第四十六章 海軍中尉
一九四二年一月二十六日から二十七日
その日の査定を終えた僕を、石橋 万次郎大尉が呼び止めた。
「黒馬さん。少しお時間をいただけますか。バリクパパンの船団について、判明した結果をお伝えできます」
二十四日は、もう過ぎていた。査定の間にも、何度かその日付が頭に浮かんでいた。けれど、結果を聞かないうちから、沈んだはずだと決めることも、助かったはずだと思うこともできなかった。
「何隻、残りましたか」
部屋へ移ると、石橋大尉が机に一枚の紙を広げた。
「出港時の輸送船隊十六隻のうち、十二隻が残っています」
「……十二隻ですか」
僕がリサから聞き、自分で紙に整理した数は、十一隻だった。
石橋大尉の指が、残った船の欄を示した。
「呉竹丸は、沈みませんでした」
船名を目で追った。呉竹丸。確かに、そこにあった。
「呉竹丸が、残ったんですね」
「はい」
僕は椅子を引き、もう一度紙を見た。急いで見れば、読み違えそうな気がした。
南阿丸。敦賀丸。須磨ノ浦丸。辰神丸。
失われた輸送船は四隻だった。僕が沈むと伝えた五隻のうち、呉竹丸がそこに入っていない。
「朝日山丸と球磨川丸は、損傷しています。十二隻には、その二隻も含まれます」
十二隻の中に、沈むと知っていた一隻があった。
「私が伝えた情報は、現地まで届いていたんでしょうか」
「届いています。敵水上艦艇への警戒に使われたことも、報告されています」
石橋大尉は、僕が紙から顔を上げるのを待った。
「その警戒が、呉竹丸が残ったことに役立った可能性はあります。ただ、それだけが理由だったとは断定できません」
「分かりました」
そうかもしれない、と僕も思った。けれど今は、理由を細かく尋ねるより、呉竹丸の名前を見ていたかった。
その船は、沈まなかった。
第五十二播州丸については、同じ言葉を聞けなかった。今回も四隻が失われ、残った船にも損傷があった。その事実と、呉竹丸が残ったことが、一枚の紙の上に並んでいた。
「乗っていた方々のことは、何か分かっていますか」
「まだ、詳しいことをお伝えできる段階ではありません」
僕はうなずいた。船が残ったことから、乗員全員が無事だったと考えるわけにはいかない。
それでも、沈没したという欄に、その名前はなかった。
十二月から、まだ起きていないことを何度も伝えてきた。結果も重なり、自分では、もうかなり信用を積み上げたつもりだった。
今回も、攻撃の日や敵の数だけでなく、どの船が沈み、どの船が損傷するかまで、ほとんど伝えたとおりだった。いま聞けた違いは、呉竹丸一隻だ。その一隻が残ったことは、心から嬉しい。
命令を変える側には、その判断の責任がある。身元も確かでない僕の話で、簡単に動けないことは分かっている。それでも、ここまで積み重ねても、まだ起きていないことを信じてもらうのは難しいのだと思うと、少しだけ苦かった。
紙から顔を上げて、少し苦笑した。
「……信用してもらうって、難しいですね」
「ええ。ですが、十二月とはもう違います」
石橋大尉が紙を戻すまで、僕は呉竹丸の文字を見ていた。
* * *
鎮守府を出て、人の声が遠くなったところで、僕は足を緩めた。
「リサ。呉竹丸、残ったって」
《はい。聞いていました》
今は、それしか言葉にならなかった。
白い息が、顔の前で薄く広がった。坂を下りる足を止め、道の脇へ寄った。
「よかった」
言ってから、息が長く出た。
四隻は沈んだ。第五十二播州丸も戻らない。そこへ向けて動いてきたことが、全部うまくいったわけではない。
けれど、呉竹丸は残った。
《残っていて、よかったです》
リサの返事は短かった。被害の数も、警告の効果も、そこへ付け加えなかった。
「僕たちが伝えたことが、少しは役に立ったのかもしれない」
