第四十七章 明日の頁
一九四二年一月二十八日
坂本 瑠花は、朝から三度、鞄の中を確かめていた。
教科書。帳面。鉛筆。
今度は教科書と帳面を一冊ずつ指で押さえ、鉛筆も確かめた。全部ある。
鞄をのぞくと、肩まで伸びた蜂蜜色の髪が、さらさらと頬を包んだ。耳にかけても、一房だけは戻ってくる。瑠花は唇を少し尖らせ、その髪をもう一度押さえた。伏せたまぶたには淡い色の長いまつ毛が並び、白い頬に細かな影を落としていた。
「瑠花。それ、さっきも見ていたでしょう」
店の奥から母の声がした。
「忘れてないか、見てるだけ」
「もう大丈夫よ。ほら、時計。そろそろ行かんと遅れるよ」
顔を上げると、氷のように澄んだ淡い青の瞳が時計を捉えた。大きな目をさらに丸くして、瑠花は慌てて鞄を閉じた。
母の坂本 レベッカは、客から預かった上着を広げていた。灰色を帯びた金髪を後ろへまとめ、窓から入る光に袖を透かして、ほつれを見ている。白い横顔は鼻梁が高く、頬骨から顎へ流れる線がすっきりしていた。布を扱う手に迷いがなく、細かな縫い目へ首を傾ける仕草にも、母らしい凛としたところがあった。
佐世保の下町にある小さな店で、母は衣類を仕立て、繕い、洗濯物を引き受けていた。近所の人や店の客は、母をベッキーと呼ぶ。
入口のそばにあった洗濯済みのシャツの包みを、瑠花は受け渡しの机へ運んだ。
「お母さん、シャツはここに置いとくね」
「ありがとう。ほかの分は帰ってからでいいよ。もう出ないと」
ベッキーは上着を置いて近づいてきた。高い腰と、すっと伸びた背筋が、店の狭い通路でも目を引く。瑠花は母を見上げた。
「瑠花、襟。片っぽ入っとるよ」
母の手が襟元へ伸びた。瑠花は先に自分の襟をつまんだ。
「襟くらい、自分で直せるよ」
引き出しすぎて、今度は反対側まで曲がった。ベッキーは手を止め、口元を緩めた。
「ほら、鏡を見てごらん。反対も曲がっとるよ」
「……今、見ようと思っとった」
鏡の中では、白い肌に淡い青の大きな瞳がよく映えていた。鼻梁は母に似て高めだが、小さな口と顎には、まだ十歳の幼さがある。頬を膨らませた自分の顔よりも、瑠花は曲がった襟が気になり、左右の形を直した。
「これでいい?」
母が鏡の中でうなずいた。瑠花の淡い青とよく似た、澄んだアイスブルーの瞳に笑みが残っている。ロシア人の母と日本人の父の間に生まれた瑠花は、母から受け継いだ淡い髪と白い肌を持っていた。
鏡には、よく似ていて、ずいぶん違う二人が並んでいた。母は高い腰の位置から長い脚がすらりと伸び、背筋を伸ばした、均整の取れた立ち姿を崩さない。白い顔に浮かぶ微笑みには、大人の女性の華やかさがあった。その隣の瑠花は、まつ毛に縁取られた目を母へ向けるだけで、表情が大きく動く。頭はまだ母の肩にも届かない。少し背伸びをして、比べても仕方がないと思い、踵を戻した。
「帰ったら、今日は勉強を先にするのよ」
「店、手伝うよ」
「手伝いは助かる。でも、あなたの勉強を私が代わりにするわけにはいかないでしょう」
「……分かってる」
小さく返して鞄を持つと、瑠花は戸口へ小走りに向かった。細くしなやかな手足が、今度は迷わず動いた。
今日は、帰ったらすぐに勉強する。母が夕方の仕事を終えるころには、帳面を開いて見せられるようにしておこう。
学校へ向かう道で、蜂蜜色の髪が風に揺れた。小さな顎を襟に寄せ、軽い足取りで進む姿は、風の中へすっと溶け込んでしまいそうだった。十歳のあどけなさを残す顔立ちも、明るい瞳も、同じ年頃の子の中ではひときわ目を引いた。瑠花はそんなことより、帰ってからの勉強を考えていた。
* * *
国民学校の初等科四年の教室は、窓のそばだけ一段と寒かった。
教室へ入ると、隣の席の市川 羽衣子が顔を上げた。瑠花が休み時間にもよく話す同級生だった。
「おはよう、羽衣子ちゃん」
「おはよう、瑠花ちゃん。今日は寒かね」
「うん。指が冷たくなった」
瑠花は空いている方の手を口元へ寄せ、息を吹きかけた。羽衣子も両手をこすり合わせている。目が合うと、二人は小さく笑った。
瑠花が席へ向かうと、近くで話していた男の子が言葉を切った。肩の上で揺れる蜂蜜色の髪と、羽衣子へ向けた笑顔に見惚れ、目元を緩めて、しばらくぼんやりと見送った。話し相手に声をかけられて、ようやく顔を戻す。別の席の男の子は、机へ向いたまま横目で瑠花を見ていた。瑠花がそちらへ顔を向けると、目が合う前に慌てて視線を落とした。
