第三十六章 風呂敷ひとつ
一九四二年一月六日
山川 紬は、夕飯の支度をほとんど終えたところで、玄関の戸が開く音を聞いた。
足音だけで和真だと分かる。紬は味噌汁の鍋を火から外し、台所から顔を出した。
「お帰りなさい。寒かったでしょう」
「ただいま」
和真は短く答え、紬へ外套を渡した。
「今日は、よい大根が手に入ったんですよ。二本ありましたから、一本は煮物にしました」
「そうか」
「もう一本は、明日、美由紀のところへ持っていこうと思って。あの子の店なら、煮ても漬けても使えるでしょう」
「それはよかったな。美由紀も助かるだろう」
ぶっきらぼうな返事だったが、紬にはそれで十分だった。和真は台所から漂う匂いへ鼻を向けた。
「大根か」
「ええ。今日は、よう味が入りましたよ」
「うまそうだ」
紬は機嫌よく笑い、和真の外套の襟を指した。
「それから、取れかけていた釦は付け直してあります。明日の朝も早いんでしょう」
「ああ。すまん」
座敷へ入った和真に、紬が茶を置いた。和真は湯呑みを両手で包んだ。
和真が一口飲んだあと、思い出したように言った。
「そうだ。明日の晩、仕事の者を一人連れて来る。飯を頼む」
紬は一度まばたきをした。
「まあ。明日の晩ですか。また急におっしゃるんですから」
困った声は出たが、まだ腹を立てたわけではなかった。これまでも、似たことはあった。
「何時頃になります? お酒は出しますか」
「六時頃だ。酒は少しでよい。大げさなものは要らん」
「そうですか。では、ある物を見て、足りない分は明日買ってきましょう」
紬は客用の膳と、米櫃の中身を頭の中で確かめた。今回も何とかするつもりだった。
「ただ、明日はその大根を持って、美由紀のところへ行くつもりでした。少し店も手伝ってこようと思っていたんです」
「それなら、午前のうちに行けばよかろう。無理なら別の日でもよい」
紬の笑みが、少しだけ薄くなった。
「もう、その方にはお話しになったんですか」
「話はついている」
「私へ聞く前に、ですか」
「一人増えるだけだ。いつもの飯で構わんと伝えてある」
それは、紬の手間を減らすつもりで言った言葉なのだろう。長く暮らしてきた紬には、それも分かった。
「一人増えれば、支度も買い物も増えるんですよ。座敷も整えますし、来る時刻に合わせて火も使います」
「だから、大げさなものは要らんと言っている」
「お客をお呼びして、いつもの晩ご飯をそのまま出すわけにもいかんでしょう」
「なら、美由紀のところは別の日にすればよい」
紬は和真を見た。
「私の予定は、あなたが先に決めてしまってから、動かせばよいものなんですか」
「そういう意味ではない。都合が悪いなら、そう言えばよかろう」
「言っています。明日は美由紀のところへ行くつもりだったと」
「だから、別の日にすれば済むと言っている」
和真の声には、まだ怒りよりも理屈があった。紬の胸には、その理屈で後ろへ回されてきた自分の用事が幾つも浮かんだ。
「前にも、決める前に一言聞いてくださいと申し上げましたね」
「あの時は、先方から急に頼まれた。断れる話ではなかった」
「ええ。ですから、あの時は私も何も言わずに引き受けました。その後も、帰りに人を寄らせると、その日の夕方におっしゃったことがありました」
「あれは茶を出しただけだ」
「茶だけでも、出す人間には支度があります」
「毎度のことではあるまい」
「毎度でなければ、私が自分の用事を後へ回してもよいんですか」
紬の声から、先ほどまでのやわらかさが消えた。和真も湯呑みを置いた。
「家のことは、おまえに任せている。何を出すかも、どう支度するかも、おまえが決めればよい」
「任せるのと、あなたが決めたことを後から私に言うのは違います」
「都合が悪ければ断る。先方には私から話す。それでよいだろう」
「先にお約束をして、私が嫌だと言えばあなたが困る形にしてからですか」
「困りはする。だが、無理なら仕方あるまい」
返事に嘘はなかった。断られれば、和真は本当に自分で始末をつけるつもりなのだろう。だからこそ、紬には腹が立った。
「そうやって、最後には私が引き受けると思っていらっしゃるでしょう」