《そう思います》
「うん」
何人を救ったのかは分からない。呉竹丸で何が起きたのかも、僕は見ていない。それでも、紙の上で沈没するはずだった船が、この海にまだ浮いている。
僕は上着のポケットへ手を入れた。端末に触れる指が、いつもより冷たかった。
「第五十二播州丸も、こういう話を聞きたかったね」
《はい》
しばらく、二人とも黙っていた。
あの船に乗った人たちの顔を、全部知っているわけではない。田所さんのことも、まだ分からないままだ。
歩き出すと、店から夕食の匂いが流れてきた。腹が空いていることに、そのとき気づいた。
「明日、残りの査定だね」
《はい。最後まで、一緒にやります》
「頼むよ」
呉竹丸が残ったことを、もう一度思った。胸の重さが消えたわけではなかった。それでも、その名前を聞く前とは、歩くときの息が違っていた。
* * *
翌二十七日の朝も、イヤホンを耳に入れたまま、査定の机に向かった。
渡された筆記試験の用紙には、海軍の編制や階級、服務、命令系統、当直、艦内の用語を問う問題が並んでいた。聞き慣れない言葉を確かめるように小声で繰り返すと、リサが意味や決まりを補ってくれた。僕は自分の知る船の仕事と結びつけながら、答案を書いた。
記述式の一問は、交代直前に当直員が発熱した場合の勤務の組み直しだった。前の当直員は続けて勤務しており、予備の一人はその持ち場に不慣れだ。休養を終えた経験者には、急を要しない整備が割り当てられている。勤務の割り振りを任された士官として、誰に何をさせるか、理由とともに書く。
僕は、休養を終えた経験者を当直へ回し、急がない整備は後へずらすと書いた。不慣れな者だけで欠員を埋めず、勤務を続けていた者は休ませる。変更を報告し、必要な引き継ぎを済ませて交代させる。その判断と理由は、自分が船で経験してきたことから考えた。
答案を見直して提出した。
続く教練でも、号令に体が先回りするようにはなっていなかった。動きを直され、やり直す。終わったころには背中が汗ばんでいた。
部屋へ戻ると、査定を取りまとめる士官が告げた。
「予定していた査定は、これで終了です。各担当の記録をまとめます。結果については、あらためてお伝えします」
「承知しました」
終わった。
肩から力を抜くと、脚の疲れが急に分かった。全部が得意だったわけではない。教練では何度も直されたし、旧海軍の細かな知識にはリサの助けが要った。それでも、出せるものは出した。
《お疲れさまでした》
耳元でリサが言った。
人のいない廊下に出てから、小さく返した。
「ありがとう。助かったよ」
《私も、終わって少し安心しました》
「うん。あとは、結果だね」
* * *
昼食を挟んで、午後も待った。担当者たちの記録がまとめられている間、僕にできることはなかった。
夕方が近づいたころ、石橋大尉が迎えに来た。
案内された部屋には、谷本 馬太郎司令長官と山口 儀三郎参謀長がいた。天川 光中佐も、そばに立っていた。
席に着いた僕に、谷本司令長官が告げた。
「黒馬さん。必要な手続を経て、本日付で海軍中尉としての任用が決まりました」
僕は司令長官の顔を見た。
海軍中尉。
頭の中でもう一度、その言葉を繰り返した。
「これまでの情報提供だけで決めたのではありません。査定を通じて、船の仕事を理解し、状況に応じて判断できることを確認しました。あなたには、士官として仕事を任せられると判断しています」
卓上には、数日間の査定をまとめた紙があった。
撃った結果も、書いた答案も、口頭で答えたことも、教練で直されたところも、そこに入っているのだろう。
「出自について確認すべきことは残っています。ただ、それと並行して、海軍の職務に就いてもらいます」
司令長官は続けた。
