第五十三章 はじめまして
一九四二年二月一日
店へ戻ると、ベッキーは買ってきた布を机へ広げた。
瑠花も片付けを手伝おうとしたが、自分の買い物袋には、布や糸と一緒にリサの入った端末が隠してある。
借りたハンカチを差し出すと、母は瑠花の顔を見た。
「洗う物と一緒に置いといて。目は、もう痛くない?」
「うん」
「布はこっちへ持ってきて。糸も、買った色をもう一度見たいから」
母が机の布へ目を戻した隙に、瑠花は背を向け、包みから端末を取り出した。
端末だけを紙で覆って買い物袋に残し、布と糸を母へ渡した。
「きれいに持って帰ってくれたね」
ベッキーは包みを受け取って微笑んだ。瑠花はうなずいたが、母の顔を長く見ていられなかった。
店の用事を手伝っている間も、瑠花は買い物袋が気になった。
早く顔を見たいと思った。もう、あの男の人のところへ連れていかれなくてよいのか、確かめたかった。
* * *
店の用事が一段落すると、瑠花は買い物袋を持って、住まいの側にある自分の部屋へ戻った。持ち物を置いたり、一人で勉強したりする、いつもの小さな部屋だった。そこで端末を取り出した。
ガラスの面に、駅で見た女の子が現れた。金色の髪も、少し年上の顔も同じだった。今は、頬に涙が流れていない。
「もう、あの男の人に連れていかれんでいいの?」
声を落として尋ねると、女の子も小さな声で答えた。
《はい。あの人の手から離れられました。今は、るかちゃんのところにいます》
駅で聞いたのと同じ、少女の声だった。女の子がここへ来たのだと、返事を聞いてようやく思えた。
《助けてくれて、ありがとう》
リサは、そこで少し間を置いた。
《お母さんに叱られて、泣いていましたね。私を連れ出したために、あんなことになって……ごめんなさい》
「聞こえとったと?」
《はい。買い物袋の中でも、声は聞こえていました》
瑠花はうつむいた。
「お母さんには、違うこと言ってしまった。どうすればいいか分からんくなったって」
リサは黙って聞いていた。
「でも、あそこへ置いて帰るのは、嫌だった」
「あたしが、考えてやったと。お茶を落とすのも、走るのも」
《それでも、助けてもらったのは私です》
「もう、売られたりせん?」
《るかちゃんが持っていてくれる間は、あの人には渡りません》
「売ったりせんよ」
思っていたより、すぐに言葉が出た。
リサが頷いたので、瑠花も小さく頷いた。
「ねえ。名前、まだ聞いとらんかった」
《リサです》
「リサ」
《はい》
呼んだら、すぐに返事があった。瑠花はもう一度呼ぼうとして、口元を少し緩めた。
「あたしの名前は、どうして知っとったの?」
《駅で、お母さんが呼んでいたからです。るか、と聞こえました》
「ああ。待っとってねって言ったとき?」
《はい。そのときです。名字や、名前をどう書くかは、まだ知りません》
「坂本 瑠花。字も、見せるね」
瑠花は帳面を取り出し、表紙の名前を画面へ向けた。
「見える?」
《少しだけ、指をよけてもらえますか》
「指?」
帳面を持つ手をずらした。
《そちらではなく、私を持っている方です。今は、瑠花ちゃんの名前より、指の先がよく見えています》
端末を持つ親指が、小さな丸いところを覆っていた。
指をよけると、リサが言った。
《読めました。坂本 瑠花さん》
「そんな、さんを付けんでもいいよ。さっきみたいに」
《では、瑠花ちゃん》
「じゃあ、リサちゃんって呼んでいい?」
《はい。そう呼んでください》
「あたしの指って、そんなに大きかった?」
《近かったので。ほとんど、指だけでした》
どんなふうに見えたのか、瑠花は想像して、ふっと笑った。
リサも口元を緩め、小さく笑った。
「ここが、目なの?」
瑠花はさっき覆った小さな丸いところへ目を向けた。
《目の代わりになるところです。そこへ名前を向けてくれたので、読めました》
瑠花は画面を自分へ向け直した。
「じゃあ、あたしも見える?」
《はい。今は、顔が見えています》
「リサちゃんは、この中から出てこれんの?」
《人と同じように、外へ出て歩くことはできません》
