第三十章 年の瀬の招き
一九四一年十二月三十日 夜
「戦争で、亡くなりました」
美由紀の声が、桑橋食堂の夜へ戻った。
卓の上には、母親が持ってきた酒と、二人の小さな盃があった。箱から出した写真は、美由紀の手元へ重ねられていた。
黒馬は、すぐには何も言わなかった。
美由紀は、すん吉と知り合って結婚し、二人で店を始めたこと、戦争へ出た夫がそのまま戻らなかったことまでを話した。箱の中の手紙には触れず、黒馬も尋ねなかった。
出征前に二人で撮った写真を、もう一度見た。
「大事な方だったんですね」
黒馬は、静かに言った。
「はい」
美由紀は写真の縁を指で揃えた。
「今でも、大事な人です」
黒馬はうなずいた。
美由紀は写真を箱へ戻した。
郵便は、その下に置いたままにした。
蓋を閉じる前、美由紀は、すん吉が一人で写っている写真を見た。写真屋からの帰り道に、二人で互いの固い顔を笑った日のことを思い出した。
蓋を閉じた。
「二人で始めて、私が続けてきた店です」
「はい」
黒馬は店の中を見回した。
「すん吉さんと一緒に、店のことを覚えてこられたんですね」
美由紀は少し考えた。
「ええ。二人で間違えながら覚えました。一人になってからも、間違えました」
「それでも、続けてこられたんですね」
「私の店でもありますから」
「そうですね」
黒馬は盃へ残っていた酒を飲んだ。
「僕を泊めて、店の仕事を任せると決めたのも、桑橋さんだったんですね」
「あのときは、黒馬さんがあまりに困った顔をしていましたから」
「そんな顔でしたか」
「はい。でも、椅子はちゃんと運べそうでした」
美由紀は笑った。
黒馬も、小さく笑った。
「椅子で決めたんですね」
「最初は、です」
「いまは?」
美由紀はすぐに答えず、卓の上の盃と、揃えて置かれた写真の箱を見た。
「いまは、忙しいときに店を任せられる方です」
「客席の方を、ですね」
「そうです。店全部を渡したつもりはありません」
「分かっています」
その返事が妙に真面目で、美由紀はまた笑った。
美由紀は箱を抱えた。
「黒馬さん」
「はい」
「今日は、聞いてくださってありがとうございました」
「僕の方こそ、話してくださってありがとうございます」
美由紀は一度、箱を見下ろした。
「全部ではありませんけどね」
「それで十分です」
黒馬は、そう答えた。
美由紀が箱を収めて戻ると、卓の盃と酒は片づけられていた。
黒馬は、壁際の椅子を一脚だけ直した。
美由紀は帳場へ回り、今日の勘定を閉じた。
外は、年の瀬の冷えへ静かに沈んでいた。
桑橋食堂には、帳面を閉じる音と、椅子が床を短く擦る音が残った。
* * *
一九四一年十二月三十一日 朝
派出所への毎朝の出頭は、昨日でいったん区切られていた。
しばらく欠かさず顔を出し、佐世保を離れず、呼び出しにも応じてきたため、次は年が明けてからでよいと告げられたのだ。
大晦日の朝、僕は桑橋食堂の表戸を少し開け、通りの様子を見た。
朝の通りには、普段より多くの荷物が行き交っていた。正月用の包みを抱えた人と、軍港や工廠の方角へ急ぐ作業着の男たちが、狭い道ですれ違っている。
年の瀬でも、軍港の仕事は止まらないらしい。働く人が動けば、食事をする人も動く。
台所からは出汁の匂いがした。
「おはようございます」
「おはようございます。外はもう、正月の荷物で混んでいます」
桑橋さんは竈の前に立ち、大きめの鍋の味を見ていた。隣には鰯の生姜煮があり、蓮根とごぼう、にんじんの煮しめは別の鍋へ移されている。
「今日は蕎麦も出すんですか」
「大晦日ですから。数は多くありませんけどね。煮しめは今日出す分と、明日の分を分けています」
台所口には、紬さんが昨日持ってきた餅の包みもあった。
僕が手を伸ばすより先に、桑橋さんが言った。
「その餅は、まだ切らなくていいですよ」
「分かりました」
「いま、お客さんへ出す分だと思ったでしょう」
「少しだけ」
「母が持ってきたからといって、全部を店へ出したりはしません」
昨日の会話を思い出し、僕は笑った。
「お母さんは、そうならないように多めに持ってきたんですよね」
「黒馬さんまで母の側へ行かないでください」
桑橋さんも笑いながら、蕎麦の鍋へ蓋を戻した。
昨夜、すん吉さんの話を聞いたからといって、桑橋さんが違う人になったわけではない。僕に、これまで見えていなかった時間が少し見えるようになっただけだった。
桑橋さんはいつもどおり台所を見ている。僕も、いつもどおり客席を見ればよい。
