第五十章 途切れた声
昼の客が引いた桑橋食堂には、洗い終えた茶碗の触れ合う音がしていた。
今日は休日だった。いつもの仕事着で昼の店を手伝い、あとは片付けを残すだけになっていた。
僕は最後の卓を拭いていた。桑橋さんは洗い場で、水を切った皿を重ねている。
「桑橋さん。これからの店の仕事のことで、話しておきたいんですけど」
「ええ。どうすることになりました?」
僕が海軍中尉になったことは、もう話してある。勤務に加え、こちらの海軍の決まりや士官の仕事を学ばなければならない。今までのように、毎日ここへ出てくるとは約束できなかった。
「給金を頂いて働くのは、終わりにしようと思います」
桑橋さんは皿を置き、僕へ向き直った。
「そうですね。こっちの仕事のために、軍のほうを休むわけにはいきませんものね」
「はい。でも、来られるときは、これまでと同じように手伝わせてください」
言い終えたあとも、桑橋さんから目を離せなかった。
ここへ来たばかりの僕には、仕事も、帰る場所もなかった。その僕を、桑橋さんは店へ置いてくれた。最初は分からなかった台所の物の置き場所も、今は手が覚えている。
海軍へ入ったからといって、戸を開けてここへ戻ることまで終わりにしたくなかった。
「給金なしで、ということ?」
「はい。石橋大尉を通して、担当の人にも確認してもらいました。勤務や教育に差し障りのないときに、給金を頂かず手を貸す分には構わないそうです」
「そこまでしてもらわなくても大丈夫ですよ。店は、私がやりますから」
「分かってます。でも、僕がここに来たいんです」
桑橋さんの手が、重ねた皿の上で止まった。
「ここへ戻って、桑橋さんといつもの仕事をしていると、落ち着くんです」
桑橋さんは少しの間、僕を見ていた。
「……そう。では、来られるときに、お願いします。でも、忙しい日は無理せんでくださいね」
「はい。来られる日は、僕から声をかけます」
僕は布巾を洗って掛けた。
「今日は、もうそのへんで。休みの日まで、ずっと働かんでいいんですよ」
「じゃあ、写真屋へ行ってきます。着替えてきますね」
店の奥で仕事着から背広に着替え、ネクタイを結んだ。端末も、背広の左の内胸ポケットへ移した。
店へ戻ると、桑橋さんが皿を置いて僕を見た。
「似合ってますよ。その服。いつもの仕事着のときと、ちょっと違いますね」
誉めてもらえて嬉しかった。けれど、すぐには顔を上げられず、僕は上着の裾を軽く引いた。
「……そうですか」
「ええ。でも、ネクタイが少し曲がってます」
桑橋さんは手を拭いてから一歩近づき、結び目へ手を伸ばした。僕は顎を上げたまま、動けなくなった。思っていたよりも、顔が近い。
指先がネクタイをつまみ、結び目を襟の真ん中へ戻す。そのあいだ、僕は桑橋さんの手元だけを見ていた。
「はい。これでいいですよ」
「ありがとうございます」
言ってから、声が少し小さかったことに気づいた。桑橋さんは僕の襟元をもう一度見て、目元をほころばせた。
この背広は、谷本司令長官から頂いた二着のうちの一着だった。
『士官になった以上、制服ばかりというわけにもいかないだろう』
そんな言葉とともに贈られた、個人的な任官祝いである。二着と聞いたときは、礼を言う声まで少し固くなった。
「写真屋で、背広姿も撮ってもらうんです」
「海軍へ出す写真ですか」
「はい。僕の任用の書類を扱う人から、制服の写真のほかに、背広姿の写真も用意するように言われたんです」
「そう。それなら、きちんとして行かんとね」
桑橋さんは棚の籠へ目をやった。
「帰りに京町の市場へ寄れますか。大根と葱を、少し買ってきてほしいんですけど」
「寄れます。どのくらいですか」
「大根は二本、葱は一束。いつもの青物屋さんで、残っとる分でいいですから。大根は煮るのに使います」
桑橋さんは買い物の覚えを入れた籠を用意し、勘定場の引き出しへ手を伸ばした。
「お金も渡しておきますね」
「今日は、僕に出させてください」
引き出しにかかった手が止まった。
「店で使う物ですよ」
「軍から、身支度のための金も出たんです。少しくらいなら大丈夫です」
