第五十五章 帰り道
一九四二年二月三日
学校から帰ると、瑠花は部屋でリサに道を教わり、母のところへ行った。
「お母さん。桑橋食堂まで、行ってきてもいい?」
ベッキーは縫っていた手を止めた。
「何か用事?」
「会って話したい人がおると。夕飯の支度までには帰るけん」
母は少し瑠花を見てから、言った。
「場所は分かるの?」
「うん。行き方、聞いた。会えんかったら、そのまま帰ってくる」
「よそへ捜しに行ったりしないでね。暗くなる前には戻ること」
「分かった」
リサの入った端末を袋に収め、瑠花は店を出た。通りを行く人が近くにいる間は、リサも声を出さなかった。
人通りが途切れたところで、瑠花は袋の口から端末を少し出し、道を見せながら小声で話しかけた。
「この道なら、お母さんと通ったことあるよ。ここから先が、初めて」
《次の角を曲がります。その先に、店の看板があります》
「うん。ていさん、今日はおるといいね」
《はい。会いたいです》
返事はすぐに聞こえた。瑠花は看板を見落とさないよう、道の先へ目をやった。
「ねえ。ていさんって、どんな人?」
《困っている人を見ると、放っておけない人です。自分が困ることになっても、助けようとします》
「リサちゃんが止めることもある?」
《あります》
「ちゃんと聞く?」
《聞きます。そのあとで、どうしても何とかしたい、と言うこともあります》
瑠花は少し笑った。
「そしたら、リサちゃんも一緒に考えると?」
《はい。一緒に考えます》
禎という人が、少し分かった気がした。リサの声も、その人のことを話すときは、いつもより近くに聞こえた。
会えたら、きっとたくさん話すのだろう。どこにいたのか、どうやって帰ってきたのか。リサは禎に、無事だと伝えられる。
瑠花は袋へ目を落とした。
食堂へ来た理由を話して、リサを渡したら、自分は一人で家へ帰るのだろうか。
今日で、お話するのは最後になるのだろうか。
「リサちゃん」
《はい》
また会ってもいいのか、聞きたかった。
禎さんのところへ帰ってからも、あたしと話してくれるのか。
けれど、さっきの、会いたいです、という声を思い出すと、うまく続かなかった。
「……こっちで、合っとる?」
《はい。そのまま進んでください》
分かった、と答えて歩いた。
一昨日、リサという名前を初めて知った。あの小さな画面の中で泣いていた女の子が、今は自分の名前を呼び、冗談を言えば笑ってくれる。
角を曲がると、桑橋食堂の看板が見えた。
「あったよ」
瑠花は袋を抱え直し、まっすぐ店へ向かった。
* * *
食堂の戸は閉まっていた。小さな紙に、『少し出ております』と書いてあった。
瑠花は戸口に立ち、声を掛けた。
「こんにちは」
返事はなかった。
少し待ってから、もう一度呼んだ。
「すみません。黒馬さん、いらっしゃいますか」
店の奥からも、物音はしなかった。戸を叩いてみても、誰も出てこない。
瑠花は紙をもう一度見た。帰ってくる時刻は書いていなかった。
「『少し出ております』って。いつ戻るかは、書いてない」
袋の口を少し開き、リサへ伝えた。
《店の人も、外へ出ているんですね。禎さんは、まだ教育を受けているのかもしれません》
「もうちょっと、待ってみる?」
《お母さんに言った時間に、帰れますか》
「少しなら、大丈夫」
道を来る人の姿が見えるたび、瑠花は顔を上げた。けれど、誰も食堂の前で足を止めなかった。
一人通り過ぎると、また戸を見る。今度は中から開くかもしれないと、耳を澄ませた。
やがてリサが言った。
《今日は、帰りましょう。ここまで連れてきてくれて、ありがとう》
瑠花は、すぐには戸口を離れなかった。
「会いたかったね」
《はい。無事だと、伝えたかったです》
画面の女の子は、口元を結んでいた。
「また来ようね。今度は、会えるかもしれん」
《はい。また、お願いしてもいいですか》
「うん」
帰りも、この袋にはリサがいる。
そう思ったとき、胸のあたりがふっと軽くなった。瑠花は、緩みかけた口元を引き締めた。
リサは残念がっている。あたしも、会わせてあげたかった。それなのに。
