第四十八章 母の店
一九四二年一月二十九日
瑠花が教室へ入ると、羽衣子はもう席にいた。
いつもより早く母に起こしてもらったのに、先を越された。
「羽衣子ちゃん、もう来とった」
瑠花は鞄を置き、昨日写した問題のある帳面を出した。
「残りの鉛筆を三人に分けるの、聞いてもいい?」
「うん。どこで止まった?」
羽衣子が顔を寄せると、瑠花は問題の下に書いた言葉を指した。
「先生が使う六本は、三人に分ける前に引くの?」
羽衣子は自分の帳面を開き、三十六から六を引いた計算を指した。
「うん。先生が使うのは、全部で六本でしょう。その残りを三人にあげるから、先に引いたと」
「一人分から六本ずつ引いたら、先生が十八本も使うことになるね」
昨夜引っかかっていたことを口にすると、羽衣子がうなずいた。
「そう。残るのは三十本だから、その三十本を三人に分けるんだよ」
瑠花は三十六から六を引き、残った三十を三で割った。
「一人が十本。先に先生の六本を取っておくんだね。三人の鉛筆は、その残り」
「うん。あたしも、どの数を分けるか迷ったよ」
瑠花は計算の脇に、「六本使った残りを、三人へ」と書き添えた。次に読む自分にも分かるように、残しておきたかった。
「ありがとう。今度は、家でも分かると思う」
「じゃあ、今度あたしが困ったら教えてね」
「あたしが先に分かったらね」
瑠花が念を押すと、羽衣子が笑った。瑠花も笑い、帳面を閉じた。
顔を上げると、前の席の男の子がこちらを見ていた。瑠花が黒板へ目を向けると、男の子は見つからずに済んだように姿勢を戻した。
欠けた教科書の頁は戻っていない。でも、昨日から分からなかったことを、今日は羽衣子に尋ねて確かめられた。
* * *
帰りの支度をしている羽衣子へ、瑠花は声をかけた。
「羽衣子ちゃん、今日もうちで用事ある?」
「少しなら大丈夫。どうしたと?」
「うちに寄らん? お母さんの店」
羽衣子の手が鞄の上で止まった。
「瑠花ちゃんのお母さんの?」
「うん。洗濯とか、仕立てとかしとるところ。昨日、待ってくれたから……じゃなくて」
瑠花は言い直した。お礼に寄ってもらう、というのも変だった。
「学校じゃないところでも、羽衣子ちゃんと話したい」
羽衣子は少し考えた。
「店まで、遠い?」
瑠花は道を説明した。羽衣子はうなずいた。
「それなら行ってみたい。暗くなる前には帰るね」
「うん。帰る道も教える」
誘っておきながら、断られたらどうしようと思っていた。返事が決まると、瑠花は鞄を抱え直してすぐ歩きだした。入口で羽衣子を追い越しかけ、慌てて足を緩めた。
二人で歩くと、一人のときより店までが短かった。
「お母さん、よくしゃべるけど」
店が見えてきたところで、瑠花は言った。
「そうなの?」
「忙しいときも。あたしのことまで、しゃべるかもしれん」
羽衣子が笑った。
「昨日の字のこと?」
「それは言わんと思う。……多分」
自分で言って、心配になった。瑠花は先に戸口をのぞいた。
「お母さん。羽衣子ちゃん、来た」
ベッキーは衣類の脇へ針を置き、顔を上げた。窓辺で細かな縫い目を見ていた青い瞳が、二人へ向くと柔らかくなった。頬に沿ってほどけた灰金色の髪を、指で耳の後ろへ戻す。
「あら。いらっしゃい」
「こんにちは」
羽衣子が頭を下げると、母も背筋を伸ばして迎えた。作業中の姿を毎日見ている瑠花には、それがいつもの母だった。
「昨日、教科書を見せてくれた羽衣子ちゃんね。問題を写すのも待ってくれたって。ありがとう」
「はい。でも、書いたのは瑠花ちゃんです。あたしは数字が違うって言っただけで」
「今日も教えてもらった。残りの鉛筆を三人に分けるの、もう分かったよ」
瑠花が口を挟むと、母は目を細めた。
「そのために、朝早く起きたんだものね」
