第三十一章 家族の席
一九四二年一月一日 朝
漆黒の角帯を前に、僕は二度目の結び目をほどいた。
「また、違いますか」
「今度は、おしいです」
桑橋さんは僕の手の位置を直し、もう一度締めさせた。
借りた濃紺の着物は、桑橋さんのお父さんが若い頃に着ていたものだ。長襦袢の襟から順に教えてもらったが、帯を結ぶだけで開店前の準備より手順が多く感じられた。
「ここを押さえて、こちらを通します」
「はい」
「そこで手を離したら、また緩みます」
「離していません」
「離しかけました」
反論できず、指に力を入れ直した。
桑橋さんは帯の結び目を確かめると、一歩離れて僕を見た。
「大丈夫です。裾も、それなら踏みません」
「着方だけで、こんなに緊張するとは思いませんでした」
「着物のせいだけですか」
「たぶん、半分くらいは」
僕が答えると、桑橋さんは小さく笑った。
残りの半分は、今日会う父親のせいだった。
紬さんの話し方を見るかぎり、桑橋さんの両親は、僕たちを男女の間柄だと思っている。いくら違うと説明しても、娘の店に男が寝泊まりし、毎日一緒に働いているという事実の方が、強く残っているらしい。
「黒馬さん」
「はい」
「昨日、話したことは覚えていますね」
「自分から家族のことは話さない。聞かれなければ、何も話さない」
「聞かれたら」
「思い出せませんと、僕が答えます」
桑橋さんはうなずいた。
「店を出る約束もしません」
「それは、私も話します」
着慣れない着物の襟を探るより、返事を間違えないようにする方が難しそうだった。
「では、行きましょうか」
「はい」
桑橋さんは僕の羽織の襟を最後に一度だけ直し、すぐに手を離した。
表戸を開けると、元日の通りはふだんより静かだった。閉じた店の前に正月飾りがあり、着飾った子どもが親に手を引かれて歩いている。遠くから、いくつか重なった笑い声が聞こえた。
桑橋さんは一度、僕の草履の足元を見た。
「歩けますか」
「そこまで信用がないんですか」
「草履に慣れていない方への確認です」
昨日と同じ返事に、僕は笑った。
「大丈夫です。転んだら、お父さんに会う前から失敗したことになりますから」
「そういう言い方をするから、会いに行く方も緊張するんです」
そう言いながら、桑橋さんの口元にはわずかな笑みがあった。
僕たちは、元日の佐世保を並んで歩いた。
* * *
昼前、桑橋さんの実家の前に着いた。
桑橋さんが戸を叩くと、すぐに紬さんの声が返ってきた。
戸を開けた紬さんは、僕たちを一目見るなり、明るく笑った。
「まあ。二人とも、よう来ました」
紬さんの視線が、僕の濃紺の着物と桑橋さんのあいだを往復した。
「やっぱり、よく似合っとる。美由紀が着せたと?」
「着せてはいません。着方を教えただけです」
「同じことじゃないの」
「違います」
「そう。でも、襟も帯もきれいですよ」
紬さんは僕の返事を待たず、二人を家へ招き入れた。
桑橋さんが小声で言った。
「やっぱり、分かっていません」
「そのようですね」
紬さんは聞こえていたはずだが、何も言わなかった。
「お父さん、お二人が来ましたよ」
奥へ声を掛けると、男性が一人、座敷の奥から立ち上がった。
セピア色の写真の中で、真っすぐ前を見ていた顔だった。
その男性は、僕の顔を見たあと、濃紺の着物へ一度だけ目をやった。
「山川 和真です」
「黒馬 禎です。お正月にお邪魔します」
僕は座敷の入り口で、深く頭を下げた。
「着物をお借りしました。ありがとうございます」
和真さんは、僕の裾から肩までを見た。
「丈は合うようだ」
「はい。桑橋さんに、着方を教えていただきました」
「そうか」
和真さんはそれ以上、着物には触れなかった。
「まずは座りなさい。年頭の客を立たせたままでは、話もできん」
促され、僕は桑橋さんの隣へ座った。向かいに和真さん、その横に紬さんが座る。
四人で新年の挨拶を交わした。
それが済むと、紬さんがすぐに僕と桑橋さんへ茶を出した。
「さあ、二人とも。朝から満足に食べていないでしょう」
「私は食べてきました」
「黒馬さんは?」
「僕も、いただいてきました」
「それなら、少しだけにしましょうね」
紬さんは、始めから少しで済ませるつもりはなさそうだった。
膳には雑煮と黒豆、蓮根とごぼうの煮しめが並んだ。
