第五十七章 同じ一日
一九四二年二月五日
登校前、瑠花は自分の部屋で、リサを入れた布袋を胸元に掛けた。
「リサちゃん、見える?」
瑠花が胸を少し反らすと、襟の間から、小さな声が返った。
《見えるよ。正面に、瑠花ちゃんの鞄》
「じゃあ、こっちは?」
《机。その上に、鉛筆が一本》
「あ。忘れるとこやった」
鉛筆をしまう瑠花に、リサが笑った。
《出かける前に役に立てたね》
「うん。お洋服、作ってよかった」
昨夜縫った袋は上着の内側に収まり、短い留め紐で押さえた端末は、身体を動かしても大きく揺れなかった。小さな穴からカメラだけが外を向いている。
瑠花は袋の上へそっと手を当てた。
「また見えなくなったら教えてね」
《うん。わかった》
昨日、三人が寄ってきた机を思い出すと、まだ行きたくない気持ちはあった。けれど、鞄を持ったときには、リサに見せたい道も浮かんできた。
「今日は、歩きながらも見えるね」
《そうだね。昨日より、いろいろ見せてもらえそう》
店へ出ると、ベッキーが手を止めた。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「いってきます」
母へ手を振り、瑠花は朝の通りを歩きだした。
* * *
「ここね。風が強いと、いつも髪が顔に来ると」
通りから細い道へ曲がると、瑠花は耳に髪をかけた。
《今も、少しだけ見えたよ》
「髪?」
《うん。目の前を通った》
「リサちゃんまで、あたしの髪が邪魔になるとね」
《すぐに通り過ぎたから大丈夫。向こうの道も見えてる》
瑠花は道端の水たまりをよけた。空は晴れていたが、日陰に入ると指先が冷える。袋の中のリサには寒くないだろうかと思い、尋ねた。
《わたしは平気だよ。瑠花ちゃんは?》
「寒い。でも、あと少し」
《学校までの道、もう覚えたよ》
「じゃあ、明日はリサちゃんに案内してもらおうかな」
《うん。任せて》
二人で話しているうちに、前を歩く児童たちとの間が縮まった。瑠花は学校の屋根へ目を向けた。今日は端末を持ち上げなくても、リサにも同じ屋根が見えている。
教室へ入ると、羽衣子が手招きした。
「瑠花ちゃん。ここ、見て」
帳面の端に、小さな鳥が描いてあった。丸い身体から、二本の脚がまっすぐ伸びている。
「雀?」
「そう。さっき窓のとこにおったと。描いとる間に飛んでいった」
「羽根、描く前に?」
「うん。もうちょっと待っててくれたらよかったとに」
瑠花は笑い、帳面へ顔を近づけた。
「この子、立派に立っとるね」
「脚が長すぎたと」
「走るの、速そう」
羽衣子が鉛筆で脚を短くすると、急に雀らしくなった。瑠花が頷くと、羽衣子も満足そうに帳面を閉じた。
胸元では、何も聞こえなかった。あとで、リサにもあの雀のことを聞いてみよう。
授業が始まった。
算数の練習で、教師は、二メートルの紐から七十五センチメートルと四十八センチメートルを切り取ったら、残りはどれだけになるか、と黒板へ書いた。
瑠花は帳面に問題を写し、二の下へ七十五と書きかけた。
二から七十五は引けない。二メートルをセンチメートルに直そうとして、瑠花は鉛筆を止めた。
教師は、解けた子から帳面を見せに来るように言った。前の席では、二人の子が互いの計算を見せ合っている。羽衣子も教卓へ向かい、瑠花が問題へ顔を近づけたとき、襟元から声がした。
《一メートルは百センチメートルだよ。二メートルなら?》
百が二つで、二百。瑠花は二メートルの下に、二百センチメートル、と書いた。
これなら、切り取る長さと同じセンチメートルで計算できる。
七十五と四十八を足す。百二十三。
二百から百二十三を引くと、七十七になった。
