↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
AIは敗戦を知っている  作者: E


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
29/55

第二十九章 次の便り

回 想


最初の郵便が届くと、美由紀は封筒の字を確かめ、すぐに火を弱めた。


手を拭き、帳場で封を開けた。


便箋には、すん吉らしい大きさの揃わない字が並んでいた。


無事だから心配するな。

支那へ来た。

飯は食えている。身体も悪くしていない。

詳しいことは書けんが、こちらは変わりない。

店はどうだ。

お前も身体を壊すな。


支那にいることは分かった。だが、その中のどこにいるのか、そこで何をしているのかまでは分からなかった。


「もう少し、自分のことを書けばいいのに」


美由紀は便箋へ向かって言った。短い言葉の一つ一つが、自分を安心させるためのものだということも分かっていた。


それでも、同じところを二度読んだ。


返事には、店のことをすん吉より長く書いた。椅子の脚は緩んでいないこと。朝の客が増えた日があったこと。煮魚を焦がしそうになったが焦がさなかったこと。母親が店へ様子を見に来たこと。


最後に、こちらも無事です、と書いた。


次の便りも短かった。


こちらの暮らしにも少し慣れた。怪我はしていない。

お前も飯は食え。無理をするな。店を休めるときは休め。


やはり、自分のことより、美由紀へさせたいことの方が多かった。


その次には、返事は届いた、身体は変わりない、とあり、そのあとに、戸の掛け金は外れていないか、と続いていた。


「二度見ています」


美由紀はまた、紙へ返事をした。


便りが来るあいだは、待つことにも形があった。届けば読む。畳む。返事を書く。次の便りと一緒に、箱へ重ねる。


ところが、あるとき、その形が途切れた。


昨日まで来なかったものが、今日も来なかった。明日なら届くと思った。明日にも来なければ、もう一日だけ待とうと思った。


それが積み重なり、何週間にもなった。


郵便を運ぶ足音が店の前で緩むたび、美由紀は顔を上げた。隣へ向かうと分かれば、また鍋へ目を戻した。


客へ飯を出し、勘定を受け、仕入れの量を決めた。店を閉めてから、今日も便りがなかったと一日を数えた。


実家の母は心配した。

父は、知らせがないうちは決めつけるな、と言った。

美由紀も同じ言葉を自分へ言い聞かせた。


やがて、二通が同じ日に届いた。


封筒の様子から、別々の時に書かれたものだと分かった。

美由紀は新しい方から開けそうになり、思い直して古い方を先に読んだ。


一通目には、無事だ、とあった。


二通目にも、無事だ、とあった。


その二文字だけで、何週間も胸の底に沈んでいたものが、急に軽くなった。

古い方には、飯は食えている、とあった。新しい方には、身体は悪くしていない、とあった。


「二つとも、同じことばかり」


笑いながら言うと、声が少し震えた。


二通のどちらにも、店はどうだ、身体を壊すな、と書かれていた。


美由紀はその日、二通分の返事を書いた。


それからも、便りは続けて届いたり、間が空いたりした。


一通届いたあと、しばらく何もない。今度は三通がまとまって来る。紙を開く順番を考えるほど、書かれた時と届く時は前後した。


ある手紙には、飯は食えている、店の戸はきちんと閉まるか、とあった。別の手紙には、身体は変わりない、風邪をひくな、とあった。もう一通には、お前の手紙は届いた、忙しくても朝の茶くらいは座って飲め、とあった。


