第五十二章 たすけて
瑠花は、母から渡された布の包みを、持ってきた買い物袋へ収めた。
包みの角を折らないように糸と並べると、家を出るときには薄かった買い物袋が、少しふくらんだ。
「それなら、あたしが持てるよ」
持ち手を握ってみせると、ベッキーが包みの収まり具合をのぞいた。
「うん。お願いね。引きずらんように」
「そんなに長くないって」
瑠花は買い物袋を持ち上げた。底が膝より下へ来ないのを母へ見せ、少し胸を張る。
ベッキーは笑ってから、店の人へ向き直った。
店の奥には反物が並んでいたが、母が欲しい色や厚さの布が、すぐに出てくるわけではなかった。修繕に使えそうな布を幾つか見せてもらい、指で厚みを確かめ、縫う糸の色も合わせる。そのたびに瑠花は母の隣へ寄って、広げられた布を見た。
学校のない日に店の用事を合わせ、二人で出てきた。瑠花が買い物袋を用意してから待っていた買い付けだった。
「お母さん、この糸は?」
瑠花が指したのは、ほかより明るい色の糸だった。
「きれいね。でも、今日は直す服に合うのを買わないと」
「分かっとる。見ただけ」
母の灰金色の髪が、うつむいた頬へ一筋落ちた。ベッキーはそれを耳へかけ、また布へ目を戻す。すらりと背を伸ばして立つ母の横で、瑠花は肩までの蜂蜜色の髪を揺らし、もう一度その糸を見た。
何に使うかを考える前に、好きな色が目に入ってしまう。母の選ぶ糸は、布へ載せると、どれもほとんど見えなくなった。
店の人が奥へ布を探しに行くと、瑠花は母へ尋ねた。
「お昼、まだ?」
「もう少し。お腹、すいた?」
「少し」
ベッキーが娘を見る。
「布より、お昼の相談をしたくなったね」
「布も見とったよ。ちゃんと」
そう答えたとき、腹が小さく鳴った。
瑠花は買い物袋でお腹の前を隠した。母の青い瞳が笑い、瑠花も顔を下へ向けたまま笑った。
一軒目を出る頃には、通りの人も増えていた。思ったより長くかかり、ベッキーは瑠花の歩幅に合わせて食堂へ向かった。
「うどんがいい」
食堂の前まで来ると、瑠花は木札を見て言った。
「考えてきたのは、それ?」
「うん。お母さんは?」
「私も、うどんにしようか」
二人は食堂へ入り、並んで座った。
運ばれてきた丼から、葱の浮いた汁の匂いがした。瑠花は箸で麺を持ち上げ、熱そうな湯気へ息を吹いた。
「自分で選んだのは、おいしい?」
母に尋ねられ、瑠花は麺を飲み込んでから頷いた。
「おいしい。お母さんのも同じでしょう」
「そうよ。でも、私は瑠花に選んでもらったから」
瑠花は、少し得意になってもう一度箸を入れた。
母と外で食べている。それも、自分の選んだものを、二人で。
「今度は、あたしが布も選ぶ?」
「直す服に合うのを選べるようになったらね」
「明るい色ばっかり選ぶと思っとるでしょう」
ベッキーが笑ったので、瑠花も笑った。さっきの糸は、やはり母にも分かっていた。
食堂を出たあと、母は駅のある方へ足を向けた。
「もう一軒だけ、見ておきたいところがあるの。駅の近くだから」
「あたしも行くよ」
「でも、次のお店も立ちっぱなしになるよ。最初のお店でも、ずっと立っとったでしょう」
「平気だよ。袋も重くないし」
瑠花が持ち手を上げると、母はその肩へ手を置いた。
「持ってくれて助かっとるよ。だから、今度は少し休んでいて。駅の待合なら座れるから。私は用事が済んだら、そこへ戻るね」
「すぐ戻る?」
「うん。勝手に外へ行かんでね」
「行かんよ」
ベッキーは茶を売る人から、湯呑をかぶせた小さな陶製の茶瓶を買い、瑠花へ渡した。
「熱いうちは、ゆっくりね」
母と一緒に、待合へ入った。
* * *
長屋に置いてあった銭を持って佐世保駅へ来た一郎は、長崎行きの切符を買った。
待合の腰掛けに座り、切符をしまった。