「お母さん、それは言わんでいい」
「ちゃんと起きたのも、言わない方がよかった?」
羽衣子まで笑ったので、瑠花は頬を赤くして、母の横を通り抜けた。
「羽衣子ちゃん、鞄はここへ置いていいよ」
奥の椅子を示すと、羽衣子は会釈して鞄を置いた。
母を見ても、顔をそらしたりはしなかった。髪や目の色を嫌な調子で口にすることもない。羽衣子は、母が縫っていた上着を見ていた。
瑠花は胸の中で詰めていた息を、そっと吐いた。
「お母さんが直した服、こっちにある。洗ったのは、あっち」
瑠花は仕上がった上着を見せようと、袖へ手を伸ばした。
「瑠花、丁寧にね。見せ終わったら、元どおりに畳んでおいて」
「うん。見せたら、あたしが戻す」
瑠花は上着を机に広げ、袖を引っ張らないようにしながら、襟の脇を羽衣子へ見せた。
「ほつれとったところ、分からんでしょう」
「うん。どこだった?」
羽衣子が目を近づけると、ベッキーが縫い直した場所を指で示した。
「このあたり。布が残っていれば、目立たないようにはできるよ」
「お母さん、何でも直せるんだよ」
瑠花が言うと、母は首を振った。
「何でもは無理。元の布がなくなったら、同じにはできないから」
「でも、ちゃんと着られるようにはする」
瑠花が言い足すと、ベッキーは笑った。
「そう。そこは頑張る」
羽衣子が縫い目を見てうなずくと、瑠花は自分が縫ったわけでもないのに嬉しくなった。
羽衣子が見終えると、瑠花は母に教わったとおりに袖をそろえ、上着を畳んだ。折り目を整えて机の元の場所へ戻すと、羽衣子へ少し得意そうに笑った。
客が一人、仕上がった衣類を受け取りに来た。
「ベッキーさん、できとる?」
「できていますよ。こちらで確かめて」
母が客へ衣類を渡す間、瑠花は羽衣子へ小声で言った。
「お客さんが通るから、こっちへ寄ろう」
二人で奥へ移ると、客がこちらを見た。
「今日は二人おるね」
「あたしの友達」
瑠花が答えると、羽衣子も頭を下げた。
客はにこりとして母へ向き直った。瑠花は、もう一度その言葉を言いたくなったが、言わなかった。
客が帰ると、母が二人へ声をかけた。
「寒かったでしょう。番茶を入れるから、少し座っておいで」
二人が奥の机に並んで座ると、ベッキーはそれぞれの前へ番茶を置いた。
「熱いから、ゆっくり飲んでね」
「ありがとうございます」
羽衣子は湯気へ息を吹きかけ、瑠花も温かい茶碗を両手で包んだ。
「お母さん、ありがとう」
学校とは違う。ここなら、母の仕事も、物を置くところも、自分の方が知っている。羽衣子が包みへ目を向けるたびに、何が入っているのか教えたくなった。
母は仕事に戻ったが、羽衣子が尋ねると、顔を上げて答えた。どんな服を直すのか。瑠花も手伝うのか。
「助かっているよ。でも、勉強もしてもらわないと」
ベッキーが言うと、瑠花はすぐ返した。
「今日は、分からんかった算数もできたもん」
「うん。聞いて分かるようになって、よかったね」
「昨日は、教科書が見つかるまで大変だったけど、写せてよかったね」
羽衣子が瑠花へ言った。
瑠花の指が膝の上で止まった。母も針を動かす手を止めた。
「教科書が、なくなっていたの?」
一枚がなくなったことと、羽衣子の教科書から写したことは話した。でも、自分の本が机から消えたことまでは、話していなかった。
「算数の時間の前に、机になかった」
瑠花は膝を見たまま答えた。
「先生と捜して、見つかった。掃除道具のところで」
「どうして、そんなところに?」
「分からん」
ベッキーは瑠花の顔を見た。
「先生は、一枚なくなっていたことも知っているのね」
「うん。見てもらった」
「そう」
母は針を置いたまま、少し黙っていた。羽衣子も鞄へ目を落とした。
