第三十七章 三日目の朝
一九四二年一月七日
翌朝、僕が客席の戸を開けると、紬さんはもう前掛けを借り、洗い上がった椀を拭いていた。
「お母さん、そちらはあとでいいです。先に、この卓へ箸をお願いします」
「はいはい。箸は五膳ずつでよかったわね」
返事をしながら、紬さんは僕が運ぼうとしていた湯呑みまで半分引き受けた。
桑橋さんが竈と勘定と店全体を見て、紬さんはその目の届かないところへ手を回す。相談しなくても、二人の仕事はぶつからなかった。
最初の客が戸を開け、紬さんを見つけて足を止めた。
「お、紬さん。今日もおるのか。朝から得した気分だ」
「まあ。そんなことを言っても、おかずは増えませんよ」
「なら、こっちから一皿増やそう。今日の煮物を頼む」
「はい。口だけではないところを見せていただきました」
紬さんが笑って返すと、客も上機嫌で腰を下ろした。
その声を聞いて入ってきた別の男が、空いた卓から手を上げた。
「紬さん、こっちにも茶を頼む」
「おれも一杯もらおう」
「順番ですよ。お茶は逃げませんから」
紬さんは二人分の湯呑みを盆へ載せた。一方には普通に注ぎ、もう一方には少し湯を足す。
「あなたは濃いお茶だと、あとで胃が重いと言うでしょう」
「よう覚えとるなあ」
「毎度おっしゃるんですもの。嫌でも覚えます」
笑い声が上がったところへ、今度は作業着の男が入ってきた。
「美由紀ちゃん、お母さんをしばらく店に借りたらどうだ。紬さんがおると、店が明るい」
「助かっています。でも、店主は私ですからね」
桑橋さんが台所から返すと、紬さんもすぐ続けた。
「そういうことです。褒めるなら、まず店主を褒めてください」
「二人とも褒めとる。黒馬さんもな」
急に名前を出され、僕は盆を持ったまま頭を下げた。
「ありがとうございます」
「黒馬さんもよく動くが、紬さんに入れてもらうと、同じ茶でもうまい気がする」
「では次から、お茶代を余分にいただきましょうか」
紬さんが真顔で言うと、男は慌てて湯呑みを両手で囲った。
客の声に返事をしながら、紬さんは別の卓の減った茶にも気づいていた。
客に好かれる人だとは思っていたけれど、これは僕が想像していた以上だった。
昼の客が重なった時、紬さんは空いた膳を片手で下げながら、台所へ声を掛けた。
「美由紀、漬物が少なくなっているけど、もう出していい?」
「お願いします。奥の鉢から出してください」
「はい」
答えながら、紬さんは空いた椀を僕の盆へ載せた。
「黒馬さん、これは洗い場へ。こちらの卓は、まだ下げなくて大丈夫です」
「分かりました」
母娘の間へ入った僕まで、いつの間にか紬さんの調子で動かされていた。
夕方まで、その忙しさは続いた。紬さんは客の前では昨日と変わらず明るく、和真さんへの不満を一度も店へ持ち出さなかった。
閉店後、桑橋さんが、今夜はどうするのかと尋ねた。
「帰りませんよ。今夜は、あの人が自分でお客を迎える日ですから」
紬さんはきっぱり答え、借りた前掛けを畳んだ。
風呂敷は、その夜も店の奥に残った。
* * *
その夜、和真は帰途で塩鯖と豆腐、それに小さな徳利一本分の酒を買った。
米と味噌は家にある。前夜の大根の煮物も残っていた。大げさなものは要らんと自分で言った以上、焼き魚と汁、それに煮物があれば膳は整う。
布巾や器の場所は、昨日で覚えた。
それでも、鯖を焼きながら飯と汁の火を見て、煮物を温めるのは忙しかった。魚に気を取られると、酒の燗を忘れそうになる。
六時を少し過ぎて、仕事の者が一人やって来た。
和真は客を座敷へ通し、茶を出した。膳を運び終えた頃には、焼き魚だけが少し冷めていたが、食事として不足はなかった。
「奥さんは、今日はお留守ですか」
客に尋ねられ、和真は徳利を置いた。
「娘のところだ」
「それは、間の悪い日に伺いました」