「あっちから来たよね」
《はい》
瑠花は来た道へ戻った。
「また来ようね」と言ったのは、本当だった。次には禎に会ってほしい。
けれど、今日の帰り道に返事が聞こえることも、うれしかった。
* * *
店から少し離れて、人通りがなくなったところで、瑠花は言った。
「道、覚えたよ。あの看板が見えたら、すぐだね」
《次は、迷わず来られますね》
「今日も、迷ってないよ」
《そうでした》
小さく笑ってから、瑠花は袋を見た。リサの顔も、少し緩んでいた。
もう一つ何か話そうと、通りの向こうへ目をやった。風に揺れる店先の布が、明るい青色をしていた。
「あの色、きれい。リサちゃん、見える?」
瑠花は人のいないのを確かめ、袋の口から少しだけ画面を向けた。
《はい。見えます。瑠花ちゃんは、ああいう青が好きなんですか》
「うん。でも、赤も好き。自分で着るなら、どっちかなって思うと、迷う」
《どんな服にするかでも、変わりそうですね》
「袖のところだけ赤くても、かわいいと思う。お母さんなら、どうするかな」
瑠花は母が服を見ながら考えるときの顔をまねて、少し首を傾げた。
《今、お母さんみたいな顔をしましたね》
「え。そんな顔しとった?」
笑った拍子に声が大きくなり、瑠花は口元を押さえた。道の向こうから人が来たので、続きは家で、と囁いた。
帰ると、母はまだ仕事をしていた。
「ただいま。誰もおらんかった」
「おかえり。そう、会えなかったのね。夕飯、手伝ってくれる?」
「うん」
食事のあと、自分の部屋へ戻ると、瑠花はリサに話しかけた。
「お母さん、袖だけ赤いのは、先にどんな服か考えんとって」
《色だけでは、決められませんでしたか》
「そう。絵に描いて見せてって言われた」
帳面の端に服の形を描いてみたが、片方の袖だけ長くなった。
「着たら、こっちの手が出てこんね」
《右も同じ長さにしたら、両方出なくなりますよ》
「それじゃ困る」
瑠花は笑いながら短く描き直した。リサが見ているので、裾にも一本線を足してみた。
服の話をしていたはずが、いつの間にか、母に作ってもらった服の話になっていた。袖が短くなったので直してもらったことを話すと、リサは、どれくらい前に着ていたのかと尋ねた。
何かを教えてもらうために開いた帳面ではなかった。話しているうちに、瑠花の描いた服が二つ並んだ。
* * *
寝る支度をするよう母に声を掛けられて、瑠花は顔を上げた。
「もう、そんな時間?」
《今日は、いろいろ話しましたね》
「うん」
瑠花は帳面を閉じた。
母におやすみを言い、瑠花は布団に入った。
部屋が静かになると、リサへ小さく呼びかけた。
「リサちゃん、まだ起きてる?」
《はい。どうしましたか》
顔が現れると、瑠花は少し起き上がった。
「おやすみの前に、話したいことがあると」
《はい。聞いています》
瑠花は布団の端を指でつまんだ。
「正直に言うとね。今日、食堂へ行くとき、リサちゃんとお別れするのが寂しかったと」
リサは黙って、瑠花を見ていた。
「ていさんに会えたら、帰るでしょう。もうあたしとは会ってお話できんのかなって思った。また会えるか、聞きたかった。でも、聞けんかった」
《行く途中で、呼んでくれたときですか》
「うん。道は、分かっとった」
瑠花は画面を見て、すぐ目を伏せた。
「リサちゃん、早く会いたいって言っとったから。寂しいって言ったら、困るかなって」
《寂しかったんですね》
「うん」
一度答えると、隠していた続きまで出てきた。
「でも、ていさんがおらんくて、帰りもリサちゃんと一緒で……なんか、うれしくなってしまった」
声が、最後のところで小さくなった。
「リサちゃんは会いたかったのにね。ごめんね」
瑠花は目を伏せたまま、リサの返事を待った。
《瑠花ちゃんは、何度も店へ呼びかけてくれました。もう少し待とうとも、言ってくれましたね》
瑠花は顔を上げた。
「会わせたくなかったんじゃないと」
《はい》
リサの声は、いつものように穏やかだった。
《わたしと一緒に帰れて、うれしかったんですね》