湯呑を出しやすい場所へ寄せ、洗い場を空けた。
「黒馬さん」
「はい」
「今日も客席をお願いします。蕎麦があといくつかは、私が言います」
「分かりました」
* * *
昼前から、店の戸は途切れずに開いた。
仕事を納めた者もいれば、これから持ち場へ向かう者もいた。いつもの客が年末の挨拶をし、その後ろから連れが入ってくる。
僕は最初の卓へ茶を置き、次に入った二人へ空いた席を示した。
「蕎麦を二つ。こっちは煮しめも頼む」
「はい」
注文を台所へ伝えると、桑橋さんは蕎麦を鍋へ入れながら、煮しめの小鉢を盆へ載せた。
「黒馬さん、煮しめを先に二番へ」
「はい」
小鉢を運ぶ途中、次の卓で鰯を頼まれた。
「桑橋さん、鰯はまだありますか」
「あと三つです」
「三つまででしたら、お出しできます」
料理を運ぶ帰りには空いた膳を下げ、客の波が切れれば洗い場へ入る。指示を一つずつ待つことは、もうほとんどなかった。
何をどれだけ出すかは桑橋さんが決めた。その判断が客席で止まらないようにするのが、僕の仕事になっていた。
店の奥では、年の瀬の話が始まっていた。
「今年は、最後にえらい年になったな」
常連の一人が、湯呑を両手で包みながら言った。
「戦が始まったと思うたら、ハワイに香港、ウェークまでじゃ。新聞を見れば勝った話ばかりよ」
「この勢いなら、来年の暮れには戦も終わっとるかもしれんな」
別の男が笑うと、同じ卓の者たちがうなずいた。
「早う終わるのが一番よ。来年の正月は、もっと落ち着いて飲みたいもんだ」
「まず、今日の勘定を払ってから飲みなさい」
桑橋さんが台所から言うと、客席に笑いが起きた。
「桑橋さんは大晦日でも厳しかな」
「店を続けるには必要です」
僕も盆を持ったまま笑った。
「黒馬さんは、どう思うね。来年には終わると思うか」
急に向けられた問いへ、すぐには答えられなかった。
僕が知っている歴史では、来年の暮れにも戦争は終わっていない。
だからといって、この席で未来を並べることはできなかった。
「早く終わるといいですね」
僕は、そう答えた。
「そうよ。それが一番たい」
客は満足したようにうなずき、蕎麦へ箸をつけた。
嘘ではなかった。
早く終わってほしい。そのために、僕は石橋大尉へ未来の出来事を預けた。
客の話題はすぐに、正月の酒と家へ帰る時刻へ移った。桑橋さんは蕎麦の残りを確かめ、僕へ指を二本見せた。
「蕎麦は、あと二つです」
僕は次に入った客へ、その数を伝えた。
昼を過ぎるころには、蕎麦も鰯もなくなった。煮しめが少し残ったところで、桑橋さんは新しく入ろうとした常連へ、飯と汁、それに煮しめだけなら出せると伝えた。
「それでよか。年の終わりに、桑橋さんの飯を食えれば十分たい」
客は空いた席へ座った。
最後の膳を運び終え、僕が洗い場へ戻ると、イヤホンからリサリサの声がした。
《禎さん。先ほどの返答は、予測ではありませんね》
「うん。願いだよ」
声を落として答えた。
《来年の暮れまでに戦争が終わる可能性は、現在の情報だけでは高いと評価できません》
「分かってる。でも、終わらせたいと思うことまで諦める必要はないよ」
《はい。そのために、禎さんは行動を始めています》
「そういうことだね」
* * *
最後の客が帰ると、桑橋さんは帳場の前へ立った。
「これで、今年の営業は終わりです」
「お疲れさまでした」
「黒馬さんも。助かりました」
僕は暖簾を外し、表戸を閉めた。
休む間もなく、二人で年末の片づけに取りかかった。
僕は卓と椅子の下に溜まった埃を掃き出し、桑橋さんは竈の灰を整えた。
桑橋さんは煮しめと餅を明日のために取り分け、棚へ収めた。
桑橋さんは掃除を終えた店内を見回し、満足したように息をついた。
台所へ戻ると、小さな鍋に二人分の蕎麦が残してあった。
「売り切れたんじゃなかったんですか」
「これは、最初から二人分です」
「僕も入っていたんですね」
「いまさら何を言っているんです」
桑橋さんは呆れたように言ったが、口元は笑っていた。
蕎麦を前に二人で向かい合い、ようやく一息ついた。
「今年も、お疲れさまでした」
桑橋さんが言った。
「僕は、今年の途中からですけどね」
「それでも、今日まで働いたでしょう」
「はい。お疲れさまでした」
箸を取ったところで、表戸が鳴った。
二人で顔を見合わせた。
「また、お客さんでしょうか」
「暖簾は外しました」
戸の向こうから、聞き覚えのある声がした。
「美由紀。まだおるね」
桑橋さんは箸を置いた。