懐から黒い品を取り出し、掌に載せた。最初の店では、これを何だと言って売ればいいのかと聞かれた。答えられないままでは、長崎へ持っていっても同じことになりかねない。
明かりへ向けて縁をなぞっても、ガラスとの境目はほとんど指に引っかからない。蓋の切れ目を探したが、爪を掛けられそうなところもなかった。
裏の小さな丸い部分は、奥が暗く光っていた。何かをのぞく穴なのか。目に近づけても、向こうが見えるわけではない。
縁には、押せそうな細い部分もあった。指を当てたが、どう動くのか分からない。無理に押して壊してしまえば、五十銭にもならなくなる。一郎は手を止めた。
もう一度、ガラスの側へ返した。針も数字もない。顔がぼんやり映るばかりで、何を見せるためのガラスなのか見当がつかなかった。
「何だってんだ、これは」
時計なら時計、道具なら道具と分かれば、持っていく店も選べる。造りがいいと繰り返すだけでは、買う方を納得させられない。
それでも、この縁の揃い方や、継ぎ目の少ない仕上げを安物とは思えなかった。あの背広の男も、懐へ手をやって確かめていた。使い方さえ分かれば、もっと違う話ができるはずだ。
ガラスを指で軽くたたいてみたが、何も変わらなかった。
品を右脇の小卓へ下ろすと、ガラスに窓の明かりが映った。長崎で、物の分かる店に見せればいい。一郎はひとまずそう考え、新聞を広げた。
* * *
端末が置かれると、映像が天井に落ち着いた。
すぐそばで、男が新聞を広げる音がしている。
切符を買うときの声は聞いていた。長崎まで。売ろうとしている品を持ったまま、別の町へ行くつもりだった。
駅名を口にする人の声と、待合を出入りする人々の話も入ってくる。ここは佐世保駅だった。
リサはカメラの撮像範囲を広げた。
天井だけだった映像の端に、腰掛けの前を通る人が入る。柱の陰や、新聞の向こうまで見えるわけではない。レンズへ届く範囲を確かめながら、端末へ近づく人を探した。
荷物を持った女の人と、少女が来た。
女の人の灰金色の髪と、少女の明るい髪が、近い色で映った。母娘らしい。少女は茶瓶を持つ手を揺らさず、腰掛けの空いているところへ近づいてきた。
「瑠花、ここで待っとってね」
母親がそう呼んだ。
るか。
少女の名前を、リサは聞き取った。
少女は男の右側に、少し間を空けて座った。買い物袋を膝へ載せ、茶瓶を自分の右脇へ置く。包みが傾くと買い物袋の口へ手を入れ、押しつぶさないように直した。
「お母さんの袋も、預かろうか」
「大丈夫。次の店で見せたい布も入っとるから」
母親は娘の髪を軽くなで、待合から出ていった。男は新聞へ顔を向けたまま、紙をめくっている。
列車に乗せられる前に、ここから離れなければならない。
リサは、今の情報から組み立てられる展開を比較した。男が長崎へ着き、値をつける者を見つける。用途が分からないまま、蓋を開けようとする者へ渡す。売れずに放置する。苛立って捨てる。男の手元へ留まる先だけでも、幾つもの分岐があった。
禎のもとへ戻る道は、そのたびに遠くなる。
駅員へ声を出せば、止めてもらえるかもしれない。
だが、誰の品かを確かめるために男を問い詰め、端末そのものを調べることにもなる。警察へ渡されたあと、禎がすぐ受け取れるとは限らなかった。喋る物として大勢に知られれば、戻すための説明も変わってしまう。
母親へ訴える場合も、少女へ訴える場合も、男に聞かれる位置で話せば同じ危険があった。
少女は、茶を湯呑へ少し注いだ。
茶瓶を元の場所へ置き、湯呑を両手で持って待っている。荷物は丁寧に扱い、母親が出る前には、重い方の袋を引き受けようとしていた。
それだけで、何もかも分かるわけではない。けれど、この少女なら、珍しい物を手にした途端に売り渡したり、乱暴に扱ったりする危険は低そうだった。
母親が戻るまでの間なら、男へ知られずに、少女だけへ伝えられるかもしれない。
待つ。別の人を選ぶ。大人へ知らせる。少女に事情を伝える。