「……うん。それ」
瑠花は大きく頷いた。
「帰りも呼んだら、リサちゃんが返事してくれたから」
リサが少し微笑んだ。
《話してくれて、ありがとう。怒っていませんよ》
「ほんと?」
《はい。今日、瑠花ちゃんといろいろ話せて、わたしもうれしかったです》
瑠花はつまんでいた布団の端を放した。
「あたし、また連れていくよ。今度は、ていさんに会えるように」
《ありがとう。お母さんに相談して、また行きましょう》
「そのあとも……また、お話していい?」
《はい。わたしも、また瑠花ちゃんと話したいです》
瑠花は返事を聞いたまま、しばらくリサの顔を見ていた。
「よかった」
瑠花は、リサに笑いかけた。
「じゃあ、おやすみ。リサちゃん」
《おやすみなさい。瑠花ちゃん》
横になった瑠花は、また話したいというリサの返事を思い出し、安心して眠りについた。
* * *
リサには、瑠花の静かな寝息が聞こえていた。
瑠花が打ち明けてくれた、帰り道の気持ちを思い返していた。
もっと勉強を教えてほしい、とは言われなかった。
帰り道で呼べば、返事がある。それがうれしかったと、瑠花は言った。
瑠花は寂しかった。それでも、禎に会わせようと、何度も店へ声を掛けてくれた。もう少し待とうとも言ってくれた。
それなのに、一緒に帰れてうれしかったことまで、悪いことのように謝った。
瑠花が本当の気持ちを話してくれたことが、うれしかった。
また話したいと答えたのも、本当だった。今日のように、一緒に笑いながら、瑠花の話を聞いていたい。
禎のところへは、早く戻りたい。無事だと知らせ、顔を見て声を聞きたい。その願いは、食堂を離れた今も変わらない。
それでも、瑠花と話す時間を、帰れるまでの間だけで終わらせたくなかった。
助けてもらった。その恩は忘れない。
けれど、それだけで、次に瑠花がどんな話をするのか聞きたくなる気持ちを、言い尽くせるだろうか。
曲がってしまった袖の絵を見せて、笑っていた顔が浮かんだ。あの絵の続きを、また一緒に見たいと思った。
自分も、返事をするだけでなく、伝えたい。
友達になってほしい。
誰かに、そうして自分から願ったことはなかった。それは、AIとして生まれて初めて知る感情だった。
禎とは、問いかけに答えるところから始まり、一緒に考え、決める相棒になった。今度は、自分から声を掛けたい。瑠花の返事を、聞いてみたかった。
友達になれば、離れるとき、もっと寂しくなるのかもしれない。
何も言わず、今のままでいることもできる。
けれど、朝になってこの子が自分の名前を呼んだら、いつもどおり答えるだけでは、もう足りなかった。
* * *
一九四二年二月四日 朝
朝の支度を済ませた瑠花が、出かける前に部屋へ戻ってきた。
「リサちゃん。もう学校に行くね」
リサは、画面に顔を出した。
瑠花を見て、ほんの少し言葉をためらった。
《瑠花ちゃん。わたしからも、お願いしていいですか》
「うん。何?」
《わたしと、お友達になってくれませんか》
瑠花は口を開いたまま、リサを見た。
「あたしと?」
《はい。瑠花ちゃんと、これからも話したいです。わたしからも、そう言いたくて》
「なる!」
返事が弾み、瑠花の顔が画面へ近づいた。
「なるよ。あたしも、リサちゃんと友達になりたい」
そこまで言ってから、瑠花は照れたように笑った。
「……友達」
もう一度口にして、今度はリサをまっすぐ見た。
「ね。二人とも、そう思っとったとね」
《はい》
リサも笑った。頼んでよかったと思った。
「じゃあ、もう一つ」
瑠花が、画面に少し顔を寄せたまま言った。
「もう友達やけん、『です』とか、そんなおすましの言い方、せんでね」
《分かりました》
「ほら、また」
瑠花が笑った。
リサもつられて笑った。
《……うん。分かった》
「そっちがいい。あたしと話すときは、それにしてね」
《うん。瑠花ちゃん》
呼びかけると、瑠花の笑顔がいっそう大きくなった。
もう、言い方を直そうとは考えなかった。
《友達になれて、うれしい》
「あたしも」
瑠花は、笑ったまま頷いた。




