第五十六章 学校でも一緒
一九四二年二月四日
瑠花は鞄へ伸ばしかけた手を止め、もう一度リサを見た。
「リサちゃん、学校にも一緒に行こうよ」
《学校に?》
「うん。学校でも一緒におりたい。あたしの教室も見せたいし」
帰ってくるまで部屋で待っていてもらうつもりだった。けれど、学校へも一緒に行けると思うと、早く返事を聞きたくなった。
リサが微笑んだ。
《うん。行ってみたい。瑠花ちゃんが、いつもどんなところで過ごしているのか知りたいよ》
「じゃあ、連れていくね」
《その前に、一つお願いがあるの。わたしのこと、学校のみんなには、まだ話さないでほしい》
瑠花は頷いた。
「うん。そんな気はしとった。外で人が来たら、リサちゃん、喋らんくなるでしょう」
《気づいていたんだね》
「見られたら困るんかなって。でも、どうしてかは分からんかった」
《こんな小さな箱で女の子が話していたら、珍しいよね。欲しがって持っていく人や、中を開けて調べようとする人もいるかもしれない》
「あの男みたいに?」
《うん。また、帰りたいところへ帰れなくなるのが心配なの》
瑠花は画面の縁に添えていた指を止めた。駅で見た男の手を思い出した。
「勝手には見せんよ」
《ありがとう。誰かに話したいと思ったら、先にわたしにも相談してほしい》
「羽衣子ちゃんにも?」
新しい友達のことを話せば、羽衣子もきっと驚く。三人で話すところまで、瑠花は考えていた。
「紹介したかったと。いつも教科書、見せてくれる子」
《羽衣子ちゃんが嫌なんじゃないよ。紹介することも、そのうち一緒に考えよう。今は、もう少し二人だけの秘密にしておきたいの》
「……うん。分かった。リサちゃんが困ったら、いかんもんね」
《人がいるところでは、画面を見せたり、返事を待って呼びかけたりしないで、二人で話せるときに話そう》
「鞄の中におってね。話せるとき、教えるけん」
《うん。でも、瑠花ちゃんが困ったり、危ないと思ったりしたら、お母さんや先生に助けてって言ってね。わたしのことを隠すために、我慢してほしいんじゃないよ》
「分かった。リサちゃんのことは、相談してからね」
《そう。ありがとう》
瑠花は鞄を引き寄せた。
「今日は、あたしが道を教えるよ」
《昨日は、わたしが教えたね》
「学校までは、間違えんよ」
二人で小さく笑ってから、瑠花はリサの入った端末を鞄へ収めた。
* * *
人通りの少ない道で、瑠花は曲がり角を教えた。学校が見えてくると、鞄の口から少し端末を出した。
「あそこ。あたしの学校」
《見えたよ。毎日、ここまで歩いてくるんだね》
「うん。帰りも、この道」
校門へ向かう子が増えたので、瑠花は端末を戻した。
教室へ入ると、隣の席の羽衣子が顔を上げた。
「おはよう。瑠花ちゃん」
「おはよう」
瑠花は鞄を下ろし、羽衣子へ笑いかけた。耳にかけた蜂蜜色の髪が、また頬へ滑ってくる。
「何か、いいことあった?」
「あったよ」
「ずっと笑っとる。算数が分かったときみたい」
瑠花は頬へ手を当てた。
「そんなに?」
「うん」
羽衣子まで笑ったので、瑠花もつられて笑った。鞄の中にいるリサにも、羽衣子の声が聞こえているだろう。
授業が始まると、瑠花は黒板の文字を帳面へ写した。リサに話しかけることはできない。けれど、いつもの教室に一緒にいると思うと、時々、机の脇の鞄へ目が向いた。
教師が黒板へ書く字は速かった。最後の一行を写し終えて顔を上げると、羽衣子も同じところで鉛筆を止めた。
二人で顔を見合わせ、そっと息をついた。
あとでリサに、羽衣子も同じ顔をしたと話そう。
瑠花は次の頁を開いた。
* * *
放課後、羽衣子が帰り支度を終えたとき、瑠花は帳面の日付を書き足していた。
「じゃあ、また明日ね」
「うん。また明日」
