↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
AIは敗戦を知っている  作者: E


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
46/53

第四十六章 海軍中尉

一九四二年一月二十六日から二十七日


その日の査定を終えた僕を、石橋 万次郎大尉が呼び止めた。


「黒馬さん。少しお時間をいただけますか。バリクパパンの船団について、判明した結果をお伝えできます」


二十四日は、もう過ぎていた。査定の間にも、何度かその日付が頭に浮かんでいた。けれど、結果を聞かないうちから、沈んだはずだと決めることも、助かったはずだと思うこともできなかった。


「何隻、残りましたか」


部屋へ移ると、石橋大尉が机に一枚の紙を広げた。


「出港時の輸送船隊十六隻のうち、十二隻が残っています」


「……十二隻ですか」


僕がリサから聞き、自分で紙に整理した数は、十一隻だった。


石橋大尉の指が、残った船の欄を示した。


「呉竹丸は、沈みませんでした」


船名を目で追った。呉竹丸。確かに、そこにあった。


「呉竹丸が、残ったんですね」


「はい」


僕は椅子を引き、もう一度紙を見た。急いで見れば、読み違えそうな気がした。


南阿丸。敦賀丸。須磨ノ浦丸。辰神丸。


失われた輸送船は四隻だった。僕が沈むと伝えた五隻のうち、呉竹丸がそこに入っていない。


「朝日山丸と球磨川丸は、損傷しています。十二隻には、その二隻も含まれます」


十二隻の中に、沈むと知っていた一隻があった。


「私が伝えた情報は、現地まで届いていたんでしょうか」


「届いています。敵水上艦艇への警戒に使われたことも、報告されています」


石橋大尉は、僕が紙から顔を上げるのを待った。


「その警戒が、呉竹丸が残ったことに役立った可能性はあります。ただ、それだけが理由だったとは断定できません」


「分かりました」


そうかもしれない、と僕も思った。けれど今は、理由を細かく尋ねるより、呉竹丸の名前を見ていたかった。


その船は、沈まなかった。


第五十二播州丸については、同じ言葉を聞けなかった。今回も四隻が失われ、残った船にも損傷があった。その事実と、呉竹丸が残ったことが、一枚の紙の上に並んでいた。


「乗っていた方々のことは、何か分かっていますか」


「まだ、詳しいことをお伝えできる段階ではありません」


僕はうなずいた。船が残ったことから、乗員全員が無事だったと考えるわけにはいかない。


それでも、沈没したという欄に、その名前はなかった。


十二月から、まだ起きていないことを何度も伝えてきた。結果も重なり、自分では、もうかなり信用を積み上げたつもりだった。


今回も、攻撃の日や敵の数だけでなく、どの船が沈み、どの船が損傷するかまで、ほとんど伝えたとおりだった。いま聞けた違いは、呉竹丸一隻だ。その一隻が残ったことは、心から嬉しい。


命令を変える側には、その判断の責任がある。身元も確かでない僕の話で、簡単に動けないことは分かっている。それでも、ここまで積み重ねても、まだ起きていないことを信じてもらうのは難しいのだと思うと、少しだけ苦かった。