瑠花は窓から来る冷気が気になって、肩をすくめながら鞄を下ろした。男の子たちが見ていることには気づかなかった。
「また坂本の方、見とる」
離れた席の女の子が、男子と瑠花を見比べ、眉を寄せた。そばの女の子も目を細め、仲間の方へ顔を寄せた。
「あの子ばっかり。そんなに可愛くないよね」
続きは、そばの女の子たちの間だけで交わされた。教室の反対側では、別の女子が羽衣子に朝の挨拶をしていた。
算数の時間が始まる前、瑠花は机の中へ手を入れた。
算数の教科書が、なかった。
帳面の下も、鞄の底も確かめた。朝、指で押さえた一冊がない。休み時間の前には、まだ机にあった。
後ろで、椅子を引く音がした。
鉾田 礼模が、こちらを見ていた。皆からはレボと呼ばれている男の子だ。瑠花が振り向くと、鉾田は机の上の腕を組み直した。そのそばの男の子は鉾田の顔を見てから、同じように瑠花へ目を向けた。いつも鉾田の言うとおりに動く子だった。
「鉾田くん。あたしの算数の教科書、知らん?」
鉾田は名前を呼ばれると口元を動かしたが、すぐそっぽを向いた。
「知らん」
「休み時間の前は、ここにあったんだけど」
「スパイなら、自分で見つけられるだろ」
鉾田が隣の男の子を見ると、その子が短く笑った。
瑠花は椅子の背を握った。
「スパイじゃない。隠した人が、一番よく知っとるよ」
鉾田は口を曲げたが、それ以上は言わなかった。
教師が入ってきたので、瑠花は手を上げた。
「先生。算数の教科書がなくなりました。休み時間の前にはありました」
教師は机の中をのぞき、近くの席へ目を向けた。
「誰か、坂本の本を見ていないか」
返事はなかった。
「授業のあとでもう一度捜そう。市川、坂本にも教科書を見せてやってくれ」
羽衣子が教科書を二人の机の間へ寄せ、瑠花にも見えるように開いた。
「これなら、見える?」
「うん。ありがとう」
頁をめくるたびに羽衣子が待ってくれるので、瑠花も授業に遅れず、計算を帳面へ書き取れた。
授業が終わると、教師が教室の後ろを捜し始めた。
瑠花も机の下をのぞいた。掃除に使う道具の脇に、紙の角が見えた。
本を引き出すと、表紙に自分の名前があった。端が床の埃で黒くなっている。
今の授業で開いたところを探して、瑠花は手を止めた。頁の番号が飛んでいる。
間の一枚が、根元から丸ごと破り取られていた。
そこには印刷された問題だけでなく、瑠花が自分で書き込んだ計算のメモもあった。分からなくなったときに見返せるように、鉛筆で書き足した言葉も、問題の横に付けた印も、なくなっている。
瑠花はもう一度、前後の頁をめくった。探しても、書き込みのある一枚は出てこなかった。
「見つかったか」
教師に本を見せると、口元が引き締まった。
「この一枚は、いつなくなった」
「休み時間の前に見たときは、ありました」
教師は前後の頁を確かめ、後ろの席にも尋ねた。鉾田が知らないと答えると、そばの男の子も首を振った。
「人の本を勝手に扱ってはいけない」
教師は教室へ向けて言った。それから、瑠花へ本を返した。
「なくなった頁の問題は、市川の教科書を見せてもらって帳面に写しておきなさい。家で勉強するときに困らないように」
瑠花はうなずいた。けれど、自分で書き込んだメモは、羽衣子の本にはない。
瑠花は表紙の埃を払い、教科書を鞄へしまった。
放課後、羽衣子が帰りの支度を始めたところで、瑠花は声をかけた。
「羽衣子ちゃん。なくなった頁、写させてくれる? 家でも算数の勉強したいから」
「いいよ。今、書く?」
「うん。教科書は、書いたらすぐ返す」
羽衣子は鞄へ入れかけた教科書を出し、瑠花の机に開いた。
「あたし、今日はあまり遅くなれんけど、この頁なら待てるよ」
「ありがとう。なるべく急ぐね」
瑠花は帳面に、問題と計算の例を書き写した。自分のメモは思い出しきれなかったが、問題までなくしたままにはしたくなかった。
急ぐうちに、鉛筆が紙へ強く当たった。
「瑠花ちゃん。そこ、十八だよ」
羽衣子が教科書の数字を指した。瑠花の帳面では、八が三に見えた。
「……十八って書いたつもり」
