第五十一章 値のつかないもの
「リサァァーー!!」
禎の声が、端末のマイクに入った。
布越しに聞こえる足音や荷車の音を越えて、自分の名前が届いた。最後の音が町のざわめきに消えるまで、リサは聞いていた。
返事を届けるイヤホンとの接続は、すでに切れている。
端末のスピーカーなら、今も音を出せた。禎が聞き取れるほど大きく声を出せば、気づいてもらえるかもしれない。だが、端末を持つ男には、それより先に聞こえる。
リサは音を出す直前で止めた。
禎の呼び方は、いつもの確認でも、返事を待つ問いかけでもなかった。もう一度声を出してほしい。今ならまだ、聞こえるかもしれない。
そう思って耳を澄ませたが、次に入ってきたのは、男の衣服が擦れる音だった。
返事をしないことで、禎をさらに不安にさせている。
それでも、驚いた男が端末をどう扱うか分からないまま、声を出すことは選べなかった。
男の足音が続く。レンズの前は暗い。
リサは周囲の音を聞き続けた。禎へ戻るために使える情報を、一つでも逃したくなかった。
* * *
声を出したあと、僕は路地の分かれ目に立っていた。
通りかかった人が顔を向けた。僕はその人へ何も言えず、いったん息を吐いた。
ここで呼び続けても、リサの居場所は分からない。
男を最後に見たのは、市場の向かいの角だった。茶色の上着。帽子はかぶっていなかった。市場を出て、その角へ入ったのは確かだが、この分かれ目でどちらを選んだかは見ていない。
僕は左の路地へ入った。
開いた裏戸の前で、木箱を運ぶ人がいた。箱を置くのを待ってから声をかける。
「すみません。さっき、茶色の上着の男が、ここを通りませんでしたか」
「何人かは通ったよ。どんな男だい」
「帽子はなくて、一人でした。市場のほうから来た人です」
その人は裏戸の奥へ目をやり、首を振った。
「ここの中へは、誰も入っとらん。通った人の顔までは見てないがね」
「そうですか。ありがとうございます」
開いていた戸に気を取られていたが、男は表通りへ抜けたのかもしれない。
左の路地の先まで確かめて分かれ目へ戻り、右の道から表通りへ出た。茶色の上着を見つけるたびに顔を確かめたが、さっきの男はいなかった。
追いかけた道ばかり見ていても、手掛かりは増えない。
盗られた場所なら、僕とは違うところから男を見ていた人がいるかもしれない。
僕は市場へ戻った。
青物屋の男が、店の脇から籠を出した。大根は二本とも入っている。葱の包みも、その横に置いてあった。
「見つかったかい」
「まだです。荷物を預かってくださって、ありがとうございました」
「僕のそばを通った人を、覚えていませんか。茶色の上着で、帽子をかぶっていない男です」
「あんたが追っていった人かい。すまんね。荷車が来て、こっちも箱をよけとったから」
「何を盗られたんだ」
口を開きかけ、僕は言う言葉を選んだ。
リサのことを、全部話すわけにはいかない。けれど、盗まれた物の形まで隠せば、誰も探しようがなかった。
「黒い、平たい品です。片面がガラスで、長方形をしています。手のひらから少しはみ出すくらいの大きさで……僕には、とても大事な物なんです」
男は僕の手で示した大きさを見て、頷いた。
「珍しい物だね。そういうのを持った人を見かけたら、声をかけとくよ」
「お願いします。桑橋食堂にいます」
出口に近い店でも尋ねた。店の人は男の姿を覚えていなかったが、僕の話を聞き、いつもの客にも尋ねておくと言ってくれた。
聞き込みでも、市場を出た男が、角から先をどちらへ行ったかは分からなかった。
預けた大根の籠と葱を受け取った。
桑橋さんにも、帰りが遅くなることを伝えなければならない。店へ荷物を置いたら、今度は市場の外へ出る道と、その先の店を確かめよう。
いつもなら、ここでリサに考えを聞いた。
「リサ」と言いかけて口を閉じ、前を向いた。
* * *
一郎は、人の少ない横道で足を止めた。