羽衣子を見送り、瑠花も帳面を鞄へしまった。帰り道なら、朝からの話ができる。そう思って顔を上げると、松尾 和子が机のそばに立っていた。
井手 敏子と吉岡 久子も、その後ろにいる。ほかの子たちは、もう教室を出ていた。
「何、そんなにうれしそうにしとると」
和子は瑠花の顔を見て、口の端を上げた。
「また男の子に見てもらいたいと?」
「そんなことしとらんよ」
瑠花は鞄から手を離した。
「別に、男の子に見せようと思って笑ったんじゃない」
「ほら。自分が見られとると思っとる」
敏子が和子へ顔を寄せた。
「髪も、わざと揺らして歩くもんね」
「うん。ああやって」
久子が髪を払うまねをすると、和子と敏子が笑った。
「髪が落ちてくるけん、耳にかけただけでしょう」
「誰も聞いとらんよ、そんなこと」
和子は瑠花の言葉を遮り、二人へ笑いかけた。
リサと一緒に来られて、うれしかっただけなのに。
瑠花は口を結んだ。話すつもりのない理由まで、三人に説明したくなかった。
「行こう」
和子が先に歩きだした。
そのあとに続いた敏子が、机の横を通るとき、身体を瑠花の方へ寄せた。肩が強くぶつかり、瑠花は机に手をついた。
「痛い。今、わざとでしょう」
肩を押さえて顔を上げると、敏子は振り返った。
「当たっただけやろ」
「そんなに寄らんでも、通れるよ。やめて」
「大げさ」
久子が笑った。
和子は戸口から瑠花を見て、敏子へ言った。
「もういいよ。行こう」
謝る子は、一人もいなかった。三人の笑い声が、廊下へ遠ざかっていった。
瑠花は肩に当てた手を下ろした。さっきまで話したかったことが、すぐには思い出せなかった。
《瑠花ちゃん、大丈夫? さっき、痛いって言ってたね》
鞄から聞こえた声に、瑠花は顔を向けた。
「肩、ぶつけられたと」
《今も痛む?》
「ここ、少し。腕は動かせる」
瑠花は端末を取り出し、リサへ顔を見せた。
《外は見えなかったけど、声は聞こえていたよ。やめてって言ったのに、笑っていたね》
「いつも、ああやって笑うと。痛いって言っても、大げさって」
言ってから、瑠花はリサを見た。リサは笑っていなかった。
《前にも、同じことがあったの?》
「うん。今日だけじゃない。……帰ったら、話すね」
《うん。聞かせて。痛みが続くようなら、お母さんにも見てもらおう》
瑠花は頷いた。鞄を持つと、もう一度、空いた教室を見た。
今度はリサも、あの声を聞いていた。
* * *
帰宅すると、ベッキーは預かっていた服を客に渡していた。瑠花は挨拶をして、自分の部屋へ入った。
母の仕事が済むまで、いつもなら帳面を開く。今日は鞄をそばへ置き、リサの顔を見たまま、言葉が出なかった。
《瑠花ちゃん。学校であったこと、気になってるんだ。今、聞いてもいい?》
「うん。……」
瑠花は、まだ少し痛む肩に触れ、口を開いた。
「最初に喋っとった松尾 和子さんがね、前から、あんなこと言うと」
《ほかの二人も、一緒に言うの?》
「うん。肩にぶつかってきたのは、井手 敏子さん。吉岡 久子さんも、一緒に笑うと」
「髪の色も、顔も、変って。笑ったり、髪を耳にかけたりしただけで、男の子に見せようとしとるって言うと」
瑠花は頬に触れかけた手を膝へ戻した。
「そんなつもりないって言うよ。でも、聞いてくれん。言い返したことまで笑われると」
《今日、楽しそうだったのも、そのせいにされたんだね》
「リサちゃんと一緒やったけん、うれしかったと。教室も見せたかったし、羽衣子ちゃんの声も聞いてほしかった」
《うん。わたしも、一緒に来られてうれしかった》
リサの返事を聞くと、瑠花は少し息を吐けた。
「ぶつかられるのも、初めてじゃないと。腕を叩かれたこともある。やめてって言っても、遊んだだけって笑われるけん」
《瑠花ちゃんは嫌だって言っているのにね。痛かったね》
