第四十九章 隣の皿
一郎は昼飯の勘定を済ませ、食堂の暖簾を押し上げた。
腹の底には、まだ汁物の温かさが残っている。外へ出ると川風が襟元へ入り込み、思わず顎を引いた。通りでは下駄の音に靴音が交じり、荷車をよけながら、人々がそれぞれの用事へ向かっていた。
その流れの中に、一人だけ、一郎の目を引く男がいた。
羽織の肩に冬の日が当たっている。派手な柄ではないが、布の落ち方が違った。歩くたびに裾が柔らかく揺れ、履物もよく手入れされている。
男は店先を眺めながら、急ぐでもなく歩いていた。
一郎は歩調を緩めた。
男の姿が、行き交う人の肩に隠れる。
次に見えたときには、一郎はもうそのそばを離れていた。
男は何も知らずに歩いていく。
一郎の手元には、財布が一つ増えていた。
通りから細い路地へ入り、人目の切れたところで中を開いた。
折り畳まれた一円札が、一枚。
指先でもう一度探ったが、それきりだった。
「……格好ばかりか」
もっと入っていると思った。
あの羽織に、あの足取りである。財布の中まで懐が寒いとは、見込みが外れた。
一郎は札を抜き、自分の財布へ移した。空になったほうは、路地の奥へ放り込む。
落ちた財布を振り返りもせず、表へ戻った。
雑踏に紛れ、人の懐から物を抜く。
平場師と呼ばれる稼業で、一郎は食っていた。
手先だけで暮らせるなら気楽なものだと思う者もいる。だが、指が利けば誰からでも盗れるというわけではない。妙に勘の鋭い者もいれば、こちらが近づく前から財布を押さえている者もいる。
一度でもしくじれば、その日の飯どころでは済まなくなる。
だから、むやみに手は出さない。
危ない橋を渡るなら、それだけのものを持っていそうな相手を選ぶ。
ところが、この頃は、その見当がつけにくかった。身なりのよい男も、買い物のたびに銭を数えている。懐の膨らみを当てにしたところで、中身は紙切ればかりということもある。
今日の男も、その口だった。
一郎は懐の上から財布を押さえた。
「今日は、もうこんなもんか」
まだ日暮れには間がある。
もう少し歩けば、別の相手が見つかるかもしれない。見つからないまま、足だけが棒になるかもしれない。
一円あれば、ともかく酒は飲める。
一郎は人の流れから外れ、佐世保川に近い裏通りへ足を向けた。
しばらく行くと、何かを炙る香ばしい匂いがしてきた。
軒の低い、小さな店だった。木の柱と土壁が煤け、入口には使い込まれた縄暖簾が下がっている。外からでは、奥の様子までは分からない。
一郎は足を止めた。
匂いだけなら、悪くない。
縄暖簾を肩で分け、土間へ入った。
初めは暗く感じたが、二、三度瞬きをすると、店の中が見えてきた。梁から下がる電球が、磨かれた盆の縁を照らしている。奥では炭火が赤く、その隣で燗銅壺が湯気を上げていた。
湯に差し込まれたちろりの取っ手が、銅壺の縁から幾つも突き出している。
土間には長い腰掛けが二つ。その向こうには、低い膳を置いた小上がりがある。
腰掛けの客は、自分の脇に盆を載せて飲んでいた。壁際には、股引に仕事着の男が一人、脚を投げ出している。奥では三人連れが、声を落として何かを話していた。
一郎は入口に近い腰掛けの端へ座った。
三十を過ぎても、こういうところへ入るときは、まず懐具合を確かめてしまう。
財布を開くと、さっきの一円札が入っていた。
親父が濡れた手を前掛けで拭きながら、顔を向けた。
「酒かい」
「ああ」
答えてから、一郎は壁の木札を見上げた。
並の酒は、半合の小徳利で二十銭。上等のほうは一合で四十五銭とある。
「上等ってのは」