「熱いから、気をつけて。美由紀、黒馬さんの餅が食べにくそうなら、小さくしてあげなさい」
「お母さん。黒馬さんは子どもではありません」
「着物に慣れていないと、袖を汚すかもしれんでしょう」
「餅と袖は関係ありません」
「でも、そばで見てあげれるでしょう」
桑橋さんは反論しようとしたが、和真さんが茶を一口飲んだため、言葉を飲み込んだ。
僕は自分で餅を箸で切り、無事に口へ運んだ。
「大丈夫です」
「そうですね」
桑橋さんが答えた。言葉は紬さんへ向けたものだったが、何かひとつ証明したような声だった。
和真さんが、そこで初めてわずかに口元を緩めた。
* * *
雑煮の椀が空く頃には、最初の固さは少し薄れていた。
紬さんが小さな徳利を持ってくると、和真さんは盃を二つ出し、僕へ一つをすすめた。
「飲めるか」
「はい。いただきます」
「無理はせんでよい」
和真さんは僕の盃へ少しだけ酒を注ぎ、自分の分も注いだ。
紬さんは、桑橋さんの前にも盃を置いた。
「美由紀は、少しにしておきなさい」
「分かっています」
「店の方は、正月明けも今までどおりに開けるのか」
和真さんは桑橋さんに尋ねた。
「はい。仕入れの都合はありますけど、いつもどおりです」
「黒馬さんも、今までどおり手伝うのか」
「そのつもりです」
僕は答えた。
「では、いまは二人で店を回しているようなものか」
桑橋さんの背中が少し伸びた。
「店のことを決めるのは私です。黒馬さんには、客席と洗い場を中心に手伝っていただいています」
「決める者と、動く者が別でも、かみ合っていれば店は回る」
和真さんは僕を見た。
「娘が指図するまで待っているのか」
「最初は、そうでした。でも、いまは客の様子と桑橋さんの動きを見て、自分にできることを先にしています。献立や仕入れは、桑橋さんの領分です」
「自分の領分は、分かっているということか」
「はい。勝手に越えれば、店のためにもなりません」
和真さんはすぐに返さず、桑橋さんを見た。
「そうか」
短く言って、酒を一口飲んだ。
和真さんは僕の話を遮らず、答え方まで見ているようだった。本署で話を聞かれたときの感覚が、少しよみがえった。
和真さんは空いた盃に気づくと、注ぐ前に桑橋さんへ目を向けた。
「もう少し、飲むか」
「いただきます」
それを聞いてから、和真さんは桑橋さんの盃へ注いだ。
紬さんは、その手元を見て小さく笑った。
「むかしは、聞く前に注いとったのにね」
「昔の話だ」
「その昔が、一度や二度じゃなかったから、覚えとるんです」
和真さんは言い返さず、自分の盃にだけ酒を足した。
「良かれと思ってしたことでも、相手がそう受け取るとは限らん」
「お父さんが、そんなことを言うようになったのは、だいぶ後ですよ」
「だから、昔の話だと言っている」
和真さんの声はまだ固かったが、紬さんは楽しそうだった。
桑橋さんは、両親のやり取りを止めるでもなく聞いていた。僕と目が合うと、また話が違う方へ進んでいると言いたげに、わずかに眉を上げた。
和真さんは、それに気づいたのかどうか、盃を置いて続けた。
「同じ場所で朝から晩まで顔を合わせていれば、意見が違うこともあるだろう」
「店のやり方についてなら、あります」
桑橋さんは、先回りするように答えた。
「喧嘩はせんのか」
「喧嘩はしません」
「桑橋さんに叱られることはあります」
僕が言うと、桑橋さんがすぐにこちらを見た。
「叱っていません。危ないことをしようとした時に、止めているんです」
「それを叱られると言うんじゃないですか」
「違います」
紬さんが口元へ手を当てた。和真さんは僕と桑橋さんを見比べ、わずかに口元を緩めた。
「意見が違うこと自体は、悪くない。違うのに黙って、分かったつもりになる方がいかん」
和真さんは、今度は紬さんへ視線を移した。
「私は若い頃、言わんでも分かると思っていた」
紬さんが、僕たちへ分かるように和真さんを指して笑った。
「ええ。言わなくても分かると、本気で思っていたんですよ、この人は」
「何度も言わんでもよい」
「一度や二度で済まなかったからです」
「今は、言わんものは分からんと知っている」
「分かるまで、ずいぶん掛かりましたけどね」
「だから、今こうして言っている」
和真さんは僕たちへ向き直った。