「三に見える」
瑠花は自分の字を眺めた。そう言われると、三にしか見えなくなった。
「じゃあ、八にしておく」
「八に戻すんでしょ」
羽衣子が笑い、瑠花も小さく吹き出した。消してから、今度は数字の輪を二つ、きちんと閉じた。
写し終えた問題を確かめ、瑠花は羽衣子へ教科書を返した。
「待ってくれて、ありがとう」
「うん。これで家でも読めるね」
「家でやってみて、分からんところがあったら、明日聞いてもいい?」
「いいよ。あたしも分からんかったら、一緒に考えよう」
「あたしが先に分かったら、羽衣子ちゃんに教えるね」
瑠花は少し胸を張った。
「じゃあ、頼むね」
羽衣子を見送り、瑠花も帰りの支度をした。
帰り道で、教室の「スパイ」という声がまた浮かんだ。
母の髪や顔が近所の人たちと違うことを、瑠花は小さいころから知っている。その母まで悪いことをしているように言われるのが嫌だった。
母は客の服を繕い、冷たい水で洗濯をする。指が荒れても仕事を続けて、瑠花の食事も学校の支度もしてくれる。あの子たちは、そんな母を知らない。
自分へ向けられた言葉でも、母を笑われたようで腹が立った。言われたまま黙っていればよかったとは、思わなかった。
瑠花は鞄の持ち手を握り直した。母には、今日こそ勉強のできた帳面を見せたい。
* * *
店へ戻ると、入口のところに男の客がいた。畳んだ上着を腕に掛け、奥の母を見つけると、顔をほころばせた。
「ベッキーさん。胸のボタンが取れたんだ。頼めんかな」
「いらっしゃい。見せてください」
ベッキーは針を置いて立った。背筋を伸ばして受け渡しの机へ来る姿には、華やかさがあった。ほどけた灰金色の髪を耳へ戻し、澄んだ青い瞳を客へ向ける。
客が上着を広げると、前の合わせにボタンが一つ足りなかった。瑠花は母の隣からのぞいた。
「お母さんがこの前付けたボタン?」
「違うボタンだよ。この前、ベッキーさんに付けてもらった袖のボタンは、ちゃんと付いとる。今日は胸のボタンが取れてね」
「では、胸の方を付け直しますね。上着はお預かりします」
ベッキーが上着を受け取っても、客は帰ろうとせず、母が顔を上げるのを待っていた。
「今日は冷えるね。水仕事は大変だろう」
「ええ。洗ったあとは、針を持てるようになるまで手を温めています。でも、包みを運ぶのは、瑠花が手伝ってくれるので」
母が笑顔を向けると、客も嬉しそうに笑った。瑠花は母の横で、少し顎を上げた。
「朝も、シャツを運んだよ」
「そりゃ、頼りになるね」
褒められると嬉しくて、瑠花の口元が緩んだ。すぐに母も見たが、母はちゃんとうなずいてくれた。
「助かっていますよ。朝は急いで学校へ行ってもらわないと、店の手伝いを続けてしまうから」
「お母さんが忙しそうだったら、置いていけんもん」
瑠花が言い足すと、客はもう一度笑った。それからも寒さの話を続けて、ようやく戸口へ向き直った。
「また頼むよ、ベッキーさん」
「はい。お気をつけて」
来たときより機嫌よく帰っていく客を見送って、瑠花は母を見上げた。ベッキーはまだ微笑んでいた。
瑠花が洗い上がった衣類へ手を伸ばしかけると、母がこちらを見た。
「朝の約束。今日は勉強が先でしょう」
「まだ何もしてないよ」
「これからしようとした顔だった」
瑠花は伸ばしかけた手を引っ込めた。
「……分かった。先に算数する」
奥の机に帳面を広げ、羽衣子の教科書から写したところを読む。授業で聞いた説明は覚えていたが、教科書の余白に残しておいた自分の言葉は、もう見られない。
瑠花は例の計算を見てから、問題に取りかかった。答えを出せたつもりで次へ進んだが、分ける計算になると、どの数を使えばいいのか迷った。こういうところで止まるのは、今日だけではなかった。
朝は、母の仕事が終わるころまでに全部できているはずだった。
母が湯を入れた茶碗を持ってきたとき、瑠花は教科書を閉じかけた。開いたままの頁の番号へ、母の目が留まった。
「瑠花。頁が一枚、抜けているの?」
「学校で、一枚なくなった」
「外れたの?」
瑠花は首を振り、紙の残る根元を指した。
「破り取られとった。あたしが書いたところも、全部」
ベッキーは本を手に取って、前後の頁を確かめた。瑠花は膝の上で指を重ね、それ以上のことは言わなかった。