「これから要る物もあるでしょう。無理せんでいいですよ」
「それは残してあります。今日は僕に出させてください」
同じことを二度言ってしまった。
桑橋さんは僕の顔を見ていたが、やがて引き出しから手を離した。
「じゃあ、今日はお願いしますね。いつもは、ちゃんと店から出しますから」
「はい」
籠を受け取ると、さっきまでより持ち手が軽く感じられた。
桑橋さんのほうから頼まれた買い物だ。急いで用事を済ませ、戻ってくれば、またここで顔を合わせられる。
店を出る前に、僕は左の内胸ポケットを上から確かめた。
端末は深く収まり、口から覗いてはいない。片耳のイヤホンにも、いつものようにリサの声が届いた。
《写真屋へ向かいますか、禎さん》
「うん。そのあと、買い物」
《大根二本と葱一束ですね》
「頼むよ。忘れたら、格好つけた分まで台なしだ」
* * *
写真屋では、椅子の向きと僕の顎の位置を、少しずつ直された。
背広を着て鏡の前に立つのと、写真を撮られるのとでは違う。肩に力が入ったのを指摘され、いったん息を吐いた。
撮り終えると、店主から仕上がりを受け取りに来る日を聞いた。写真が出来上がるのは、まだ先だった。
「ありがとうございました」
戸口で店主へ会釈し、外へ出た。
川のほうから来る風が頬に当たる。冬の日は、まだ通りの上に残っていた。僕は内ポケットの端末を上から確かめ、京町の市場へ向かった。
大きな屋根の下へ入ると、魚と湿った土の匂いが交じった。通路の両側に店が続き、木箱の前では、品物を選ぶ人と包みを受け取る人が足を止めている。
以前、桑橋さんと来たときと同じ青物屋を見つけた。
「こんにちは。大根は、まだありますか」
「煮るのかい」
「はい。桑橋食堂で使います」
店の男が木箱を示した。白い根が幾つか、葉を切り詰めて並んでいる。細いものと、ずっと太いものがあった。
僕は太いほうへ手を伸ばしかけた。
《禎さん。桑橋さんは、煮るのに使うと言っていました》
「うん。それで、太いほうがいいのかと思って」
声を落として答えると、リサが続けた。
《太さだけでは決められません。店の方に聞いてみてはどうですか》
「見ただけで分かるような顔をしなくてよかった」
店の男に選んでもらった大根二本を籠へ入れ、葱も一束頼んだ。残っていた葱には、葉が折れないように紙を巻いてもらった。
《頼まれた品は、両方揃いました》
「あとは、無事に持って帰るだけだね」
耳元に返事がある。それを特別なことだとは、そのとき思わなかった。
勘定を済ませ、左手に籠、右手に葱の包みを持った。
店先から通路へ出ようとしたところで、荷車を引く声がした。
車輪が木箱の角を避けて進み、人の流れがこちら側へ寄った。僕は葱を胸の前へ立て、籠を脚へ近づけた。隣を通る人に、大根の入った籠をぶつけたくなかった。
肩のすぐ前を、男が一人抜けていった。袖が触れ、上着がわずかに引かれる。
「すみません」
僕は身体を引いた。
男の横顔は、次に通った人の肩に隠れた。
* * *
一郎は、背広の男を市場へ入る前から追っていた。
写真屋を出てからも、男は急いでいなかった。片耳に小さな物を入れたまま、ときどき独り言のように口を動かす。連れはいない。
それが何かは分からなかったが、一郎の目は、上着の懐の形へ戻った。
男が買い物をしている間も、一郎はそばへ張りつかなかった。別の店の木箱を覗き、人が通れば脇へ退く。男が金を払うのを見てから、通路の流れへ入った。
市場へ入る前、男が左の懐へ手をやったのを見ていた。財布を出した場所とは違う。そこにも何か持っている。
荷車を避ける人々の間で、一郎は男と行き違った。
籠も包みも落ちず、男は声を荒らげもしなかった。
一郎が人の肩の間を抜けたときには、懐から抜いた物は、もう自分の手の中にあった。
財布のつもりだった。
だが、指に当たる物は、革でも紙でもない。薄く、固かった。
人の背に隠して、ほんの一瞬見る。
黒いガラスのような面。その周りを、隙間のない縁が囲んでいる。箱にしては薄く、鏡にしては妙な造りだった。裏へ回した指にも、見慣れない滑らかな感触がある。
傷んだところも、粗い継ぎ目もない。