瑠花はすぐには立たず、切り取った百二十三と、残った七十七を足してみた。二百に戻る。
鉛筆を止めると、つい口元が緩んだ。
「できた?」
戻ってきた羽衣子が尋ねた。
「うん。二メートルを、二百センチにしたと」
瑠花は帳面を見せた。
「それから、切った二つを足して、引いた」
「あたしは、一つずつ引いたよ」
羽衣子の帳面には、二百から七十五を引き、残りから四十八を引いた計算が並んでいた。最後の答えは、瑠花と同じだった。
「こっちでも、七十七になるとね」
「うん。瑠花ちゃんの方は、先に足すとね」
瑠花は自分の計算をもう一度見た。羽衣子と違う式でも、答えは合っている。
教卓へ持っていくと、教師は計算を確かめ、残りの長さにも単位を書くように言った。
席へ戻った瑠花は、七十七の後ろへ、センチメートル、と丁寧に書いた。胸元に話しかける代わりに、帳面を少し起こして見せた。
返事はなかった。けれど、リサにも読めるように書きたくなった。
* * *
体操の前に、瑠花は机の中の本を揃えた。
算数の教科書の上へ帳面を重ね、奥へ押しすぎないように、しゃがんで中をのぞく。襟元のカメラも、机の口へ向いていた。
「行こう、瑠花ちゃん」
羽衣子に呼ばれ、瑠花は顔を上げた。
校庭へ出ると、教室にいたときより風が冷たかった。列に並び、教師の声に合わせて腕を伸ばす。走り始めるころには、冷えていた足先も気にならなくなった。
隣を走る羽衣子の髪が、頬へかかっていた。羽衣子は払おうとした手をすぐに戻し、瑠花を見て、少し笑った。
あとで言おう。あたしだけじゃないね、と。
列が止まると、少し前で男子の声がした。
「レボ、そこ、空いとる」
「分かっとる」
呼ばれた鉾田 礼模が仲間へ顔を向け、一歩横へ動いた。教師にも、鉾田、前を向きなさい、と言われ、今度はまっすぐ前を向いた。
瑠花は羽衣子と目を合わせかけ、慌てて顔を戻した。
教室へ帰る道で、羽衣子が頬の髪を押さえた。
「さっき、口に入るかと思った」
「あたしも、いつもそれ」
「走っとるときに来んでもいいのにね」
教室へ入ってからも、二人はその話で笑った。
瑠花は次の授業の帳面を出そうと、またしゃがんで机の中をのぞいた。算数の教科書が上にあったので、その下から帳面を引き出した。
* * *
リサには、机の中へ差し入れられた瑠花の手が見えた。
体操へ出る前には、帳面が教科書の上にあった。今は、その順番が逆になっている。
瑠花が本を重ねたところも、今、下から帳面を取ったところも、胸元のカメラに入っていた。教室を出てから戻るまでの間は、校庭しか見えていない。
誰かが触ったのかもしれない。だが、それだけでは何をしたのかも、誰なのかも分からなかった。
羽衣子が、次に開く頁を瑠花へ教えた。瑠花は頷いて、帳面に日付を書いている。
今、分かっているのは本の順序が変わったことだけだ。リサは、その違いを覚えておいた。
* * *
放課後、瑠花は、羽衣子の帳面の端にいた雀がもう一羽増えているのを見つけた。
「今度のは、脚、短いね」
「さっきの子の友達」
「こっちは、飛ぶ前に描けた?」
「今度は見てない。思い出して描いたと」
羽衣子が帳面を持ち上げると、二羽が向かい合った。
「家で、羽根も描く」
「明日、見せてね」
校門で羽衣子と別れ、瑠花は道へ出た。近くの子たちが先へ行くのを待ってから、小さく呼んだ。
「リサちゃん。雀、見えた?」
《見えたよ。二羽になっていたね》
「朝の、脚が長かったでしょう」
《うん。瑠花ちゃんが、速く走れそうって言った鳥》
「リサちゃんも笑っとった?」
《笑ってた。声を出したら、羽衣子ちゃんを驚かせてしまうから、黙っていたけど》
