第四十三章 試される側
一九四二年一月二十三日
朝の桑橋食堂では、桑橋さんが味噌汁の椀を並べていた。僕の分を置く手が止まる。
「今日も鎮守府ですか」
「はい。今日からしばらく、僕に何ができるか見てもらうことになりました」
「海軍に入ることが決まったんですか」
「まだです。昨日、働きたいとは答えました。でも向こうも、僕のことを確かめてから決めます」
「そうですか。船に乗るんですか。それとも、店を出ることになるんでしょうか」
「そこも、まだ何も。今日はここへ帰ります」
答えられることが思ったより少ない。それでも桑橋さんは、いつもどおり飯をよそってくれた。
「では、帰ったら教えてください。何をさせられたかくらいは」
「たぶん、話せる範囲なら」
「話せないなら、顔を見れば分かりますよ」
食堂を出て、人通りのない道へ入ったところで、僕は片耳のリサに話しかけた。
「リサ。今日は絶対に通りたい。僕に分かることは自分で答える。でも、この海軍のことみたいに分からないものは、全部教えてくれ。遠慮も手加減もいらない」
《そのつもりです。私に分かる知識は、できる限り補います》
「うん。頼むね」
* * *
石橋大尉は鎮守府で僕を迎え、担当の士官が待つ部屋まで案内してくれた。昨日の机にあった第五十二播州丸の別紙も、バリクパパンの新しい記録も、ここには置かれていない。
「黒馬さん。今日はまず、これまでどんな仕事をしてきたかを確かめます」
担当の士官は、僕に席を勧めてから続けた。
「数日で一から海軍士官を育てるという話ではありません。すでに持っている知識や判断を見せてもらいます。こちらの海軍に固有のことは、その後で覚えていただくことになります。任用するかどうかは、まだ決まっていません」
「分かりました」
士官の視線が、僕の片耳で止まった。
「耳のものは?」
小さなベージュ色のイヤホンに、気づかれたらしい。
「耳が敏感なんです。片方を塞いでいる方が、周囲の声を聞き取りやすくて」
「こちらの声は聞こえますか」
「はい」
士官は少し離れた石橋大尉に目をやり、石橋大尉が短く僕に問いかけた。答えると、士官はうなずいた。
「支障がないなら、そのままで結構です」
片耳の奥でリサは黙っていた。僕が答えられる問いが、先にある。
「出港を控えた船で、積み込みが遅れています。担当から『間に合わせます』との報告だけが上がってきた。あなたならどうしますか」
短い報告だけでは、積み込みの現場が見えない。
「何の積み込みが、どれだけ遅れているかを聞きます。出港の準備で、その作業が止めているものがあるかも。それで担当に、残る作業と見込みを出してもらいます」
「『間に合う』と言っている者を信用しないと?」
「信用するかどうかと、その報告だけで出港できると判断するかは別です。私が上へ報告するなら、間に合う根拠も要ります。現場の作業は続けてもらい、遅れる見込みが出た時点で、私の責任でその内容を上へ知らせます」
「あなたが出港時刻を変えるのではない?」
「その権限がなければ、決めません。ただ、何が足りないか分からないまま上へ丸投げもしません」
士官は僕の返事を紙に記し、もう一度だけ顔を見た。石橋大尉は口を挟まない。十二月から僕の話を聞いてきた人の前で、今度は日付ではなく僕の答えが書かれていく。
続く問いには、旧海軍の階級名が混じった。海で人を動かす理屈なら分かる。だが、聞き慣れない名に、答えが一拍遅れた。
「兵曹長は、どの区分に入るか分かりますか」
一等兵曹との上下までは思い出せる。そこから先で、現代の呼び方が邪魔をした。
《准士官です。兵曹とは区分が異なります》
「准士官です」
言い切った後で、耳の奥へ意識を向けた。ほとんどカンニングじゃないか。だが、分からないところは教えてくれと、朝に頼んだのは僕だ。ここを通るために、使える知識は使う。
士官は僕の返事を聞き、手元の紙に何かを書き留めた。何を書いたのかは見えない。
「こちらの区分や名称についても、引き続き確かめます」
「はい」
* * *
屋外では、別の担当者に動きを見られた。歩く、向きを変える、短い距離を走る。脚がもつれるほどではないのに、号令に合わせる動作だけが半拍遅い。
「次は、こちらへ」
促され、僕は息を整えながら位置を直した。今の身体は若い。だが、旧海軍の号令まで覚えて若返ったわけではない。次の動きでは遅れまいとすると、今度は肩に余計な力が入った。
「体は動くな。型はまだだ」
担当者の短い言葉に、僕はうなずく。ここでは僕が覚える方だ。駆け足を終えたころには、返事の前にひと息必要になっていた。
そのまま射撃の場所へ移ると、渡された拳銃は、僕の使い慣れたものとは形が違った。担当者から扱いと安全上の指示を聞き、指示どおりに確かめた。
僕は江田島の海上自衛隊第1術科学校で七年間、小火器射撃を教える側にいた。教える仕事の中でも、撃つ腕そのものには自信がある。
撃ち終えると、担当者が標的を確認し、士官へ結果を伝えた。
「満点だ」
聞こえた声は小さかった。担当の士官は、すぐ僕を褒めなかった。
「もう一度、同じように見せてもらえますか」
「はい」
一度なら、銃との相性や運がよかっただけと言われるかもしれない。もう一度と言われて、むしろ気が楽になった。
二度目の結果が届くまで、誰も何も言わなかった。受け取った士官は、一度目の紙を隣に並べた。
「……こちらも満点です」
石橋大尉がその紙をのぞく。初めてウェーク島の話をしたときとは違う顔をしていた。僕がどこから知ったか分からない日付ではなく、今ここで自分の目で確かめた結果が二つある。
士官は射撃の結果を書き加えた。階級の問いで一拍止まったことも、号令に動きが揃わなかったことも、同じ一日の記録に入るはずだ。
「今日はここまでです。まだ確認することがあります」
「分かりました」
外へ出ると、走った脚に遅れて疲れが来た。射撃で満点を二度出しても、任官が決まったわけではない。僕自身も、この海軍で知らないことを、今日いくつか知った。
昨日までは、紙に書いた僕の情報が試されていた。今日、同じように紙に書かれたのは、僕の答えと、できたことと、できなかったことだった。
明日は一月二十四日。バリクパパンの夜襲まで、もう一晩しかなかった。