紙から顔を上げて、少し苦笑した。


「……信用してもらうって、難しいですね」


「ええ。ですが、十二月とはもう違います」


石橋大尉が紙を戻すまで、僕は呉竹丸の文字を見ていた。


* * *


鎮守府を出て、人の声が遠くなったところで、僕は足を緩めた。


「リサ。呉竹丸、残ったって」


《はい。聞いていました》


今は、それしか言葉にならなかった。


白い息が、顔の前で薄く広がった。坂を下りる足を止め、道の脇へ寄った。


「よかった」


言ってから、息が長く出た。


四隻は沈んだ。第五十二播州丸も戻らない。そこへ向けて動いてきたことが、全部うまくいったわけではない。


けれど、呉竹丸は残った。


《残っていて、よかったです》


リサの返事は短かった。被害の数も、警告の効果も、そこへ付け加えなかった。


「僕たちが伝えたことが、少しは役に立ったのかもしれない」


《そう思います》


「うん」


何人を救ったのかは分からない。呉竹丸で何が起きたのかも、僕は見ていない。それでも、紙の上で沈没するはずだった船が、この海にまだ浮いている。


僕は上着のポケットへ手を入れた。端末に触れる指が、いつもより冷たかった。


「第五十二播州丸も、こういう話を聞きたかったね」


《はい》


しばらく、二人とも黙っていた。


あの船に乗った人たちの顔を、全部知っているわけではない。田所さんのことも、まだ分からないままだ。


歩き出すと、店から夕食の匂いが流れてきた。腹が空いていることに、そのとき気づいた。


「明日、残りの査定だね」


《はい。最後まで、一緒にやります》


「頼むよ」


呉竹丸が残ったことを、もう一度思った。胸の重さが消えたわけではなかった。それでも、その名前を聞く前とは、歩くときの息が違っていた。


* * *


翌二十七日の朝も、イヤホンを耳に入れたまま、査定の机に向かった。


渡された筆記試験の用紙には、海軍の編制や階級、服務、命令系統、当直、艦内の用語を問う問題が並んでいた。聞き慣れない言葉を確かめるように小声で繰り返すと、リサが意味や決まりを補ってくれた。僕は自分の知る船の仕事と結びつけながら、答案を書いた。


記述式の一問は、交代直前に当直員が発熱した場合の勤務の組み直しだった。前の当直員は続けて勤務しており、予備の一人はその持ち場に不慣れだ。休養を終えた経験者には、急を要しない整備が割り当てられている。勤務の割り振りを任された士官として、誰に何をさせるか、理由とともに書く。


僕は、休養を終えた経験者を当直へ回し、急がない整備は後へずらすと書いた。不慣れな者だけで欠員を埋めず、勤務を続けていた者は休ませる。変更を報告し、必要な引き継ぎを済ませて交代させる。その判断と理由は、自分が船で経験してきたことから考えた。


答案を見直して提出した。


続く教練でも、号令に体が先回りするようにはなっていなかった。動きを直され、やり直す。終わったころには背中が汗ばんでいた。


部屋へ戻ると、査定を取りまとめる士官が告げた。


「予定していた査定は、これで終了です。各担当の記録をまとめます。結果については、あらためてお伝えします」


「承知しました」


終わった。


肩から力を抜くと、脚の疲れが急に分かった。全部が得意だったわけではない。教練では何度も直されたし、旧海軍の細かな知識にはリサの助けが要った。それでも、出せるものは出した。


《お疲れさまでした》


耳元でリサが言った。


人のいない廊下に出てから、小さく返した。


「ありがとう。助かったよ」


《私も、終わって少し安心しました》


「うん。あとは、結果だね」


* * *


昼食を挟んで、午後も待った。担当者たちの記録がまとめられている間、僕にできることはなかった。


夕方が近づいたころ、石橋大尉が迎えに来た。


案内された部屋には、谷本 馬太郎司令長官と山口 儀三郎参謀長がいた。天川 光中佐も、そばに立っていた。


席に着いた僕に、谷本司令長官が告げた。


「黒馬さん。必要な手続を経て、本日付で海軍中尉としての任用が決まりました」


僕は司令長官の顔を見た。


海軍中尉。


頭の中でもう一度、その言葉を繰り返した。


「これまでの情報提供だけで決めたのではありません。査定を通じて、船の仕事を理解し、状況に応じて判断できることを確認しました。あなたには、士官として仕事を任せられると判断しています」


卓上には、数日間の査定をまとめた紙があった。


撃った結果も、書いた答案も、口頭で答えたことも、教練で直されたところも、そこに入っているのだろう。


「出自について確認すべきことは残っています。ただ、それと並行して、海軍の職務に就いてもらいます」


司令長官は続けた。


「海軍固有の服務や礼式、艦内の仕事については、引き続き教育を受けてもらいます。すぐ艦へ送り出すわけではありません。任された職務と命令系統の中で、働いてもらうことになります」


