第三十二章 娘の笑う声
一九四二年一月一日
和真さんが奥の部屋へ下がると、座敷には僕と桑橋さん、紬さんの三人が残った。
襖が閉まり、さっきまでより少しだけ静かになった。
紬さんは空いた盃を重ね始めた。
桑橋さんは、しばらく閉まった襖を見ていた。
「お母さん」
「なあに?」
「昨日、お父さんには、ちゃんと話したんですか」
「ちゃんと話しましたよ」
「黒馬さんと私は、そういう間柄ではないって?」
「それも、話しました」
「……では、どうしてお父さんまで、あんな話をするんですか」
「あんな話とは?」
「礼を言えとか、悪ければ詫びろとか、言わなくても分かると思うなとか」
桑橋さんは、さっきの食卓を一つずつたどるように言った。
「不満を溜めるな、別々に過ごす時間も残せ、店のことと暮らしのことを混ぜるな。それに、いつかはこの先を二人で話せって」
「ずいぶん、よう覚えとるじゃないの」
「忘れられる話ではありません。どうして、そんなことを黒馬さんと私に言うんですか」
紬さんは、重ねかけた盃から桑橋さんへ目を向けた。
「昨日、話したと言ったでしょう。お父さんは、あなたたちが今、恋仲でも、夫婦になる約束をした仲でもないことを知っています」
僕も紬さんの顔を見た。
「ということは、ご主人も、僕たちがそういう関係ではないと、初めから分かっていたんですか」
「はい。黒馬さんは店を手伝ってくださって、いまはそこで寝泊まりしている。それ以上のことは、まだ何もないと、そのまま話しました」
紬さんは、少しだけ笑った。
「お父さんから最初に聞かれたのはね、『その人とは、そういうことにはならんのか』ということでしたよ」
桑橋さんが、ゆっくり顔を上げた。
「……今は違うと聞いたあとで、ですか」
「ええ。いまのお二人がどうかではなくて、この先も、そういうことにはならんのかと聞いたんです」
「お母さんは、何と答えたんですか」
「私に分かるはずがないでしょう。二人が決めることです、と答えましたよ」
桑橋さんは、本気で戸惑っていた。
「それなら、どうして夫婦の話までしたんですか。男は女を守るとか、この先を成り行きにするなとか。今の私たちに言うことではないでしょう」
「だからでしょう」
紬さんは、あっさり答えた。
「何が、だからなんですか」
「お父さんは、今の話をしとったんじゃありません。もし、この先、お二人が長く一緒に生きることになった時の話をしとったんです」
座敷が静かになった。
「……もし、この先?」
「ええ。いまは何もない。それは二人とも分かっています。でも、お父さんは、その先がないと決まったわけでもないと思っとるんです」
桑橋さんは、すぐには言葉を返せなかった。
紬さんは僕にも目を向けた。
「黒馬さんに、美由紀とどうこうしてくださいと迫っているわけではありません。今すぐ何かを決めてほしいとも思っていません」
「はい」
「これからも何もないかもしれません。それは、お二人が決めることです」
紬さんは、そこで一度、桑橋さんの手元を見た。
「でも、もし美由紀がこの先もう一度誰かへ心を寄せて、その方が黒馬さんで、お二人が夫婦として長く支え合って生きていくことになったなら。お父さんも私も、嬉しいと思っています」
桑橋さんは、ゆっくりまばたきをした。
「……お父さんも、そこまで思っているんですか」
「ええ。もし二人がいつか一緒になるなら、自分たちが若い頃、言葉が足りずに何度もすれ違ったような遠回りを、せんで済むようにと思ったんです」
「最初から、そう言ってください」
「最初に言ったら、あんたは『そういうことではありません』と言って、そこで終わらせたでしょう」
「実際、そういうことではありません」
「いまは、でしょう」
「お母さん」
「先のことまで決めつけとるんじゃありませんよ。先のことは分からんと言っとるんです」
紬さんの先走りは変わらないのに、言葉には押しつけとは違う慎重さがあった。
「では、お父さんが黒馬さんを呼んだのも」
「娘の恋人だと思ったからではありません」
紬さんは、今度はきっぱり言った。
「すん吉さんが亡くなってから、あんたが初めて、これほど自分の暮らしへ入れた方だからです。どんな方か、一度会って、自分の目で見ておきたいと言いました」
桑橋さんは、閉じた襖へ目をやった。
「それで、あんなに私たちを見ていたんですね」
「見ていましたね。黒馬さんが何を言うかだけじゃなく、美由紀が黒馬さんへどう返すかも」
紬さんの笑みが、静かなものへ変わった。
「すん吉さんが亡くなってからの美由紀を、私たちはずっと見てきました」
桑橋さんは、まっすぐ紬さんを見た。