「私が呼んだ。気にせんでよい」
短く答えて、客の盃へ酒を注いだ。
話の途中で飯を足し、汁を温め直し、徳利が空けば台所へ立つ。食べ終われば茶を出す。客を一人増やすために増えたものは、一人分の米と魚だけではなかった。
客は礼を言い、いつもより少し早めに帰った。
膳が二つ、空いた徳利と湯呑みが二つ、座卓の上に残っていた。
和真は袖をまくって片づけた。器を戻すのも、昨日ほど手間取らなかった。
最後に座敷を整え終えると、家の中は急に静かになった。
紬がいれば、客を送り出したあとにも、今日の魚は少し塩が強かっただの、酒はあれで足りただの、何かしら声があった。今夜は、片づけの済んだ座敷に何も残らない。
和真は時計を見た。
まだ帰らんのか。
一日目には、明日になれば帰ると思っていた。二日目の夜が来ても、紬の草履が玄関へ戻る音はしなかった。
待っていれば帰るという考えを、和真はそこで捨てた。
明日の朝、店が開く前に行く。
詫びる言葉までは考えなかった。ただ、こちらから迎えに行かなければ、紬は帰らない。それだけは、もう分かっていた。
* * *
一九四二年一月八日 朝
二泊目を明けた朝、紬さんは桑橋さんと並んで開店前の支度をしていた。
僕が表の卓を整えていると、戸が開いた。
入ってきた和真さんを見て、桑橋さんは驚きもせず、手にしていた小皿を置いた。
「おはようございます、お父さん」
「ああ」
紬さんは手を止めたが、自分からは何も言わなかった。
和真さんも、しばらく黙っていた。やがて、いつもと変わらない低い声を出した。
「帰るぞ」
「何をしにいらしたのかと思えば、それだけですか」
紬さんの返事は穏やかだったが、前掛けを外す様子はない。
「迎えに来た」
「それは見れば分かります」
会話は進んだようで、肝心なところだけが動かなかった。
桑橋さんは口を挟まず、汁の鍋へ戻った。僕も箸を並べ直したが、このまま何を待てばよいのかは分からなかった。
そこへ、表戸がもう一度開いた。
「朝からすみません。黒馬さんは――」
入ってきた紀伊巡査は、店の中にいる和真さんを見て言葉を止めた。
「警部補。こちらにいらしたんですか」
和真さんの顔が、紬さんへ向けていたものから変わった。
「紀伊。何しに来た」
「黒馬さんのことで、少し確認がありまして。年が明けてから一度、居所と今後の予定に変わりがないか、確かめておくことになっています」
紀伊巡査は僕へ向き直った。
「今日か明日、派出所へ来ていただけますか」
和真さんが先に僕を見た。
「黒馬さん。今も、この店に寝泊まりしているのか」
「はい」
「佐世保を離れる予定は」
「ありません」
和真さんは紀伊巡査へ視線を戻した。
「その程度の確認なら、私が聞いた。あとで派出所へ寄る」
「承知しました」
紀伊巡査はうなずいた。軽い用件が済んでも、すぐには帰らず、もう一度和真さんを見た。
「ところで、警部補は、なぜこちらに?」
店の中に短い沈黙が落ちた。
「飯を食いに来た。悪いか」
「いえ。悪くはありませんが……」
紀伊巡査は、まだ何も並んでいない客の卓を見た。
「はあ……。では、失礼します」
事情を分かったのか、分からないまま引き下がったのか、僕には判断できなかった。紀伊巡査は一礼し、店を出ていった。
和真さんは警察官の顔から夫の顔へ戻った。けれど、謝る言葉までは戻ってこなかった。
そうしているうちに、開店の時刻になった。
最初の常連客が入ってくるなり、紬さんと和真さんを交互に見た。
「お、今日も紬さんがおる。和真さんまでとは、朝から珍しいな」
続いて入った男が、戸口から笑った。
「和真さん、飯ならまだ早いぞ。紬さんを迎えに来たんじゃないのか」
「飯を食え」
和真さんが低く返したが、客は少しもひるまなかった。
「紬さんなら、もう一晩こっちにおってもらっても構わんぞ。昨日は茶が切れる前に来た」