舶来の品かもしれない。
何に使うのかは知らないが、ただの小箱よりは銭になりそうだった。
一郎はそれを自分の上着の内側へ隠した。背広の男のほうへは、もう顔を向けない。
市場の出口へ向かう客の後ろに入り、そのまま歩き続けた。
* * *
端末が衣服の外へ出た瞬間、リサのカメラに光が入った。
人の背と木箱が流れ、すぐ近くに見知らぬ男の顎が映った。マイクに入る禎の声が遠ざかっていく。
端末を動かしているのは、禎ではない。
ほどなくレンズの前を布が覆った。カメラを切り替えても、周囲は見えない。
リサは、本体の音を出さなかった。勝手に声を出す品だと知られれば、この男が驚いて手放すかもしれない。投げられることも、壊されることも避けたかった。
まだ、禎のイヤホンとの接続は続いている。
周囲に知らせるより先に、禎へ伝える。
* * *
《禎さん》
「ん?」
《私が移動しています》
「……何?」
立っている僕には、その言葉の意味がすぐには分からなかった。
僕は青物屋の台へ籠と葱を置き、すぐに上着の内側へ手を入れた。
指が、空のポケットの底に触れた。
「少し、荷物を預かってください」
店の男へ言い、すぐ通路を振り返った。
さっき肩をかすめた男。くすんだ茶色の上着で、帽子はなかった。僕が身体を引いたときには、もう市場の出口へ向いていた。
人の頭と肩の間を見渡す。
買い物を続ける人は、店先へ顔を向けている。荷車を避けた人は、空いた通路へ戻り始めていた。その中に、店を見ずに外へ出ていく茶色の背中があった。
「リサ、今、何が見える」
《布で覆われています。周囲は見えません》
僕はその背中を追った。
人を押しのけるわけにはいかない。止まっている人の間を抜け、荷車の後ろを回る。その間に、男は屋根の下から出た。
「そこの方、待ってください」
男は振り返らなかった。
僕も出口を抜ける。茶色の上着が通りを横切り、向かいの角へ消えた。
「リサ、どっちだ。曲がったのか」
《足音が……外の声に……》
聞こえた声の途中に、短い空白が入った。
僕は男が消えた角へ向かった。
通りを渡ろうとしたところで、荷を積んだ車が来た。引いている男の進路を見て足を止める。車が過ぎるとすぐに渡ったが、角の先にはもう茶色の背中がなかった。
狭い路地が途中で二つに分かれていた。
右の道には、表通りへ歩く人がいる。左の道では、店の裏戸が一つ開いていた。その奥は、ここからでは見えない。
僕は近くの女の人に声をかけた。
「今、茶色の上着の男が、こちらへ来ませんでしたか。帽子をかぶっていない人です」
女の人は、二つの道へ順に顔を向けた。
「さあ……何人か通ったけど」
その返事を聞き終える前に飛び出したくなった。けれど、どちらへ走ればいいかも決めずに動けば、さっき見た角へ戻ることさえ遅れる。
僕は礼を言い、左の路地の口から奥を覗いた。裏戸の前には木箱が積まれ、人影はない。
「リサ、聞こえるか」
《禎さ……》
声が、そこで切れた。
僕は右の道へ数歩入り、先の通りを確かめた。人が行き交っている。さっきの男は見えない。
イヤホンへ指を添えた。外れたのではない。耳の同じところに、きちんと入っている。
「リサ、もう一度、言って」
誰かが表通りで荷車を呼んでいた。下駄の音が、路地の入口を横切る。
リサの声だけが戻らなかった。
距離が開き、建物を挟んで、接続が切れたのだ。
僕は路地の分かれ目へ戻った。視線を右へ、左へ動かす。茶色の上着は、どちらにも見えない。
そのことをリサへ伝えようとして、口を閉じた。
何かを見つければ話しかけた。迷えば聞いた。誰にも言えないことでも、リサには言えた。
一九四一年へ来てから、それがずっと続いていた。
「リサ?」
返事がない。
僕は耳に指を添えたまま、もう一度呼んだ。
「リサ」
何も聞こえなかった。
耳へ添えていた手を下ろした。息を吸おうとして、胸がつかえた。
家族も、知っている人もいないこの時代で、リサだけはいつも返事をしてくれた。今、どこにいる。誰が持っている。考えても、確かめる声がない。
「リサァァーー!!」
声が路地から表通りへ響いた。耳元には、返事がなかった。




