第三十九章 待ち望まない答え
一九四二年一月十七日
桑橋食堂では、朝からいつもどおりの音がしていた。鍋の蓋が鳴り、客が椅子を引き、桑橋さんが勘定を告げる。
僕も膳を運び、空いた卓を拭いた。手は動くのに、頭の中だけが海の向こうの日付を追っている。
米国現地時間、一月十六日。キャロル・ロムバードが乗ったTWA三便が事故を起こすと、僕たちが知っている日だ。時差を考えれば、日本ではもう十七日になる。だが、いまの世界でも同じことが起きたのか、僕には分からない。
昼の客の波が途切れたところで、僕は皿を重ねる手を止めた。
「リサ。……もう、起きた頃かな」
《記録にある事故の時期には当たります。ただし、こちらでも起きたかどうかは確認できません》
「分かってる。分かってるんだけどね」
十二月二十四日にも、知っているなら知らせる方法はないのかと考えた。米国の本人や航空会社に、出所の言えない話を信用させて飛行を止める手段は見つからなかった。それで僕は、事故を事前の記録に残した。
考えた末の選択だった。けれど日付が来ると、紙に書いた一件が、人の命を持った出来事に戻る。
「当たれば、海軍は第五十二播州丸の話をもっと重く見るかもしれない。でも、そのために誰かが死ぬのを待つ気にはなれないよ」
《はい。禎さんが待っているのは、死亡の知らせではありません》
リサはそこで少し間を置いた。
《私も、これを良い知らせとは呼びたくありません》
前なら、照合の価値を先に挙げていたかもしれない。僕は重ねた皿を持ち直した。
「うん。そうだね」
「黒馬さん」
桑橋さんが帳場からこちらを見ていた。
「今日は静かですね。何かありました?」
「少し、考え事をしていて」
「それなら、手を動かしながら考えてくださいね。次のお客さんが来ますから」
叱っているようで、皿を受け取る手はいつもどおりだった。僕は「はい」と答え、流しへ向かった。桑橋さんに話せることは、まだ何もない。
戸が開き、客が入ってくる。食堂の一日は、海の向こうの知らせとは関係なく続いていた。
* * *
一九四二年一月十八日
米国現地時間十六日の事故について、佐世保鎮守府でも照合に足る情報が揃った。
石橋 万次郎大尉は、十二月二十四日の記録と事故の報を、天川 光中佐へ示した。
「中佐。TWA三便の件です」
天川は紙を受け取った。米国現地時間十六日の事故。便名。そして、死亡者の中にあるキャロル・ロムバードの名。
「……本人もか」
「はい。キャロル・ロムバードの死亡も確認できました」
天川は答えず、名前のところに目をとどめた。戦前、彼女の出演する映画を観たことがある。好きな外国女優の一人だった。紙の上の名前と、スクリーンで見た顔が、すぐには同じものにならなかった。
「こういう一致は、嬉しくないな」
石橋も、その言葉には返事をしなかった。
十二月二十四日に記録した五件が、すべて一致した。先のウェーク島を加えれば六件になる。
「作戦を知っていた、という話だけでは済まなくなったな」
「共同宣言に続き、今度は米国内の民間機です」
「参謀長へ持っていく。先に上げた資料にも、今回の結果を加えろ」
「はい」
十一日以来進めている上級部門への報告と、第五十二播州丸の任務を担う側への照会にも、今回の結果が加えられた。
* * *
山口 儀三郎少将から報告を受けた谷本 馬太郎中将は、新たに埋まった欄を見た。天川も担当参謀として席に着いている。
「……本人も死んだのか」
「はい。事故とともに確認しております」
谷本はしばらく黙っていた。十一日には知っていると言った女優の名に、今は死亡の報が添えられている。
「これで、十二月二十四日の五件はすべてか」
「すべて結果が出ました」
「外れは」
「ありません。十二月十五日のウェーク島を含め、六件が一致しております」
谷本は、まだ結果欄の空いている第五十二播州丸の別紙を開いた。
「理由は分からん。だが黒馬が、まだ起きていないことを何らかの形で知っている可能性を、判断から外しておくわけにはいかんな」