「和真さんには悪いが、店はずいぶん助かったからな」
別の卓からも声が飛んだ。
紬さんは茶を運びながら、笑って返した。
「皆さん、朝から人の家の話ばかりなさらないで、まずご注文をどうぞ」
「注文はする。だが和真さん、迎えに来たなら、何か一つ言い忘れとらんか」
今度は、いちばん奥へ座った年かさの客だった。
和真さんは眉を寄せた。
「余計なことを言うな」
男たちは叱る声にも笑っていた。警部補としてだけではない、長い付き合いがあるらしかった。
客が増え始めても、和真さんは立ったままだった。紬さんも茶を配り、膳を運びながら、帰るとは言わない。
桑橋さんはしばらく二人をそのままにしていた。やがて新しい客の足音が近づくと、父親のそばへ寄った。
「お父さん」
「何だ」
「お母さんを迎えに来たんですよね」
「ああ」
「だったら、言うことがあるでしょう」
「……分かっている」
桑橋さんは声を落とした。
「分かっているだけでは、お母さんには聞こえません。お父さんも、言わなければ分からないとおっしゃったでしょう」
和真さんは返事をしなかった。
元日に、僕たちへ礼と詫びを省くなと言ったのは和真さんだった。桑橋さんは、それ以上は何も言わず、父親から一歩離れた。
和真さんは客の声が行き交う店内で、しばらく紬さんを見ていた。
「紬」
呼ばれた紬さんが、盆を置いた。
和真さんは一度口を結び、それから言った。
「……悪かった。一人増えるだけではなかった」
店の声が、一拍だけ弱くなった。
紬さんはすぐには笑わなかった。短いその言葉を、きちんと受け取るように和真さんを見た。
「次からは、決める前に私へ聞いてくださいね」
「ああ」
「聞けない時は、せめて決めたことを押しつけるのではなく、頼んでください」
「分かった」
紬さんはそこで、少しだけ目元をやわらげた。
「私も、声を荒らげすぎました。言い過ぎたところは、悪かったです」
和真さんは一度うなずいた。
「帰るか」
「はい」
紬さんが奥から風呂敷を持って戻ると、和真さんが黙って手を出した。
「自分で持てますよ」
「持つ」
短い返事だった。紬さんは風呂敷を取り返さず、和真さんへ渡した。
戸口へ向かう二人へ、先ほどの客が声を掛けた。
「お、話はついたか」
紬さんは振り返り、昨日までと同じ明るい顔で答えた。
「余計なお世話です」
店の中に笑いが広がった。
和真さんは風呂敷を持って戸を開け、紬さんと朝の通りへ出ていった。
僕は戸口まで出た。すぐに桑橋さんも隣へ来て、二人でその後ろ姿を見送った。
まだ二人の声が届く距離だった。
「飯は炊けた。客も迎えた。家のことも、どうにかなった」
和真さんは前を向いたまま言った。
「それなら、もう私がいなくても大丈夫ですね」
「それとこれとは違う」
「何が違うんです?」
和真さんは答えず、数歩進んだ。
「……二晩で分かった。やはり私には、お前がおらんと駄目だ」
紬さんの足が一瞬止まった。
和真さんは振り向かなかった。けれど歩調を緩め、紬さんが追いつくのを待っていた。
やがて紬さんが隣へ戻ると、和真さんの横顔を見て、ふっと笑った。
「二晩もかかって、やっと分かったんですか。まったく、しょうがない人ですねえ」
そう言って、紬さんは和真さんの腕を軽く一度叩いた。
「早く帰るぞ」
「はいはい」
二人はまた並んで歩き始めた。ほどなく、その歩調は自然にそろった。
「……本当に喧嘩してたんですかね」
「してましたよ。母が二晩もうちに泊まったんですから。あれでも、うちでは大喧嘩です」
「でも、もう全然そう見えません」
「喧嘩するときは本気です。でも、仲直りしたら引きずらないんですよ。昔から、ああです」
和真さんの手には二晩分の荷を包んだ風呂敷があり、紬さんは、もういつものようにその隣を歩いていた。