「あんたは実家へ帰ってきても、前より静かになりました。笑わなくなったわけではありませんよ。でも、笑ったあと、ふっと一人へ戻るような顔をすることが増えましたよ」
「そんな顔は、していません」
「店は大丈夫、私は大丈夫と、そればかり言って。弱音を聞かせまいとしていることくらい、お父さんにも私にも分かりました」
桑橋さんは何か言おうとして、口を閉じた。
「お父さんは、何も言わなかったでしょう」
「はい」
「あの人は、あんたが帰ったあとには、決まって『今日はどうだった』と私に聞きました。私が元気そうだったと答えれば、『そうか』としか言いません。それでも、毎回聞きました」
閉じた襖の向こうにいる和真さんの、短い返事が聞こえるようだった。
「店を閉じて、また開けて、一人で仕入れも料理も勘定もして。映画にも行きましたし、町の方々とも変わらず言葉を交わしてきました。一人で生きられない娘だと思ったことはありません」
紬さんの声に、母親らしい力が入った。
「ようここまで店を守ってきたと、お父さんも私も誇りに思っとります」
桑橋さんは視線を落とした。
「じゃあ、なぜ」
「一人でできることと、一人で全部を抱えることは、同じじゃないからよ」
紬さんは、重ねた盃へ両手を添えた。
「美由紀、あんたは、一人になってから、ますます人に頼らんようになりました。困っていても大丈夫と言って、自分で済ませる。私たちが手を出しすぎると怒るでしょう」
「三十日に、店へ行ったでしょう」
「はい」
「実は、すぐに戸を叩いたんじゃありません。最後のお客さんが出たところへ着いて、少しだけ外に立っていました」
「どうして、そんなことをしたんですか」
「店の中から、美由紀の笑う声が聞こえたからです」
桑橋さんが僕を見た。僕も、あの日の店じまい前を思い返した。
「仕事の話の途中で、黒馬さんが何か言って、美由紀がすぐ言い返して。それでも、二人ともまた笑っていましたね」
「聞いていたんですか」
「ほんの少しだけですよ。黒馬さんが椅子を揃えて、美由紀が帳場を見て、次にすることを二人で当たり前のように話しとった」
紬さんは、懐かしいものを見るように目を細めた。
「久しぶりに、あの子があんなふうに笑っているのを見たと思いました」
「お母さん」
「すん吉さんと一緒にいた頃の美由紀を、ほんの少し思い出したんです」
桑橋さんの視線が、僕へ動いた。
「違いますよ」
紬さんは、すぐに続けた。
「黒馬さんを、すん吉さんに重ねたんじゃありません。代わりになってほしいとも思っていません」
紬さんは僕を真っすぐ見た。
「私が思い出したのは、誰かと一緒にいて、美由紀が肩の力を抜いて笑っていた姿です」
「家へ帰って、そのままお父さんに話しました。いまはそういう間柄ではないけれど、美由紀が黒馬さんといる時は、前より明るく見えたって」
「それを聞いて、お父さんが、さっきのことを聞いたんですか」
「ええ。『その人とは、そういうことにはならんのか』と」
紬さんは、もう一度ゆっくり言った。
「すん吉さんを忘れなさいなんて、思っていません」
「すん吉さんと生きたことは、美由紀の大事な人生です。それを大事にしたまま、この先、別の誰かと生きることになっても、何もおかしくはないでしょう」
「この先、お二人がどうなるかは分かりません」
「ただ、もしその日が来るなら、お父さんも私も反対はしない。むしろ、美由紀がもう一度、誰かと一緒に笑って暮らせるようになって、その方が黒馬さんなら、嬉しい。そう思っとるんです」
すぐに返すべき言葉が、見つからなかった。
桑橋さんは、素性の分からない僕へ食事と寝場所を与え、今では忙しい時の客席まで任せてくれている。
大切な人かと問われれば、否定する理由はなかった。
けれど、僕には、帰りたい家がある。
里香と拓海は、年を越す僕がどこにいるかも知らない。二人を忘れて、別の先を考えることはできなかった。
「桑橋さんは、僕にとって大切な方です」
言葉にできたのは、そこまでだった。
「ただ、この先のことを、いまお約束することはできません」
紬さんは、急かすような顔をしなかった。
「それでいいんです。約束してくださいとは、はじめから言っとりません。願いは願いです。どうするかは、お二人が決めることです」
紬さんは、膝の上に手を揃えた。
「私たちの願いが先に出すぎましたね。お二人が恋仲だと思い込んでいるようなことを言って。困らせて、ごめんなさい」
横から、桑橋さんの小さな息が聞こえた。
「本当に、ずっと勘違いしていると思っていました」
「そう思わせたのは、私です。そこは謝ります」
「分かっていて、先の話までしたんですね」
「親ですもの。先まで考えることもあります」
紬さんは申し訳なさそうにしながらも、そこだけは譲らなかった。