「灘のだよ」
親父はそれだけ言って、奥へ目を戻した。
一郎は二枚の札を見比べた。
上等のほうなら、量も多い。旨い酒を、急がず一合やるのも悪くなかった。
だが、二本頼めば九十銭になる。残り十銭では、壁に並ぶ肴のどれにも手が届かない。
昼飯は済ませた。
それでも、いい匂いを嗅がされながら、ほかの客の皿を眺めて飲むのは御免だった。
「並をくれ。小さいのでいい」
親父は頷き、酒を量ってちろりへ移した。
湯へ差し入れると、取っ手が銅壺の縁に触れ、軽い音を立てた。
一郎の脇に、小さな徳利と猪口を載せた盆が置かれた。
徳利は指に温かいが、熱いというほどではない。
一郎は酒を注ぎ、ひと口含んだ。
「薄いな」
声は口の中で消えた。
香りはする。酒の味もする。だが、飲み下したあとに残るものが頼りない。もう少し喉を押してくれてもよさそうなものだった。
どこかで水を足したのではないか。
そう思って徳利を眺めたところで、ここへ来るまでのことなど分からない。
親父は隣の客の燗を上げている。
一郎は何も言わず、もうひと口飲んだ。
今度は、温かさがゆっくり胸を下りた。
朝から歩き回って冷えていた指も、徳利を持っているうちに少しずつほぐれてくる。
二十銭。
まだ八十銭は使える。
一郎は木札へ目を戻した。
揚げ蒲鉾、鯖の酢じめ、卵焼き、炙りするめ、白菜漬け、煎りそら豆。
表を向いている札は六枚。どれも下に二十銭と書いてあった。
値段が同じなら、あとは食いたいものを選べばいい。
そう思ったのに、目はなかなか一枚に留まらなかった。
するめは長く噛んでいられるが、それだけ酒も欲しくなる。そら豆も似たようなものだろう。白菜だけで飲むのは、少し寂しい。
卵もよさそうだったが、入口で嗅いだ香ばしさがまだ鼻に残っていた。
「蒲鉾をくれ」
親父は平たい揚げ蒲鉾を網へ載せた。
表面に細かな油が浮き、縁が少し濃い色になる。火から下ろしたそれを四つに切り、小皿へ並べた。
一郎は端の一切れを取った。
箸で挟むと、薄い褐色の皮の下が押し返してくる。
噛んだ途端、温められた油の匂いが立った。
外側はしっかりしているのに、中は思ったほど固くない。歯を受け止めてから、ぷつりと切れる。魚の味が口に広がり、あとに細かな葱の香りが残った。
一郎はもう半分を口へ押し込んだ。
少ないように見えたが、一切れでも案外、食った気になる。
そこで酒を飲んだ。
さっきほど薄く感じない。
口に残った油がぬるい酒となじみ、魚の味がもう一度浮かんでくる。猪口を置いてからも、その余韻が舌に残っていた。
一郎は二切れ目を取った。
これなら、まずは当たりだ。
半分ほど食べたところで、縄暖簾が擦れた。
四十がらみの男が入ってきた。
紺の着物に羽織を重ねている。目立つ格好ではない。店内を見渡し、一郎の隣の空いたところへ来ると、裾を払って腰を下ろした。
座っても背中が丸くならない。
かといって、気取っている様子もなかった。草履を履いた両足を少し引き、ほかの客の通り道を空けている。
「紀伊さん、いつものかい」
親父の声に、男が片手を上げた。
「ああ。小さいのを燗で」
一郎と同じ徳利が出てきた。
紀伊という男は猪口へ注ぎ、ひと口飲んでから、壁の札へ顎を向けた。
「鯖も頼む」
小皿に載ってきたのは、薄く切った鯖だった。皮の銀色が電球の下で光り、身の縁が白く締まっている。脇には針のように細く切った生姜が少し添えてあった。
紀伊はまず、生姜を載せずに一切れ食べた。
口を閉じたまま二、三度噛み、猪口へ手を伸ばす。
二切れ残った蒲鉾から、一郎は隣の皿へ目を移した。