「思ってはおらん」
「では、どうして先に決めるんです!」
和真の眉が動いた。声も一段強くなった。
「仕事の付き合いだ。その場で返事をせねばならんこともある!」
「それなら、せめて帰ってから頼む言い方があるでしょう。『飯を頼む』と決まったことだけ置かれて、私が何も思わんとお思いですか!」
「頼んでいるから、頼むと言ったんだ!」
和真は明日の一晩を見ている。紬は、その後ろへ積み重なった幾つもの「頼む」を見ていた。
「では、どうしろと言うんだ!」
「決める前に、私にも都合を聞いてくださいと言っているんです!」
「いつでも先に聞けるとは限らん!」
「聞けない時があることくらい分かっています。けれど、聞ける時まで同じことをなさるから怒っているんでしょう!」
「明日の一人くらいで、そこまで言うことか!」
「明日の一人だけの話ではありません!」
紬自身、声が大きくなっていると分かっていた。それでも、もう引き取れなかった。
「そこまでおっしゃるのでしたら、明日のことはご自分でなさってください!」
和真は紬を見返した。短い沈黙のあと、意地を曲げない声で答えた。
「分かった!なら、私がやる!」
「そうしてください!」
紬は替えの着物と身の回りの物を、小さな風呂敷包みにした。
座敷へ戻ると、和真は先ほどと同じ場所に立っていた。
「今夜のご飯は、できています。明日の晩は、ご自分でお願いします」
「どこへ行く」
「美由紀のところです」
和真の目が、風呂敷へ移った。
「今からか」
「ええ。ご自分でなさるのでしょう」
和真は何も言わなかった。
紬は火の元を確かめ、風呂敷ひとつで家を出た。
* * *
夕方の客が入り始める少し前、僕は桑橋食堂の卓を拭いていた。
戸が開き、紬さんが風呂敷を一つ持って入ってきた。いつもの明るさを残した笑顔で、まず帳場へ顔を向ける。
「こんばんは。ちょっとお邪魔してもいいかしら」
それから僕にも笑いかけた。
「黒馬さんも、こんばんは」
「こんばんは」
帳場にいた桑橋さんは、母親の顔と風呂敷を順に見た。
「お父さんと喧嘩したんですね」
「まあ。まだ何も言ってないでしょう」
「その風呂敷で分かります」
紬さんの笑顔が、少しだけ困った形になった。
「まったく、この子には隠せませんね」
「喧嘩って、家を出てきたんですか」
「黒馬さん、そんな顔をなさらなくても大丈夫ですよ。離縁してきたわけではありませんから」
紬さんは冗談を添えるように笑った。和真さんへ腹を立てているのは確かなようだったが、その怒りを僕たちへ向けてはいなかった。
「父と母は、たまにこうなるんです」
桑橋さんの声にも、慌てたところはなかった。
「美由紀。ずいぶん簡単に言うのね」
「でも、違いませんよね」
「違わないけれど」
二人のやり取りを聞いて、僕はようやく布巾を握る手から力を抜いた。
「それで、何があったんですか」
僕が尋ねると、紬さんは、客の入り始める戸口へ目を向けた。
「まだお店でしょう。話はあとでいいわ。奥に荷物を置かせてもらえる?」
「もちろん。奥へ置いてきて」
紬さんは奥へ向かいかけ、僕を振り返った。
「黒馬さん、あとで聞いてくださいね。今日は私にも、言いたいことが山ほどありますから」
「は、はい」
安心してよいのか、別の意味で身構えるべきなのか、僕にはまだ分からなかった。
紬さんは荷物を置くと、しばらく奥にいた。客が重なった時だけ店へ出てきて、戸口に近い卓へ茶を運んだ。
「お母さん、今日は休みに来たんでしょう」
「これくらいは手伝わせて。じっとしている方が落ち着かないのよ」
そう言って、空いた器を一度だけ下げる。さらに洗い場へ向かおうとしたところで、桑橋さんに止められた。
「続きは明日にしてください」
「はいはい。今日は美由紀の言うことを聞きますよ」
紬さんは素直に引き下がった。客の前ではいつもの調子を崩さず、和真さんの話を持ち出すこともなかった。
閉店後、桑橋さんが三人分の茶を入れると、紬さんは僕たちに向かい合って座った。
「それで、今度は何があったんですか」
桑橋さんが尋ねた途端、紬さんの顔から店にいる間の笑みが消えた。