「母です」
昨日の今日である。
* * *
紬さんは、大きな風呂敷包みを抱え、表戸が開くとすぐ店へ入った。
「まあ、ちょうど食べよったのね。よかった」
卓に並んだ二つの丼を見て、嬉しそうに笑った。
その笑顔の意味を、僕と桑橋さんは同じように受け取ったらしい。
桑橋さんが、先に丼から少し離れた。
「今日は、何を持ってきたんですか」
「明日のことを言いに来たの。それと、黒馬さんの着るものを持ってきました」
紬さんは抱えていた風呂敷包みを、空いた長椅子へ置いた。
「僕の、ですか」
「昨日、黒馬さんの格好を見たでしょう。見慣れん靴のまま、お父さんの前へ出すわけにもいかんと思って」
紬さんが包みを解くと、厚手の濃紺の着物と羽織、長襦袢、角帯、足袋、それに草履が現れた。どれも新しくはないが、丁寧に畳まれていた。
桑橋さんが、着物の袖へ手を置いた。
「これ、父のものですね」
「若い頃に着ていたものです。いまはもう着ませんし、昨日見たかぎりでは、黒馬さんにも丈が合うと思って」
「父が、持っていけと言ったんですか」
「昨日、私がきちんと話したら、使ってもらえばよいと言いました」
桑橋さんと僕は顔を見合わせた。『きちんと』の中身が、また心配になった。
「まだお会いしてもいないのに、受け取れません」
「でしたら、明日は借りるつもりで着てきてください。お礼も返す話も、そのときご自分でなさればよいでしょう」
「……分かりました。ありがとうございます」
包みを畳み直した紬さんは、店の中を見回した。
「きれいになったね。二人でしたと?」
「大晦日の掃除ですから、二人でしました」
「そう。よかったね」
また、分かっているようで、何を分かっているのか分からない返事だった。
「美由紀。明日は昼前に来なさい」
「行くとは、まだ言っていません」
「もう、お父さんへ話したから」
桑橋さんの顔から、さっきまでの笑みが消えた。
「何を話したんですか」
「黒馬さんのことよ」
僕は、持ち上げかけた湯呑を卓へ戻した。
「どういうふうに話したんです」
「ありのままよ。黒馬さんがここで寝泊まりして、店を手伝ってくださっていると」
「その前と後も説明しましたか」
「もちろん、ちゃんと話したわよ」
桑橋さんは、昨日も同じ言葉を聞いた顔をした。
「父は、何と言ったんです」
「一度、連れて来なさいって」
紬さんは僕へ向き直った。
「ですから黒馬さんも、明日は一緒に来てくださいね」
「僕も、ですか」
「お父さんが、一度会って話をしたいと言っています」
「お母さん。黒馬さんは、うちへ連れていくような関係ではありません」
「黒馬さんが店を手伝ってくださっていることは、話しましたよ」
「それだけですか」
「ここで寝泊まりしとることも、あんたが自分で決めて置いていることも、きちんと話しました」
それで父親が僕を連れて来いと言ったのなら、安心できる材料にはならなかった。
「お父さんは、怒っていましたか」
僕が尋ねると、紬さんは少し考えた。
「怒った顔は、いつもの顔とあまり変わらんから分からんね」
桑橋さんが額へ手を当てた。
「でも、声はいつもどおりでしたよ」
「それも安心できません」
「会えば分かります」
紬さんは何でもないことのように言った。
「では、明日の昼前に。その着物を着て、黒馬さんも忘れんように来てくださいね」
「はい」
「黒馬さん」
桑橋さんが僕を見た。
「返事をしないでください」
「でも、お父さんからのお話ですから」
「そう。もう黒馬さんも来ると言っています」
紬さんは満足そうにうなずいた。
僕が否定する前に、話は決まっていた。
紬さんは、二人で仲よく年を越しなさいと言い残し、来たときと同じ速さで帰っていった。
表戸が閉まったあと、桑橋さんはしばらく動かなかった。
「返事をしましたね」
「あの場で、ほかに何と答えればよかったんですか」
「考える時間くらいはあったでしょう」
「紬さんは、考えている間にも話を進めます」
桑橋さんは否定できず、卓へ戻った。
二つの丼では、蕎麦が少し汁を吸っていた。
「のびましたね」
「母のせいです」
「明日は、お父さんのせいにならないといいですね」
桑橋さんは僕を見た。
「それを、いまから話します」
* * *
蕎麦を食べ終え、器を洗ってからも、桑橋さんは卓へ残った。
僕も向かいに座った。
「父は、母とは違います」
「厳しい方なんですよね」
「はい。黙って人の話を最後まで聞きます。そのうえで、納得できないことは、はっきり駄目だと言う人です」