「この頁がないと、家でも困るでしょう」
「羽衣子ちゃんの教科書、見せてもらった。印刷してあるところは、帳面に写したよ」
母は瑠花の隣へ座り、差し出された帳面を読んだ。
「これを全部、書いたの?」
「うん。帰る前に。羽衣子ちゃん、待っててくれたんだ」
「お礼は言った?」
「言ったよ。数字を間違えたのも、教えてくれた」
母はうなずき、教科書を机の端へ置いた。
本が机から消えたことや、鉾田の言ったことまでは、まだ話せなかった。母がさっき客と笑っていた顔を思い出すと、全部話してその笑みを消してしまうのが怖かった。
「お母さん、算数も見て」
瑠花は母の前へ帳面を寄せた。
「ほんとは、全部できたって見せたかったんだけど」
頬へ落ちた髪を耳にかけながら、少しだけ口を尖らせた。
「どこまでやってみたの?」
「鉛筆の問題。十二本入りの箱が三つあって、六本もらうの。……次の、残りを三人で分けるのは、まだ分からん」
ベッキーは最初の問題を読み、瑠花の計算を見た。
「三箱で三十六本ね。六本をもらったら、ここで四十二本になっているでしょう。どうして、もう一度六本を足したの?」
母の指が、次の行の「四十二たす六」を示した。瑠花は問題を読み返した。六本をもらうのは、一度だけだった。
「……二回もらってしもうた」
母は小さく笑って、帳面を瑠花の手元へ戻した。
「もらうのは一度よ。増やしすぎた六本を、計算から外してごらん」
瑠花は余計な六本を足した行を消し、「三十六たす六」を計算し直した。
「これで、四十二本」
「うん。問題に書いてあるとおりになったね」
ベッキーがうなずくと、瑠花はほっと息を吐いた。
「一つもできとらんかと思った」
「間違いに気づいて、自分で直せたでしょう。次に計算するときも、何本もらうのか、問題の文と見比べてね」
瑠花は答えの横に、小さく丸を付けた。
次の問題も、十二本入りの箱が三つあるところから始まった。今度は先生が六本使い、残った鉛筆を三人へ同じ数ずつ配る。瑠花は先に三十六本を三人で分けてから六本を引こうとして、そこで迷っていた。
「六本を引くのは、分けてから? 分ける前?」
入口で客の声がして、ベッキーが顔を上げた。
「少し待っていてね」
「うん。もう少し考えてみる」
母が店へ戻ると、瑠花は問題の「先生が六本使い」の下に線を引いた。先に三人へ分けると、一人分から六本ずつ引くことになりそうだった。それでは、先生が使う数まで増えるのだろうか。どこで六本を引くのか、確かめたい。
夕飯の支度が始まるまで考えても、迷いは残った。瑠花は帳面を閉じ、母のところへ行った。
「残りの鉛筆を三人に分ける問題、明日、羽衣子ちゃんに聞くね」
「そう。どこが分からないか、言えそう?」
「先生が使う六本を、いつ引いたらいいか」
母はうなずいて、茶碗を二つ渡した。
「聞きたいことが決まったなら、今度は夕飯を手伝って」
「任せて」
瑠花は二人分の茶碗を食卓へ運んだ。
飯をよそうところで、母が聞いた。
「今日は、大人と同じくらい食べる?」
「食べる。いっぱい書いたし」
ベッキーは茶碗へ飯を入れながら笑った。
「鉛筆を動かすのも、お腹がすくのね」
「すくよ。お母さんだって、縫ってるとすくでしょう」
「そうね。じゃあ、二人とも食べないと」
瑠花はよそってもらった飯の量を見て、付け足した。
「でも、お代わりは、食べてから決める」
食後、瑠花は帳面に「六本を引くのは、分ける前?」と書いた。明日の朝、羽衣子に尋ねることを忘れないように。
教科書のなくなった一枚も、自分のメモも戻ってはいない。明日また何かされるかもしれない。それでも、家で勉強するための問題は写せたし、計算の間違いは一つ直せた。
「瑠花。もう寝る時間だよ」
戸口の方から母が呼んだ。
「うん。明日の支度、できた」
瑠花は帳面を鞄へ入れた。
「お母さん。朝、ちょっと早く起こしてね。授業の前に羽衣子ちゃんに聞きたいから」
「分かった。起こしたら、ちゃんと起きるのよ」
「起きるよ。あたしが先に分かるつもりだったのに」
得意になって羽衣子へ言った自分を思い出し、瑠花は鼻の先を掻いた。母に口元を見られ、照れたまま鞄の留め具を閉じた。
明日は、写した問題の続きを、自分で分かるようになりたかった。