「はい。ただし、情報源と身元は依然として不明です」
山口が答えると、谷本はうなずいた。
「その不明な点も付けたまま、追加の結果を上へ送れ。船の所在と予定、任務についての照会はどうなっている」
「確認済みの範囲は別紙に整理し、未回答の点は引き続き照会しております。実際の作戦を担う側へも、この申告と照合結果を届けています」
「任務を変えると、ここで決めるものではない。だが、判断する側に新しい結果が届かなければ、判断材料が一件欠ける」
山口が「承知しました」と答えた。谷本の指は、一月二十日の日付から離れなかった。
* * *
報告の席を出た天川は、待っていた石橋を呼んだ。
「黒馬に面談を頼んでくれ。こちらの状況を、私からも伝えたい」
石橋はわずかに顔を上げた。
「中佐が、ですか」
「当人とはまだ会っておらん。それに、第五十二播州丸の件がどこまで進んでいるかを、直接伝えたい」
「お前も同席しろ」
* * *
その日の午後、石橋大尉が桑橋食堂へ来た。天川中佐が会いたいと言っているらしい。
十一日から七日たっている。海軍の中で何が動いたのか、僕は知らなかった。けれど石橋大尉の手にあった紙には、もう事故の結果が書かれていた。
「天川中佐が、直接お話ししたいと。ご都合はいかがですか」
「店の手が空き次第、伺えます」
「桑橋さん、少し出ます」
「はい。店は大丈夫ですから」
桑橋さんはそれ以上尋ねなかった。僕は上着を取り、石橋大尉について店を出た。
佐世保鎮守府で会った天川中佐は、僕が思っていたより静かな人だった。机には十二月の記録と、今日までの結果が並んでいた。
「黒馬さん。天川です。石橋から、これまでの経緯は聞いています。五件を示した理由も、第五十二播州丸について何を求めているかも承知しています」
「十二月二十四日に記録した五件は、すべて照合を終えました。どれも事前の記録と一致しています」
「……そうですか」
事故の報せは石橋大尉の紙で見ていた。だが、五件が揃ったと聞いても、最後の一件にあった死を思えば、喜ぶ気にはなれなかった。
天川中佐は事故の欄に視線を落としてから、別紙を僕の方へ向けた。
「今日は、第五十二播州丸についてこちらの状況をお伝えします。あなたの申告は、私のところだけには留まっていません。上へ報告し、実際の任務を担う側にも通報と照会を進めています」
「船の所在や予定、任務、必要になった場合の判断経路も引き続き確認しています。ただし、任務の変更が決まったわけではありません」
「……そこまで進んでいるんですね」
十二月に渡した紙が、いま目の前にいる中佐を越えて動いている。それを初めて本人の口から聞いた。胸のつかえが少しだけ緩んだが、一月二十日の日付は変わらない。
「一点だけ、今伺いたいことがあります。第五十二播州丸について、以前の申告に付け加えられる情報はありますか」
「ありません。分かっているのは、これまで石橋大尉へお伝えした範囲です」
現在の船の位置も、機雷の場所も知らない。知らないところへ推測を足しても、現地で判断する人の助けにはならない。
天川中佐はそれ以上の情報を求めず、一月二十日の欄を指で押さえた。
「石橋からは、船と乗員を助けたいと聞いています。今も、そのお考えに変わりはありませんか」
「変わりません。第五十二播州丸は、まだ助けられる可能性があると思っています」
天川中佐は僕の答えにうなずいた。石橋大尉は、僕と中佐の間に置かれた記録へ目を落としている。
「あなたの身元や情報の出所の確認とともに、船への照会は続けます」
「承知しています」
僕に伝えられる情報は、もう渡した。向こうも、それを判断する側へ届けている。あとは、伝わった先で何が決まるかだった。
十二月二十四日に並べた五件は、すべて結果欄が埋まった。その最後の欄には、ロムバードを含む人々の死があった。
僕が願っているのは、もう一つ結果欄を埋めることじゃない。
第五十二播州丸についてだけは、一月二十日の予告を外したかった。