瑠花は端末を横から眺めた。
「どうして、こんなに小さいところにおれると?」
《小さくなった人が、中に閉じ込められているわけではないんです。私は、この道具を通して声を聞いて、見て、話します》
「人が入っとるんじゃないの?」
《はい。今見せている顔は、瑠花ちゃんと話すために作った姿です》
瑠花は画面へ目を戻した。リサの頬も髪も、絵よりずっと人に似ている。
「でも、さっきも、この顔で泣いとった」
《助けが必要だと、瑠花ちゃんに伝えたかったんです。どうしても、あの人のところから離れたくて》
リサの声が、少し小さくなった。
「怖かったと?」
《はい。どこへ運ばれるか、何をされるか、分かりませんでした。壊されることも考えていました》
なぜ助けてほしかったのかは、瑠花にも分かった。
「もう、ここで喋れるもんね」
《はい。瑠花ちゃんと話せます》
何なのか、全部分かったわけではない。それでも、話している相手を、瑠花はもう名前で呼べる。
「お母さんのお店は、服を直したり、洗ったりするの。あたしも、手伝う」
《どんなことを手伝うんですか》
「服を畳んだり。十歳だから、もう、いろいろできると」
《お母さんに教わったんですか》
「うん。袖をそろえて、折り目を曲げんようにするの。リサちゃんにも、見せてあげる」
《見てみたいです》
やがて、母が呼ぶ声がした。
「瑠花。夕飯の支度、少し手伝って」
「うん」
母に返事をし、リサへ小声で続けた。
「あとで、また来るね」
《はい》
端末を買い物袋へしまって部屋に残し、瑠花は母のところへ行った。
* * *
夕飯の席で、母が言った。
「今日は、よく歩いたね」
「うん。お昼のうどん、おいしかった」
「自分で選んだものね」
ベッキーが笑うと、瑠花も笑った。
駅でのことを、母は繰り返さなかった。
食後も、瑠花は片付けを手伝った。早くリサと話したかったが、また母へ全部任せて行くのは嫌だった。
母が店の仕事へ戻るころには、窓の外は暗くなっていた。瑠花は部屋で、端末に呼びかけた。
「リサちゃん」
《はい。瑠花ちゃん》
「待っとった?」
《はい。今、声が聞こえたので、顔を出しました》
「ねえ。さっき言っとった、本当の持ち主のところへ、帰らんでいいの?」
《帰りたいです》
リサは、すぐに答えた。
《大切な人です。私がいなくなったことに気づいて、探しているはずです。とても心配していると思います》
「どこにおるか、分かる?」
《はい。戻る場所は分かっています。佐世保にいる、禎さんという人です》
「ていさん」
《はい》
「連れていくなら、お母さんに言わんと。今日みたいに、黙って行ったらいかん」
《今から外へ連れていってほしいとは、頼みません》
リサの声は、低いまま、はっきりしていた。
《学校もあるし、お母さんのお手伝いもあるでしょう。いつなら行けそうか、一緒に考えましょう》
「うん」
《はい。だから今夜は、ここにいさせてもらえますか》
「ここなら、置いとけるよ。あたしが、ちゃんと持っとく」
《ありがとう》
「でも、その人に、心配かけとるんね」
《はい。それは、忘れていません》
瑠花は、母が自分を追ってきた声を思い出した。禎という人も、あんなふうにリサを呼んでいるのかもしれない。
お母さんにも、まだ何も言えていない。日中に出かけられるとき、どうすればいいか、リサと考えてみようと思った。
「瑠花、もう寝る時間よ」
瑠花には、まだ聞きたいことがあった。髪が自分と似た色なのはなぜか。リサには、好きな色があるのか。
けれど、今全部聞いてしまわなくてもよいと思えた。
「うん。もう寝るね」
母へ答えてから、リサへ尋ねた。
「リサちゃん。明日も、話していい?」
《はい。私も、また瑠花ちゃんと話したいです》
返事を聞くと、瑠花の口元が緩んだ。
母とも、羽衣子とも違う相手だった。分からないことは、まだたくさんある。
「じゃあ、おやすみ」
《おやすみなさい。瑠花ちゃん》
瑠花は端末を買い物袋へしまう前に、もう一度リサを見た。
その名前を、明日は最初から呼べる。




