第三十八章 九日前
一九四二年一月十一日
クアラルンプール占領の報が佐世保鎮守府へ届くと、石橋 万次郎大尉は十二月二十四日の記録と照合した。
山下 奉文中将率いる第二十五軍が、記録どおり一月十一日に市を占領していた。
石橋は天川 光中佐へ報告した。
「クアラルンプール、確認できました」
「食い違いは」
「ありません。日付も、部隊も一致しています」
「結果を記入しろ。参謀長へ持って行く」
「はい」
石橋は短く答えた。驚きが薄れたのではない。当たるたびに立ち止まっている段階を、案件の方がすでに通り過ぎていた。
* * *
山口 儀三郎少将は、追記された一覧を上から読み下した。
「これで、十二月二十四日の五件中、四件です」
天川の報告に、山口は一覧から目を上げず尋ねた。
「ウェーク島を加えれば」
「明確な一致は五件です。現時点で、外れはありません」
「未結果は」
「一月十六日のTWA三便とキャロル・ロムバード。それに、十二月十五日に別途申告された一月二十日の第五十二播州丸です」
一月五日に十一日の結果を待つと決めてから、上申の準備は進めていた。
資料には、第五十二播州丸の別紙も揃っている。
「長官へ上げる」
天川は姿勢を正した。
「私も参ります」
「担当参謀として説明しろ。原記録を作った石橋の名と、確認できる経緯も外すな」
「承知しました」
十二月には一大尉の机上にあった黒馬 禎の名が、参謀長の手で、さらに一段上へ運ばれることになった。
* * *
佐世保鎮守府司令長官、谷本 馬太郎海軍中将は、山口が差し出した書類挟みを開いた。
佐世保鎮守府は、軍港の防備や整備・補給、人員などを束ねる海軍の一大根拠地だった。谷本はその最高責任者だが、海軍全体を指揮する立場ではない。海軍省や軍令部、聯合艦隊は別の組織である。
石橋から天川へ、天川から参謀長へ。十二月以来、段を一つずつ上がってきた黒馬の記録が、ついにその机へ載った。
山口は机の前に立ち、天川は一歩下がって陪席した。
「黒馬 禎に関する一連の申告と、その照合結果です。これまで上方へ報告してきた内容を、本日確認した結果まで含めて整理しました」
「最初に話したのはいつだ」
「十二月十五日です。石橋大尉が直接聴取し、同日付で記録しております」
「十二月二十四日の分も、結果が出る前からあったのだな」
「はい。石橋大尉の原記録に加え、天川中佐が結果発生前に報告を受けています。上方へ報告した時期と、その後の結果追記日も分けてあります」
谷本の視線が天川へ移った。
「あとから日付を合わせたものではないか」
「ありません。予告した日、出来事が起きた日、本府で確認した日は、別の欄にしております」
「一致したものは」
「ウェーク島、香港、マニラ、連合国共同宣言、本日のクアラルンプール。五件です」
「外れは」
「現時点ではありません。未結果が二件残っています」
谷本は記録日と発生日を見比べた。
「情報源は」
「判明しておりません」
「身元は」
「警察側でも確認を続けておりますが、完全にはつかめておりません」
「分からんことが多い。だが、分からんことと、事前の記録が五件一致したことは別だ」
山口は黙って一礼した。
谷本は未結果の欄へ目を移し、そこで手を止めた。
「一月十六日――キャロル・ロムバード?」
「米国の――」
天川が答えかけると、谷本はわずかに眉を上げた。
「知っている。映画女優だな」
「長官もご存じでしたか」
「名前くらいはな」
谷本は予告の一行を読み直した。米国現地時間一月十六日、TWA三便の事故で死亡する。
「これは海軍の作戦でも、陸軍の攻略予定でもない。外交の話ですらない。こんなものまで日を切っているのか」
「はい。ただし、まだ結果は出ておりません」
「分かり次第、報告しろ」
「承知しました」
谷本が第五十二播州丸の別紙を開くと、山口が説明した。
「第五十二播州丸です。十二月十五日、黒馬が事前に申告しています。一月二十日、スービック湾方面。掃海任務中に触雷し、沈没する、と」
「あと何日だ」
「九日です」
部屋の空気が変わった。
ロムバードの欄は、待って結果を確かめることができる。だが、この船は、結果を待ってから一致を記すのでは遅い。
別紙には、船の所在と予定、命令変更を求める経路が、照会中の事項と分けて記されていた。
「この船は、佐世保から止められるのか」
山口が答えた。
「本府だけの判断で、南方作戦中の任務を変更することはできません。実際の任務、所属、作戦指揮系統を通じ、判断できる側へ話を上げる必要があります」
「その経路は」
「確認を続けています。未確定の部分は、この別紙に明記しております」
谷本は一度だけうなずいた。
「ならば動かせ。黒馬を信じたから船を止めろという話ではない。だが、事前の記録が五件続けて事実と一致している。この情報を佐世保だけで持っていてよい段階ではない」
山口と天川が同時に姿勢を正した。
「黒馬に関する一件を、適切な上級部門へ正式に報告する。第五十二播州丸については、所在、予定、任務を改めて確かめ、実際の所属と作戦指揮系統側へ通報し、照会しろ」
「任務を変えろと、ここで命じるのではない。変える判断のできる側へ、この情報を判断材料として届ける。九日を使い切るな」
「承知しました」
山口の返答に続き、天川も一礼した。
黒馬 禎という名は、その日、佐世保鎮守府の最高責任者に、正式な判断案件として受け取られた。
そして書類は、そこで止まらず、さらに上へ動き始めた。
* * *
その日の桑橋食堂で、僕は壁の日付を何度も見ていた。
一月十一日。
未来の記録では、今日、クアラルンプールが占領される。けれど、現地で起きたことがいつ佐世保へ届き、海軍がいつ照合するのかは、僕には分からない。
まして、十二月に渡した紙が、いま誰の机にあるのかも知らなかった。
「リサ。向こうは、動いてくれていると思う?」
《海軍側の内部状況は確認できません。これまでの一致から検証が進んでいる可能性は高いですが、第五十二播州丸の行動が変わるとは断定できません》
「そうだよね」
僕たちにできることは、もう渡した情報を、向こうがどう扱うかを見ることだった。そう決めたのは僕自身だ。それでも、日付が近づくほど、待つことの方が難しくなる。
「あと九日だね」
《はい。第五十二播州丸の沈没予告日まで、あと九日です》
一月二十日までの時間は、誰の返事も待たずに減っていた。