「聞いてちょうだい。あの人ったら、明日の晩に仕事の方を連れて来ると、もう決めてから『飯を頼む』です。私はあなたのところへ来るつもりだったのに、別の日にすればよいですって」
紬さんは、そこでようやく一度息を継いだ。
「一人増えるだけだと言いますけれど、米を一人分増やせば済むと思っているんですよ。買い物も支度も片付けも、誰がするんです!」
僕は二度ほど相槌を入れようとしたが、入れられる隙を見つけられなかった。
桑橋さんは茶を一口飲んだ。
「お父さん、また決めてから言ったんですね」
「そうなのよ。前にも言ったのに。あの時は茶を出しただけだと言うんです。茶だけでも、出す人間には支度があるでしょう?」
「ありますね」
「それなのに、都合が悪ければ言えと言うんです。言いましたよ、私は。そうしたら、私の用事の方を動かせと言うんですから!」
桑橋さんは、勢いの増した母親の前へ湯呑みを少し押した。
「お母さん。まず、お茶を飲んで」
「飲んでいますよ」
紬さんは一口飲んだ。けれど、湯呑みを置くとすぐに続けた。
「仕事の付き合いを全部断れとは言っていません。それを最後には、明日の一人くらいでそこまで言うことか、ですよ。あの人は、いつも目の前の一件しか見ないんです」
僕は、これはどこで相槌を打つのが正しいのだろうと考えながら、黙って湯呑みを持っていた。
すると紬さんが、急に僕を見た。
「黒馬さんも、気をつけるんですよ」
「僕ですか?」
「ええ。美由紀に何か頼む時はね、自分で決めてから言うんじゃなくて、先に都合を聞くんです。夫婦だからって、何でも黙ってやってくれると思ったら駄目ですからね」
夫婦、という言葉が口から出たあと、卓の上に短い間が落ちた。
桑橋さんが湯呑みを置いた。
「お母さん」
「なあに?」
「なんで私と黒馬さんが夫婦になってるんですか」
紬さんは僕と桑橋さんを見比べた。
「……あら」
「あら、ではありません」
「まあ、そういうこともあるでしょう?」
「ありません」
「まだ分からないでしょう」
「お母さん」
桑橋さんの声が一段低くなった。紬さんは少しも悪びれず、茶をもう一口飲んだ。
「分かりました、分かりました。とにかくね、黒馬さん。男の人は、頼むと言えば頼んだことになると思ってはいけませんよ」
「まだ黒馬さんに言うんですか」
「大事なことですもの」
僕は返事に迷い、ひとまず曖昧にうなずいた。桑橋さんは小さく息をついたが、それ以上は話を広げなかった。
やがて言葉の勢いが落ち、卓の上の茶もぬるくなった。
「少しは気が済みましたか」
桑橋さんが聞くと、紬さんは唇を結んでから答えた。
「話した分だけはね。でも、今夜は帰りません。あの人が自分でやると言ったんですから、一度ご自分でなさればいいんです」
怒りは残っていたが、店へ来た時よりも肩の力は抜けていた。
「では、今夜は奥を使ってください」
「ええ。そうさせてもらうわ」
紬さんはその夜、山川家へ帰らず、桑橋食堂に泊まった。
* * *
紬が出てから、山川家は戸を閉める音まで大きく聞こえた。
和真はしばらく座敷に立っていたが、やがて台所へ入った。夕飯は、紬が言ったとおり出来上がっている。飯も汁も、和真が自分でよそえるように置かれていた。
湯を沸かすことも、飯を食うこともできる。和真は一人分の膳を運び、黙って食べた。
食べ終えた器を洗うにも、まず布巾を探した。
茶碗を戻す棚も覚えていない。同じ形のものを探し、その横へ重ねた。
一つ片づけるたびに、次にすることが残った。
明日の客には、米と味噌、残った煮物で何とかなる。足りない物は買い足せばよい。自分で決めた客なのだから、自分で支度をする。それくらいはできる。
そう考えて、鉄瓶の湯を湯呑みへ注ごうとした。
茶棚から出した湯呑みは、二つだった。
和真は片方を見て、それから元の場所へ戻した。
いつもなら、向かいに紬が座る時刻だった。家の中には、湯の鳴る音しかない。
紬は美由紀のところにいる。今夜は腹を立てたままでも、明日になれば帰るだろう。
和真は一人分の湯呑みを前に座った。
明日には帰る。
そう考えて、ひとりで湯を飲んだ。




