第四十二章 二日後の海
一九四二年一月二十二日
朝、桑橋食堂の奥で上着を手に取った。昨日、石橋大尉から聞いた第五十二播州丸の沈没が、まだ耳に残っている。田所さんも、ほかの乗員たちも、どうなったか分からない。
今日は司令長官に会う。手を止めたまま、僕はリサに尋ねた。
「リサ。近いうちに起きることで、今のうちに知っておいた方がいいことはない?」
《あります。一月二十四日未明、ボルネオ島のバリクパパン沖で米海軍の駆逐艦四隻が日本側の輸送船団を夜襲します。魚雷と砲撃により、複数の輸送船などが被害を受けました》
「まず、その輸送船団って何隻いるの? 輸送船と、それを守る艦艇を分けて教えて」
《一月二十一日にタラカンを出た部隊は、輸送船十六隻を中心とする船団です。兵や物資を運ぶ船を、軽巡洋艦一隻と駆逐艦九隻が護衛します。さらに機雷を除く掃海艇四隻、潜水艦を警戒する駆潜艇三隻、周囲を見張る哨戒艇三隻が加わり、合わせて三十六隻でした》
「運ぶ船が十六隻で、それを守る艦艇が二十隻か。その十六隻の名前も教えて」
上着を置き、紙と鉛筆を取った。船が何隻いて、その中のどの船が被害を受けるのか。これから人に話すなら、そこを先に押さえておかなければならない。
《輸送船隊は、第一分隊と第二分隊に八隻ずつ分かれています。第一分隊は、敦賀丸、りぱぷーる丸、日照丸、愛媛丸》
四つの名を書いて、鉛筆を止めた。
「続けて」
《朝日山丸、日帝丸、球磨川丸、須磨ノ浦丸。これで第一分隊の八隻です》
紙の右側に、第二分隊と書いた。
《第二分隊は、はばな丸、漢口丸、帝龍丸、呉竹丸》
「うん。あと四隻」
《金耶摩山丸、藤影丸、辰神丸、南阿丸です》
二列に並んだ名を、上から数え直した。
「八隻ずつ。これが輸送船隊の全部だね」
《はい。須磨ノ浦丸は海軍の特設防潜網艇ですが、この船団では輸送船隊の一隻として数えられています。第37号哨戒艇など、周囲を警戒する艇は、この十六隻とは別です》
第五十二播州丸では、情報が届いても任務は変わらなかった。次に伝える内容も、知っていることと知らないことを分けておきたかった。
「米艦は、輸送船団の近くまで入ったの?」
《はい。船団の近くまで入っています。ただし、今の船団や護衛の配置、現地の命令は確認できません》
「それで、この十六隻はどうなる? まず、空襲の被害から教えて」
《一月二十三日の航空攻撃で、南阿丸が沈没します。辰神丸も損傷しますが、この時には沈みません》
南阿丸の横に空襲、辰神丸の横に損傷と書いた。
「その次が、潜水艦?」
《はい。一月二十四日未明、オランダ潜水艦K-XVIIIの雷撃で敦賀丸が沈没します。米駆逐艦四隻の夜襲より前です》
敦賀丸の横にも、沈む原因を書き込んだ。
「それから、米駆逐艦の夜襲では?」
《船団にいた須磨ノ浦丸、辰神丸、呉竹丸の三隻が沈没しました。第37号哨戒艇は大破して戦列を離れ、球磨川丸と朝日山丸にも砲撃による損傷が出ています。呉竹丸への攻撃は、夜襲の後の段階です》
「じゃあ、最後に浮いて残るのは? 損傷した船も入れて、十六隻のうち何隻?」
《沈没するのは、空襲の南阿丸、潜水艦の敦賀丸、米駆逐艦の須磨ノ浦丸、辰神丸、呉竹丸の五隻です。十六隻のうち、浮いて残るのは十一隻になります》
「残る十一隻の名前も確認したい。第一分隊から」
《りぱぷーる丸、日照丸、愛媛丸、朝日山丸、日帝丸、球磨川丸の六隻です。第二分隊では、はばな丸、漢口丸、帝龍丸、金耶摩山丸、藤影丸の五隻が残ります》
《ただし、朝日山丸と球磨川丸には損傷があります。浮いて残った十一隻を、すべて無傷で働ける船という意味にはできません》
沈む五隻に印をつけた。紙に残った十一の名を、もう一度追う。
「元は十六隻。空襲で南阿丸、潜水艦で敦賀丸。米駆逐艦の夜襲で須磨ノ浦丸、辰神丸、呉竹丸が沈む。合わせて五隻を失って、十一隻が残る。その中の朝日山丸と球磨川丸は、残るけど無傷じゃない」
《はい。その整理になります》
辰神丸には空襲の損傷と夜襲での沈没が並んだ。二度被害を受けても、失われる船として数えるのは一隻だ。第37号哨戒艇の大破は、紙の二列とは別に書いた。
「その夜襲が、二十四日未明。あと二日か」
記録に残っている出来事なら伝えられる。けれど今、どの船がどこにいて、何を命じられているかは知らない。海で仕事をしてきたからこそ、知らない現場のことを推測で埋めたくなかった。
「日付と場所、何が起きたかを伝える。今の現地のことは、知らないと言う」
《はい》
メモを上着の内側へ入れた。まだ何も起きていない海について、今日会う人たちへ話す。その判断は、僕がする。
