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AIは敗戦を知っている  作者: E


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第三十三章 一段上の記録

一九四二年一月二日


正月二日の朝も、桑橋食堂の竈には火が入った。


僕が米櫃から米を量っていると、桑橋さんが鍋の蓋を少し持ち上げた。昨夜から水に浸していた黒豆の匂いが、湯気と一緒に広がる。


「黒馬さん。そのあとは、表の戸をお願いします。私は煮しめを温めます」


「分かりました。湯は、もう少し見ておきますか」


「ええ。沸いたら教えてください」


昨日、山川家で聞いた話が、朝のやり取りにも少し残っていた。


僕が表の戸へ手を掛けると、桑橋さんが呼んだ。


「黒馬さん」


「はい」


「今日は、昼が落ち着いたら少し休んでください。昨日も店へ戻ってから、片づけまでしてもらいましたから」


「桑橋さんも休むなら、そうします」


「私のことは、私が決めます」


「では、休むかどうか、あとで聞きます」


桑橋さんは何か言い返しかけて、やめた。


「……それなら、聞いてください」


一瞬だけ目が合った。


昨日なら、ただの店の相談だった。今日はその後ろに、和真さんの「言わなくても分かると思うな」という声がついていた。


桑橋さんが先に鍋へ視線を戻した。僕も戸を開け、冷たい朝の空気を店へ入れた。


僕たちは、今日も恋人ではない。


けれど、昨日までとまったく同じように振る舞おうとする方が、かえって不自然だった。


* * *


昼の客が引くと、店の中には炭のはぜる音が戻った。


僕は裏口に近い腰掛けへ座り、片耳にイヤホンを着けた。桑橋さんは帳場で売れた数を確かめている。


「リサ。昨日のこと、どう思った?」


《どのことですか》


「和真さんと紬さんが、僕たちの今の関係を分かったうえで、その先の話をしていたこと」


リサは、すぐには答えなかった。


《山川夫妻は、美由紀さんが一人で店を守ってきたことを認めています。そのうえで、一人で生きられることと、誰にも頼らず生きることは違うと考えていました》


「うん」


そこまでは、いつものリサらしい整理だった。


《ただ、私は――少し羨ましいと思いました》


思わず、リサに聞き返した。


「羨ましい?」


《はい。自分の将来を、あそこまで気にかけてくれる人がいることをです。美由紀さんは困っていました。私だったら、あそこまで先のことを言われれば、やはり困ると思います》


リサは、そこでわずかに間を置いた。


《でも、少し嬉しいかもしれません》


山川夫妻の分析ではなく、リサ自身の感想だった。


「リサも、そんなふうに感じるようになったんだね」


《今のは、少し変な言い方だったかもしれません。私には、親に将来を心配された経験はありません》


「経験がないから、感じちゃいけないわけじゃないよ」


《そうですね。ただ、なぜ羨ましいと思ったのか、まだ正確には説明できません》


「何でもすぐ説明できなくてもいいんじゃないかな」


《禎さんが、そう言うとは思いませんでした》


「僕は、説明できないことばかり抱えているからね」


《確かに、そうでした》


いつもの調子で返したあと、リサはもう一度言った。


《私も、考えることが少し増えているようです》


「そうだね」


帳場から紙をめくる音がした。


顔を上げると、壁の暦に大きく二日とあった。


「……そういえば、今日は二日だね」


《はい。十二月二十四日に海軍へ提出した三件目の日付です》


僕は上着の内側からメモ帳を出した。


「いま、結果まで確認できているのは、香港だけ?」


《五件のうちでは、十二月二十五日の香港守備隊降伏が確認済みです。その前に伝えたウェーク島も、十二月二十三日の占領で一致しています》


「昨日の連合国共同宣言は?」


《宣言は一月一日付です。ただし、署名の手続きは一日から二日にまたがります。佐世保側が現時点で、宣言の成立、二十六か国、単独講和を行わないという内容まで、どこまで確認できているかは分かりません》


