたとおりになったら駄目なんだ。沈んでから正しかったと分かっても、知らせた意味がない」
《あの情報によって行動が変われば、記録と実際の結果は一致しなくなります》
「それでいい。一通目で、二通目を読ませる。二通目は外れさせるために残したんだ」
リサは少し間を置いた。
《正しかったと証明されることより、正しかったから別の結果になる方が、価値を持つ場合があるのですね》
「人が死なずに済むならね」
一通は、記録どおりになるかを待っている。
もう一通は、記録どおりにならないように、誰かが動いてくれるのを待っている。
同じ十二月十五日の日付が入った紙でも、僕が望んでいる先は反対だった。
* * *
一九四一年十二月二十二日 夜
翌朝も派出所へ出頭し、店へ戻った。本署からの呼出しはなく、僕も尋ねなかった。
閉店後、僕は洗い上がった椀を布巾で拭いていた。
水気を取り、縁を確かめ、もう一度布巾を回す。
「黒馬さん」
「はい」
「その椀は、もう拭いてあります」
手元を見ると、乾いた椀を同じ布巾で何度もこすっていた。
「すみません」
桑橋さんは僕の手から椀を取り、棚へ戻した。
「明日なんですね」
十二月十五日に僕が伝えた日を、桑橋さんは覚えていた。
「はい」
桑橋さんはそれ以上尋ねず、洗い上がった次の椀を僕の前へ置いた。
「では、こちらをお願いします」
「はい」
その椀は、まだ濡れていた。
僕は顔を上げず、渡された椀を一度だけ拭いた。
* * *
一九四一年十二月二十三日
記録に残した二十三日になっても、朝の派出所で特別なことは告げられなかった。
結果が出ても、それが僕へ知らされるとは限らない。僕は食堂へ戻り、いつもの仕事を始めた。
昼の客が引き始めたころ、毎朝の派出所で顔を合わせる紀伊巡査が、制服姿で戸口に立った。
「黒馬さん。支度をして、本署まで来てください」
手にしていた盆を卓へ置いた。
「用件を伺ってもよろしいですか」
「私は聞いていません。石橋大尉が本署に来ています」
「分かりました」
桑橋さんが台所から出てきた。
「本署へ行ってきます。戻る時刻は分かりません」
桑橋さんは紀伊巡査へ小さく会釈してから、僕へ視線を戻した。
「はい。店はこちらで見ています」
巡査から見えない台所でイヤホンを外し、端末とともに上着へ隠した。
僕は巡査と店を出た。
* * *
本署では、以前に僕を聴取した巡査部長が待っていた。
「十五日の面談後、毎朝の出頭以外に、桑橋食堂を離れたことは」
「桑橋さんと二度、佐世保市内へ出ました」
巡査部長は手元の紙へ目を落とした。
「一度目は、いつ、どこへ行きましたか」
「十六日です。桑橋さんの仕入れに同行しました」
「二度目は」
「二十日です。桑橋さんと映画を観ました。どちらも佐世保市内です」
「そのほかは」
「ありません」
「その間、海軍の者と会いましたか。作戦の話を聞いたり、こちらから尋ねたりしたことは」
「店へ来た客の勤め先までは分かりません。私から海軍の作戦を持ち出したことも、誰かに尋ねたこともありません」
巡査部長は僕の答えを書き留めた。
「分かりました。こちらへどうぞ」
前回と同じ部屋には、石橋大尉と、十五日に記録を取った男が座っていた。
机の上には二通の紙が離して置かれ、その脇に新しい紙が一枚あった。
巡査部長が部屋を出ると、石橋大尉は僕へ席を示した。
「本日、ウェーク島を占領したとの報告が入りました」
当たった。
胸の奥で緩みかけたものを、喜びと呼ぶ気にはなれなかった。
僕は息を吸い、ゆっくり吐いた。
「本日ですか」
「本日です。外では話さないでください」
「承知しました」
石橋大尉は、十五日付の記録の日付を指した。
「あなたは十五日、日本軍が二十三日当日に再び上陸し、その日のうちに占領すると話しました」
「はい」
「日付も、結果も合っています」
記録担当者が、照合結果を書き留めた。
「その内容を、いつ、どこで、どのような形で知ったのか。何か思い出しましたか」
「いいえ。思い出したのは内容だけです。人から聞いたのか、何かで読んだのか、音声で聞いたのかも、まだ分かりません」
「内容だけを覚え、知った経緯は思い出せない。説明は十五日と変わらないのですね」
「はい」
「分かりました」
「今日、一件が一致しました。しかし、一致したのはこの一件です。あなたの素性や情報を得た経路の説明がついたわけではありません。作戦の予定を知る者から、成功の見込みを聞いた可能性も残っている。海軍の内部に情報を得る相手がいる疑いも、まだ消えていません。調べは続けます」