酢の利いた魚も、よかったか。
蒲鉾がまずいわけではない。
だが、温かい揚げ物を食べていると、あの冷たそうな白い身が気になってくる。
鯖も頼めばいい。二十銭を出せば済む話だ。
だが、目についたものを片端から頼んでいれば、一円などたちまち消える。
奥の三人連れが、急に声を上げて笑った。
仕事の段取りで誰かが大きな間違いをしたらしい。詳しいことは聞き取れなかったが、笑っているうちに一人が咳き込み、もう一人が背中を叩いている。
壁際の男は、そんな騒ぎにも顔を向けず、猪口を傾けていた。
一郎の帰る長屋には、誰もいない。
戸を開けたところで、火を起こす者も、飯を用意して待つ者もいなかった。
酒場へ入れば、黙っていても湯が沸いている。銭さえ出せば、温かいものが目の前へ来る。
それで十分だと思っていた。
余計な口をきかず、食って、飲んで、勘定をして出る。
誰とも馴染まなければ、面倒も少ない。
「それ、揚げたのか」
隣から言われ、一郎は顔を上げた。
紀伊が、小皿を見ている。
「ああ」
「一切れくれないか」
紀伊は鯖の皿を、二人の間へ少し寄せた。
「こっちと取り替えだ」
それきり、返事を急かすでもなく、猪口へ手を伸ばした。
一郎は男の横顔を見た。
酒を奢れという顔ではない。話し相手を捕まえたという様子でもなかった。
ただ、蒲鉾を食ってみたくなったらしい。
「……なら、一つ」
一郎も自分の皿を寄せた。
鯖を一切れ取る。
口に入れると、初めにひやりとした。次いで酢の酸味が舌を刺し、噛むと、締まった身の中から脂がほどけてきた。
揚げ物の油とは違う。舌の上に薄く広がり、塩気を伴って残る。
そこへ燗をひと口流した。
一郎は猪口を下ろし、少し首を傾けた。
魚のあとだからか、酒の甘みが前へ出てくる。さっきまで物足りなかったものが、今は鯖の味を邪魔しない。
「これも、いいな」
つい声に出た。
紀伊は蒲鉾を噛んでいた。
「魚の味がする」
それだけ言って、残りを口へ入れた。
気に入ったかとも、遠慮するなとも言わない。
食べたもののことだけを言って、また自分の猪口へ戻る。
一郎は最後の蒲鉾を取った。
今度は、隣の皿を気にせずに食えた。
自分で頼んだ肴は一つなのに、二つ食べた。
しかも、紀伊のほうも同じだった。
徳利を傾けると、最後の数滴が猪口の底を濡らした。
ここまでで、四十銭。
残り六十銭なら、まだ上等の酒に手が届く。
一郎は、四十五銭の札を見上げた。
灘の酒は、前に一度、別の店で飲んだことがあった。
懐が温かかった日だった。あのときは値段を気にせず注文した。
口に含むと味がふくらみ、飲み下しても米の香りが残った。肴へ箸を伸ばすのも忘れ、次の猪口を注いだのを覚えている。
あれを、もう一度。
今なら飲める。
だが、四十五銭を使えば、残りは十五銭になる。
肴はこれで終わりだ。
並の小徳利をもう一本にすれば、四十銭が残る。二十銭の皿を、あと二つ頼める。
一郎の目が、酒の札から、肴の札へ移った。
隣では紀伊が最後の鯖を食べ、生姜を箸の先でまとめている。
さっきの一切れで、酒の味まで変わった。
ほかの皿なら、どうだろう。
一郎は空の徳利を持ち上げた。
「同じのを、もう一本」
紀伊も自分の徳利を差し出したが、一郎の注文には何も言わなかった。
上等の札を見ていたのを、見られたかもしれない。
だが、それには触れず、男は壁のほうを向いている。
「次は何にする」
しばらくして、紀伊が尋ねた。
「まだ決めてない」
「今日は卵があるな」
卵焼きの木札は、ほかより少し明るい色をしている。