瑠花は胸元へ目を落とし、また前を向いた。
「今なら笑っていいよ」
《あとから許されると、少し困るね》
「じゃあ、あたしが、もう一回言おうか」
《今は、そっちで笑ってしまいそう》
返事に笑うと、リサも小さく笑った。
「今日の算数、リサちゃんが教えてくれたけん、分かったと」
《計算したのは瑠花ちゃんだよ。最後、確かめてもいたね》
「足したら二百に戻った。二メートルやけん、合っとるって思ったと」
《うん。長さを揃えてから、何を引けばいいか考えられたね》
「羽衣子ちゃんは、一つずつ引いとった。あたしの方は、先に足したから、違ってもよかったとね」
瑠花は歩きながら、帳面に書いた二つの数を思い出した。
「お母さんが紐を切るときにも使える?」
《使えるよ。二人で、必要な長さを確かめられるね》
「でも、お母さんは切る前に、ちゃんと測るよ。あたしが計算しとる間に終わりそう」
《じゃあ、切る前に、二人で計算しておこうか》
「間違っとったら、紐、足らんようになるもんね」
《うん。お母さんにも、確かめてもらおう》
昨日まで、分からない問題が出たら、また困ると思っていた。今は、今日のように考えればよい問題が、もう一つないか探したくなった。
「この前、教科書がなくなったときも、羽衣子ちゃんが見せてくれたと。授業が済んでから借りて、問題を帳面へ写した」
《待っていてくれたんだね》
「うん。一緒に考えてくれた。あたしの書いたところは戻らんかったけど、問題は家でも読めたよ」
《今日の考え方も、あとで読めるように書いておこうか》
「うん。長さを揃える、って書く」
リサに話すことが、まだあった。
「体操のとき、羽衣子ちゃんの髪も、口に入りそうになったと。リサちゃんにも見えた?」
《横の方だったから、そのときの顔は見えなかったよ。戻るときに話していた声は聞こえた》
「あたしと、同じ顔しとった。こういうの」
瑠花は髪を払うまねをしてから、今は自分の顔も見えないのだと気づいた。
「帰ったら、見せる」
《楽しみにしてる》
《体操のとき、レボって呼ばれた子がいたね。先生は、鉾田くんって呼んでいたけど》
「鉾田 礼模くん。ほこた、れいぼ、っていうと。みんな、レボって呼ぶ」
《教えてくれてありがとう。顔と名前が分かったよ》
「クラスの子の名前なら、あたし、みんな知っとるよ」
《じゃあ、これからも教えてね》
瑠花は、少し得意になって歩いた。朝と同じ道なのに、リサへ話したいことがたくさん増えている。
人通りの少ない角を曲がったところで、リサが言った。
《瑠花ちゃん。土曜日、学校が終わったら、もう一度、食堂へ行ってみない?》
「明後日?」
《うん。土曜日なら、禎さんがお休みかもしれない。必ずいるとは分からないけど》
瑠花は、歩く速さを少し落とした。
今日の算数も、雀も、髪のことも、こうして話せた。禎に会えたら、今度はリサを置いて帰るのかもしれない。
けれど、今の声を聞いて、会えたらいいねと、瑠花も思った。
「お母さんに聞いてみる。明後日、また行ってもいいか」
《ありがとう》
「今度は、おってくれるとよかね」
《うん。早く、無事だって伝えたい》
家の看板が見えてきた。店先には客が一人いて、母が品物を渡している。
瑠花は声を落とした。
「今日、帰ったら、算数の続きをしようね」
《羽衣子ちゃんの顔まねも、忘れないでね》
「まだ覚えとったと?」
《楽しみにしてるって、言ったでしょう》
瑠花は笑いながら、戸口へ向かった。母の用事が済んだら、土曜日のことを話そう。
その前に、胸元のリサへ、もう一度だけ囁いた。
「明日も一緒やけんね」
《うん。明日も、一緒に行こう》