「してほしいことがあるなら言え。嫌なことがあるなら、それも言え。相手が自分で察すると思うな」
「お父さん、さっきから何の話をしているんですか」
「人と長く一緒にいる話だ」
「黒馬さんと私は、店で一緒に働いているだけです」
「店で長く一緒におるなら、聞いておいて損はない」
和真さんは、そう言って自分の盃へ酒を足した。
「それから、礼と詫びを省くな」
「礼と、詫びですか」
僕が聞くと、和真さんはうなずいた。
「長く一緒にいると、してもらうことが当たり前になる。近しい相手ほど礼を言わなくなる。悪かったと思っても、意地を張って詫びなくなる」
「あなたが礼を言えるようになるまでにも、ずいぶん掛かりましたけどね」
紬さんが言うと、和真さんは眉を寄せた。
「それも、だから言っている」
「では、失敗した本人からの話ということですね」
「そう受け取ればよい」
紬さんは満足そうにうなずいた。
「飯を出してもらったなら礼を言う。迷惑を掛けたなら詫びる。近しい者ほど、そこを省くな」
僕は桑橋食堂で食べた食事と、洗い場に重ねた器を思い浮かべた。
「はい。覚えておきます」
「黒馬さん、そんなに真剣に聞かなくても」
「悪い話ではないと思います」
「悪い話ではありませんけど、どうして私たちが聞くんですか」
和真さんは、その問いには答えず、黒豆を一粒口へ運んだ。
「気に入らんことも、溜めるな。十も溜めて、十一個目で初めから全部ぶつけるのが一番いかん」
「それは、誰のことですか」
紬さんが尋ねた。
「二人ともだ」
「私は一つ目から言っていましたよ」
「言い方の話もしている」
「ほら。いまでも私の方だけ悪いように言うでしょう」
「そういうところも含めて、二人ともだ」
和真さんは少し困ったように酒を飲んだ。紬さんは楽しそうだった。
「一つ目か二つ目で話せば済む。ただし、腹を立てている時に、相手を言い負かすことだけ考えるな。勝っても、二人の間には何も残らん」
「お父さんが言い負かされた時に覚えたんですか」
「美由紀」
低い声だったが、桑橋さんをたしなめるより、返す言葉に困ったように聞こえた。
僕が盃へ視線を落とすと、桑橋さんも笑いをこらえていた。
和真さんは咳払いを一つした。
「それと、朝から晩まで一緒におるなら、なおさら別々に過ごす時間も要る」
桑橋さんが顔を上げた。
「別々に、ですか」
「どこへ行くにも、何をするにも、二人一緒でなければならんというものでもない。美由紀には美由紀の付き合いがある。黒馬さんにも、黒馬さんの時間がある」
「僕たちは、もともと別々に過ごしています」
「それなら、それでよい。長く一緒におるようになっても、片方の世界を全部取り上げるなということだ」
「長く一緒にいるようになっても、というのは」
桑橋さんが、ゆっくり言った。
「店を続けるなら、先の話にもなるだろう」
「お父さん。どうして夫婦みたいな話を、黒馬さんと私にするんですか」
「夫婦だけの話とは言っていない」
否定はしたが、和真さんは僕たちから目をそらさなかった。
「一緒にいるからといって、何もかも同じである必要もない。食べたい物も、好む物も、付き合う相手も違って当たり前だ。相手まで自分と同じにしようとするな」
「母さんは甘い物が好きだが、私はそうでもない」
「それでも、私のお汁粉を半分食べたことがありましたね」
「残すともったいないと思っただけだ」
「そういうことにしておきましょう」
二人のやり取りには、長く暮らした時間がそのまま残っていた。
和真さんは、今度は店の話へ戻すように僕を見た。
「店で意見が違ったことを、飯を食う時まで引きずるな。反対に、二人の間で腹を立てたことを店へ持ち込めば、客にも分かる」
「仕事の話と、それ以外の話は分けろということですか」
「できるだけはな。きれいに分けられん時もある。だから、持ち込んだと気づいた方が言えばよい」
「私たちは、そういう間柄ではありません」
桑橋さんの否定は、初めより少し疲れていた。
「店を二人で回す話をしている」
和真さんは真顔で返した。紬さんは、うつむいて笑いをこらえていた。
「役目も、男だから、女だからと決めすぎる必要はない。できる方がすればよい」
和真さんは、僕の手元の盃と、桑橋さんの前の空いた小皿を見た。
「ただし、できる人間一人へ全部を押しつけるのも違う。気づいた者が動け。分からなければ聞け」