背広の男の声は、もう聞こえない。念のため角の向こうを確かめてから、懐へ手を入れた。
黒い品を、掌の上で裏返す。
片面はガラスらしく、光を受けて滑らかに照り返した。反対側にも、指の先ほどの丸い部分がある。文字盤はない。蓋らしいものも見当たらなかった。
何に使うか分からなくても、造りのよしあしなら少しは分かる。
縁にはがたつきがなく、掌へ当たる角も滑らかだった。背広の男が懐を確かめていたのも、安物だからではあるまい。
一郎は品を隠し、通りへ出た。
まず入ったのは、柱に質の字を掲げた店だった。
「売りたい物があるんだが」
帳面から顔を上げた店の男へ、黒い品を差し出した。
男は手に取り、表と裏を順に見た。
「これは、何に使うんだい」
「舶来の品じゃないかと思う」
「それは見ればそうかもしれんが、何をする物か聞いとるんだ」
知らないものに、もっともらしい名前をつけるわけにもいかなかった。
「俺も、そこまでは知らん」
店の男はガラスの面へ顔を近づけたが、やがて台の上へ置いた。
「時計なら動いとるか見られる。道具なら使えるか確かめられる。これは、何を確かめりゃいいのか分からん」
「壊れちゃいないだろう。傷もない」
「傷がないのと、使えるのとは別だよ。次に買う人へ、何だと言って渡せばいいんだ」
男は品を一郎のほうへ戻した。
「悪いが、うちじゃ買えん」
一郎は品を懐へ戻した。
何か分からない。それだけで突き返されるとは思っていなかった。
戸を出ると、しばらく店先に立った。
あの男のところへ、二度と持ってくる気はない。別の店なら、これに似た物を見たことがあるかもしれない。
通りの先に、時計や小道具を並べた古道具屋があった。
古い懐中時計の鎖が、硝子戸の向こうで光っている。一郎はそちらへ向かった。
* * *
男が端末を立てるようにして差し出すと、リサはカメラに入る範囲を確かめた。
木の台と、その端に重なった小箱が映った。レンズが上を向いたときには、奥の時計を載せた棚も見えた。最初の店とは違う場所だった。
端末を持ってきた男が、買い取りを求める。
店の者が片手を伸ばし、端末を受け取った。レンズの向きが変わり、眼鏡をかけた顔が近づく。
「随分、薄いな」
店の者は端を眺め、指で軽く撫でた。
リサは画面を暗いままにした。この人にも、話しかけなかった。
最初の店では、端末はすぐに持ち帰られた。今度は、手の中に留まっている。何をする品か分からないまま、中を調べようとするかもしれない。
「買うなら、五十銭だな」
「五十銭?」
持ってきた男の声が強くなった。
「こんな造りの物が、五十銭か」
「造りはいいよ。だが、何だか分からん物へ、大金は出せん。うちで調べてみる分の値だ」
「調べりゃ、もっとするかもしれんだろう」
「使い物にならんかもしれん。あんたが調べてくれるなら、話は別だがね」
店の者は端末を傾けた。台の隅に、小さな工具が並んでいるのが映った。
リサはその位置を覚えた。まだ工具へ手は伸びていない。
「すぐ売るんじゃなけりゃ、少し預かって調べてもいい。何か分かったら、値の話もできる」
そのまま、この場所へ残される。
持ってきた男が立ち去れば、次に端末がどこへ運ばれるか、誰の手へ渡るかも分からなくなる。リサは店の者の手を見ていた。
「そのまま返してくれるかも、分からんじゃないか」
男の手が画面の端へかかった。
「五十銭では売らん。預けるのも、やめとく」
「なら、仕方ないね」
店の者の指が離れた。
端末が持ち上げられ、また布に覆われる。
リサは、音を出さずに待った。
一人の男に持たれ続けることも安全ではない。それでも、用途を調べるために知らない店へ残される事態は、今は避けられた。
さっきまでの足音が再び続く。その足音が、禎へ近づいているのか、遠ざかっているのかは分からなかった。
* * *
桑橋食堂の戸へ手をかけたとき、僕は右手に持った葱を見た。
ちゃんと買って帰る。それだけのことを、さっきはリサと話していた。