桑橋さんには鎮守府へ行くと伝えた。昨日の知らせをどう受け止めたか、言葉にできるほどにはなっていなかった。
* * *
石橋大尉に案内されて、佐世保鎮守府の一室へ入った。書類を前にした山口 儀三郎少将が参謀長、その隣にいる天川 光中佐が、この案件を扱ってきた参謀だ。正面で僕を迎えた谷本 馬太郎中将が、佐世保鎮守府司令長官だった。
「黒馬さん。谷本です。来ていただいて助かりました。お掛けください」
机には事前の記録とその結果、第五十二播州丸の別紙があった。
「昨日、石橋から沈没の報を聞かれたそうですね。乗員については、まだ分かっていません」
「はい。分かりましたら、知らせていただくよう石橋大尉にお願いしました」
谷本司令長官は、別紙を伏せずに僕を見た。
「あの船は救えなかった。それでも、今後も海軍へ情報を提供するお考えですか」
「続けます。救えなかったから、もう知らせないということにはできません」
少しの間、誰も口を開かなかった。海軍は警告を上へ届け、検討した。僕も、伝えられることは伝えた。そこまでしたことと、船が沈んだことが、同じ紙の上に残っている。
「我々にとって、あなたが事前に伝えた情報は、もう片隅に置いてよい話ではありません。作戦の結果だけでなく、外交の宣言や米国の民間機の事故まで、記録と一致しました。第五十二播州丸は、上へ伝えて検討した後で、申告されたとおりに沈みました」
その一件で乗員がどうなったかは、まだ分からない。僕が机の別紙へ目を向けると、司令長官も一度そこへ視線を落とした。
「石橋と天川は、あなたが船の仕事を知り、命令を変える責任も軽く扱わないと報告しています。あの結果を聞いた後も情報を出し続けるという、あなた自身の返事も聞きました。米国との戦争は始まったばかりです。これからあなたの情報と、あなた自身にできることが、海軍の力になる可能性がある」
「私ができること、ですか」
「ええ。必要なときだけ外から話を聞いて、記録を回す。それで済ませてよいのかと考えています。海軍の中で実際にどんな仕事ができる方なのか、確かめたい」
「もちろん、身元も情報の出所も分かっていません。これまでの結果が、次も当たる保証にはならない。船の経験や知識があっても、軍人としてどこまで働けるかは、まだ判断できません。期待しているからこそ、確かめる必要があります」
紙に書かれた日付ばかりでなく、僕自身ができる仕事を見ようとしている。その言葉には、信用しきっていないという線も、はっきり引かれていた。
「黒馬さん。海軍軍人になってみないか」
すぐには答えられなかった。目の前の軍服と机の記録を見ていたら、ずっと前に考えたことが戻ってきた。
子どもの頃、乏しい金や工業力の中で学校や鉄道を作り、海軍を整えて、大きな国へ向かっていった日本の歴史を読んだ。清に勝ち、ロシアにも勝った。日本という国そのものが、漫画の主人公みたいで、胸が躍った。
その先の太平洋戦争で、アメリカに徹底的に負けたと知ったときは、本気で悔しかった。同じ日本なのに、なぜ今度は勝てなかったのか。
海上自衛官になってからは、そんな問いを勝ち負けだけで語れなくなった。日本にも、相手の国にも、帰らなかった人と、その人を待つ暮らしがある。勝つことだけを願えばよいなどとは、もう思えない。
それでも、子どもの頃の問いは消えなかった。壊滅的な敗戦を避けながら、勝った勢いに任せて戦争を広げることもせず、その先の豊かさや自由、平和へ続く道はなかったのか。現代の佐世保で、僕はその「もしも」を対話型AIに相談し、小説にしようとしていた。
あの頃は、思いついた案を登場人物に選ばせることができた。だが実際に一九四一年へ来たとき、僕にあったのは家へ帰れるのかという不安だった。里香や拓海がどうなるのかも分からない。寝る所と食べる物、身元をどう説明するかを考えるだけで精一杯だった。
桑橋食堂で椀を運び、桑橋さんや客たちの声を聞くうちに、この時代は僕が筋を考える物語ではなくなった。森下さんが火傷をし、あの注文書きの名前が田所さんに替わった。包みは四つのままだった。田所さんだけを船から外しても、また誰かが乗る。
だから、船と乗員を救うには、行先や任務を決める人たちへ話を届けるしかないと考えた。リサリサと、あの夜に決めた。
「ここで、実際にやる」
《はい。私も、禎さんとやります》
声まで思い出した。あのとき決めたのは、戦争全体の答えではない。まず一件、確かめてもらえる未来の情報を届けることだった。石橋大尉に話し、記録を残し、次の予告を重ねた。それでも第五十二播州丸は沈んだ。田所さんたちの行方も、まだ聞けていない。