相手の反応と、男が気づいた場合の行動まで枝を分けると、比較する展開は数百通りに及んだ。
禎さんなら、どうするだろう。
聞くための接続は、もうない。
リサは、少女へ働きかけることを選んだ。
画面の視認方向を少女の座る側へ合わせ、新聞を読む男の側では光が目立ちにくくなるよう調整する。カメラの撮像範囲とは別に、画面の輝度を抑え、近くから文字を読める明るさを探った。
母娘の顔立ちを参考に、少女の顔を作った。
金色の髪と、澄んだ瞳。十六、七歳ほどに見える顔で、瑠花より年上だが、母親ほど大人ではない。瑠花とどこか似ていても、同じ顔ではなかった。
親しみを持ってもらえる顔へ、涙を重ねた。
瑠花に、助けが必要だと一目で伝わるようにした。
リサは瑠花の側から見える画面を一瞬だけ明るくし、すぐ元の明るさへ戻した。続けて、短い文字を出す。
《るかちゃん》
* * *
視界の端で小さな光が瞬き、瑠花は左側へ顔を向けた。
男の脇の小卓に、黒い、平たい物が置いてあった。そのガラスの面に、女の子の顔がある。顔の下の文字は、自分の名前だった。
金色の髪の、お姉さんだった。
母と自分に似たところがあったが、知らない顔だった。頬を涙が伝っている。
瑠花は湯呑を左手に持ったまま、少し身を寄せた。
女の子がいるはずの場所は、薄い黒い物の中だった。後ろにも、こちらを見ている人はいない。
文字が変わった。
《たすけて》
瑠花は思わず口を開きかけた。
その前に、次の文字が出た。
《こえをださないで》
瑠花は口を閉じ、男を見た。
男は新聞を読んでいる。端末は、その手が届くところにあった。
画面の女の子は、瑠花の方を見ていた。
《このひとは、わたしのもちぬしではありません》
瑠花は一字ずつ読んだ。読み終えたところで、文が変わる。
《わたしは、このひとにぬすまれました》
盗まれた。
瑠花は端末と男の新聞を見比べた。男の物ではないということなのか。
《ほんとうのもちぬしが、ほかにいます》
女の子の涙は、まだ止まっていなかった。
《わたしをここからつれていって》
瑠花は、膝の買い物袋へ右手を置いた。
連れていく。この黒い物を持っていけば、女の子も一緒に来るのだろうか。
助けてと言われているのに、座ったままでいいのか。
けれど、男のそばにある物だった。
お母さんなら、勝手に人の物を取ってはいけないと言う。
女の子が盗まれたと言っているのは読めた。それでも、手を出してよいのか、まだ分からなかった。
瑠花は、ガラスの近くへ顔を寄せた。
「これを、持っていくの?」
息に混ぜるほど小さな声で尋ねると、文字が変わった。
《はい。わたしは、このなかにいます》
「でも、勝手に取ったら……」
男が新聞を持ち直した。
紙の端が擦れ、瑠花は肩を引いた。画面の女の子を、男に見られてはいけない気がした。
出口の方へ目をやる。
母が戻ったら、一緒に帰る。ここへ残っていても、助けられるわけではない。
瑠花は湯呑を握り直した。茶はもう、熱くなかった。
* * *
少女は手を伸ばさなかった。
リサには、男の物を勝手に持っていくことをためらっているのが、問いかけから分かった。
その判断は、間違っていない。言葉を増やすだけでは、事情を受け取ってもらえないまま時間がなくなる。
瑠花の顔が、もう一度近づいた。
男の顔は新聞の向こうにある。腰掛けの前を人が通り、靴音に、荷物を置く音が重なった。
リサは、瑠花のすぐ近くで聞き取れるほどに音量を絞った。周囲が静かになれば、男にも聞こえる。紙をめくる音が続く間に、短く話す。
《人の物を取ったらいけない。そうだよね》
出た声の響きに、リサ自身が一瞬とまどった。
禎へ答えるときの、一定の機械的な響きとは違う。息を詰めて誰かへ頼む、人間の少女の声になっていた。
確かめ直す時間はなかった。