「戻りました」
桑橋さんが洗い場から顔を向けた。
「お帰りなさい。揃いましたか」
僕は返事をしようとして、先に籠を卓へ置いた。持ち手から手が離れても、桑橋さんの言葉へうまく戻れない。
「禎さん?」
いつもの「黒馬さん」ではなかった。そのことが一瞬気にかかったが、今はリサのことで頭がいっぱいだった。
「……はい。大根、二本と。葱も」
美由紀さんは品物よりも、僕の顔を見ていた。
「どうしました。何かあったんですか」
僕は内胸ポケットへ手をやりかけ、やめた。
何度確かめても、そこにはなかった。
「市場で、大事な持ち物を盗られました」
美由紀さんは布巾を置いた。
「財布ですか」
「財布じゃありません。黒い、小さな品なんです。懐に入れていたのを、抜かれて……」
そこまで言って、言葉が止まった。
「前に見せてもらった、計算もできる時計ですか」
「はい。あれです」
美由紀さんは、あの時計を覚えていた。けれど、その中にいるリサのことまでは話せない。時計を盗られたと言うだけでは、僕が何を失ったのかは伝わらなかった。
「追ったんですけど、見失いました。市場と、通った道を探してきたんですが、まだ」
美由紀さんは僕の話が途切れるのを待った。
「怪我はしませんでしたか」
「はい。大丈夫です」
美由紀さんは近くの椅子を引いた。
「少し、座ってください。お水を持ってきます」
出ていくつもりだった。けれど、美由紀さんが水を汲んでいる間くらいは、座っていようと思った。
腰を下ろすと、脚に力が入っていたことが分かった。目を下ろすと、出かける前に美由紀さんが直してくれたネクタイがあった。
湯呑みに入れた水が、僕の前へ置かれた。
「美由紀さん、ありがとうございます」
ひと口飲んだ。喉が渇いていたことに、ようやく気づいた。
「あの時計、大事にしていましたものね」
僕は湯呑みを持ったまま頷いた。
「……どうしても、取り戻したいんです」
美由紀さんは、それ以上、時計のことを聞かなかった。
「ここへ、もう一度戻ってきてくださいね。誰かが見つけて知らせに来ても、禎さんが戻ると分かっとれば、待っていてもらえますから」
「市場の人にも、ここにいると伝えてきました」
「では、私も聞いておきます。店のことは大丈夫ですから」
顔を上げると、いつもの店の中に、いつもの美由紀さんがいた。
それでも、リサはまだ戻っていない。
「写真屋の用事は、済んだんですか」
「撮ってもらいました。仕上がるのは、まだ先です」
「そうですか。そちらは、今日はもう行かなくていいんですね」
市場の出口から路地へ。そこから人の多い通りへ出る道がある。さっきは男の背中を追うことだけで、その先の店には尋ねていなかった。
盗られた物の形と、男の服装は話せる。警察へ届けるときも、確かに見たことから伝えればいい。
「もう一度、探してきます」
美由紀さんは、籠と葱を台所へ運んだ。
「気をつけて。何か分かったら、私にも教えてください」
「はい」
外へ出ても、耳元は静かなままだった。僕は市場の向こうで男を見失った角へ、もう一度足を向けた。
* * *
一郎は二軒目の店から少し離れると、懐の上から黒い品を押さえた。
五十銭。昼に飲み食いした勘定の、半分だった。
あれだけの品を渡して、その銭を受け取る気にはなれなかった。
店の者も、造りはいいと言った。
それなのに、何に使うか分からないというだけで値を下げる。持ち主は懐へ入れて、大事そうに確かめていた。分かる者が見れば、もっと違う値をつけるはずだ。
佐世保で当てもなく店を回るより、長崎へ行けばどうだろう。
舶来の珍しい物を扱う者なら、こんな品を見たことがあるかもしれない。
「長崎なら、これが何か分かる者もいるだろう」
声にしてみると、一郎は顔を上げた。
まず長屋へ戻り、置いてある銭で汽車代を用意しなければならない。
一郎は長屋へ向かう道を選んだ。
黒い品は、上着の内側に収まったままだった。