瑠花は唇を結んだ。羽衣子を連れてこなければよかった、と一瞬思ったが、羽衣子は変なことを言ったわけではない。
「また教科書が使えなくなったら、家でも言うのよ。勉強で困っていることも」
「うん」
ベッキーは羽衣子へ目を向けた。
「瑠花が教科書を見られるようにしてくれたのね。助かったね、瑠花」
「うん。写してるときも、間違いに気づいてくれた」
瑠花は羽衣子を見て、自分から言った。
「八の輪を閉じんかったら、三に見えたんだよね」
「あたしも、数字を間違えたのかと思った」
羽衣子の口元が緩んだ。
「今度は、大きく書く」
瑠花も少し笑えた。母は二人の顔を見てから、置いていた針を取った。
* * *
羽衣子が帰るとき、瑠花は道の曲がり角まで一緒に出た。
店を出ると、羽衣子が小さな声で尋ねた。
「あたし、教科書のこと、言わん方がよかった?」
瑠花は足元を見た。
「羽衣子ちゃんが悪いんじゃないよ。お母さんには、学校のこと、全部は言っとらんから」
「一枚なくなったのは、知っとったね」
「うん。それは昨日、話した。でも、教科書のことだけじゃなくて、嫌なことを言われたりもする」
瑠花は母のいる店を振り返った。
「お母さん、仕事しとっても気にすると思う。心配させたくないんだ」
羽衣子は少し黙って歩いた。
「でも、困ったときは言っていいと思うよ。あたしも教科書は見せられるけど、またなくならんようにするには、どうしたらいいか分からんし」
「うん」
羽衣子のせいで困ったのではない。
「今日は、お母さんに羽衣子ちゃんを紹介したかった。羽衣子ちゃんにも、店を見てほしかったんだよ」
曲がり角に着くと、羽衣子が足を止めた。
「よくしゃべるお母さんだったね」
「言ったでしょう」
「瑠花ちゃんが早く起きた話も、してくれた」
「そこは、しなくてよかったのに」
羽衣子が笑うので、瑠花もつられて笑った。
「また、寄ってもいい?」
瑠花はすぐ顔を上げた。
「うん。今度は、ゆっくりできるときに」
「じゃあね」
羽衣子が手を振った。瑠花も手を振り、姿が角の向こうへ消えるまで立っていた。
店へ戻ると、母が顔を上げた。
「羽衣子ちゃん、帰り道は分かった?」
「うん。また来たいって」
瑠花は空いた椅子を見て、口元が緩むのをそのままにした。
学校の話が出たときは、連れてこなければよかったと思いかけた。でも、羽衣子はまた来てくれる。教室の隣の席だけでなく、この椅子にも座ってくれる。
母は手元の糸を見て、引き出しを確かめていた。
「そろそろ、店で使う布と糸を買いに行かないと」
「あたしも行っていい?」
「学校と店の都合が合うときに、一緒に行こうか」
「荷物、持つよ」
「助かる。でも、持てる分だけね」
瑠花は自分の細い腕を見てから、母を見た。
「布も糸も、持てるよ。あんまり大きくなかったら」
最後の言葉を小さく付け足すと、母が笑った。
「じゃあ、お昼は途中で食べよう。二人で」
「外で?」
「そう」
瑠花の顔が明るくなった。母と買い物をするだけでなく、二人で昼ご飯も食べる。
「何を食べる?」
「まだ決めていないよ。買い物へ行く日も、これから決めるんだから」
「じゃあ、あたしも考えていい?」
「いいけど、買い物を忘れないでね」
「忘れんよ。布と、糸」
瑠花は店の隅から、買い物袋を一つ出した。
「お母さん、これを持っていこうか」
母がうなずくと、瑠花は買い物袋を畳み、母の使う袋のそばへ置いた。もう一つあった大きな袋も気になったが、まずはこれに入る分を運べればいい。
「お母さん。お昼ご飯、あたしも選ぶからね」
「はい。買い物の相談も、お昼の相談もお願いね」
瑠花は袋の折り目を手で押さえた。布と糸のことは忘れない。それでも、今考えたいのは、母と何を食べるかだった。