「うん。でも、もっと言い返したら、あの子たち、怒るかもしれんでしょう。明日はもっとひどいことされるんじゃないかって思うと、怖くなると」
《言い返したあとに何をされるか、それも怖かったんだね》
「うん。鉛筆を取られたときも、返してって言ったら笑われたと」
《鉛筆も?》
「井手さんが机から取って、吉岡さんに渡したと。吉岡さんは後ろに隠して、あたしが手を伸ばすと、松尾さんが笑っとった」
瑠花は鞄から鉛筆を一本出した。今日、帳面に日付を書いた鉛筆だった。
「そのときは返してもらった。でも、別の日には、使おうとしたら折れとった。なくなって、捜しても出てこんかったのもある。折れたのと、なくなったのは見てないけん、誰がしたか分からん」
《使おうとしたときに使えないのは、困ったよね》
「うん。勉強する前に、鉛筆を捜さんといかんと。教科書も、この前見せたでしょう」
瑠花は鞄の中の教科書へ目をやった。
《一枚、なかった本だね》
「あれは机からなくなって、先生と捜したと。本は見つかったけど、一枚、破り取られとった。誰が破ったかは見てないけん、分からん。あの頁には、分からんときに読むように、あたしが書いとったのもあったと」
帳面なら、写した問題が残っている。でも、元の本を開けば、番号の飛んだところへ指が止まる。
「家で分からんところを見ようとしても、あたしが書いたの、もう読めんかったと」
瑠花は鉛筆を両手で持った。
「鉛筆も、お母さんが用意してくれたとに。ちゃんと持っていったのに、なくなると」
《なくしたくて、なくしたんじゃないよね》
「うん。でも、また要るって言うたら、お母さんに悪くて。言いにくくなると」
部屋の外で、母が客を送り出す声がした。いつもどおりの、明るい声だった。
瑠花は声が遠ざかるのを待ち、リサへ向き直った。
「お母さん、教科書のことは知っとるよ。羽衣子ちゃんにも、嫌なこと言われるって話した。お母さんを心配させたくないってことも」
《でも、今話してくれたことは、全部は話せなかったんだね》
「仕事しとっても、気になるでしょう。今も、瑠花は何かされとらんかなって」
瑠花は鉛筆を置き、膝の上の指を見た。
「髪や顔のことで言われるって知ったら、お母さん、自分に似たせいやって思うかもしれん。あたしがお母さんに似とらんかったら、そんなこと言われんかったのにって」
言葉にすると、それまでよりはっきり母の顔が浮かんだ。
「お母さんが悪いわけじゃないもん。あたし、お母さんに似とるの、嫌じゃない。なのに、お母さんが悲しくなったら、嫌やけん」
リサは、すぐには口を開かなかった。画面の中で、瑠花をまっすぐ見ていた。
瑠花は膝の指をほどいた。
「だから、学校で泣かんって決めた。帰って泣いたら、お母さん、どうしたって聞くでしょう。何でもないって言っても、きっと分かる」
瑠花の目が潤んだ。唇を結び直し、こぼれそうな涙をこらえながら続けた。
「でも、嫌だって言っても、やめてくれん。誰に何て言ったら、やめてもらえるとかな。あたし、普通に学校へ行って、勉強して、話して帰りたいだけなのに」
《瑠花ちゃん》
呼びかける声が、それまでより強かった。
《お母さんも、瑠花ちゃんも悪くない》
瑠花が顔を上げると、リサは言葉を続けた。
《髪も、顔も、隠さなくていい。笑ったからって、あんなことを言われていい理由にはならないよ》
「でも、また言うと。違うって言っても」
《うん。今日、聞いたよ。瑠花ちゃんは、やめてって言った。それなのに、あの子たちは謝らずに笑っていた》
リサの眉が寄った。
《わたしが助けてって頼んだとき、瑠花ちゃんは助けてくれた。危ない目に遭っても、守ってくれた。今は、わたしの大切な友達だよ。その瑠花ちゃんが、学校でこんなに苦しんでいたなんて》
リサはそこで一度、言葉を切った。
《お母さんを悲しませないために、痛いのも怖いのも、一人で我慢していたなんて、嫌だよ。あの子たちだけ、何もなかったように笑っているのは、許せない》