「するめはどうだ」
「あれは長持ちする」
「なら、安上がりだな」
「酒のほうは持たんぞ」
一郎は鼻で小さく笑った。
それから、また黙った。
名前も住まいも、仕事も聞かれない。こちらも聞く必要がなかった。
徳利が空いたか、次は何を食べるか。
それだけで、話は足りていた。
二本目の燗が来ると、一郎は親父を呼び止めた。
「卵焼きをくれ」
ほとんど重なるように、紀伊が言った。
「じゃあ、するめだな」
一郎は横を見た。
紀伊は知らぬ顔で猪口を持っている。
奥で、卵を溶く音がした。
ほどなく、油を引いた鍋から細い音が続く。親父の手元で黄色いものが折り重なり、端が少しずつ丸くなった。
出てきた卵焼きは、小ぶりだった。
三つに切り分けられ、表に薄い焼き色がついている。
一郎は箸でひと切れを押した。
柔らかく沈み、離すと少し戻った。
口へ入れると、重なった薄い層が舌の上でほどけた。
熱さの中から卵の匂いが立ち、噛むと出汁がにじむ。強い甘さはない。ひと口ごとに、卵そのものの味が残った。
慌てて飲み込むのが惜しくなり、一郎はゆっくり噛んだ。
隣から、焦げる匂いが来た。
網の上で炙られたするめが反り返り、親父がそれを裏返している。
紀伊の前には、細く裂いたするめが小皿に載って出てきた。
所々がきつね色になり、端がくるりと巻いている。
男は一筋つまみ、一郎へ差し出した。
「卵を一つな」
今度は一郎もためらわなかった。
残った卵焼きを一切れ、紀伊の空いた小皿へ移した。
するめは、見た目より手強かった。
前歯で噛んでも、すぐには切れない。一郎は少し引き、ようやく噛み取った。
初めに来るのは炙った表面の香ばしさだった。
噛み続けると繊維がほぐれ、塩気と濃い烏賊の味がじわじわ出てくる。飲み込もうとしても、まだ次の味が残っている気がした。
やっと喉へ送ったところで、猪口を取った。
ぬるい酒が、乾いた口へ入ってくる。
するめの味が消えるのではない。酒と一緒に、口の奥まで広がった。
一郎は、残ったするめを見た。
「なるほどな」
「何がだ」
「酒が持たん」
紀伊は卵焼きを食べながら、口元だけを緩めた。
一郎は今度こそ、小さく笑った。
卵を食べれば、口の中が柔らかくなる。
するめを噛めば、しばらくほかのものへ手を出さずに済む。
どちらのあとにも同じ酒を飲んでいるのに、そのたびに違う飲み物のようだった。
自分で頼んだのは、蒲鉾と卵。
それに鯖とするめが加わっている。
一郎は指を折りかけ、やめた。
そんな勘定まで、隣の男に見せることもない。
奥の客が一人立った。
残った二人が何か声をかけ、立った男は笑いながら手を振った。親父が勘定を受け取り、縄暖簾がまた揺れる。
外の明るさが一瞬、土間へ差し込んだ。
まだ帰るには早い気もした。
だが、今日ここで使える銭は、あと二十銭だけだった。
酒をもう一本にするか。
肴をもう一つにするか。
一郎は猪口に残った酒を飲んだ。
身体はもう温まっている。肩の力も抜け、足の冷えも気にならなくなっていた。
もう一本空ければ、今よりいい心持ちにはなれるだろう。
親父へ声をかけようとして、やめた。
口の中には、まだするめの味が残っていた。
旨いには旨いが、少し違うものが欲しかった。
目が、白菜漬けの札で止まった。
「白菜を、一皿」
言ってから、懐の財布を確かめた。
これで一円、残らず使う。
長屋へ戻れば少しは銭を置いてあるが、この店では、もう何も追加できない。
親父は桶の白菜を軽く絞り、ざくざくと切った。
小皿には白い軸と、淡い黄緑の葉が重なっていた。細い柚子の皮が二、三本、間から覗いている。
