第五十四章 一緒に考える
一九四二年二月二日
学校から帰ると、瑠花は店の用事を手伝ってから、自分の部屋へ戻った。
「リサちゃん。ただいま」
《お帰りなさい、瑠花ちゃん》
昨日と同じ顔が現れた。名前を呼ぶだけで返事が来るのが、まだ少し不思議だった。
瑠花は持ってきた自分のシャツを広げた。
「昨日、見せるって言ったでしょう。畳むところ」
《はい。見せてください》
リサに手元が見えるよう端末を置き、瑠花は左右の袖をそろえた。さっきまで話す相手だったリサが、今は自分の手元を見ている。
「こっちだけ引っ張ったら、斜めになると。お母さん、すぐ分かるんだよ」
《ずれたところを、畳む前に直すんですね》
「うん。畳んでから押さえても、中は曲がったままだから」
布の端を合わせ、折り目を整える。瑠花は出来上がったシャツを見せた。
「ほら。変なところで折れてない」
《きれいです。お母さんにも、そうして教わったんですか》
「初めは、お母さんのを見て、同じようにした。でも、早く畳もうとしたら、袖が片方だけ出た」
《急いだところを見つけられたんですね》
「見てなかったのに、分かると。畳んだのを見ただけで」
瑠花は口を尖らせたが、すぐ笑った。
「それで、もう一回。お母さんのは、見たら簡単そうなんだけど」
《今は、出なくなりましたね。袖》
「出ないよ。もう、何回もしたもん」
言ってから、瑠花はシャツの端を確かめた。ちゃんと収まっている。
「リサちゃん、畳み方は知っとった?」
《はい。ですが、瑠花ちゃんがお母さんに教わったことは、瑠花ちゃんから聞かないと分かりません》
「じゃあ、あたしも教えた?」
《教えてもらいました》
瑠花は少し胸を張った。
「リサちゃんには手がないから、畳むのはあたしの方が上手だね」
《では、わたしは曲がっていないか見る係をします》
「お母さんと二人で見んでよ。すぐ分かってしまう」
小さく笑う声が重なった。瑠花はシャツを脇へ置いた。
「リサちゃんって、あたしよりお姉さんよね。いくつ?」
《今の姿は、十七歳くらいに見えるように作っています》
「あたしより七つ上?」
《見た目はそうですね。ただ、人として十七年暮らしてきたわけではないんです》
「でも、お姉さんみたい」
瑠花は帳面を開いた。
「リサちゃんに、算数を聞いてもいい?」
《はい。どこで困っていますか》
今日、家で解くように言われた問題が、帳面に写してあった。
手拭を三枚ずつ一組にして、七組用意しました。手拭が五枚残りました。初めに手拭は何枚ありましたか。
「初めに、って聞かれると、どうするか分からんくなる」
《組にした手拭の枚数と、残った五枚を合わせれば、初めの枚数になります》
瑠花は問題を見たまま、鉛筆を止めていた。
《今、何枚を合わせようと思いましたか》
「七と五。でも、それじゃ三枚が使われんよね」
《そうですね。七は、手拭の枚数ではなくて、組の数です》
「そこは読んだ。でも、三も七もあるから……」
リサは次の式を言わず、帳面の余白へ目を向けた。
《さっき畳んだシャツなら、三枚ずつ重ねて一つの包みにできますね。まず、一つだけ描いてみませんか》
瑠花は小さな四角を描き、中へ三枚と書いた。
「うん。三枚で一つの包みね」
《その包みが七つあります》
四角を七つ並べると、さっきの七が、手拭七枚には見えなくなった。
「三枚が、七つ」
瑠花は鉛筆で四角を追い、途中で止めた。
「三を七倍したらいいと。二十一枚」
《では、五枚はどこにありますか》
「包みに入らんかった分。こっち」
七つの包みの外へ、五枚と書く。
「二十一と五を足して、二十六。初めは二十六枚」
《その二十六枚から、七組を作ったらどうなりますか》
瑠花は自分で書いた数を見直した。
「三枚ずつ七組だから、二十一枚使う。五枚残る。……合っとる」
今度は、リサの顔を見た。
《はい。自分で確かめられましたね》
「前に、鉛筆を分けるのも迷ったと。でも、それは羽衣子ちゃんに聞いて、分かった。先生が使う分を先に引いて、残ったのを三人に分けるの」
《今度は、使った分と残った分から、初めの数を考えたんですね》
「うん。七枚じゃなくて、七組」
瑠花は計算の脇に、包みの中は三枚、と書き添えた。
「全部、一枚ずつ描いたら、帳面が手拭だらけになるね」
《畳むより、描く方が大変そうです》
「二十六枚も畳むのは、大変だよ」
瑠花が笑うと、リサも笑った。
《包みを描いた方が、考えやすかったですか》
「うん。三枚は包みの中。五枚は外だから、分かった」
《では、次に迷ったときも、何を数えているか、描いて確かめてみましょう》
「もう一つ、自分でしてみる」
次の問題へ向かう瑠花の声は、さっきより明るかった。リサは急がせず、鉛筆が動くのを見ていた。
* * *
その日の課業が終わると、禎は町へ出た。
教わったことを忘れないうちに書き留め、それから帳面の別の頁を開いた。市場で尋ねた店と、男を見失った角。どこへ行っても見つからなかった、と一まとめにすれば、まだ聞いていない場所まで見えなくなる。