《でも、私はこの人の物じゃないの。本当の持ち主のところへ、帰りたい》
瑠花の唇が動いた。
「お母さんに、言ったら?」
《この人に聞かれたら、どこへ連れていかれるか分からない。お願い。ここから、連れ出して》
リサは声を止めた。
瑠花は男を見て、また画面へ目を戻した。
そこへ、母親の声がした。
「瑠花、お待たせ」
映像の端に、灰金色の髪が入った。母親が少女の前へ立つ。
瑠花は顔を上げた。
二人が帰れば、いま助けを求められる相手は離れてしまう。
リサは画面の光をさらに落とした。母親と男へ同時に知られず、話を続ける余地はなくなった。
まだ、端末は小卓の上だった。
もう、間に合わない。
* * *
母が戻ってきた。
瑠花は立とうとして、膝の買い物袋の持ち手を右手で握った。
「お茶、飲めた?」
「うん」
左手には、茶の残った湯呑があった。
男の顔は新聞に隠れている。小卓の黒い物を取れば、顔を上げるだろう。母へ事情を話している間に、男がしまってしまうかもしれない。
ガラスの中の女の子を、ここへ置いてはいけない。
瑠花は腰掛けから立ち、左手の湯呑を男の膝へ落とした。
湯呑が男の膝に当たり、横へ倒れた。こぼれた茶が新聞の端へ広がり、その下の上着とズボンを濡らす。男は滑り落ちかけた湯呑をつかんだ。
男が新聞を持ち上げ、腰掛けから腰を浮かす。
「おい、何するんだ」
「ごめんなさい」
瑠花は短く言った。
「申し訳ありません。お召し物を濡らしてしまって」
ベッキーが男の前へ回った。
男は湯呑を腰掛けへ置き、濡れた新聞を広げて茶のかかったところを見ていた。母は手拭いを出し、男の服へ目を落とす。
母は瑠花に背を向け、男の右側を遮った。瑠花の左手と小卓は、母の身体の陰になった。男も母へ身体を向け、新聞を濡れたところから離そうとしている。
瑠花は左手で小卓の端末を取り、胸へ抱えて出口へ走った。
「瑠花!」
瑠花は振り返らず、入口を出た。
「本当に申し訳ありません」
ベッキーは一礼し、瑠花を追うように走り出した。
瑠花は通りの人をよけ、駅から離れる方へ走った。
「瑠花!」
母の声は、まだ駅の入口の方からしていた。
瑠花は足を緩めた。母へ背を向けたまま、胸に抱えた端末を、右手の買い物袋の布の包みへ滑り込ませると、また走った。
角の手前で、母に追いつかれた。
「瑠花、止まりなさい」
腕へ手が掛かり、瑠花は足を止めた。
ベッキーの息も、少し弾んでいた。青い瞳がまっすぐ瑠花を見ている。
「何で走っていったの。呼んだでしょう」
瑠花は袋を胸の前へ持った。
「知らない人に、お茶をこぼしてしまったから……」
瑠花は袋へ目を落とした。女の子を連れ出すためだったとは、言えなかった。
「どうすればいいか分からんくなって、走ってしまった。ごめんなさい」
「ごめんなさいって言ったのは、聞こえたよ。でも、あの方が大丈夫か、確かめた?」
「……ううん」
母の声は大きくなかった。それだけに、瑠花は顔を上げられなかった。
「湯呑が膝に当たったでしょう。まず、痛くなかったか、熱くなかったか聞かないと」
「お茶は、もう熱くなかったよ」
「冷めていても、湯呑が当たれば痛いかもしれないよ。それに、服も新聞も濡れて困っとるでしょう。謝ったあとも、お母さんとちゃんと居ないといかんでしょ」
男の膝も、濡れた新聞も、見ないまま走ってきてしまった。
母は、瑠花がうっかり茶をこぼし、困って逃げたと思っている。
けれど、湯呑を落としたのも、男のそばにあった物を黙って取ったのも、自分で決めたことだった。
あのガラスの女の子は、本当の持ち主は別にいると言っていた。
それでも、何も言わず持ち出した手の感触は残っていた。それを、母には話せない。
あの男への対応を全部任せたうえに、今も、本当の理由を隠している。
母は何も知らず、きちんと教えてくれているのに。