受け取った皿は冷たかった。
さっきの卵焼きとは違い、湯気も匂いも押し寄せてこない。
けれど、肉厚の白いところを見ると、噛んだときの音が想像できた。
一郎は、それを自分の盆へ載せかけた。
いつもなら、そのまま一人で食う。
頼んだものを食べ終えたら、勘定をして帰る。
だが、隣にはまだ紀伊がいる。
一郎は皿を盆の端へ置いた。
それから盆ごと少し動かし、二人の間へ寄せた。
紀伊の目が、白菜へ向いた。
「今度は、あんたが違うのを頼んでくれ」
一郎は皿を見たまま言った。
「また会ったらな」
紀伊は大げさに笑わなかった。
礼を言う代わりに、寄せられた皿をほんの少し、一郎の側へ押し戻した。
二人の真ん中より、わずかに一郎へ近いところで止まる。
そこから葉の部分を取った。
一郎は白い軸を選んだ。
噛むと、しゃくりと音がした。冷たい汁がにじみ、舌に残っていた烏賊の塩気へ、かすかな酸味が重なる。
軸は歯切れがよいのに、筋ばってはいなかった。
もう一度噛むと白菜の甘みが出て、あとから柚子の匂いが鼻へ抜けた。
一郎は、白いところをもう一つ取った。
「漬かってるな」
「ああ。ちょうどいい」
紀伊は葉を折り畳むようにして口へ入れた。
一郎が軸を取り、紀伊が葉を取る。
どちらがどれを食うか、言葉にする必要もなかった。
一人で食えば、全部が自分の腹に入る。
二人で食えば、その分は減る。
そんなことは、数えるまでもなく分かっていた。
それでも、皿を引き戻す気にはならなかった。
最後に残った葉を紀伊が取り、一郎は皿の端の小さな軸を拾った。
もう酒はなかったが、それで困ることもなかった。
親父が空いた器を下げに来る。
「勘定を」
紀伊が先に立ち、銭を出した。
一郎も財布を開き、一円札を抜いた。
「ちょうど一円だよ」
親父は札を受け取ると、指で広げて確かめた。
並の燗が二本。
揚げ蒲鉾と卵焼き、それに白菜漬け。
注文したのは、それだけだった。
だが、鯖も食った。するめも噛んだ。
一郎は空になった財布を懐へ戻した。
同じ一円で、こういう飲み方もあるらしい。
紀伊が羽織の襟を直した。
「じゃあな」
「ああ。また」
名前を名乗ることもないまま、そう返した。
紀伊は軽く手を上げ、先に暖簾をくぐった。
一郎は親父へ顎を引き、あとから外へ出た。
川風が頬へ当たった。
通りには、まだ日が残っている。
足元がふらつくほど飲んではいない。腹も張り切ってはいなかった。ただ、店へ入る前より、身体の内側がずっと穏やかだった。
最後に食べた白菜の歯触りが、まだ口に残っている気がした。
一人で頼んだものだけを食べていたら、知らないまま終わった味が二つある。
紀伊がどこへ帰るのか、一郎は知らない。
何をして食っている男なのかも、聞かなかった。
次にあの店へ入ったとき、同じところに座っているとも限らない。
それでも、また誰かと隣り合ったら。
そのときは、自分の皿を少し寄せてみてもいい。
一郎はそう思いながら、表通りへ出た。
しばらく歩いたところで、写真屋の戸が開いた。
背広の男が一人、店主に会釈して出てきた。
肩に無理のない上着。折り目の通ったズボン。襟元には、きちんと結んだネクタイがある。
昼に見た羽織の男とは違う身なりだが、衣服に銭がかかっていることは分かった。
男が顔を横へ向けた。
片耳に、耳栓らしい小さなものが見えた。
一郎の足が、わずかに遅くなった。
「……今度は、持っていそうだな」
男は写真屋を離れ、人通りの多いほうへ歩き出した。
一郎は少し間を置き、そのあとへ続いた。