「それと、父は警察官なんです」
「警察官なんですか」
「はい。警部補です」
よりによって、桑橋さんのお父さんは警部補なのか。
身元を証明できず、毎朝、派出所へ顔を出してきた僕が、その娘の店に寝泊まりしている。
写真の中で真っすぐ前を見ていた、桑橋さんのお父さんの顔を思い出した。
「母の話をどう受け取ったか分かりません。でも、私が男の人を店へ泊めて、毎日一緒に働いていると知れば、それだけで普通のことだとは思わないでしょう」
「事情を説明しても、ですか」
「事情があっても、です。私が、自分の生活へ入れてもよいと思った人だと見るでしょう」
桑橋さんは、そこで一度言葉を切った。
「実際、店のことでは、黒馬さんはもう大事な方です」
思わず顔を上げた。
桑橋さんも、自分の言葉に気づいたらしい。
「大事というのは、仕事の話です」
「分かっています」
「本当に?」
「はい。客席の方を任せてもらっています」
「そうです」
桑橋さんは少し早口で答え、話を戻した。
「私は一人でも店を続けられます。これまでも、そうしてきました。でも、客は増えていますし、いまは黒馬さんが客席を見るつもりで仕込みの量を考えています」
「急にいなくなると、困ります」
まっすぐ言われた。
「僕も困ります。ここを出たら、住む場所も仕事もありません」
「ええ。だから、父に余計なことを言わせたくないんです」
桑橋さんは両手を卓の上で揃えた。
「黒馬さん。お願いがあります」
「はい」
「奥さまと、お子さんのことは、明日、父にはご自分から話さないでください」
「分かりました。僕からは話しません」
桑橋さんが何を心配しているかは分かった。
「ありがとうございます」
「ただ、お父さんから『ご家族は?』と聞かれたら、『思い出せません』と答えます」
桑橋さんが目を見開いた。
「そこまでは頼んでいません」
「僕が決めました」
戸籍も確かな身元もない僕に、すぐ別の暮らしが見つかるはずはない。
生きていくことと、会ったこともない父親へ正直に答えることを、天秤にかけるまでもなかった。
桑橋さんは、確かめるように僕の顔を見た。
「平気なんですか」
「平気かどうかの話ではありません。ここで生きていくためです」
妻と息子を忘れたわけではない。聞かれたら、思い出せないと答える。それだけだ。
「桑橋さんに嘘をつかせるつもりもありません。答えるなら、僕が答えます」
「私が先に話を止めます」
「止められるなら、それが一番です」
妻と息子のいる未来へ帰るためにも、まず、この時代で生きていかなければならない。
桑橋さんは、まだ何か言いたそうにしていた。
「僕自身が決めたことです。桑橋さんが気にする必要はありません」
「気にはします」
「では、明日が終わってからにしましょう」
その返しに、桑橋さんはわずかに口元を緩めた。
「分かりました。ただ、父が何か言ったときは、私にも話させてください」
「もちろんです。僕が一人で話を決めるつもりはありません」
「それから、聞かれていないことまで説明しないでください」
「どこからが余計ですか」
「聞かれたことだけに答えればいいんです」
「分からないことは分からない。話せないことは?」
「話さなくてよいことです」
「やはり、取調べに行く気がしてきました」
「父の前で、それは言わないでください」
「いま聞いておいてよかったです」
桑橋さんは呆れたように息をつき、それから口元を緩めた。
「もう一つ。父に何を言われても、私が話す前に、店を出る約束はしないでください」
「それは約束しません。ここで働いてよいかを決めるのは、桑橋さんです」
「ええ。私の店ですから」
桑橋さんは長椅子の包みを開き、濃紺の着物を僕の肩へ当てた。
「大きさは、たぶん大丈夫です」
「着方を教えてもらえますか」
「明日の朝に」
「今夜では?」
「いま教えても、朝には忘れるでしょう」
「信用がないですね」
「着物に慣れていない人への判断です」
僕が言い返せずにいると、桑橋さんは口元を緩め、着物を包みへ戻した。
外では、年を越す支度を終えた店が、次々に戸を閉めていた。
明日の昼前、僕は桑橋さんのお父さんが若い頃に着ていた着物を借り、桑橋さんと一緒に山川家へ行く。
服は揃った。聞かれたときの答えも決めた。
あとは、写真の中で難しい顔をしていた父親と、どれだけ落ち着いて向かい合えるかだった。
新年最初の予定としては、ずいぶん準備の要る挨拶になりそうだった。