顔を見ようとすると、目の奥が熱くなった。
小学校へ入ってしばらくは、いじめられると泣いてしまった。
自分の容姿のことでいじめられたと知れば、母は、自分に似たせいだと思うかもしれない。お母さんが悪いわけではないのに。そんなふうに苦しませたくなかった。
母を困らせたくない。悲しませたくない。それで瑠花は、いじめでは泣かないと決めた。平気になったわけではなかった。
今は、その母に嘘をついている。
瑠花は唇を結び、息を飲み込んだ。こらえようと瞬きをすると、涙が頬へ落ちた。
「ごめんなさい。お母さんに、全部させてしまった」
最後の言葉は喉につかえた。買い物袋を握りしめたまま、空いた左手で頬をぬぐった。ぬぐっても、次の涙が指に触れた。
母の手は、まだ瑠花の腕へ掛かっていた。
「それに、急にいなくなったら心配するでしょう。呼んでも止まらんし、人も通っとるのに。お母さんに何も言わんまま、勝手に離れないで」
「ごめんなさい」
声が詰まり、瑠花は鼻をすすった。母へ向けた顔を、また下へ落とした。
瑠花が答えると、母はしばらく顔を見ていた。淡いまつ毛の先から、また涙が落ちる。
ベッキーが娘の涙を見るのは、久しぶりだった。
小学校へ入ってしばらくはよく泣いていた娘が、その後は泣かなくなった。
母が見てきたのは、その変化だった。泣かないと決めた理由を、瑠花は話していない。
母は瑠花の腕から手を離し、上着のポケットから小さなハンカチを出した。駅で使った手拭いとは別の、きれいな布だった。
「これで拭いて。目をこすらんでね」
瑠花は左手で受け取り、目元へそっと当てた。母は急かさず、娘が顔を上げるのを待っていた。
「歩いて帰ろう。袋は持てる?」
「持てる」
助けたことまで、ごめんなさいとは思わなかった。あの女の子を男のそばに残したまま、母と帰ることはできなかった。
母の隣へ並ぶ。もう走らず、袋が揺れないように持った。
買い物袋の中にリサがいることを、母は知らなかった。
* * *
買い物袋の中で、リサは母親と瑠花のやり取りを聞いていた。
カメラには、布と紙の暗い面しか映らない。
歩くたびに、包みが擦れる音がする。
瑠花の返事は、途中で声が詰まっていた。
鼻をすする音が混じり、短い言葉のあとにも、息が震えた。母親の「これで拭いて」という声も聞こえた。
母親が瑠花に教えようとしていることは、リサにも分かった。
謝るだけでなく、湯呑を落とした相手が大丈夫か確かめ、その場で対応しなければならない。けれど、瑠花があそこに残っていたら、自分はまだ男の手元にいたかもしれない。
瑠花が走り去ったのは、自分を連れ出すためだった。
音を出して、少女の代わりに説明したかった。
けれど、母親へ何も知られないまま運び出した瑠花の行動を、ここで声を出して壊すことはできなかった。
リサは連れ出してほしいと頼んだだけで、方法を考え、実行したのは瑠花だった。
瑠花は、母親の言葉を聞き、任せてしまったことを謝っていた。
その返事に混じるすすり泣きが、リサの耳に残る。
自分を連れ出してくれた子が、泣いている。
泣いている理由のすべては、リサには分からない。
けれど、助けてほしいと頼んだのは自分だった。
瑠花はその言葉に応じ、連れ出すためにしたことを、母親の前で引き受けている。
自分のために、この子を泣かせてしまった。
何も指示しなかったからといって、その涙を、自分とは関わりのないものにすることはできなかった。
男の手から離れた。
禎へ戻るための道を、また探せる。
けれど、移った先を、ただ安全そうな場所と考えることは、もうできなかった。
袋を持つこの子が、助けてくれた。
リサは、瑠花が母親へ答えた声を、もう一度記憶の中で聞いた。
「ごめんなさい」
自分を助けたあと、瑠花が涙まじりに母へ伝えたその言葉を、帰る道が見つかったあとも、忘れたくなかった。