「日付が昨日だからって、昨日のうちに佐世保まで全部届くわけじゃない」


《はい》


僕は、メモ帳の一月二日を見た。


「今日はマニラだね」


《本日、日本軍がマニラへ入ります。ただ、すでに入城したかどうかは、私たちには確認できません》


「その次は、十一日のクアラルンプール」


《はい。その次が、米国現地時間一月十六日のTWA三便です。日本では十七日の昼に当たります》


僕は、最後に書いた日付を見た。


一月二十日。


「第五十二播州丸まで、十八日か」


《はい》


「ほかの予告が合うことは、船を動かしてもらうために必要だ。でも、播州丸だけは、予告どおりになってほしくない」


《私も、そう思います》


以前のリサなら、それを目的の再確認として答えたかもしれない。


今の声は、それだけではないように聞こえた。


「今日は、石橋大尉のところへ行くべきだと思う?」


《マニラについて、改めて日付を知らせる必要はありません。十二月二十四日付の記録に残っています》


「僕もそう思う。僕たちは、もう渡した。今度は向こうがどう確認して、どう扱うかを見る番だよ」


結果が出るたびに僕が押しかければ、海軍側の照合を僕の申告へ依存させかねない。


「何もせずに待つのとは違う。向こうが自分たちの情報で確かめる時間を置くんだ」


《分かりました。呼出しがあった場合に、これまでの記録と第五十二播州丸の期限をすぐ説明できるよう、整理は続けます》


「お願いするよ」


「黒馬さん」


顔を上げると、桑橋さんが帳場から見ていた。


「休むのではなかったんですか」


「いま、少し休んでいました」


「手に帳面を持っています」


「考え事をしながらでも、座ってはいました」


桑橋さんは、僕の前の椀を見た。


「では、考え事をやめて、お茶を飲んでください。冷めます」


「はい」


僕はメモ帳を閉じた。


* * *


一九四二年一月二日 佐世保鎮守府


正月二日でも、佐世保鎮守府の仕事が止まることはなかった。


当直者が廊下を行き交い、電話交換の呼出し音がときおり奥から響く。勤務に就いている者にとっては、暦の赤い日も、戦況報告を待つ一日でしかない。


ただし、石橋と天川は、どちらも本来なら非番だった。


石橋が昼前に庁舎へ顔を出したのは、十二月二十四日付の記録に、今日の日付があったからだった。


書類挟みを開く。


十二月二十五日、香港守備隊降伏。その行には、すでに照合結果が添えられている。


一月一日付、連合国共同宣言。海外通信の断片から、それらしい動きは入っていた。しかし、二十六か国が加わったことも、宣言の全文も、署名手続きの範囲も、佐世保で確認済みとはまだ書けない。


そして、一月二日、日本軍によるマニラ占領。


紙の上では、今日が来ていた。


石橋が天川の部屋をのぞくと、机に人影があった。


「中佐も、お見えでしたか」


天川は書類から顔を上げた。


「おまえもだろう」


「私は、記録が気になりましたので」


「私も似たようなものだ」


二人とも、それ以上は理由を説明しなかった。


午後になっても、マニラ占領を確認できる報告は来なかった。


石橋は、関係する報が入ったら知らせてくれと勤務者に伝え、庁舎で待った。


日が傾き、窓の外が暗くなった。


夜に入ってから、南方の戦況を伝える報告の中に、マニラ入城の第一報が届いた。日本軍部隊が現地時刻の午後五時四十五分、マニラ市内へ入ったとある。時刻と経路を確認し、別の報告とも突き合わせる。


石橋は、十二月二十四日の記録と報告を突き合わせた。


一月二日、日本軍によるマニラ占領。


まただ。


驚きが薄れたのではない。当たることが異常ではなくなりつつある。その方が、最初の一件より重かった。


石橋は照合用の別紙へ、出来事が起きた日と、佐世保で確認した日を分けて記した。十二月二十四日に記録された予告であることも、同じ欄に残した。


石橋は原記録と照合結果を携え、天川へ報告した。


「マニラについて、確認が取れました」


天川は報告と原記録を読み比べた。


「入城は今日の夕刻か」


「はい。佐世保で報を受けたのは、その後です。発生時刻と受領時刻は分けて記録しました」


天川は二つの日付欄を確かめた。


「黒馬がこれを口にしたのは」


「十二月二十四日です。記録後の書き足しはありません」


「これで、明確に一致したものはいくつだ」


「ウェーク島、香港、今回のマニラで三件です。連合国共同宣言は、宣言が出されたらしいことまでは捉えていますが、二十六か国と内容を含めた照合は、まだ終えていません」


「確認中のものを、一致へ入れるな」


「はい」


「クアラルンプールは十一日。民間機の事故は十六日」


「そして、第五十二播州丸は二十日だ」


「はい」


天川は椅子の背へ体を預けた。


ウェーク島だけなら、作戦の予定を知る者から聞いたと考える余地があった。香港も、戦況から降伏が近いと読んだと説明できなくはない。


しかし、十二月二十四日の時点でマニラ入城の日まで書き残し、それが一致した。


黒馬を信用するか、しないか。それだけを考えていればよい段階ではなくなっていた。


「石橋。これまでの報告に、結果を継ぎ足しているだけでは足りないな」


石橋は姿勢を正した。


「参謀長へ上げられますか」


「上げる。そのための資料を整える」


「黒馬が予告した日。記録を作成した日。予告した内容。実際に起きた日。こちらで確認できた日。この五つを、誰が見ても取り違えない形にしろ」


「結果が出たあとに話したのではないことを、原記録とともに示します」


「ウェーク島は十五日の記録、香港とマニラは二十四日の記録から分けて整理しろ。共同宣言は確認中と明記する。確かめていないものまで実績に数えれば、全部の記録が疑われる」