盗んだ男は、スマートフォンが何かも、使い方も知らないようだった。禎に追われても持って逃げた。
自分で使うためでなければ、売るつもりだったのかもしれない。
禎は通りにある質屋へ入った。
「少し、お尋ねしてもいいですか。盗まれた品を探しています」
店の男が帳面から顔を上げた。
「どんな品だい」
片面がガラスの黒い長方形。手のひらより少し大きく、薄い造り。形を伝え始めると、男は途中で禎の手を見た。
「……反対側に、丸いところがあるかい」
禎の胸が強く打った。
「あります。指の先くらいの。ここへ持ってきた人がいたんですか」
「いたよ。舶来じゃないかと言っとったが、何をする物か、自分でも知らんかった。だから、うちじゃ買わんかった」
禎は台の奥を見た。置かれているはずはないと分かっていても、黒いものへ目が行った。
「その人は、どんな格好でしたか」
「茶色の上着を着た男だった。帽子はなかったね」
市場で追った姿と合う。
「名前や、行く先は聞きませんでしたか」
「そこまでは。品を戻したら、持って出ていったよ」
礼を言い、見かけたら桑橋食堂へ知らせてもらえないか頼んだ。
店を出て、帳面へ書いた。品の裏の丸い部分。茶色の上着。買い取りは不成立。
リサは、ここまで運ばれていた。
今も同じ男の手にあるとは限らない。別の店へ売ったかもしれないし、どこかへ置いたかもしれない。それでも、市場の先に初めて、あの品を見た人がいた。
禎は来た道へ戻らず、通りの先の古道具屋へ向かった。時計や小道具を扱う店なら、珍しい造りを見て値をつけようとするかもしれない。
硝子戸の向こうに、古い懐中時計の鎖が光っていた。
ここでも品の形を伝えると、眼鏡をかけた店の人が、棚ではなく禎へ目を向けた。
「あれ、あんたの物かい」
「見たんですか」
「持ってきた男はいたよ。随分薄くて、造りはいい。だが、何に使う物か分からんかった」
「買い取ったんでしょうか」
「いや。五十銭じゃ嫌だと。預かって調べるのも断られた。そっくり持って帰ったよ」
禎は奥歯を噛んだ。
ここへ残されていたなら、と考えてしまった。けれど、リサの入った端末を、何に使うか分からないまま調べられるのも怖かった。
「分解したりは、していませんか」
「あんた、今の話を聞いとったかい。預けてもらっとらんよ」
「……すみません」
先を急ぐあまり、答えられたことをもう一度尋ねていた。禎は息を整えた。
「持って出たとき、どちらへ行ったか覚えていますか」
店の人は首を振った。
「外までは見てない」
ここで分かるのは、売らずに持ち帰ったところまでだった。
知らせを受ける場所を伝え、礼を言って外へ出た。
二軒の店を、同じ品を持つ男が訪れていたらしい。次も売るつもりなら、ほかの買い取り先を探す。その足で見つかる店を一つずつ聞く方が、見失った道をまた歩くより確かだった。
近くで古い道具を買う店を尋ね、教わった場所を帳面に記した。今日は暗くなるまでに、もう一軒。回りきれない分は、次に町へ出られるときに確かめる。
明日の課業には出なければならない。
任官を引き受けたのは、リサが何でも答えてくれるからではなかった。海軍で果たそうとしたことまで、この焦りで投げ出すわけにはいかない。
次の店へ向かいながら、禎は懐へ手をやりかけた。
今聞いた話を、一番話したい相手が、そこにはいなかった。
「リサ。……見た人がいたよ」
人通りに紛れるほどの声だった。返事はなかった。
手を下ろし、店の人へ声をかけた。
* * *
夕食と片付けを終えるころには、外は暗くなっていた。瑠花は部屋へ戻り、算数に使った帳面の新しい頁を開いた。
「リサちゃん。ていさんのところって、どこ?」
《桑橋食堂です。普段はそこで暮らしています》
瑠花は店の名を書いた。
「桑橋食堂。そこへ連れていけば、会えると?」
《今は昼間、海軍の教育を受けているので、いるとは限りません。黒馬 禎さんという名前です》
「くろうま、ていさん」
《はい。早く、無事だと知らせたいです》
リサが字を伝え、瑠花は黒馬 禎、と続けた。
「あたしも、ちゃんと返してあげたい。でも、お母さんに、何から言えばいいかな」
《わたしも一緒に考えます。瑠花ちゃんに、黙って出かけてほしいとは頼みません》
「昨日みたいに、違うこと言いたくないもん」
瑠花は帳面のそばの教科書を鞄へ戻そうとした。開いた頁の番号が飛んでいるのを見て、リサが尋ねた。
《そこは、一枚なくなっているんですか》
「うん。破れたと」
《今日ですか》
「前に。問題は写したから、大丈夫」
瑠花は本を閉じた。
リサはそれ以上尋ねなかった。画面の顔を見て、瑠花は算数の頁へ帳面を戻した。
「今日は、こっちは分かったよ」
瑠花が、二十六枚の答えを指した。
《はい。瑠花ちゃんが考えて、解いた問題です》
瑠花は笑った。けれど、リサの顔から、教科書を見たときの気遣わしげな表情は、まだ消えていなかった。