「ほんとうに、お母さんは」
桑橋さんは、呆れたように言った。
けれど、その声には、昨日までの焦りはなかった。
そのとき、奥の襖が開き、和真さんが戻ってきた。
「まだ、店の話をしているのか」
「いいえ。お父さんも、黒馬さんと私がそういう間柄ではないと知っていたと、今聞いたところです」
桑橋さんが、和真さんへ真っすぐ言った。
和真さんは、わずかに紬さんを見た。
「紬から、今はそうではないと聞いている」
「なら、どうしてあんな話をしたんですか」
「二人で店を回しているのは、事実だろう」
「それは、そうですけど」
「私は、先のことを決めたつもりはない」
和真さんは、僕へも目を向けた。
「ただ、すん吉さんが亡くなった後、美由紀がこれほど自分の暮らしの中へ入れた男は、黒馬さんが初めてだ。どういう人か、一度会ってみたくなってな」
それだけ言うと、和真さんは一度口を閉じた。
「紬だけの話ではない。私も、二人がいつかそうなればと思った」
桑橋さんが、わずかに目を見開いた。
「お父さんも、ですか」
「だが、決めるのは二人だ。私たちが決めることではない」
和真さんは、僕と桑橋さんへ順に頭を下げた。
「私たちの考えを先に出して、二人を困らせたなら、すまなかった」
「お父さんが、そこまで言うとは思いませんでした」
「詫びるべき時には詫びろと、お前たちに伝えたばかりだ」
和真さんはそう言って、元の席へ戻った。
紬さんは、何か解決したようにうなずいた。
「ほら、お父さんも、ちゃんと謝ったでしょう」
「余計なことを言わんでよい」
桑橋さんは、もう一度深く息をついた。
「両親に勘違いされていた方が、まだ説明は楽でした」
「これで、分かったでしょう」
紬さんは明るく言った。
「分かったから、困っているんです」
紬さんは、それでも笑っていた。
* * *
帰り支度をすると、和真さんが僕の羽織の襟を見た。
「着物は、正月のあいだ使えばよい。店が始まれば、着物のままでは働きにくいだろうが」
「ありがとうございます。汚さないように使わせていただきます」
「使うものは、少しは汚れる」
和真さんはそう言って、紬さんへ見送りは戸口まででよいと告げた。
それを信頼と呼ぶには早い。それでも、すぐ店から出すべき男だとは、思われていないらしかった。
紬さんは戸口まで来ると、僕たち二人へ言った。
「今度は、お店が忙しくないときに、また二人で来なさい」
「お母さん」
「今度は、先の話はしませんから」
「信じられません」
「それは、来てから確かめてください」
そのとき、背後から和真さんの声がした。
「まあ、仲良うしなさい」
紬さんは振り返ると、和真さんの腕を軽くたたいた。
「お父さんったら。せっかく先の話はせんと言ったところでしょう」
「先の話ではない。今の話だ」
最後まで、紬さんは紬さんだった。
* * *
山川家を出ると、午後の空気は朝より少しやわらかくなっていた。
僕と桑橋さんは、行きと同じ道を並んで歩いた。
しばらく、どちらも話さなかった。
「……母が、すみません」
桑橋さんが先に言った。
「桑橋さんが謝ることではありません」
「最初から分かっていたなんて、思いませんでした」
「僕もです」
それだけ言うと、また歩く音だけになった。
店の仕事の話へ戻しても、今日は和真さんの言葉が後ろについてくる。
「明日からも、店のやり方は今まで通りでいいですよね」
桑橋さんが、少しだけ硬い声で言った。
「もちろんです」
「お父さんの言葉を聞いて、勝手に仕事を増やさないでください」
「それなら、必要なことは言葉にしてください」
桑橋さんはこちらを見た。
「そういうことです」
それでも、口元にはわずかな笑いが戻っていた。
「ひとつだけ、正直に言ってもいいですか」
「なんですか」
「和真さんが『桑橋さんは無理をしているときほど、大丈夫と言う』とおっしゃったのは、かなり正しいと思います」
「黒馬さん」
「さっき、お父さんから、気づいたことは言葉にするよう教わったばかりです」
「父の話を、私をからかうために使わないでください」
「からかってはいません。無理をしているように見えたら、決めつけずに尋ねます」
桑橋さんは、すぐには返さず、僕を見た。
「……それなら、聞くだけにしてください。私が大丈夫と言ったあとまで、勝手に仕事を増やさないでください」
「分かりました」
桑橋さんは、一度だけ深く息をついた。けれど、行きに見せたような緊張の色は、もう消えていた。
僕たちは、同じ速さで桑橋食堂へ戻った。
僕と桑橋さんは、今日も恋人ではない。両親も、最初からそれを分かっていた。
それでも、山川家で語られた「先の話」だけは、帰り道のあいだ、二人のあいだから消えなかった。