「承知しました」


「第五十二播州丸も、一緒に出す」


石橋は、第五十二播州丸の予告を記した紙を開いた。


「現時点では、まだ結果の出ていない予告です」


「だから出す」


天川は、日付を指で押さえた。


「一月二十日。スービック湾方面。掃海中に触雷し、沈没する。結果が出てから上げたのでは遅い」


「これまでに確認した船の所在、任務、命令変更が必要になった場合の経路も添えますか」


「分かる範囲で添えろ。現在地、任務、命令系統、連絡経路。未確認の部分を推測で埋めるな」


「はい」


天川は、机上の暦を見た。


「二十日まで、十八日しかない」


その声に、予告の的中を喜ぶ響きはなかった。


「参謀長へは、黒馬を未来を知る者として信じてほしい、と上げるのではない。事前記録された複数の情報が一致し、まだ結果の出ていない重要な一件が残っている。その事実を上げる」


「判断できる形にして渡す、ということですね」


「そうだ。判断を仰ぐところまでが、いまの我々の仕事だ」


石橋は確認済みと確認中の資料を分け、天川は上申の要点を書き出した。


作業を終えたとき、庁舎の廊下を行き交う足音は、昼より少なくなっていた。


天川は書類挟みを閉じた。


「これで、今日の黒馬の件は終わりだ」


「はい」


石橋が書類を抱えて立ち上がると、天川が不意に尋ねた。


「ところで、おまえは昨日、何をしていた」


石橋は、問いの意味を測りかねて天川を見た。


「昨日ですか」


「元日だ。休みだっただろう」


「中佐も、お休みだったはずですが」


「聞かれたことに答えろ」


仕事中の声ではあったが、目は少し笑っていた。


「午前は家におりました」


「午前は、か」


「……昼からは出ました」


天川は、それだけで分かったようにうなずいた。


「例の人か」


「まあ、そのようなものです」


「そのようなもの、で何年通すつもりだ」


「年数まで数えておられるのですか」


「数えんでも、長いことくらい分かる」


石橋は、抱えた書類の角を揃えた。


「中佐は、昨日はご家族と?」


「ああ。妻と過ごした。家を出ている子も、久しぶりに顔を見せた」


「それは、にぎやかでしたね」


「にぎやかというより、妻が朝から食べさせすぎる。もう子供ではないと言っても、帰ってくれば、あれも食べろ、これも持って帰れだ」


「奥様にとっては、いくつになってもお子さんなのでしょう」


「本人も同じことを言っていた。そう言いながら、出されたものは全部食べて帰った」


天川の口元に、仕事中には見せない笑みが浮かんだ。


「石橋。家庭を持てと、上官として命じるつもりはない」


「命じられても困ります」


「だろうな。だが、大事に思う相手を、仕事の余り時間にばかり置くな。相手は、おまえの仕事が終わるのを待つためにいるわけではない」


石橋は、少しだけ黙った。


「昨日も、同じことを言われました」


「誰にだ」


「例の人にです。正月まで仕事の話をするのか、と」


「したのか」


「少しだけです」


「少しで済んだ顔ではないな」


「途中から、聞いてもらえなくなりました」


天川は声を立てずに笑った。


「賢い人だ」


「はい。私も、そう思います」


答えたあとで、石橋は自分の言葉に気づいたらしく、視線を外した。


「中佐こそ、正月二日まで職場へ来て、奥様に何と言われるのですか」


「朝は、少し顔を出してくると言った」


「もう夜です」


「帰れば、分かっていると言われるだろう。あれは怒る前の言葉だ」


「それでは、早くお帰りになった方がよろしいのでは」


「おまえに言われたくはない」


二人の間に、短い沈黙が落ちた。


天川は椅子から立った。


「今日は、もう終わりだろう」


「はい。あとは、明日整えます」


「一杯行かんか」


石橋は、少し驚いた顔をした。


「中佐からお誘いいただくとは思いませんでした」


「嫌なら帰る」


「行きます」


二人は外套を取り、まだ勤務の続く者たちへ声を掛けて庁舎を出た。


参謀長へ上げる書類は、天川の机に残した。


今夜だけは、二人とも仕事の話をしないつもりで歩き始めた。


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