「海軍固有の服務や礼式、艦内の仕事については、引き続き教育を受けてもらいます。すぐ艦へ送り出すわけではありません。任された職務と命令系統の中で、働いてもらうことになります」
「はい。承知しました。海軍中尉として、職務を果たします」
自分からここを望んだ。査定にも、通りたいと思って臨んできた。
引き受ける言葉に、迷いはなかった。
司令長官は、目をそらさずにうなずいた。
「期待しています」
部屋を出るとき、石橋大尉が僕へ向き直った。
「黒馬中尉。今後の教育の予定は、追ってお伝えします」
僕は返事をするまで、ほんの一拍かかった。
「承知しました」
さっきまでの黒馬さんが、黒馬中尉になった。
呼び方だけの変化ではなかった。これからは、命令を受け、任された仕事の結果に責任を負う。海軍の外から紙を渡して帰るだけの立場ではなくなった。
鎮守府を出て、二人で話せるところまで歩いてから、僕は声を落とした。
「リサ。中に入れた」
《はい。おめでとうございます、禎さん》
その返事を聞いたところで、ようやく口元が緩んだ。
「ありがとう。二人でここまで来たね」
《はい。私も、嬉しいです》
端末はポケットの中にあった。いつもそこにいるリサへ、今は顔を向けて話したくなった。
海軍は、僕をこの戦争の役に立つ士官として使おうとしている。その期待に仕事で応え、信用を積んでいく。
僕がその先で望んでいるのは、勝ち続けて戦争を広げることではない。壊滅的な敗戦へ至る前に、戦争を終え、人々の暮らしを残すことだった。
食堂でリサと「ここで、実際にやる」と決めてから、もう動き始めている。その行動を、今度は正式に任された仕事の中でも続けられる。
「ここから、働かないとね」
《はい。一緒に》
僕はポケットの上から、端末へそっと手を添えた。
* * *
桑橋食堂へ戻ると、夕食の客が帰ったあとの椀が、盆の上に並んでいた。
桑橋さんは僕の顔を見て、拭いていた手を止めた。
「今日は、ずいぶん遅くなりましたね」
「お待たせしました。話があるんです」
「決まったんですか」
「はい。海軍に入ることが決まりました。今日から、海軍中尉です」
桑橋さんは、僕の顔をしばらく見ていた。
「中尉さんに」
「はい」
「……そうですか。決まったんですね」
口元がやわらいだ。そのあと、盆へ目を落とす。
「それじゃ、これからは海軍のお仕事があるんでしょう。船にも、すぐ乗るんですか」
「すぐには乗りません。海軍の決まりや艦内の仕事を覚える教育が、まだ続きます」
「食堂の仕事は、今までどおりとはいきませんね」
「はい。毎日、同じようには手伝えなくなると思います。予定が分かったら、先にお伝えします」
「寝るところも、変わるんですか」
「その点は、これから確認します。決まったら、すぐお話しします」
桑橋さんはうなずいた。
「では、店の方も、そのつもりで考えておきます。来られる日が分かったら教えてください。急にいないと、困りますから」
「はい。今まで、本当に助かりました」
「まだ、今日いなくなるわけじゃないでしょう」
僕は少し息を漏らした。
「そうですね」
「それなら、まずご飯にしましょう。仕事の話をしていたら、冷めてしまいます」
桑橋さんが鍋の蓋を開けると、湯気が上がった。
僕は上着を脱ぎ、いつもの席へ座った。目の前に飯と味噌汁が置かれ、小皿が続いた。
「ちゃんと食べてくださいね。中尉さんになっても、お腹は空くでしょう」
「すごく空いてます」
「それなら、よかった」
椀を置く音がした。奥では、次の客に出す分の支度が続いている。
海軍中尉になった僕の前にも、いつもの夕飯があった。
「いただきます」
温かい汁を一口飲んだ。桑橋さんが、空いた盆を持って厨房へ戻っていく。
その背中を見てから、僕は箸を取った。