「承知しています」
「ただ、この一致を偶然として片づけることも、十五日より難しくなりました」
石橋大尉は、離してあったもう一通へ手を移した。
第五十二播州丸について残した紙だった。
「こちらには、今日の照合結果を添え、上司へ改めて報告します。一件目が合ったからといって、二件目も正しいと決まったわけではありません。しかし、十五日と同じ扱いにもできません」
「出港や任務を見直すことになるでしょうか」
「まだ決まっていません。一致した一件をどう評価し、もう一件を海軍の判断にどこまで用いるかは、これからです。私から約束はできません」
「承知しました。よろしくお願いします」
僕は頭を下げた。
後世の記録どおりなら、第五十二播州丸が佐世保を出るのは明日だった。
面談後、巡査部長から念を押されたのは、これまでどおりの出頭と、佐世保を離れないことだった。
変わったのは、説明のつかない話として置かれていた一通に、実際の結果が加わったことだった。
* * *
食堂へ戻ると、夕方の支度が始まっていた。
「ただいま戻りました」
桑橋さんは鍋の蓋をずらし、湯気の向こうから僕を見た。
「お帰りなさい」
「待っていた知らせは来ました。ただ、まだ終わっていません」
「明日も、いつもどおりですか」
「はい。朝は派出所へ行きます」
「そうですか。では、手を洗ったら、こちらをお願いします」
台所の脇には、客席へ運ぶ湯呑が並んでいた。
「はい」
僕は手を洗い、湯呑を盆へ載せた。
* * *
閉店後、桑橋さんが住まいへ入ってから、僕は片耳にイヤホンを戻した。
「一通目は合った」
《はい。ただ、身元や情報源への疑いが消えたわけではありません》
「それでも、石橋大尉は上司へ改めて報告すると言ってくれた」
《その先で船の出港や任務が変わるかは、別の判断です》
「明日、船は佐世保を出る」
リサからの返事は、すぐにはなかった。
《まだ、変更の知らせは来ていません》
「うん。まだだ」
* * *
一九四一年十二月二十三日 佐世保鎮守府
本署で黒馬との三回目の面談を終えた石橋は、照合記録を携えて佐世保鎮守府へ戻った。
天川の机には、十五日の二通と、ウェーク島占領の報告が並んでいた。
石橋が敬礼すると、天川は答礼し、机上の紙へ目を戻した。
「結果は聞いている」
「本人とも照合したのか」
「はい。本署で黒馬本人を呼び、十五日の記録と照合しました」
「十二月二十三日当日に再び上陸し、その日のうちに占領。十五日におまえが報告したとおりだな」
「はい。日付も、結果も一致しています」
「黒馬は、情報を得た経路を思い出したか」
「いいえ。内容以外は思い出せないという説明のままです」
「その後の行動は」
「毎朝の出頭を続け、桑橋食堂で働いています。一度、本署からの連絡を尋ねましたが、作戦の状況を知ろうとした言動は確認していません」
「おまえの人物評価は」
「害意を示す言動は見ていません。沈没を防ぎたいという言葉にも、今のところ虚偽を示すものはありません。ただし、身元と情報を得た経路は、依然として分かりません」
「では、分からんことは分からんままだ」
「はい。加わったのは、事前に残した内容が一致したという事実です」
「一度なら、偶然の可能性は残る」
「残ります」
「だが、偶然と言って捨てるには、日付も結果も合いすぎている」
天川の手が、第五十二播州丸の文書へ移った。
「一件目が合ったからといって、一月二十日の沈没まで、起きると決まった事実にはできん」
「はい」
「しかし、この紙を十五日と同じ重さのまま置いておくこともできん」
天川は一通目を指先で押さえた。
「一致したのは、この紙に書かれた内容だ。黒馬の身元が確かになったわけではない。二通目を命令の根拠にできるかどうかも別だ」
「はい」
「十五日は、私のところで止めた。今日の結果を加え、今度は二件を上へ報告する」
「承知しました」
「ただし、上へ報告することと、出港や任務を変えることは別だ。この一致だけで、直ちに命令を変えるとは決められん」
天川は、二通と今日の照合記録を同じ書類挟みに収めた。
「事実関係を整えろ。黒馬の調査も続ける」
「はい」
天川は書類挟みを手に、立ち上がった。
「これは私が持っていく」
石橋の敬礼を受け、天川は部屋を出た。