「それは、店でもそうしています」
「なら続ければよい。美由紀が決める仕事へ勝手に口を出さず、黒馬さんに任せた仕事へ美由紀が後ろから何度も手を出さん。任せると決めたなら、相手を信用しろ」
「お父さん。店の中を見たわけでもないのに、ずいぶん具体的ですね」
「母さんから聞いた」
「どこまで話したんですか」
「あんたが黒馬さんへ、言う前に動いてくれると話していたことまでですよ」
紬さんが明るく答えた。
桑橋さんは、また始まったと言いたげに目を閉じた。
和真さんは、二杯目の酒が回ったのか、初めより声をやわらげた。
「男は女を守るものだと、私らの頃はよく言われた。私も若い頃は、前に立って何でも自分で決めるのが、守ることだと思っていた」
紬さんが、黙って和真さんを見た。
「だが、違った。母さんには母さんの考えがある。美由紀には美由紀の考えがある。守ると言って、相手が自分でできることまで取り上げるのは違う」
「良かれと思って、頼んでもいないことまで先に決めたことがありましたね」
「……あった」
「何度も」
「昔の話だ」
和真さんは短く認めてから、僕を見た。
「黒馬さん。本人にできることまで奪えば、助けるつもりでも、相手を信用していないだけになる」
「はい」
「だが、あいつが一人でできると言ったからといって、何もかも一人でやらせておけばよいわけでもない」
和真さんは桑橋さんを見た。
「美由紀は強い。一人でも店をやってきた。それは分かっている。だからといって、一生、何もかも一人で背負わせておけばよいとは思っていない」
「それを、どうして黒馬さんの前で言うんですか」
「今、あいつの一番近くにいるのが黒馬さんだからだ」
和真さんの答えは、言い逃れのないものだった。
僕は桑橋さんの父親に、娘を任されたわけではない。それでも、すぐ隣にいる者として何を見落とすなと言われているのかは分かった。
「無理をしているときほど、美由紀は大丈夫だと言う」
「お父さん」
「違うか」
桑橋さんは、すぐには答えなかった。
「少し、分かります」
僕が言うと、桑橋さんがこちらを見た。
「黒馬さんまで、何を言うんですか」
「大丈夫と言う回数が増えた時は、気をつけようと思います」
「勝手に決めないでください」
「だから、聞きます」
和真さんが、わずかにうなずいた。
「それでよい。守ることと、相手の人生を勝手に決めることは違う」
そして、和真さんは盃を置いたまま、しばらく僕たちを見た。
「もう一つある。居心地がよいからといって、二人のこの先を何年も成り行きに任せるのはよくない」
座敷の空気が、一段静かになった。
「……何の話ですか」
桑橋さんの声は、今度こそ慎重だった。
「今すぐ何かを決めろとは言っていない。だが、人間は居心地がよければ、決めるべきことまで先へ延ばす」
和真さんは僕と桑橋さんを順に見た。
「いつまで今の暮らしを続けるのか、その先へ進むなら何を望むのか。いつかは二人で話さねばならん時が来る。その時に、黙ったまま相手へ決めさせるな」
「黒馬さんが、ずっとここにいると決まったわけではありません」
「分かっている。だから、今すぐとは言っていない」
「では、なぜ今日、その話をするんですか」
和真さんは答えず、空になった盃を伏せた。
「今は分からんでもよい。もし、この先、二人が長く一緒にいることになったなら、覚えておけばよい」
「やっぱり、そういう話じゃないですか」
桑橋さんが言うと、紬さんがとうとう声を立てて笑った。
「お母さんも笑わないでください」
「ごめんなさい。でも、お父さんがここまで話すとは思わなかったものですから」
「先のことを成り行きだけに任せない、ということですね」
僕が言うと、和真さんは一度だけうなずいた。
「そうだ」
内容はよく分かった。分からないのは、なぜまだ恋人でもない僕たちへ、そこまで夫婦のような話をするのかということだけだった。
紬さんが徳利を取り上げると、和真さんは手で制した。
「もうよい」
「今日は、これくらいにしておきましょうか」
和真さんはうなずき、盃を置いた。
「少し休む」
「飲むとすぐ横になるんですから」
紬さんが言った。
「正月くらいよかろう」
和真さんは立ち上がった。座敷を出る前に、僕と桑橋さんを一度だけ見たが、何も言わず奥へ行った。