「はい。承知しました。海軍中尉として、職務を果たします」


自分からここを望んだ。査定にも、通りたいと思って臨んできた。


引き受ける言葉に、迷いはなかった。


司令長官は、目をそらさずにうなずいた。


「期待しています」


部屋を出るとき、石橋大尉が僕へ向き直った。


「黒馬中尉。今後の教育の予定は、追ってお伝えします」


僕は返事をするまで、ほんの一拍かかった。


「承知しました」


さっきまでの黒馬さんが、黒馬中尉になった。


呼び方だけの変化ではなかった。これからは、命令を受け、任された仕事の結果に責任を負う。海軍の外から紙を渡して帰るだけの立場ではなくなった。


鎮守府を出て、二人で話せるところまで歩いてから、僕は声を落とした。


「リサ。中に入れた」


《はい。おめでとうございます、禎さん》


その返事を聞いたところで、ようやく口元が緩んだ。


「ありがとう。二人でここまで来たね」


《はい。私も、嬉しいです》


端末はポケットの中にあった。いつもそこにいるリサへ、今は顔を向けて話したくなった。


海軍は、僕をこの戦争の役に立つ士官として使おうとしている。その期待に仕事で応え、信用を積んでいく。


僕がその先で望んでいるのは、勝ち続けて戦争を広げることではない。壊滅的な敗戦へ至る前に、戦争を終え、人々の暮らしを残すことだった。


食堂でリサと「ここで、実際にやる」と決めてから、もう動き始めている。その行動を、今度は正式に任された仕事の中でも続けられる。


「ここから、働かないとね」


《はい。一緒に》


僕はポケットの上から、端末へそっと手を添えた。


* * *


桑橋食堂へ戻ると、夕食の客が帰ったあとの椀が、盆の上に並んでいた。


桑橋さんは僕の顔を見て、拭いていた手を止めた。


「今日は、ずいぶん遅くなりましたね」


「お待たせしました。話があるんです」


「決まったんですか」


「はい。海軍に入ることが決まりました。今日から、海軍中尉です」


桑橋さんは、僕の顔をしばらく見ていた。


「中尉さんに」


「はい」


「……そうですか。決まったんですね」


口元がやわらいだ。そのあと、盆へ目を落とす。


「それじゃ、これからは海軍のお仕事があるんでしょう。船にも、すぐ乗るんですか」


「すぐには乗りません。海軍の決まりや艦内の仕事を覚える教育が、まだ続きます」


「食堂の仕事は、今までどおりとはいきませんね」


「はい。毎日、同じようには手伝えなくなると思います。予定が分かったら、先にお伝えします」


「寝るところも、変わるんですか」


「その点は、これから確認します。決まったら、すぐお話しします」


桑橋さんはうなずいた。


「では、店の方も、そのつもりで考えておきます。来られる日が分かったら教えてください。急にいないと、困りますから」


「はい。今まで、本当に助かりました」


「まだ、今日いなくなるわけじゃないでしょう」


僕は少し息を漏らした。


「そうですね」


「それなら、まずご飯にしましょう。仕事の話をしていたら、冷めてしまいます」


桑橋さんが鍋の蓋を開けると、湯気が上がった。


僕は上着を脱ぎ、いつもの席へ座った。目の前に飯と味噌汁が置かれ、小皿が続いた。


「ちゃんと食べてくださいね。中尉さんになっても、お腹は空くでしょう」


「すごく空いてます」


「それなら、よかった」


椀を置く音がした。奥では、次の客に出す分の支度が続いている。


海軍中尉になった僕の前にも、いつもの夕飯があった。


「いただきます」


温かい汁を一口飲んだ。桑橋さんが、空いた盆を持って厨房へ戻っていく。


その背中を見てから、僕は箸を取った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。