第二十八章 言えなかった言葉
回 想
それから、幾日かが過ぎた。
朝になれば店を開け、客が来れば二人で働いた。夜になれば、同じように店を片づけた。
変わらない日々が、まだ続くもののように過ぎていった。
その日の店じまいには、まだ少し早かった。表の戸を叩く音がした。
美由紀が戸を開けると、市役所から来たという男が立っていた。
「召集令状を持ってまいりました。おめでとうございます」
男はそう言って、美由紀の前へ、淡い紅色の紙を差し出した。
美由紀は言葉を返せないまま、その紙を受け取った。男が頭を下げて去っても、戸口から動けなかった。
いわゆる赤紙――召集令状だった。指定された日時に軍へ出頭するよう命じるものである。これを受け取れば、すん吉は店を離れ、兵隊として戦争へ行くことになる。
美由紀は書かれている文を上から追い、もう一度、最初へ戻った。意味が分からなかったのではない。分かったあとも、紙の上の文字が同じ場所にあるのを確かめたかった。
すん吉は、台所口に立っていた。美由紀の手にある淡い紅色の紙を見た瞬間、何が届いたのか理解した。
やがて美由紀のそばへ来ると、彼女が持つ令状へ短く目を通した。
「行かんといかん」
美由紀が顔を上げると、すん吉はそれだけを言った。
美由紀の指が、召集令状の端を強く握った。
「行かないと、いけないんですか」
答えを知っているのに、口から出た。
「ああ」
「嫌です」
自分でも驚くほど、まっすぐな声だった。紙を持つ手が震えた。
「すん吉さんに、行ってほしくありません」
すん吉の顔が歪んだ。
「俺も、行きとうない」
その一言で、美由紀の目に涙がたまった。
「だが、行かんわけにはいかん」
美由紀は唇を噛んだ。泣けば何も聞けなくなりそうで、次に必要なことを尋ねた。
「いつですか」
すん吉は、知らせに記された日を答えた。
「そんなに早く」
日を数えようとしたが、頭の中で数字がつながらなかった。
その日までに、店で使う米がなくなるわけではなかった。味噌も、薪も、明日の仕込みも、いつもどおり残っていた。だから美由紀は、紙を畳んで帳場の端へ置き、火に掛けた鍋の蓋を開けた。
「煮しめ、焦げます」
「ああ」
すん吉も、戸口へ積んであった椅子を一脚ずつ店へ戻した。
二人とも、先にするべき仕事が分かっていた。分かっていることから手をつけなければ、まだ分からないことばかりになってしまう。
店を閉めたあと、すん吉は長椅子を裏返した。
「何をしてるんです」
「ここの脚が緩んどる」
「いま直さなくても」
「いま直さんなら、誰が直す」
道具を取りに向かう背中を見ていると、胸の奥の恐ろしさが、腹立たしさへ形を変えた。
すん吉は召集のことを話さず、椅子の脚へ木片を当て、何度も具合を確かめた。次に米櫃を覗き、薪の残りを数え、戸の掛け金まで外れかけていないか見た。
「店のことばかりですね。私のことは、何も言わないんですか」
美由紀が言うと、すん吉は手を止めた。
「ほかに、何を言えばよか」
「行ってほしくないと、さっき言ったでしょう」
「聞いた」
「それなら、すん吉さんの気持ちも聞かせてください」
声はもう震えていた。涙をこぼさないために強くしていた言葉が、とうとう保てなくなった。
すん吉は金具を置いた。
「お前を置いていくのが、一番つらい」
美由紀は返事の代わりに、すん吉の胸元を両手で掴んだ。すん吉はためらうように腕を上げ、それから美由紀の背へ回した。
「それを、先に言ってください」
「すまん」
美由紀は彼の胸へ顔を埋めたまま、声を抑えて泣いた。すん吉の手は何度もためらい、それでも背を離さなかった。
「美由紀」
「はい」
「俺は……」
美由紀の背に触れた手が止まった。
美由紀は待った。
「戸は、夜になったら二度見ろ。忙しい日は忘れやすい」
「分かっています。でも、帰ってきて、自分で見てください」
美由紀は涙の残る顔を上げ、今度は目を逸らさなかった。
すん吉はしばらく美由紀を見て、「ああ。そうする」と答えた。
* * *
召集令状に記された出頭の日までは、長いようで短かった。
店を開ければ客が来た。飯を炊き、汁を作り、その日に仕入れた魚を煮た。客は召集のことを知ると、すん吉の肩を叩き、身体に気をつけろと言った。すん吉は一人ずつに頭を下げた。
美由紀は、そのたびに手を止めなかった。
客が帰れば、二人で足りない物を数えた。すん吉は自分がいない間に直せなくなりそうな場所を探し、美由紀は一人で仕入れと仕込みを続ける順を考えた。
どちらも、帰ってこない場合の話はしなかった。
すん吉は帳場へ座ると、仕入れのことを紙へ書き始めた。米が少なくなったとき、味噌が切れそうなとき、炭を頼むとき。誰へ何を伝えるかを、一つずつ残そうとした。
美由紀は肩越しに覗いた。
「その値段は、先月から変わっています」
すん吉は筆を止めた。
「そうだったか」
「私が勘定をつけているんですよ」
「分かっとる」
「分かっていない顔です」
美由紀は紙を引き寄せ、違うところへ線を引いた。すん吉がいなくても、仕入れも帳場もできる。店を始めたときから、二人でしてきた仕事だった。
すん吉も、それを知らないわけではない。ただ、知っていることでも、もう一度確かめずにはいられないようだった。