声は大きくなかった。それでも、瑠花は返事をせず、画面を見た。
自分が言い返したときより、ずっと強い言葉だった。
《話してくれて、ありがとう。話すのも、つらかったよね》
瑠花は少し唇を開いた。
「あたし、誰かに話したの、初めてなんよ。……聞いてもらって、よかった?」
《もちろん。わたしを信じて話してくれたんだね。嫌だったことも、怖かったことも、聞かせてほしい》
瑠花は、少しだけ息を吐いた。ここまで話してよかったと、ようやく思えた。
「また、話してもいい?」
《うん。いつでも聞くよ》
「リサちゃん。お母さんや先生には、今の話をまだ全部は言いたくないと。大ごとにしたくないけん」
《分かった。今は、話を広げたくないんだね》
瑠花は頷いた。
* * *
瑠花の頷く顔を見ながら、リサは、教室で聞いた三人の笑い声を思い返していた。
痛いと訴えた声まで笑っていた。あれを、もう繰り返させたくなかった。
あの子たちのしていることを、自分が必ずやめさせる。
そのためにも、瑠花のそばで何が起きているのか、自分の目で確かめたかった。
《明日も、学校へ連れていって》
瑠花は、少し目を見開いた。
「明日も?」
《うん。しばらくの間、学校でも瑠花ちゃんのそばにいたい。あんなことを、一人で我慢してほしくない》
《今日、鞄の中では外が見えなかったんだ。明日は、瑠花ちゃんのそばで、何が起きているのか見られるようにしたい》
「……ちょっと待っててね」
瑠花は部屋を出ると、ほどなく布の切れ端と裁縫道具を持って戻ってきた。
端末へ布を当てて折り、脇を縫い始める。小さな指が針を送り、引いた糸の先で布が袋の形になっていった。
リサは手元を見ていた。布が重なるとカメラからは見えなくなったが、向きを変えられると、また瑠花の指が映った。
「ここ、隠したらいかんもんね」
瑠花がカメラの位置を確かめ、小さな穴を開けた。端を縫ってほつれを押さえ、袋へ紐を付ける。
「できた!」
《もう、できたの?》
「リサちゃんのお洋服!」
瑠花は、出来上がった小さな布袋を画面の前へ掲げた。
《わたしの、お洋服?》
「うん。これに入ったら、一緒に行けるよ」
知っている袋の形だった。それなのに、自分へ向けられたその言葉には、すぐに返事ができなかった。
さっきまで涙をこらえていた子が、自分のために針を持ち、こんなにうれしそうに見せてくれる。
《わたしのために、作ってくれたんだね。ありがとう》
「お母さんみたいには上手に縫えんけどね」
《縫い方も、お母さんに教わったの?》
「お母さんのを見とったら、やってみたくなるでしょう。簡単なのは、教えてもらったと」
瑠花は少し誇らしそうに笑い、端末を袋へ収めた。上の口を紐で閉じると、端末は中に落ち着いた。
首へ掛けた袋を上着の内側へ入れ、カメラの穴だけを襟の合わせ目からのぞかせる。袋の下に付けた短い紐を服のボタンへ留めると、身体を動かしても大きく揺れなかった。
「どう? 見える?」
《うん。部屋が見えるよ》
「手で持たんでも、よくなったね」
《瑠花ちゃんが作ってくれたからね》
瑠花が襟を直すと、映像の端に布が入った。
《少しだけ、布がかかってる》
「ここ?」
《そう。今は、見える》
「これなら、授業のときも一緒ね」
瑠花の声が弾んだ。
《声を出すと、周りにも聞こえるのは同じだから、話すときは気をつけようね》
「うん。お洋服で隠れるのは、リサちゃんの姿だけね」
リサが笑うと、瑠花も小さく笑った。袋から端末を出し、顔を見られるように置き直してくれた。
瑠花は鞄へ目をやり、肩にそっと手を当てた。
「そばにおってね」
《うん》
リサは、画面の中で瑠花へ頷いた。
瑠花はリサの顔を見て、少し笑った。
「明日も、一緒に行こうね」