僕の返事を待つ司令長官の前で、その重さをごまかしたくなかった。海軍へ入れば救えると約束されたわけでもない。しかも、ここは僕の知る海上自衛隊ではなく、戦争中の日本海軍だ。命令を受け、自分の仕事の結果を引き受けることになる。
けれど、正式な仕事を持てるなら、情報を渡すだけでなく、僕自身の海での経験、判断、できる技能を使って働ける。現場の人たちと結果を積み重ね、信用を得て、まだ間に合う判断へ声を届かせる道もできるかもしれない。
海軍はこの戦争を戦うために僕の力を見ている。僕は、救える命を救い、日本が壊滅する敗戦を避けたい。たとえ勝てたとしても、その勝利に驕って戦争を続けるなら、僕の望む未来ではない。勝ちを手遅れになる前の終戦へ結びつけ、その先に桑橋さんたちが暮らせる国を残したい。僕が海軍で働きたい理由は、まだ司令長官には話せない。
僕は顔を上げ、司令長官に答えた。
「はい。私は、海軍の中で働かせていただきたいと思います」
谷本司令長官がうなずいた。
「そう言っていただけるのはありがたい。しかし、我々もあなたをまだ十分に分かっていません。任用を決める前に、知識と実務能力を確かめさせてください。明日から始めます。身元の確認も続け、判断するのはその後です」
「分かりました。その確認を受けます」
任官したわけではない。けれど自分から、この先へ進むと答えた。リサリサと決めたあの夜から続けてきたことを、別の場所でもやってみるために。
話が一段落したところで、朝から胸に置いていた日付を口にした。僕の行先より先に、伝えなければならない海がある。
「その前に、もう一つお伝えしなければならないことがあります」
司令長官の手が止まった。
「聞きましょう」
朝に折った紙を、上着の内側から取り出した。
「今朝、分かっている範囲を整理してきました。船の名前と、いつ、何が起きるかを書いてあります」
紙を机に広げた。二列に並ぶ十六隻の名と、その横につけた印が見える。谷本司令長官と山口参謀長が、そこへ目を落とした。
「バリクパパンの攻略船団についてです。私の把握している情報では、輸送船隊は十六隻で、第一分隊と第二分隊に八隻ずつ分かれています」
「十六隻の名前は、ここにあります」
朝に整理したメモに沿って、被害を順に説明した。
「まず、一月二十三日の航空攻撃で、南阿丸が沈没します。辰神丸も損傷しますが、この時には沈みません」
「その次が、一月二十四日未明のオランダ潜水艦K-XVIIIです。雷撃で敦賀丸が沈没します。米駆逐艦四隻の夜襲より前です」
「それから、米海軍の駆逐艦四隻が船団の近くまで入り、魚雷と砲撃で夜襲します。須磨ノ浦丸、辰神丸、呉竹丸の三隻が沈没します。第37号哨戒艇は大破して戦列を離れ、球磨川丸と朝日山丸にも砲撃による損傷が出ます。呉竹丸への攻撃は、夜襲の後の段階です」
「空襲で一隻、潜水艦で一隻、米駆逐艦の夜襲で三隻。合わせて五隻を失い、十六隻のうち十一隻が残ります」
沈没の印がない十一隻の名を、指で示した。第37号哨戒艇の大破は、輸送船の二列とは別に書いてある。
「ただし、残る朝日山丸と球磨川丸には損傷があります。十一隻が残ると言っても、すべて無傷という意味ではありません」
谷本司令長官が、紙を見ながら確かめた。
「十六隻のうち五隻を失う。そのうち三隻が、米駆逐艦の夜襲ですね」
「はい。辰神丸は二度被害を受けますが、失われる船として数えるのは一隻です」
「現在の船団の位置、護衛の配置、現地の命令は分かりません。米艦が今どこにいるかも、これからこのとおりに動くかも確認できていません」
知っていることは伝えた。ここから先は、今の船団を知る海軍の人たちが決める。
「現地の船団と護衛は、いまどうなっている。まずこちらで確かめる必要があるな」
山口参謀長は説明を確かめ、空襲、潜水艦、夜襲の順に記録した。沈む五隻と残る十一隻、残る船の損傷。朝、リサと整理した紙と同じ順だった。
「二十四日まで、あと二日だ」
谷本司令長官は山口参謀長へ顔を向けた。
「今の申告を記録して、上級側と実際に作戦を担う側へ急ぎ伝えてくれ。天川、現地の護衛と夜間の見張りについて、確認できることを照会してくれ」
二人が短く答えた。司令長官は僕にも向き直った。
「ここで配置変更まで決めることはできません。得られた事情を基に検討します。ただ、結果が出るまで紙を置いておくつもりもありません」
「この紙は、そのままお渡しします」
山口参謀長はメモを受け取り、説明を聞いて作った記録へ添えた。
山口参謀長と天川中佐が席を離れた。まだ、どんな対応になるかは決まっていない。
それでも、あと二日しかないと聞いた人たちが、今、目の前で動き始めていた。