三通目を読んだ朝、美由紀は、開店前の卓へ湯呑を置いた。すん吉が座っていた側は空いたままだった。


「言われなくても、飲んでいます」


そう言ってから、冷める前に一口飲んだ。


返事には、朝の茶は座って飲んだと書いた。


支那にいることは分かった。飯を食べていることも、身体を悪くしていないことも、手紙が届くたびに少しずつ分かった。


それでも、どこで眠り、どんなものを食べ、どんな一日を過ごしているのかまでは書かれていなかった。


どんな顔でこの字を書いたのか。それだけは、どの手紙を読んでも分からなかった。


遅れていた便りが二通、三通と届いた経験があった。だから、次に手紙が来なくなったときも、美由紀は待てた。


* * *


今度の空白は、前より静かに始まった。


便りが届かなかった最初の日を、美由紀は覚えていない。何日目から心配し始めたのかも分からなかった。


前にも遅れた。


二通まとめて来たことも、三通来たこともある。


また郵便が滞っているだけだ。


そう考えて、朝は米を量った。暖簾を出した。前の日に炊いた五目豆を小鉢へ分け、その日の魚を煮た。


郵便の足音がすると、耳は戸口へ向いた。


通り過ぎれば、何もなかったように客へ膳を出した。


店を閉めた夜には、まだ来ない、と箱の中の手紙へ報告した。


次の朝にも、同じことをした。


待つ日が長くなるほど、美由紀は、待っていることを客へ見せなくなった。


「今日は何がある」


「鰯の生姜煮と、こんにゃくの田楽です」


「じゃあ、鰯を」


「はい」


注文を取る声は変わらなかった。煮汁を回しかける手も、勘定を受ける指も動いた。


ただ、戸の外で一度止まった足音が離れると、鍋の中を見ていた時間が少し長くなった。


美由紀は返事を書くのをやめなかった。

前の便りへまだ書き足りなかったことを書き、店であったことを書いた。出せる手紙は出した。


便りが届いたとき、こちらから何も送っていなかったと思わせたくなかった。


新しく書いた返事には、客がふろふき大根を二つも頼んだことを書いた。戸の掛け金はまだ壊れていないことも、椅子の脚は自分でも確かめていることも書いた。


書いている間だけは、すん吉から次の便りが来ると信じられた。


封をしてしまうと、店の音が戻った。


日が重なっても、店は開いた。


待つことと暮らすことを、美由紀は別々にはできなかった。暮らしを止めれば、すん吉が帰る店まで止まってしまう。


* * *


次に届いたものは、すん吉の字ではなかった。


封を切る前から、それまでの郵便とは違うと分かった。


それは、すん吉の戦死を知らせる公報だった。


美由紀は帳場の前に立ったまま、紙を開いた。


そこには桑橋 すん吉の名があった。

見慣れた名なのに、すん吉が書いた文字ではなかった。


その名の近くに、戦死を知らせる言葉があった。


そのほかにも文字は紙の上へ並んでいた。けれど、美由紀の目は同じところへ戻った。


戦死。


その二字だけが、ほかの文字を押しのけた。


公報を手にしてから店の戸を閉めるまでのことを、美由紀はあとで思い出せなかった。


戸を閉めると、店には朝の仕込みが残っていた。


米を量らなければならない。


美由紀は米櫃を開け、升を入れた。一杯。二杯。


三杯目を入れたところで、何杯まで量るつもりだったのか分からなくなった。


最初からやり直した。


一杯。二杯。


また分からなくなった。


升を米の上へ置き、今度は魚を切ろうとした。包丁を握り、まな板の前に立った。手は動かなかった。


椅子が一脚、卓から少し外へ出ていた。


すん吉なら、店を閉めるときに揃えていた。


美由紀は包丁を置き、椅子へ手を掛けた。押し込めば済むだけだった。


椅子の脚が床を短く擦った。


その音で、美由紀の手は止まった。


帰ったら、椅子を見る。


すん吉は、そう言った。


「まだ、緩んでませんよ」


誰もいない店で、美由紀は言った。


椅子の背を握ったまま、しばらく動けなかった。


日が傾いてから、母が来た。


いつもの母なら、戸を開ける前から美由紀の返事を待たずに話し始めることがあった。その日は、閉まった戸を見て、店へ入ってからも何も言わなかった。


母は、公報を見て、すぐに分かった。


「帰りましょう」


母は、美由紀の肩へ手を置いた。


「今日は、うちへ帰りましょう。お父さんも待っているから」


美由紀は椅子から手を離した。


「仕込みが」


「今日はしなくていいの」


「明日の分です」


母は、分かっている、と言わなかった。


ただ、美由紀の冷えた手を両手で包んだ。


「明日のことは、明日考えましょう」


その言葉だけは、美由紀も聞くことができた。


* * *


戦死の知らせが届いてからも、美由紀は何度か、郵便の足音に顔を上げた。


身体の方が先に覚えていた。


もう便りを待つ理由はないと分かっていても、足音が店の前で止まれば、手は前掛けで濡れた指を拭こうとした。


実家の母が来て、少し休んだ方がいいと言った。

父も、店はいったん休めばよいと伝えてきた。


美由紀は店を閉めた。


店を閉めているあいだも、店の中の物は、すん吉がいた頃とほとんど変わらなかった。

帳場には帳面があり、台所には鍋があり、椅子は卓の下へ揃っている。


変わったものだけが、どこにも見えなかった。


戦死を知らせる紙は、写真と手紙を入れていた箱へ収めた。


店を閉めてから幾日か過ぎた昼、表戸を叩く音がした。