「店は私が守ります。だから、自分の用意をしてください。私にも手伝わせてください」
「自分の用意はしとる」
「まだ何も包んでいないでしょう」
「あとでよか」
「よくありません。持っていく物を出してください」
美由紀が袖を引くと、すん吉はようやく帳場を離れた。二人で荷を揃えている間だけは、出ていく日へ一緒に備えられる気がした。
軍へ向かう前に、二人は写真を撮っておくことにした。
町の写真屋で、二人は並んで椅子へ座った。
すん吉は背をまっすぐにしすぎて、肩まで固くなっていた。膝の上へ置いた両手は、店で重い鍋を持つときよりよほど居場所に困って見えた。
「もう少し楽にできませんか」
美由紀が小声で言うと、すん吉は顔を動かさずに答えた。
「お前も固くなっとる」
「私は、すん吉さんにつられたんです」
「俺のせいか」
「そうです」
写真屋に、こちらを見てください、と言われた。
二人とも前を向いた。笑おうとした美由紀の口元はわずかに緩み、すん吉は結局、真面目な顔のままだった。
撮る直前、すん吉の襟がわずかに曲がっているのに気づいた。美由紀が手を伸ばして直すと、すん吉の肩はさらに固くなった。
「動かないでください」
「動いとらん」
「息まで止めなくていいんです」
写真屋が、ではそのままで、と声を掛けた。
すん吉は本当に息を止めたまま、前を向いた。
そのあと、すん吉一人でも撮った。
「一人なら、もっと怖い顔になりましたね」
店へ戻る道で美由紀が言うと、すん吉は不服そうに眉を寄せた。
「写真は、ああいう顔になるもんだ」
「私と一緒の方が、少しましでした」
「そうか」
「そうです」
すん吉は横を向いた。けれど、口元だけは少し動いていた。
美由紀が吹き出すと、すん吉も少し遅れて笑った。写真屋から店までの道で、二人の笑いは何度もぶり返した。
それでも、出来上がる写真が別れの前に残す一枚だということは、どちらも口にしなかった。
すん吉は、笑いが収まると、写真を大事にしろと言った。
「まだ出来てもいませんよ」
「出来たらだ」
「分かっています」
「濡らすな」
「分かっていますってば」
美由紀は、その言葉だけは笑わずに聞いた。
* * *
出ていく朝も、二人は茶を飲んだ。
その前の晩、美由紀は、すん吉が持っていく物を一つずつ確かめた。
すん吉は自分で用意すると言ったが、必要な物を尋ねるたび、美由紀が置いた場所を探した。美由紀は呆れたふりをして渡し、包み方を直した。
「向こうで困りますよ」
「何とかする」
「何とかする前に、ここへ入れておきます」
「分かった」
すん吉は逆らわず、包みを押さえた。
片づけが終わると、することがなくなった。
二人は寝るまで同じ部屋にいた。美由紀は縫う必要のない布へ針を通し、すん吉は読む必要のない帳面を開いた。
「すん吉さん」
「何だ」
「帰ってきてくださいね」
笑って言うつもりだった。けれど、唇は震え、目には涙がたまった。引き留めたい気持ちは隠せなかった。
すん吉は帳面を閉じ、美由紀の顔をまっすぐ見た。
それから膝を寄せ、両手で美由紀の手を包んだ。
「ああ」
「返事が短いです」
「帰ってくる」
美由紀はうなずいた。こぼれた涙を拭う前に、すん吉の親指が頬へ触れた。慣れない手つきだった。
それ以上の約束を、二人は求めなかった。
いつもの朝より、湯呑の中身が減るのに時間がかかった。すん吉は茶を一口飲んでは店の中を見た。帳場、台所口、壁へ掛けた前掛け、昨夜揃えた椅子。見慣れているはずのものを、順番に覚え直しているようだった。
「手紙を出してくださいね」
「出す」
「短くてもいいですから」
「分かった」
「無事だ、だけでは困ります」
すん吉は湯呑を置いた。
「店のことも聞く」
「それでは、いつもと同じでしょう」
「ほかに何を書けばよか」
「自分で考えてください」
美由紀は笑おうとしたが、口元が歪んだ。すん吉も笑わなかった。
すん吉は卓の上へ置かれた美由紀の手に、自分の手を重ねた。朝の茶が冷めるまで、どちらも手を引かなかった。
荷を持って立ち上がり、もう一度、店を見た。
「無理はするな」
「すん吉さんも」
「困ったら、お前の実家へ言え」
「困らなくても、ときどき来ます」
「そうか」
すん吉は荷を持ち直す前に、美由紀を腕の中へ引き寄せた。美由紀は驚き、すぐに背へ腕を回した。二人とも何も言わず、腕をほどくまでに長い時間がかかった。
戸口へ出てから、すん吉は振り返った。
「美由紀」
「はい」
「俺は……」
また、その先が出なかった。
美由紀は急かさなかった。あの日、掛け金の前で待ったときと同じように、すん吉の言葉を待った。
「帰ったら、椅子を見る」
「いま直したばかりでしょう」
「ほかも緩む」
「では、帰ってきて、自分で全部見てください」
「ああ」
すん吉はうなずいた。
それが約束になった。
美由紀は涙を拭わず、姿が見えなくなるまで見送った。すん吉は一度だけ振り返り、片手を上げた。
美由紀も腕を上げた。今度は小さくではなく、すん吉から見えなくなるまで何度も振った。
家へ戻ると、朝の卓に二つの湯呑が残っていた。
美由紀はすん吉の湯呑を洗い、自分のものも洗った。いつもの棚へ二つ並べた。
それから暖簾を出した。