暖簾の掛かっていない店先に、郵便を届けに来た男が立っていた。手には一通の封筒があった。


「桑橋さん。郵便です」


美由紀は戸口まで出た。差し出された封筒の表書きを見た瞬間、すぐには手を伸ばせなかった。そこにあったのは、すん吉の字だった。


届けに来た男が黙って待つと、美由紀はやがて両手を伸ばし、封筒を受け取った。


すん吉が生きているうちに書いた手紙が、戦死公報よりも遅れて届いたのだった。


封筒は冷たかった。


美由紀はすぐには開けなかった。帳場へ置き、湯を沸かした。湯呑を一つ出して、もう一つへ手を伸ばし、やめた。


茶を淹れても、ほとんど飲まなかった。


手紙を開けば、書いたときのすん吉がいる。


けれど、読み終えても、その先はない。


そう思うと、封の端へ指を掛けることができなかった。


外が暗くなり、美由紀は文字を読めるよう灯りを寄せた。


美由紀は封を切った。


折り畳まれた紙を、破らないように開いた。


美由紀へ

何から書けばいいのか、こうして紙に向かっても、なかなか決まらん。

俺は昔から口下手で、そのうえ筆不精だ。

これまでの手紙も、無事だ、飯は食えている、店はどうだ、身体を壊すな、そんなことばかりだった。

俺がそういう男なのは、お前もよく知っているだろう。

これからしばらく、便りを出せんかもしれん。

だから、今まで書かなかったことを、今のうちに書いておこうと思う。


美由紀。

俺は、お前を大切に思っている。

出征する前にも、何度か言おうと思った。

だが、お前の顔を見ると、どうにも喉まで出た言葉が、その先へ行かなかった。

こんなことを手紙に書くのは、どうにも照れくさい。


お前と一緒に飲む朝の茶が好きだった。

店を休めた日の午後、二人で何もせず過ごすのも好きだった。

忙しい日の終わりに、お前が帳場で勘定をつけているのを見ながら、俺が椅子を片づける時間も好きだった。


あの店を、お前と一緒に始めてよかった。

お前と一緒になって、本当によかったと思っている。

できるなら、この先もずっと、そんな時間を大事にしたい。

またあの店へ帰って、お前と朝の茶を飲みたい。

でも、先のことは、誰にも分からん。

だから、言えるうちに、これだけは書いておきたい。


愛している。


面と向かって、この言葉を一度も言えなかった。

すまなかった。

今さら手紙で言うのを、許してくれ。


また便りを出せるようになったら書く。

そのときは、お前の返事も聞かせてくれ。


すん吉


読み終えても、美由紀は紙から目を上げられなかった。


手紙の中には、朝の茶も、店を休めた午後も、帳場の向こうで椅子を片づける音もあった。


どれも、明日も同じようにあると思っていた時間だった。


召集令状が届いてから軍へ向かうまで、すん吉は二度、美由紀の名を呼んだ。


その先へ行かなかったすん吉の言葉を、美由紀は今になって読んだ。


「私もです。愛しています」


ようやく返事を口にした途端、こらえていたものが崩れた。涙が次々と頬を伝い、便箋へ落ちそうになった。


美由紀は慌てて紙を卓へ置き、両手で口を覆った。それでも嗚咽は止まらず、肩が大きく震えた。


「すん吉さん」


名前を呼ぶと、返事のない店の静けさが胸へ押し寄せた。美由紀は卓へ額を伏せ、息が続かなくなるほど泣いた。


「返事を、聞いてほしかったです」


紙を濡らさないよう離して置いたことが、いっそう悲しかった。何度拭っても涙はあふれ、灯りも帳場も形を失って揺れた。


やがて泣く声が細くなり、息を整えられるようになると、美由紀は手を洗ってよく拭いた。


もう一度、最初から読んだ。


三度目は、朝の茶のところで止まった。


四度目は、最後の二行だけを読んだ。


また便りを出せるようになったら書く。

そのときは、お前の返事も聞かせてくれ。


美由紀は便箋を元の折り目へ戻した。急いで畳めば紙を傷めそうで、一つずつ角を合わせた。


返事は書かなかった。


書かなければならないことがなかったのではない。


宛てる先のない手紙にしてしまうことが、まだできなかった。


すん吉の手紙を封筒へ戻し、箱の中へ収めた。戦死を知らせる紙の上ではなく、それまでに届いた便りの続きへ置いた。


次の便りを待つ場所だけが、箱の中に残った。


* * *


美由紀がもう一度、桑橋食堂の暖簾を出した朝、戸口の前で足を止めた客がいた。


中を覗き、入ってよいのか分からない顔をした。


美由紀は台所から出た。


「どうぞ。開けています」


客は何か言いかけたが、頭を下げて、いつもの席へ座った。


「飯と汁。それと、何かありますか」


「今日は魚の煮付けと、卯の花があります」


美由紀は茶を出し、台所へ戻った。


飯と汁、煮付けを一膳に揃えた。


手は前と同じように動いた。けれど、同じ手で動かす店は、以前と同じではなかった。


昼が過ぎると、客が二人増えた。翌日には、店を開けたと知った常連が来た。声を掛ける者もいれば、何も言わずに食べて帰る者もいた。


美由紀は、受け取った勘定を帳面へつけた。何を仕入れ、どれだけ作るかを自分で決めた。足りなければ次の日に増やし、残りそうなら減らした。


閉店後、帳場で数字を合わせた。


それから立ち上がり、椅子を一脚ずつ揃えた。


桑橋食堂は、二人で始めた美由紀の店だった。


美由紀は戸の掛け金を二度確かめ、翌朝に使う米を量った。


一杯。二杯。


今度は、最後まで数えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。